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2017-03-16

英米に伝えられた攘夷の日本(1-4)

 第一次ペリー日本遠征の主任通訳だったウィリアムズの日誌には、ペリーと日本側の会談の様子が正直に、そして共感をもって記されていますが、ペリーの公式報告書には書かれていないことがあります。

第一次ペリー日本遠征:久里浜上陸

よいよアメリカ大統領からの親書を幕府側が受け取る準備ができたので、ペリー一行が指定された久里浜に到着します。その一部始終をウィリアムズが記しているので、主要点を抄訳します。挿絵は第二次日本遠征の記述部分に挿入されているものですが、描写はウィリアムズの第一次遠征時の記述にマッチするものが多いです。

●[1853年]7月14日火曜日:11時に久里濱[ウィリアムズの漢字]に到着した。15艘のボートに300人を乗せていた。112人の海兵隊、40人の楽隊、40人の士官、100人以上の水兵だ。全員武器を持ち、ほとんどの拳銃は装填してあった。((注1),p.59)

第二次ペリー遠征Landing of Americans at Uraga(アメリカ人の浦賀上陸,(注2), pp.386-87)

第二次ペリー遠征(pp.404-405)

第二次ペリー遠征(pp.404-405)

第二次ペリー遠征(pp.388-389)

第二次ペリー遠征(pp.388-389)

ペリーを諌めた幕府の役人

 大統領からの親書が渡された時の様子をウィリアムズは日誌に詳細に記していますが、ペリーを諌める幕府の役人の発言まで記録しているのは驚きです。

オランダ語と日本語の受取書がポートマン氏に渡され、[親書の]オリジナルは箱に納められたままの姿で開かれた。その後、すぐにペリー提督が2,3日中に琉球と中国に向けて出発するつもりであること、もし[日本の]使節団が[琉球に]あてた手紙などがあれば持って行くと言った。そう聞いた日本人側は何の反応も示さなかった。するとペリーは中国で暴徒による反乱が起こり、暴徒は南京とアモイを占拠し、新たな宗教を導入しようとしていると言った。「今ここで、反乱の話をしない方がよろしい」という重要な(significant)返事があったが、これは全く適切な返事だった。なぜなら、こんな話題を持ち出すのは非常に場違いで時宜を得ない(very mal-apropos)と私は思った。しかし、日本人に今後振りかかるかもしれない重要な変化の兆しとしては、これは興味をもって見るべきことだろう。この会談がその[変化の]いい始まりだった。

 このようにして会話が止められ、茶菓が出てくる気配はなかったので、去る以外することはなかった。対談者たちの間のコントラストは際立っていた。前列には外国人士官たちのグループ、その後ろに絵のような姿の頭を剃りあげた日本人が格子模様のスクリーン[障子]を背景に浮き彫りになっていた。左には1列に座った正装の士官たちが刀と肩章などをつけ、精一杯の輝きを示していた。右には2使節団と長官、その2列の間にそれほど立派ではない服装の男たちが座っていた。(p.62).

 この箇所をペリーの公式報告書はどう述べているのか調べてみました。以下が該当箇所(p.261)の翻訳です。

 2,3分の沈黙の後、提督が通訳に命じて日本人に伝えたことは、艦隊と共に2,3日後に琉球と中国に向けて出発すること、[日本]政府が何かこれらの地に伝達や通信するものがあれば、提督は政府のお役にたつつもりがあるということだった。提督は来春、4月か5月にまた日本に来るつもりだと述べた。辰之助はオランダ語通訳に、提督の出発と戻ってくるということを繰り返すよう依頼した。オランダ語通訳は前と同じ言葉で繰り返した。すると質問が来た。「提督は4隻全部の船で戻ってくるのか?」提督の答えは「全部だ、もっと多くの船で来るだろう。これら[4隻]は艦隊のごく一部なのだ」だった。中国の革命について言及があった。通訳はそれを君主たち(princesと訳され、奉行を指す)に通訳せずに、原因は何かと聞いた。提督は「政府のせい」(“on account of the Government”)だと答えた。

 1853年5月の『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』(1-1参照)には、ペリーの日本遠征に15隻の軍艦、4,000人の戦隊が準備されていたと書かれていますから、ペリーが次回は「もっと多くの船で来るだろう。これら[4隻]は艦隊のごく一部なのだ」と言ったのは、アメリカに都合のいい返答が日本から来なければ、日本にも戦争をしかけるぞという含みの言葉でしょう。それでも、「中国の革命」についてぺリーが言及した時に、「今ここで、反乱の話をしない方がよろしい」と諌めた幕府の役人の勇気とプライドと静かな怒りが伝わってきます。誰の発言かウイリアムズが書いていないのは、彼の知らない人物からの発言か、あるいは、香山栄左衛門か、通訳をした堀達之助だったのかもしれませんが、香山か堀だった場合は、名前を記すことによって彼らに被害が及ぶと考えたのでしょうか。

 ペリーが言った革命というのは、太平天国の乱とその他の内乱を指しているようです。次節で太平天国の乱について、当時中国に滞在していたイギリス人の観察記録などから探っていきたいと思います。

1 Samuel Wells Williams, F.W. Williams (ed.), A Journal of the Perry Expedition to Japan (1853-1854), 1910.  https://archive.org/details/journalofperryex00swel
2 :Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan, Performed in the Years 1852, 1853, and 1854., Under the Command of Commodore M.C. Perry, United States Navy by Order of the Government of the United States. Compiled by Francis L. Hawks, New York, D. Appleton and Co., 1856, p.280.
https://archive.org/details/narrativeofexped00perr