ラングのパロディ『もっと暗い日々』(1884)の種本、恋愛スリラー小説『暗い日々』(1884)を黒岩涙香が翻案して『法庭の美人』(1889明治22)として出版し、大ヒットしました。
ラングのパロディの種本『暗い日々』
ヒュー・コンウェイの恋愛ミステリー小説『暗い日々』(1884)はラングを刺激してパロディを書かせた点と、明治日本で『法庭の美人』(1888-9)という題名で翻案されて、「大ヒット」(注1)した点が興味深い作品です。『暗い日々』と『もっと暗い日々』(1884)を比較検討する前に、『暗い日々』の何が明治日本でヒットしたのかを見たいと思います。
出典:Henry Holt and Company (New York)出版の表紙(注2)
『暗い日々』は17章から構成され、バジル・ノース(Basil North)という一人称の語り手が主人公で、物語が始まった時は30歳の成功した開業医です。イギリス人の母とスペイン人の父を持つ混血の女性フィリッパ(Philippa)に付き添われて母親が診察に来て、バジルはフィリッパに一目惚れします。ところがフィリッパは彼を友人としてしかみなさず、やがて結婚指輪を見せます。そして、現れた40歳位の男性をMr. Farmerと紹介し、バジルはそれが夫だと理解します。この男はマーヴィン・フェラン卿(Sir Mervyn Ferrand)と呼ばれる準男爵で、複数の女性がフェラン夫人と自称するような、いかがわしい男だと知ります。
その時からバジルは名誉にも富にも人生の成功にも興味が持てなくなります。やがて遠い親戚が遺産を残してくれたので、開業医を辞め、田舎町に越して、身の回りの世話は家政夫のウィリアム・エヴァンズにさせ、引きこもり生活を始めます。
そんな時に数年会っていなかった母親から手紙が来たことと、フィリッパはどうしているか、幸せだろうかと思い始めたことが同時に起こり、社会復帰が始まります。母親はバジルが成年になった頃にアメリカ人と再婚し、アメリカに渡りましたが、その夫が数ヶ月前に死んだためにイギリスに戻るから、3日後にロンドンで会いたいという手紙でした。
その夜、窓にフィリッパの顔が映り、家に招き入れると、夫から離縁状をもらって茫然自失状態でした。彼女が妊娠すると、夫が邪険に扱ったこと、手紙にはフィリッパと結婚した時に生存中の妻がいたこと、その妻はその後死んだが、フィリッパとの結婚生活は自分にとっては望ましいものではないので別れたいこと、第三者を入れたくないので金銭的な問題を直接話し合いで解決したいから、そちらに行くという内容でした。フィリッパはバジルに「あなた、男を憎んだことある?」と尋ね、バジルは以前フィリッパの夫を憎んだので、あると答えます。
フィリッパの子どもは2週間前に死に、フィリッパが病気になったために夫は自分の親戚のウィルソン夫人にフィリッパを託します。バジルはフィリッパを自分の妹と偽って、翌日自分の家に連れて行く手配をし、フィリッパを待ちますが、なかなか来ないので宿舎に行き、フィリッパが既に出たと聞きます。フィリッパが夫を迎えに駅に行ったと思い、雪嵐の中を追いかけます。雪の中でフィリッパの叫び声を聞き、彼女を見つけた時、彼女の手からピストルが落ちます。バジルはそれを無意識に放り投げ、やがて道の真ん中に白い塊を見つけます。フィリッパの夫の射殺された死体のようでした。
フィリッパは精神状態がおかしくなり、バジルは薬を飲ませて眠らせます。事件から2週間後にフィリッパが回復しましたが、2週間前に何が起きたのか記憶を失っていました。バジルはフィリッパが夫を殺したと信じて、雪解けで死体が見つかる前に国外逃亡しようとします。逃亡先はフィリッパの父親の出身地スペインにし、バジルの母親も一緒に行くよう説得します。
バジルはフェラン卿の死体が発見されたという記事が出ていないかと必死に新聞を読む一方で、フィリッパに結婚に同意させ、スペインのアンダルシア州セヴィリアとカディス(Cadiz)に新婚旅行に行きます。そこでイギリス人観光客がフェラン卿が殺されたと噂しているのを聞いてフィリッパは気絶します。その後、家政夫だったウィリアム・エヴァンズが逮捕されたという『タイムズ』の記事を見つけます。
エヴァンズが無実だと信じたバジルは、悩んだ結果、無実の男を処刑させることはできないという結論に達します。フィリッパはイギリスに戻って自首すると言い、二人は裁判に間に合うように帰路を急ぎます。ところが法廷でエヴァンズが自白し、フィリッパが殺人を犯したのではないことが証明されます。物語はフィリッパとバジルに娘2人、息子1人ができ、幸せな「イギリス家庭」を築いている姿で終わります。
明治日本で翻訳された『暗い日々』の意義と意味
『暗い日々』が英米で出版されて、わずか5年後に黒岩涙香(るいこう:1862-1920)が訳述『法庭の美人』(1889, 明治22、(注3))として日本で出版しました。この翻案小説はその1年前に『東京新聞』の起源とされている『今日新聞』(注4)に連載して、大ヒットしたそうですが、その理由は「原作を読みこんだうえで登場人物の名前などを日本名にして、ときには創作的ストーリーも盛り込んだ。その斬新さが読者をつかんだ」(注1)とされています。
『法庭の美人』は現在さまざまな側面から評価されています。まず、登場人物名を日本名に変えたこと;あらすじ以外は「翻案」にして日本の読者に海外文学に親しみやすくする翻案小説という形式を発案したこと;新聞の売り上げに貢献する点で翻案小説を新聞連載小説と位置付けたこと;原作の主人公の一人称の語りが当時の読者には新鮮であったことなどが挙げられています(注5)。ただ、最後の主人公による一人称の語りは、種本の『暗い日々』の原文に忠実な翻訳ですから、黒岩涙香の「新鮮な」手法でなく、原作の手法であったことです。出だしを比較してみてください。
When this story of my life, or of such portions of my life as present any out-of-the-common-features, is read, it will be found that I have committed errors of judgment—that I have sinned not only socially, but also against the law of the land.
[私の人生のこの物語、または、私の現在の普通ではない特徴を示す人生の物語を読者が読んだ時、私が判断ミスを犯したとわかるだろう—つまり私が社会的な罪を犯しただけでなく、この国の法律に違反したことである。]
『法庭の美人』
読者よ、余は二十七歳の夏学力優等を以て医科大学を卒業し医学博士の学位を得たり。
涙香が「あらすじ以外は『翻案』」にしたという指摘は最初の文章から明らかです。涙香が新聞小説にする題材を選ぶために読んだ「ミステリの原書は三千冊を超えたと豪語していた」そうで、「その中から選別された最初の翻案小説が、紆余曲折はあったものの、『法廷[ママ]の美人』として「今日新聞」に連載された(明治二十一年)」と解説されています(注5)。
なぜ『暗い日々』を選んだのかを「法庭の美人前文」(pp.1-8)で述べているので、引用します。当時は新聞小説を含め、全ての記事で全漢字にルビが振られており、それによって、ひらがなさえ読めれば誰もが小説も新聞記事も読めるという効果があったようです。以下の引用では、ルビ・旧漢字・旧仮名遣い・変体仮名は現代仮名遣いに変え、原文にない句読点を加えます。
余かつて英の小説家ウヰルキー、コリンスの作り「二つの縁(ツー、デスチニース)を読み其趣向の妙を稱す後又「ヒユー、コヌウエー(本名フレデリキ、ヂヨン、フルガスの「後ろ暗き日」(ダークデース)を読むに至り、其趣向の頗る相似たるに驚き思えらく、是れ彼を取りしか、彼また是れを取りしかと。しかれども「コリンス」は「ヂッケン」[ディッケンズ?]続きて出たる小説家にして「コヌウエー」は今正に売り出しなり。「コリンス」は前にして、「コヌウエー」は後なり。前の人、後の人の作に模する能わず、もし模せしとせば、模倣のそしりは「コヌウエー」にあり。たとえ模倣せすとするもなお其嫌いを免れず。余はかかるきらいある者を訳するを欲せず。「後ろ暗き日」を訳するよりはむしろ「二つの縁」を訳せんのみと。すでにして筆を採るにあたり、又、両書を合わせて之を読むに、其面白みは「二つの縁」に在らずして、「後ろ暗き日」にあり。すなわち又意を翻し、余は唯面白みの多きをたっとぶのみ。何ぞ其嫌いの有無を問わんや。ましてや其嫌いの如き、唯未熟なる余の胸に浮かびたる一個空想にして其真に模倣せしや否やを知る可からざるをや、即ち「後ろ暗き日」を訳して新聞紙に掲げさり是ら此「法庭の美人」なり。
「法庭の美人前文」の前半部ですが、これ自身がミステリーのようです。まず、探偵小説のパイオニア、初期ミステリー小説の達人と評される(注6)ウィルキー・コリンス(Wilkie Collins:1824-1889)の「ツー、デスチニース」というのは1876年刊のThe Two Destinies(二つの運命)という小説のことでしょう。この小説でコリンスは「運命づけられた魂」と「超自然的幻影」というテーマを探ったと評されています(注7)。黒岩涙香はコリンスのこの小説を読んだ後で、ヒュー・コンウェイ(本名フレデリック・ジョン・ファーガス)のDark Daysを読んで、その趣向がよく似ているので驚いたと述べています。ところが、この2作には類似点はなく、あえて挙げるとすれば、ヒロインが結婚する相手が重婚だという点ぐらいでしょうか。涙香は改めて2作を読み比べ、面白味はコンウェイの小説にあると翻案の決意をしたと述べています。
『法庭の美人』の設定について
『法庭の美人』では語り手のバジル・ノースは卓三氏、恋人のフィリッパはお璃巴(りは)、夫は春麻(はるま)氏、または男爵毛利平徳(ひらのり)とされていますが、舞台はイギリス、スペイン、お璃巴の「父は西班牙人にして母は英人なり」と原文に忠実です。翻案文中には英文を挿入し「今ハ唯Too late (後の祭り)の一言にて」(p.7)と、英語の読み方をルビで示し、翻訳をカッコで示すなど、明治21年の新聞読者のレベルの高さが窺えます。
黒岩涙香の原文では、控訴院に到着したお璃巴の服装を「真黒き冬服を身に纏[まと]い毛皮の裏附きたる外套を着て頭には冬帽子を戴き細緻[こまやか]に編みたる黒き覆面に顔を隠し足には冬の深き靴を穿[うが]てり」(p.106)と描かれています。ところが、『暗い日々』の原文には、裁判所に到着したフィリッパの服装の描写はありません。「黒き覆面」に相当する顔を覆うヴェールはたびたび描かれていますが、『暗い日々』の第14章「刑事裁判所」で、「厚いヴェールと陰鬱な服」(thick veil and some sombre garments, p.145)と述べられているだけです。『暗い日々』全体で、フィリッパの服装について述べられているのは、第2章「悪漢の一撃」(A Villain’s Blow)で、吹雪の夜、フィリッパが亡霊のような様子でバジルの家に現れた時の情景で「彼女は頭から足元まで、高価な黒い毛皮で縁取られたマントに包まれていた」(She was wrapped from head to foot in a rich dark fur-trimmed cloak. p.18)と描かれています。この描写を涙香は控訴院に到着したお璃巴が「真黒き冬服を身に纏[まと]い毛皮の裏附きたる外套を着て」と移し替えたようです。その挿絵が以下です。
この挿絵のスキャン後の画像がはっきりしませんが、手にしているのは黒い傘、和服に下駄です。涙香の文章「真黒き冬服を身に纏[まと]い毛皮の裏附きたる外套を着て頭には冬帽子を戴き細緻[こまやか]に編みたる黒き覆面に顔を隠し足には冬の深き靴を穿[うが]てり」を挿絵にしたのではないことは明らかです。この挿絵が発表された時には、錦絵で洋装姿の日本女性も発表されていましたし、2年前の1887(明治20)年に皇后が「思召書」で上流階級の女性に洋装を勧めました((注8), pp.100-101)。それでも、この頃の東京を描いた絵に見られるように、ほとんどの女性が和服・日本髪姿だったようですから、舞台がヨーロッパだとしても、親しみやすく感情移入しやすかった和服をこの挿絵画家は選び、涙香も同意したということでしょうか。
キャプション:亀井戸梅屋敷、井上安治(1864-1889)画(注9)
黒岩涙香の「翻案」
黒岩涙香は原文にない部分をいくつか創作しています。場面はスペインへの逃避行の最中にお璃巴と結婚し、ハネムーンにセビル近くのカヂズという所に行き、そこから船でセビルに戻る船中でイギリス人の紳士2人の会話を漏れ聞いたという設定です。「蜜月の旅行」と書いた後にカッコ付きで、(西洋にては若夫婦必らず旅行する例なり之を蜜月の旅と云う)(p.83)と解説しています。
読者よ、余が顔元来色黒き方にて殊には数ヶ月の道中、日に焦げて誰が目にもいずれの国人なるか判ち難し。又、お璃巴スペイン人の胤(たね)にして、眼(まなこ)黒澄(くろず)み、英国の婦人には類なき程の愛敬あれば、件(くだん)の紳士は余とお璃巴をスペイン人の夫婦とみとめ、英語を解せざるものと思いしならんが、しばらくありて、甲紳士は乙紳士に向い英語にて一寸見たまえ、素敵なゆうぶつ[美人]じゃないか。乙「ソーサ、僕も先程から実は見惚れて居たが真に無類だネエ」。 甲「口の悪い君がそれほどにほめるから、余程の美人に違いない」。(pp.84-5)
男性2人のお璃巴に関する美人談義はこの後も続きますが、原文にはこのような会話はありません。日本の読者が理解できるのは、金髪碧眼ではないスペイン系のお璃巴にエキゾチックな美人観を示すイギリス人もいるということです。
黒岩涙香による結末も「翻案」
逃避行の途中に新聞で、愛澤蘇吉という者が毛利平徳男爵殺害の嫌疑で公判にかけられると知り、お璃巴は自首するため、卓三は無罪の男を死刑にしてはいけないという「善心漸く立返り」(p.98)、二人はスペインからロンドンに急ぎます。
二人が傍聴券を手に入れ法廷に入ると、ちょうど書記官が罪状を読み上げているところでした。殺害の証拠のピストルが雪の中から発見され、証人もあり、ピストルは愛澤の所有に間違いない、罪状を認めるかと問い詰めた時に、お璃巴が傍聴席から立ち上がり、自首しようとしますが、遮られます。愛澤蘇吉は死刑の宣告を受け、それでもお璃巴が翌日自首すれば死刑は免れるかもしれないと弁護士に言われます。その後、愛澤蘇吉が最後の際に臨んで書き残した手紙が届きます。それによって、愛澤が殺害した後にお璃巴が現れ、愛澤は驚いてピストルをお璃巴に投げつけて逃走したと書かれていました。
最後は、平徳の財産20万ポンド(100万円)は親戚がいないため、お璃巴のものとなり、お璃巴は半分を愛澤の妹に与え、平徳と愛澤の弔いをしたと述べられています。日本名のお璃巴はヴィクトリア女王に次ぐ地位となって「貴婦人社会で尊敬せられ」、夫の卓三は「王国医博士会院の頭取」となったという結末にされています。種本の『暗い日々』の結末に示された大英帝国中心主義は消え、ヴィクトリア朝のイギリスで日本人が受け入れられ、大英帝国と同等と見なされるという希望的観測が明らかです。
この「翻案」による結末を135年後に読むと、発表当時26, 7歳だった黒岩涙香の欧米列強に対する期待と日本が欧米列強と同等として認められるという楽観が読み取れ、ナイーブさといじらしささえ感じてしまいます。一方、黒船来航と幕末維新の時代を体験した福沢諭吉(1835-1901)の世代の欧米観の方が、太平洋戦争とその後の占領時代を経験した世代に共通するものがあると指摘する丸山眞男の福沢諭吉論(『「文明論之概略」を読む』1986)に、2020年代の私たちが経験する欧米の有色人種差別に通じるものを感じますので、次節で紹介・検討します。
注
注1 | 奥武則「黒岩涙香没後100年 権力批判の論陣張った新聞人」『毎日新聞』2020/10/5 https://mainichi.jp/articles/20201005/dde/014/040/007000c |
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注2 | Hugh Conway, Dark Days, New York, Henry Holt and Company, 1884, Hathi Trust Digital Library. https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=hvd.hn3652 |
注3 | フレデリキ・ジョン・フルガス、黒岩涙香訳述『法庭の美人』、東京二書房合版、1889(明治22)、国立国会図書館デジタルコレクション、 https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/876426 |
注4 | 「東京新聞創刊120年展—読者と歩んだ激動の日々」日本新聞博物館、 https://newspark.jp/exhibition/archive/2004/ |
注5 | 梶山秀雄「近代日本文学の牽引車としての探偵小説—黒岩涙香と翻案小説」『島根大学外国語教育センタージャーナル』13巻、2018-03 https://ir.lib.shimane-u.ac.jp/ja/list/department/036003/Departmental%20Bulletin%20Paper/item/40889 |
注6 | ”Wilkie Collins”, Britannica Online Encyclopedia. https://www.britannica.com/biography/Wilkie-Collins |
注7 | Andrew Gasson, ”The Two Destinies: A Romance”, Wilkie Collins Information Pages. https://www.wilkie-collins.info/books_two_destinies.htm |
注8 | 加藤秀俊・加太こうじ・岩崎爾郎・後藤総一郎『追補 明治大正昭和世相史』社会思想社(1972),1985 |
注9 | 井上安治画、木下龍也(編)『色刷り明治東京名所絵』角川書店、1981, p.135. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9642367 |