アメリカの週刊誌『ハーパーズ・ウィークリー』(1894/11/10)の特派員が日清戦争について最初に取り上げたのが、戦争とは死者・負傷・疾病者の多さであり、日本政府はそれを国民に知らせまいとしているという指摘です。一方、NYタイムズは、日本軍がコレラが蔓延している中国で中国軍と疫病と同時に戦わなければならないが、日本の衛生局は進んでおり、感染症対策で著名な北里博士がいるから大丈夫だろうと報道しています。
釜山の病院内部
負傷者の移送
日本国民は戦争について事実を知らされていない
日清戦争について、週刊誌『ハーパーズ・ウィークリー』が詳細な報道と評価をしているので、紹介します。強調しているのは、この戦争に関して日本国民は日本側に都合のいいことしか知らされていないと述べていることです。『ハーパーズ・ウィークリー』1894年11月10日号には釜山の野戦病院風景、負傷兵の移送、快復期にある傷病兵が日本への帰還を待つ姿の挿絵が付けられ、戦争とは勇壮だと謳歌するものではなく、病気になり、負傷し、死ぬことだという記者のメッセージが読み取れます。記者は疾病者の多さには触れていませんが、この戦争では病気になった兵士の数の方が負傷者より遥かに多かったことが挿絵から示唆されています。
これらの挿絵に挟まれて、「日本と中国の戦争について」((注1), p.1076)という特派員の記事が掲載されていますので、抄訳します。
日本で会った欧米人全員が、もし日清戦争について関心のない国にいるとしたら、その国よりも日本にいる方が中国との戦争について知らされないと言った。最も信頼できる情報豊富なニュースはニューヨークとサンフランシスコの新聞だと言う。いくつかの理由から、日本政府は日本側に有利な情報しか報道させない。その自然な帰結として、短い報道を信用する者は誰もいない。ここ上海でも状況は似たようなものだ。ここの新聞は中国当局が認めたものしか受け取れないが、中国は敵よりももっと自由、と言うか不注意だから、新聞報道の行間を読むと、中国軍にとって惨事だというニュースを報道する。
私は両国の欧米系新聞だけについて述べる。ところで、横浜プレスは中国の主張を強く支持しているように見える。一方、上海の新聞は日本支持で、ここ上海の欧米人は状況をよく知っており、戦争に負けることで中国が100年間平和に貿易していた時より、中国の開国には貢献するだろうと理解している。そして、この認識は英語新聞に表明されている。両国とも、戦地からのニュースは読み手によって解釈されること以外は、何の価値もないと考えられている。(中略)日本政府がすべての戦争報道を抑圧している理由の一つは、国民に人命損失について知らせたくないからだ。これは日本の初めての戦争である。日本の戦士たちはこれまで白兵戦をしてきた。近代の戦争がもたらす膨大な数の人命損失を日本国民は理解できないだろう。日本中で民衆は戦地の情景を描いた凄絶なクロム・プリントを見せられている。(中略)
神戸では鉄道が政府に取り押さえられ、部隊を港まで運ぶためにだけ使われている。兵隊は港からコリア(Korea)に向かうのだ。15万人の男たちのほとんどがすでに渡ったので、政府は鉄道貨車を兵隊の冬の制服を運ぶために使っている。5万人の予備軍が常備軍に合併した巨大な軍隊が、北京へ進軍するのに必要な軍隊だと日本は考えている。
外見も規律も日本の兵隊はどのヨーロッパの国の軍隊と比べて見劣りしない。制服はすべてヨーロッパ式で武器も武装具も最新式だ。兵隊の服はまるでお抱えのテイラーに誂えてもらったかのようにピッタリだ。将校たちの多くは全くのダンディだ。その上、行軍と規律に関してほぼ完璧で、日本の1旅団や大隊が行軍する姿は壮観だ。非常に印象的なのは、彼らが新たに作曲された軍歌を歌いながら行軍するのを聞くことである。時には連隊が静かな田園を行進しながら、新しい軍歌の歌詞を練習するのを聞くことがある。軍曹が小さな本を持って、大声で読み上げると、兵士たちがその歌詞を歌い、それがあまりにも規律正しいので、連隊全体が一緒に歌うことになる。
中国の軍隊は残念ながら、称賛も尊敬も得ているとは言い難い。役人たちの腐敗が酷く、サラリー兵のリストが紙の上だけの兵士で、実際の兵士は少なく、役人たちは何年もペーパー兵士のサラリーを自分たちの懐に入れてきた。大隊を編成しろと命令されて、役人たちは多数のクーリーに制服を着せ、戦場に行かせた。(中略)彼らが訓練の行き届いた武器の揃った兵隊と戦うことを想像するのは、太陽がカボチャになることを想像するようなものだ。
日清戦争時の言論統制
上記の記事の筆者ジュリアン・ラルフ(Julian Ralph: 1853-1903)はアメリカの著名なジャーナリストで、上記の記事が掲載される7ヶ月前の『ハーパーズ・ウィークリー』(1894年2月24日)に彼の署名入りポートレートと「ジュリアン・ラルフ」と題した人物評の長い記事が掲載されています。ニューヨーク生まれの彼がジャーナリストとして「裏町、病院、埠頭、暴動現場」などに送られ、新聞コラムにスラム街の悲惨な様子から花柳界の華やかな世界まで書き、視野を広げたことと、価値観の多様性を身につけたとのことです。ですから、彼はインディアン[ネイティブ・アメリカン]に同情し、「アメリカ西部を嘲笑せずに、南部について説教口調でなく書いた最初のニューヨーカー」(注2)と評されています。
ラルフが上記の記事で「日本政府は日本側に有利な情報しか報道させない」と書いたのは正確な観察です。明治政府は日清戦争前から「強力な言論統制の手段を持っていた」上、朝鮮出兵が決定すると「さらに言論統制を強化する措置を講じ」「一八九四年中に全国で治安妨害のかどで発行停止を受けた新聞社は一四〇社を超えた」((注3), p.159)そうです。一方で、「陸海軍で公表差し支えなしと判断した戦地の情報を広島県警察部[広島は日清戦争時の大本営地]に掲示し、事前に登録した新聞社に謄写させて新聞に掲載することを許可した。つまり大本営に、のちの記者クラブにあたる組織を設置した」のです。ところが、「戦況が日本有利になると、政府は戦争情報を積極的に開示するようになった」(p.161)そうです。
ラルフがかなり正確な情報を提供していることは、日本軍の兵力を20万人としていることにも表れています。実際の兵力は24万616名でした(p.239)。
日清戦争による日本軍の死傷者数
ラルフほどの著名なジャーナリストが従軍記者として日清戦争をアメリカ読者に伝えるにあたって最初に選んだ挿絵は日清戦争の日本軍の特徴を示唆しています。というのは、日本陸軍側の総死者数が1万3488名とされていますが、軍夫の死者を含めると死者は2万人を越え、戦死・戦傷死が10%に対して、病死(脚気・赤痢・マラリア・コレラの順)が88%だったからです。また、挿絵「日本帰還を待つ快復期の兵士たち」に見られるように、負傷・疾病によって兵役を免除された者が3,794名で、凍傷の患者も多かったそうです(p. 240)。
進軍する日本兵は疫病とも戦わなければならなかった
日清戦争の前から世界中でコレラが蔓延しているニュースがNYタイムズで度々報道されています。1894年から日本兵が帰還した1895年6月〜8月まで、NYタイムズの報道を通して、コレラが世界的にどう広がっていったのかを見ます。
1894年6月13日:
香港では1500人が既に死んでいて、香港に残っている人口の半分は避難した。ヨーロッパ人居住地では死者はまだ1人。現地人は毎日100人死んでおり、商業は麻痺状態(注4)。
1894年7月28日:
プロイセンのエメリック(現ドイツ)からオランダに向けて出発しようとしていたオランダ船の乗船者にコレラ患者が出たため隔離された。
1894年11月28日:
ブラジルのリオデジャネイロとサンパウロの2州でコレラが蔓延し、8人が死亡。感染地域は隔離された。
1894年12月6日:「中国のコレラ」
北京で9月にコレラが発現し、このアジア・コレラが北京で蔓延していることについて、海洋病院局(Marine Hospital Bureau)が報告書を出版した。10月11日時点で、コレラの惨害は「異常に激しい」。中国では「家屋、衣服、患者の消毒」について知られていない。
9月に国中から1万人から2万人の学生が科挙のために北京にやってきて、彼らには2万人から3万人の友人や付き添いがついて来た。この人々が首都にコレラを持ち込んだと推測される。その上、彼らは衛生管理が全くされていないため、コレラは彼らと共に出身地に運ばれただろう。冬の到来はこの伝染病が続くことを抑えるかもしれないが、一方、進軍する日本軍は中国軍と戦うとともに、疫病とも戦わなければならないだろう(訳者強調)。
しかし、日本はコレラやその他の感染症から身を守る方法を知っている。この帝国の衛生局は進んだ組織で、ここにコッホ教授の著名な弟子だった北里博士がいる。数ヶ月前に中国の疫病の原因と性質に関する注目すべき調査をし、この病気の病原菌を発見したのが北里博士だ。(p.4)
1895年1月9日:「ブラジルのコレラ」
12月28日にアルゼンチンの複数の港でコレラの存在が報道されたが、ブラジルでは少なくともこの1ヶ月前に現れた。11月24日にサンパウロ鉄道沿線でコレラの蔓延が見られた。リオデジャネイロの海兵病院、衛生局監督のクリアリー医師によると、「最初に中国人(新規渡航者かどうかわからない)が発症し、瞬く間に鉄道の全駅と沿線の町々に広がり、サンパウロとリオデジャネイロ州にも広がった。死亡率は20%という報告と、全死者は8人という別の報告がある」。
政府は鉄道の運行を停止し、感染地域を隔離し、「エピデミックを止めるためにあらゆることをする」と言った。政府の12月1日の報告は「全交通が止められ、隔離と消毒が厳しく行われ、警察と軍隊が配置されて人の行き来が止められている。これによって病気の根絶が望まれている」と述べている。12月8日時点で、6箇所の感染駅で53発症例、10日に63発症例、6人死亡である。
8年前に南米でコレラが猛威をふるって以来、ブラジル政府の衛生局は大きく改善された。最近の蔓延がどこから始まったか不明である。最初の症例が港で見られたのではないことは注目すべきだ。症例が見られた内陸部は12月11日までに隔離されたが、これらの地域はパラグアイとアルゼンチンの大河の支流が通っている地域である。(p.4)
1895年4月10日:
中国の港でコレラが蔓延。
1895年5月6日:
インド・ペルシャ・ジャワを通って[中継地の]紅海のヒジャーズ(Hejaz)へ向かう巡礼者の間でコレラが蔓延し、巡礼者は10日以上隔離されることになっている。
1895年5月7日:「アラビア・コレラのルート」
ボンベイからメッカに向かう巡礼を乗せた蒸気船が2隻、3月16日に紅海の最南端カマラン(Kamaran)に到着し、3月24日に最初の症例が見られた。4月12日までに49例、39人死亡し、死亡率は非常に高い。しかし、ボンベイではコレラは非常に少ない。これらの巡礼者が出発するまでの月にボンベイで死んだのは1人だけだ。
カマランで発症したのは隔離施設が感染地である可能性がある。この施設は数年前から酷い状況だと悪名高い。感染の危険性が巡礼者の出発点であるインドではなく、この隔離施設の方が大きい。1881年にIazaretto が設立されて以降、メッカでコレラが発症し、アラビアの聖地中で7回も蔓延したが、この隔離施設が設立される前の10年間で発症したのは2回だけだ。メッカでコレラが現れたことは極めて重要だ。なぜならこの病気はGaliciaで消滅したし、ロシアではほとんど見られないからだ。アラビアで適切な衛生規則を強要しなかった[欧米]列強の失敗の責任が今やヨーロッパが東洋からの新たな感染の危機にさらされることになる。
1895年6月1日:「極東のコレラ—日本当局はこの病気のコントロールに成功」
横浜の海兵病院衛生局監督のスチュアート・エルドリッジ(Stuart Eldridge)がワイマン大将(General Wyman)に5月10日に以下のことを報告した。[日本]南部の陸海軍兵站部のある地域におけるコレラ発症は1,2例だけである。兵庫と大阪でも単独の発症例があるが、今のところ、この病気はエピデミックというような状況ではない。日本当局はコレラを見事にうまい方法でコントロールしている。「疫病」と呼べる事象が香港とマカオで起こっており、当局はこの事実を隠蔽しようとしている。
1895年7月4日:
「南米でコレラと善戦」
1895年7月5日:
ペンシルベニア州ピットン(Pittston)でコレラ—ポーランド人の下宿で2人死亡」
1895年7月12日:「日本でコレラ死」
6月15日の週に大阪と兵庫で6人が発症し、5人が死亡と報告された。同時期に横浜と長崎では発症例がなかった。
1895年7月20日:「日本の衛生管理の進歩」
[次節で抄訳します]
1895年7月23日:「小アジアのコレラ—ロシアとオーストリアが協調して感染をコントロール」
1895年7月29日:「コレラ死5000人」
日本でコレラが発生してから、9000人が発症し、5000人が死亡。コリアと遼東半島で猛威をふるっている。
1895年8月4日:「今シーズンのコレラ記録」
コレラに関してヨーロッパは今のところ幸運だ。昨年夏にロシアの感染地からドイツ・フランス・ベルギー・オーストリアに広がり、死亡率はGalicia以外では高くなかったが、感染は数ヶ月続いた。ロシアではコレラが冬中、存在し、死亡率が最近2,3地域で増加したが、ヨーロッパの他の地域では影響がなかった。ロシアで第二波が起こったら、ロシアとオーストリア政府は貿易交流を停止することに同意した。
ロシアはこの病気が日本とコリアからウラジオストック港を経由してシベリアに侵入してくることを恐れて、医師と衛生管理担当者をウラジオストックに送った。いまだに日本・コリア・満州で猛威をふるっているコレラは、コリア・満州から日本に入った。
1895年8月10日:
ロシアのPodoliaで猛威をふるっているコレラの患者用に臨時病院が建てられることになったが、住民が反対して暴動を起こし、鎮圧に軍隊の導入が必要な事態だ。
1895年8月11日:
オーストリア=ポーランドと南ロシアでコレラの拡大
1895年8月17日:
中国・コリア・フォーモサ[台湾]のコレラ—これらの国のコレラ拡大が深刻
1895年8月30日:
北京のコレラ死が今月4万人と公表された。
北里柴三郎の訴え
NYタイムズで紹介された北里柴三郎(1853-1931)は、コレラ菌を1885年に発見したコッホ(Heinrich Hermann Robert Koch: 1843-1910)のもとで1886(明治20)年から6年間研究しました。そもそも、コレラは開国を強制した欧米が日本にもたらした「パンデミック」です。北里は留学の翌年の1887(明治21)年にウィーンの「万国衛生会議」でドイツ語で「日本におけるコレラ」と題した発表をおこない、「かつて日本にコレラは存在しなかった」((注5), p170)と始めています。
1822(文政5)年にオランダ船が持ち込んだコレラが長崎から日本中に大流行したことを「パンデミック」に相当するPandemieという語を使っています。その次の1858年からの大流行を「日本はこの不気味な客人の二度目の帰省に見舞われ」たと表現し、アメリカの軍艦が中国から持ってきて、長崎から広がり、10万人が犠牲になったと述べています。3度目のコレラ・パンデミックは1877年にイギリス軍艦がもたらし、アモイから長崎に到着する直前に水夫がコレラで死亡し、長崎の外国人墓地に埋葬されたこと;その後外国人の往来を世話していた日本人水夫が亡くなり、九州全土にコレラが蔓延したこと;西南戦争の時だったので参戦した兵士と警官が罹患し、神戸・京都・大阪に広がったこと;同時に横浜の外国人居留地の日本人使用人から広がったこと;死者数は7,967人だったと述べています(pp.170-1)。
外国からの疫病の防止政策を欧米列強が拒否し、10年間に25万人以上の犠牲者を出した
翌年と翌々年にも流行し、1879年の死者数は105,786人、1882年は32,076人、その後1885年までの統計を述べてから、「この流行の原因はイギリスおよびフランス軍艦の寄航に帰せられる」と明言しています。1866年までの10年間だけでも、256,361人が犠牲になり、商業や交通に大きな損失をもたらしたと指摘します。そして「外国からの病気の侵入を防ぐためのあらゆる政府の政策は外国船が検疫(防疫)を守らなかったため、これまで何ら功をなさなかった」と欧米列強を非難しています。「万国衛生会議」で並居る欧米列強からの参加者の前でドイツ語で訴えたので、その熱弁を引用します(pp.172-3)。
これまでの例が示しているように、そうした外国船と日本との間に何ら障害なく交易が行われるという時、ましてや外国の軍艦が日本の当局に通告なくコレラによる死者の死体を日本の地に持ち込んでいるようでは、いかなる日本側の適切な政策が実効性を持ち得たであろう。諸外国は日本のこの港湾検疫の整備に抵抗するのみならず、いくつかの国は現存の検疫に幾度も違反している。そのような事情のもとではもちろんわれわれの蒸気消毒装置は全く役に立たず、あらゆる他の整備もその効果を発揮しえない。
われわれはこの恐るべき伝染病が再三にわたってわれわれの国土に持ち込まれてきた事実を甘受せねばならず、またこちらに持ち込まれる病の流行を、われわれ自身が巨額の負担をもって抑え込むより他ない状況にある。(中略)コレラその他の伝染病に対するわれわれ日本人による政策が他の民族に遅れをとっているわけではなく、それどころか先んじているとすら認識している。(中略)
私は日本政府と同様、あらゆる諸外国政府がひとしく熱意と良心を持って、コレラの他国への持ち込みを防ぐ方向に向かうであろうという望みを抱きつつここに筆をおきたいと思う。
不平等条約の結果、疫病蔓延に無力にされた明治政府
北里柴三郎が批判した、日本の検疫・防疫政策を欧米列強が否定した結果、何十万人もの日本人がコレラの犠牲になったというのは、不平等条約の一つの側面のようです。明治政府は1879(明治12)年に「海港虎列刺病伝染予防規則」を施行し、「コレラが流行する地域から開港場に寄港する船舶に対して、旅客の検診・停船措置を開始」しました(注6)。ところが、欧米列強との不平等条約によって、日本の規則に従うかどうかは外国の判断に委ねられており、結果的にほとんどの国が検疫を拒否して強制入港していたというのです。中国でも独自の検疫権が制限されていたそうです。
明治政府は妥協策として、7日間の停船や罰則規定は取りやめる一方で、検疫所や消毒所の整備を進め、海外でコレラが流行している時には外国公使の協力を取り付けることで、最小限の検疫を実施し、条約改正後の1899年の「海港検疫法」までの「疫病の防波堤」として機能させたそうです。
注
注1 | Special Correspondence from the East by Julian Ralph, ”WAR NOTES IN JAPAN AND CHINA”, Harper’s Weekly, Vol.38, 1894, November 10, 1894, ハーティトラスト・デジタル・ライブラリー https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=mdp.39015013724433 |
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注2 | Frederic Remington “Julian Ralph”, Harper’s Weekly, February 24, 1894, 同上。 |
注3 | 大谷正『日清戦争』、中公新書、2014 |
注4 | The New York Times, June 13, 1894. https://timesmachine.nytimes.com/timesmachine/1894/06/13/issue.html この後のNYタイムズの記事は上のURLの日付を変えればアクセスできます。 |
注5 | 北里柴三郎、林志津江(訳)「北里柴三郎『日本におけるコレラ』1887年」『北里大学一般教育紀要』20 (2015) https://www.jstage.jst.go.jp/article/kitasatoclas/20/0/20_KJ00009690799/_pdf/-char/ja |
注6 | 市川智生「海港検疫の知られざる歴史を検証」笹川財団 https://www.spf.org/opri/newsletter/172_2.html |