イギリスでジャポニズムが起こっていた頃、西洋化に必死な日本人を猿にたとえ、不平等条約の改正を求める日本を「なまいき」だと批判する欧米の動きが同時進行していました。
欧米が日本を仲間扱いするという錯覚
前節で、イギリスの恋愛ミステリー小説『暗い日々』(1884明治17)の翻訳・翻案小説『法庭の美人』(1888-9明治21-22)の結末が、日本人のヒロインがイギリスでヴィクトリア女王に次ぐ地位となって「貴婦人社会で尊敬せられ」、夫の卓三は「王国医博士会院の頭取」になったという黒岩涙香の翻案を紹介しました。これは、日本人が大英帝国で同等に扱われるという明治20年代初頭の日本知識人の希望的観測の表れとも、大英帝国が日本を同等以上に扱うのが当然と思っているとも理解できるでしょうか。当時のイギリスの美術界が日本ブームだったことを知れば、そんな錯覚に囚われるのも無理ないのかもしれません。
キャプション:王立芸術院のジャポニズム「日本美術は(中略)世界で唯一の生きた芸術である。2,3年のうちに日本は芸術のリーダーとなり、世界的に認められた芸術のセンターとなるだろう」(1月25日付『タイムズ』より)、出典:『パンチ』, 1888年2月4日、p.50,(注1))
このパンチの風刺画に描かれているのは当時のイギリスの著名な芸術家たちで、右側に立っている画家がエドモンド・レイトン(Edmund Leighton: 1852-1922)、前列左から2番目の画家はその顔からジョン・ミレー(John Everett Millais: 1829-1896)のようです(注2)。
猿のような日本人が西洋の仲間入りを期待するのは「生意気」
ジャポニズムに沸く欧米の美術界とは対照的に、日本在住の欧米人は日本人を「生意気な猿」と見ていたようです。
キャプション:名麿行(なまいき:生意気)
ジョルジュ・ビゴー(Georges Ferdinand Bigot: 1860-1927)(1887, (注3))
ビゴーの有名なこの絵については、不平等条約改正は時期尚早だとビゴーが考えていたと解説されています(注4)。表面的に西洋化しようとする日本人の実態はものまね猿だと鏡が映し出し、そんな日本人を「なまいき」だとあざけるビゴーの風刺画には、多くの欧米人の思いが反映しているようです。『お菊さん』(Madame Chrysanthemum, 1887)の著者、ピエール・ロティ(Pierre Loti: 1850-1923)は1886(明治19)年に鹿鳴館の舞踏会に招待された時の体験を「江戸の舞踏会」(『秋の日本』1889所収, (注5))で描いています。ここでも日本人を「猿」という言葉を多用して表現しています。日本語訳「江戸の舞踏会」から、いくつか引用します。
- [人力車夫について] 猿の拇指のやうに足指を持ち上げて…彼らはマカック[マカク]猿のやうな手つきをして、どんなにその筋肉が堅いかを私たちに嘆賞させようと」(p.58)。
- 「ロク・メイカン[鹿鳴館]そのものは美しいものではない。ヨーロッパ風の建築で、出来立てで、真っ白で、真新しくて、なんとなくそれはフランスのどこかの温泉町の娯楽場(カジノ)に似ている」(p.60)。
- [鹿鳴館の入り口で]かなり正確にネクタイを結んではいるが、殆ど眼のない黄色っぽい滑稽な小さい顔をした、燕尾服の召使たちが慇懃に接待する。(pp.60-61)
- [舞踏会に参加している日本女性について] そのつるし上がった眼の微笑、その内側に曲がった足、その平べったい鼻、何としても彼女たちは異様である。(p.65)
ビゴーやピエール・ロティと同時期に日本人の洋服姿を「全く醜い」(downright ugliness)と評した日本観が、『ハーパーズ・ウィークリー』(1890年6月28日号)掲載の「東京博覧会における近代日本」(Modern Japan at the Tokio Exhibition, (注6))で紹介されました。1890(明治23)年4〜7月に上野公園で開催された第3回内国勧業博覧会について書かれた長い記事です。この博覧会は約44万点の「出展品の販路拡大のために外国人客の誘致に力が入れられ、世界各国に招待状が送られた」そうですが、結果的に外国から集まったのは246人というので、「東京博覧会における近代日本」の筆者はその1人のようです。全体の入場者数が4ヶ月で約100万人とされていながら、「不景気・インフルエンザの流行・連日の雨・7月1日には帝国議会衆議院選挙」などの影響で入場者数が伸び悩み、「大量の売れ残りが出る結果となった」博覧会だったそうです(注7)。『ハーパーズ・ウィークリー』の筆者も、「入場してすぐに、予想していた博覧会ではないとわかった」と出展品の多くが日本人を楽しませるための「現代ヨーロッパの絹、壁紙など」で、西洋人には面白くなかったと述べています。
入場者の大半が着物姿だったようで、女性たちの着物と、ほぼ全員が携えている傘と扇、その他の着物に付随するものの「優雅さの効果は原住民の群れを見てこそ十分に評価できる」(the full effect of the elegance of the dress can be only appreciated when seen on crowds of native)と表現されています。”native”は地元住民という意味ですが、この当時は主に欧米の植民地の「原住民」という蔑視的表現として使われていたので、日本の日本人も欧米人にとっては「原住民」のニュアンスが強いと理解できます。その証拠に、この記事の最初に日本は欧米が「侵略した」と表現されているので、ペリーが「開国」した日本は、欧米人にとっては「侵略」した国と一般に理解されていたようです。「最初、日本は外国の侵略を毅然としてはねつけたが」(At first the Japanese repelled foreign invasion)と解説されています。
東京博覧会の原住民入場者の中で、数少ない美人の着物姿は確かに「絵のように美しかった」(They are very picturesque)が、「結局は、そんなに綺麗ではなかった」(but, after all, they are not very pretty)と続け、「実際のところ、洋服姿の日本人で完全な醜悪さを免れている者はいない」(In fact, few escape downright ugliness in foreign dress)と断言し、ビゴーやピエール・ロティと同意見です。ところが、ビゴーも、その他、当時日本に来た/いた白人男性たちの多くはサムライ姿の肖像写真を残しているのです。自分たちがサルの衣装を着て誇らしげに記念写真を残すことの恥ずかしさも矛盾も感じないところに、西洋の「文明人」の本質が見えるようです。
馬場辰猪による日本の西洋化の批判
鹿鳴館の舞踏会に代表される日本の西洋化への試みを、馬場辰猪(たつい:1850-1888)はフィラデルフィアで客死した1888(明治21)年に『日本の政治状態—内閣の専制主義と無能と民衆の政党の目標』(Political Conditions of Japan: Showing the Despotism and Incompetency of the Cabinet and the Aims of the Popular Parties)の中で、日本政府が不平等条約の改正のために、表面的な西洋化をして欧米列強から認めてもらおうとしていると批判しています。
若い役人と妻たちが近代ワルツを踊っている時に、国民の人権と自由が全く無視されていた。このように、現内閣には統一された原則も行動もない。各省庁は勝手に行動しているので、現内閣は頭のないムカデにたとえられ、数多くの足が勝手にあらゆるところに動く。
それなのに、日本政府は表面的な変化を紹介して、ヨーロッパの全政府の信頼を得られると考えている。外国の代表者たちを絶えずレセプションに招待し、日本人女性とダンスさせれば、条約改正に重要な譲歩をするほど馬鹿だと考えている。(p.13, (注8))
この本で、辰猪はペリーから始めて、1888年まで不平等条約の改正を達成できなかった日本政府の無能ぶりと、民衆運動、政府による言論弾圧、政治犯の投獄と監獄の惨状などを論じ、日本政府の譲歩ぶりを列挙し、それでも条約改正に成功しなかったと激しく非難しています。彼が挙げた1888年までの譲歩には、日本の裁判所の判事の大半はヨーロッパ人を任命すること;使用言語は英語;関税や輸入は20%以上の税金をかけてはいけないなどがあります。こんな譲歩をした挙句、日本政府は条約改正の交渉に失敗したと批判して、最後に「猿」のメタファーで締めくくっています。
この卑怯な政府の長、枢密院の長、伊藤伯爵は自分が偉大な政治家だと思っている。自分の政策はビスマルクをモデルに作られたと考えている。(中略)普通の観察者には伊藤伯爵とプリンス・ビスマルクの間には人間と猿ほどの大きな隔たりがある。(p.20)
アメリカ時代の馬場辰猪(注9)
「頼むところは天下の世論、目指す仇は暴虐政府」
現在ハーティトラスト・デジタル・アーカイブからアクセス可能なヴァージョンは米国議会図書館蔵の本です。この表紙に米国議会図書館が受け付けたスタンプの日付が押され、1888年10月22日となっているのも興味深い点です。この表紙の特徴は、題名(The Political Conditions of Japan: Showing the Despotism and Incompetency of the Cabinet and the Aims of the Popular Parties.)と、著者名の下に、「頼むところは天下の世論、目指す仇は暴虐政府」(“Tanomu tokoro wa tenka no yoron, Mezashu kataki was bogiyaku seifu.”)と、ローマ字ではありますが、日本語で題名の注のような形で著者の思いを添えている点です。
残念なことに、岩波書店の『馬場辰猪全集』所収の西田長寿訳(注10)には、副題もこの添え書きも省略されていて、日本語訳だけを読む読者には辰猪の思いが十分に伝わらないでしょう。自由で民主的な国づくりには世論が重要なのだという思いが、「現内閣の存続いかんは、日本国民の意思に従わねばならない。国民の更生を望む愛国的日本人は、まず最初に現内閣の打倒を目指さねばならない」(p.20)という訴えに重なります。
世論形成が重要だという主張は、馬場辰猪の師匠の福沢諭吉(1835-1901)が『文明論之概略』(1875)で訴えたことです。福沢は『文明論之概略』執筆中の1874(明治7)年10月12日にロンドン滞在中の馬場辰猪に宛てた「有名な手紙」の中で「民心の改革」の重要性を訴えています。ペリー来航前の徳川幕府政治から幕末・維新を経て明治時代初期を体験し、西欧諸国がアフリカ・アジア・アメリカ(インディアンの国を侵略して建国した)・中東で何をした/しているかを知っていた福沢諭吉が欧米による日本の植民地化の危険性を避けるにはどうすべきかという緊迫した思いを吐露している手紙です。
第1回イギリス留学時代(1870明治3/9-1874明治7/3)の馬場辰猪(注9)
日本の「法の権も商の権も外人に犯され」、政治家、官僚たちがなす術がない時に、「民心の改革」しか頼れない、そのためには自分たち知識人が担当するしかない、「結局、我が輩の目的は我が邦のナショナリチを保護するの赤心のみ」((注11), p.51)と書いています。諭吉39歳、辰猪24歳でした。この手紙を「飽まで御勉強の上御帰国、我がネーション[国民]のデスチニー[行く末]を御担当成され度、万々祈り奉り候也」(p.52)と締めくくっています。日本の運命を若い辰猪たちに担当してほしいと訴えているのです。
福澤諭吉の塾で学んでいた頃[1866慶応2]の馬場辰猪(注9)
注
注1 | Punch, vol.94, 1888. Hathi Trust Digital Library. https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=mdp.39015055218989 |
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注2 | ”The Japanese School at the Royal Academy: Edward Linley Sambourne (1844-1910), 1888 Wood engraving”, The Victorian Web, 3 Feb. 2011, 6 Jan. 2020 https://victorianweb.org/art/illustration/sambourne/1.html |
注3 | ニューヨーク公立図書館デジタル・コレクション掲載のこの絵の日付は1887-05-01となっています。 https://digitalcollections.nypl.org/items/6e6414f0-f462-012f-2a40-58d385a7bbd0 |
注4 | 清水勲『絵で書いた日本人論—ジョルジュ・ビゴーの世界』中央公論社、1981, pp.40-41. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/12426489/1/123 |
注5 | ピエール・ロティ、村上菊一郎・吉永清訳、『秋の日本』青磁社、昭和17. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1132674/1/158 |
注6 | Harper’s Weekly, vol.34, June 28, 1890, p.503, Hathi Trust Digital Library. https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=mdp.39015011446161 上記の当該記事の部分にスキャンの不備か、判読不能な部分があるので、以下のサイトから当該記事を確認することができます。 Harper’s Weekly 1890-06-28: Vol.34 Iss 1749, Internet Archive. |
注7 | 「第3回内国勧業博覧会」1890(明治23)年4月1日~7月31日、国立国会図書館 https://www.ndl.go.jp/exposition/s1/naikoku3.html |
注8 | Tatui Baba, The Political Condition of Japan: Showing the Despotism and Incompetency of the Cabinet and the Aims of the Popular Parties. “Tanomu tokoro wa tenka no yoron, Mezashu kataki was bogiyaku seifu.”, Philadelphia, 1888. Hathi Trust Digital Library. https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=loc.ark:/13960/t2g748384 |
注9 | 出典:萩原延壽『馬場辰猪』中央公論社、1967(昭和42)年、国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2973512/1/163 |
注10 | 『馬場辰猪全集』第3巻、岩波書店、1988. |
注11 | 丸山眞男『「文明論之概略」を読む 上』岩波新書(1986)、第40刷2021 |