『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』(1857.1.3)に柳亭種彦の『浮世形六枚屏風』を紹介した記者は、日本の将軍が自国の物語をイギリスの新聞を通して初めて読むかもしれないという文章で締めくくっています。
『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』掲載の浮世形六枚屏風のストーリー
R.T.(原文)
恋草の種植え初めて堂の島、花なき里を花にする、橋の名さえも梅桜松はみどりの曽根崎に、続く呼屋に引く三味線も、気は二上りか三下り、心せかるゝ三ツ紋佐吉、お花が許へもおとづれず、母よりもろうた百両の金懐中へねぢ込んで、歌川屋の裏波岸(うらがし)を行きつ戻りつ見上ぐれば、奥の二階にしょんぼりと、物案じ気な小松が姿、幸いあたりに人は無し、ここまで来たを知らせの手拍子、恋しゆかしい男の顔、夜目にもそれと見て取って早う早うの手招ぎに、気は飛び立てどつばさは無し、せんかたなじみの家なれば、見付けられたら謝る分と、恋には闇の黒板塀こじ放す音聞き付けて、俄になき出す犬の声、かみ付くばかり吠えかゝれば、雨落の石手当たり次第、掴んで投ぐる其の内に、懐中より百両包ころりと落つるに気も付かず、石と諸共うち付くれば、遥かにそれて川岸に繋ぎ留めたる屋根舟の提灯ばったり打消すにぞ、「えゝ投打し居るはどいつめぢゃ」と寝ぼれ声にてわめかれて、見付けられじと尚うろうろ、二階の上より見るひやいさ小松が松に打ちかくるしごきの帯の蔦紅葉、ようようそれを力草高塀のり越え吐息をつき、「始めからかうすれば、何の骨は折れぬのに、かう云ふ事では盗人にもめったにはなられぬ」と二階へ這入れば小松は取付き、「口合所ぢゃ御座んすまい、わたしは半分死んで居る、くはしい事はお花さんに聞かしゃんした通りの場合(しぎ)、今更お前に引別れ国へ戻って嫁入が、どうまァならうと思はんす、いっそ殺して下さんせ」と、わっと泣出す口へ手をあて、「あゝ静かに云うたがよい、ひょんなおれにつながって、国に御座る親達に、嘆きをかけるは真の悪縁、ゆるしてたも」と云いければ、「あれやうやう忘れて居た国の事を云ひ出して、又泣かせて下さんす、うたるゝ杖もゆかしいもの、ましてや拳もあてられず、可愛がられた父さん母さん、是ればっかりは忘られぬ、迎へに来たは乳母の子にて、顔かっかうは覚えねど、国のゆかりの人なれば、遭ひたいは山々なれど、屋敷勤めをすると云ふ其のわたしが此の様に、あぶらけ無しの大島田、蓮葉ななりで遭はれもせず、心の中の悲しさを推量して」とふし沈む。男は背をなでさすり、「見受けさへしたならば、又仕様もあらうかと、母の情けで百両の金は貰うて持ちながら、掛も払はず裏口から忍び込んで来たわいの、まァ此の金をお花に渡し、おれぢゃと云はずに身の代の、手付に入れて置いたがよい」とさがせどさがせど有らばこそ、「やゝ、今犬に打った礫、重い石ぢゃと思うたが、落した金で有ったも知れぬ、えゝこれ手拭にでもくるんで置いたらかう云ふ事は有るまい」と呆れて下をさしのぞく。
I.L.N.(『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』掲載の要約)
Sakitsiは金を懐に入れ、夜の話し合いに急いだ。Komatsuは二階の窓際にいて、二人の会話が始まったが、犬の吠え声が邪魔をした。Sakitsiは懐から金の包みを落とし、暗闇の中でそれを石として暴漢に投げつけると、それはボートに落ち、中で寝ていた人を起こしてしまった。Sakitsiは知られるのを恐れ、窓から下がっていた恋人の帯に触れて、その助けで彼女に会えた。
R.T.
小松は尚もすがり寄り、「悪い事の重なるも、死なねばならぬ因縁づく、たとひ見受をさしやんしても、生きて居れば本国へ帰らねばならぬ体、帰れば嫁入をせねばならず、それよりお前の手にかゝるが、此の身の願ひで御座んする、流石にわたしも武士の娘守刀は持って居る、是れで殺して殺して」と男に渡し死神に、誘わるゝこそあわれなれ。「今更そなたに別れては、おれも浮世の望みは無い、石や瓦と百両を取違へる不運では、死んでしまふもましかいの」「そんならお前も諸共に、悦しう御座んすかたじけ無い、今夜の客は座敷ばかり、此の頃つとめた侍衆、昼から上げて置きながら、未だ御座んせぬこそ幸ひ、人目に掛らぬ其の内に」と覚悟きわむる表より、「小松さん小松さんお客さんが御座んした」と云うに驚き袋戸へ、佐吉をあたふたおし隠し、我が身をもたれて素知らぬ顔、口に鼻歌心に称名、最期を急ぐと白紙の、障子引明け入り来る客に、小松は色を悟られじと、「何がお気に入らぬやら、初回の時も座敷からずいと帰ってしまはんす、裏の今日は待ちぼうけ、何処に遊んで御座んした、きっと吟味もしたけれど、馴染の無いだけ免(ゆる)して置く」と言葉に色をもたれ寄る、袂に戸棚をうち覆う、
I.L.N.
Komatsuの絶望は極点に達した。彼女の恋人は金の話で安心させたが、彼が金を探すと、失くしたことに気づき、その原因も推測がついた。今や恋人の苦しみを十分共有し、一緒に死のう、あの世で結ばれようと言った。この不吉な瞬間に、見知らぬ人が入ってきたので、Sakitsiは日本人がドレッサーとして使っている長い箱の中に隠れた。Komatsuの長い袖がこの隠れ場所を隠し、彼女の恋人はこのようにして、意図せず次の場面の目撃者になったのである。
R.T.
客は何とも挨拶なく、扇ばちばち打ちならし、顔をながめて居る所へ、お花は小松になにかの様子、人目も無くば話さんと、うっかり来かゝりびっくりし、「小松さんおまへはあの人見知らずか」「あい今日で二見のお客なれど、心安いお人なれば、まァまァ此方へ這入らんせ」「えゝ、それどころでは無いわいの、そなたの迎へに上った人柳助とは此のおかた」「そんならお前がおゝ恥かし」と云いながら立つも立たれぬ後にも気遣い、「いやいやいや、そなたより此の花が、どうも顔が向けられぬ」と泣き出すを押静め、「あいや、御心遣ひ決して御無用、御本国鎌倉とは引離れたる此の難波、いやしい業をなされても、誰知るものも御座らねば、苗字の疵にはなり申さぬ、唯今では桃井家へ奉公致す雪室柳助、以前は貴方の乳母の倅、乳兄弟なり、御家来なり、拙者がわざわざ参ったは、御内證のお恥に成る事もあらば承り、取りはからへとの御指図、此の間花世さまの言葉のはしばし、何とやら合点参らず存ずるから、方々と聞き合はすれば、小松と云ふ名代の芸子は、花咲屋の姪との噂聞き届けて、念の為客と成って四五日先表向の御一座、幼顔はうたがひ無しと、蔵屋敷にて金とゝのへ、唯今親方徳若屋へ対談致して、身の代つぐのひ、證文を受取ったれば、今宵からは自由の御身、きさごはじきや双六の御合手致した此の柳助、御迎へとあるからは恥も恥辱も打捨てて、御息災な御顔ばせ早速お見せ遊ばす筈、それを他人かなんどの様に、お隠し有りしはお両人ながら、ちとお恨みに存じます」とほろりと泣いて語りけり。小松は更なりそばで聞く、お花も面目投首(なげくび)し、「みさをに勤めをさせたのも、元はと云へばわたしが科、もう何事も堪忍して、是れぎり云うて下さんすな。今度国に出世に付き下るは其の身の仕合なれど、あの子もお客の其の内に、逃れぬ中の人がある。どうぞそなたの才覚で国へはよしなに云ひやって、其の男と夫婦にして、お両人を此の難波へ引取る様には成るまいか」と頼めば小松も涙に咽び、「云ふまででは無けれども、海にも山にも譬へられぬ、御恩を受けた此の身なれば、明暮あひたさゆかしさの、体はこゝへ残っても、魂は母さんの懐中へいって居る、是れ程思へど生中(なまなか)に、武士の娘と云ふ事は、うす知りに人も知る、逃れぬ義理にからめられ、難波の土とならねばならぬ、そなたを頼んで置く程に、みさをは気合が悪いとも、死んだとも云うてやり、矢張こゝへ置いてたも、国へはいやぢゃ」と手を合わせ、拝み口説けば柳助は、涙を含む目に角立て、「氏より育ちが恥かしい、派手蓮葉なる身に染り、上の空なる世の習ひ、親の事も故郷の事も、忘るゝ程のお心にはいつお成りなされました。お両人が私をお側へ呼んで仰しゃるには、『浪人で居る中に、髪を下して楽々と法体しようと思うたれど、みさをが戻った其の時に、変り果てたを見るならば、さぞあれが悲しからうと、其の儘居たが今度の幸ひ、早う連れて帰ってたも、柳助様頼みます』と、御家来筋に手をついて、殿様付けるも貴方が可愛さ、待ちこがれて御座る所へ、すごすご一人帰られませうか。お国にはれっきとしたおいひなづけも御座る事、偽り云うたが現はれると、親旦那は御切腹なさる様にならうも知れぬ。花世様も同じ様に鎌倉へ下るのを勧めはなさらいで、こちらで夫婦にしてやり度い、其の者も存じて居る、堂島の米屋とやら十千万両の分限でも、町人へ娘をやり、其の婿の世話にならうと、召返された御主をふり捨て、此の難波へ御座る様なお両方だと思召すか、私が此の様に腹立つるのも、みさを様のお身の上が大切故、あゝかう云ふ事とは御存じ無く、今日か明日かと日を数へ、指を折って待って御座る、母御様の此のお文、御覧なされてとっくりと、御思案なされて下さりませ」ト差出すを
I.L.N.
この人物(Kiusuke)はKomatsuが自分は死んだと報告してくれと懇願し、KomatsuがSakitsiと結婚することも拒絶して、去って行った。彼[Kiusuke]は彼女を自由の身にするための金を調達し、自分の使命を全うすると主張した。 Wofanaが助けに入り、家に戻るのが望ましいけれど、仲人が乙女の所に来て、結婚の申し入れがあったので、ここに残って婚約を完遂するのが希望だと抗議したが無駄だった。Kiusukeを動かすことはできなかった。Komatsuの母が娘を連れて帰るように彼をよこしたのである。彼女自身はMiosanのしたように、隠居し、髪を切り、尼になることを望んでいる。日本のシステムでは人生の後半は宗教的行事に専念するのだ。彼女の父も婚姻契約を全うするという名誉を重んじている。もし失敗したら、自らの人生に終止符を打つという日本の習慣を採用するだろう。 Kiusukeは自分の主張のまとめとして、Komatsuに母からの手紙を渡した。
訳者注:『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』で柳助を最初はRiusukeとしていましたが、その後はKiusukeとなっています。種本と考えられるスネッセン訳では、Riusukeとなっていますから、誤植のようです。
R.T.
小松が手に取り上書見れば、「みさを殿まゐる、母より。此の方ぶじと遊ばせしお筆に年の寄った事、十四の年に大和へ来て、八年拝まぬ親の顔、見たう無うて何とせう、どう云ふ事で今宵にも死病受けた時、母様のなつかしさに、臨終をしそこなひ、如何なる恥をさらさうかと、案じ過しがせらるゝに、親の事忘れたと餘り叱ってたもんな」と文を抱きしめ抱きしめて、消え入る様になげきしが、どうなりこうなり云いくろめ、両人を帰した上での事と、思案定めて涙を拭い、「ほんにさうぢゃ、親に男はかへられぬ、もうさっぱりと思ひ切り、明日は国へ帰らう程に、今宵は今まで心安い人さんに、ゆるゆると暇乞ひもしたければ、其方は戻ってたも」と云えば律儀の柳助は、まことと思い打喜び、「おゝおでかしなされた、しからば明日目立たぬ様駕籠をつらせて御迎へ、イヤさし付けがましい事ながら、なに彼のしはらい置土産、金子の御用も御座るなら、必ず共に御遠慮無う、花世様にはまだいろいろおはなし申す事もあれば、さァお宿まで御同道」と打連立ちてぼつぼつと、何か云いさす襖さす、さすや障子の紙一重、見えざることこそ是非なけれ。袋戸明けて吐息を付き、「小松」「佐吉さん」「これ」と云いさま手を取って、最前忍びし松が枝を、伝うて下りる河岸づたい、両人は其処をはせ去りけり。 上るり 「此の世のなごり夜もなごり、死に行く身をたとふれば、仇しが原の道の霜、一足 づゝに消えて行く、夢の夢こそあはれなれ。あれかぞふれば暁天(あかつき)の、七ツの時 が六ツ鳴りて、残る一ツが今生の鐘の響の聞きをさめ」 梅田橋の鶴澤が月並ざらいのじょうるりも、我が身に似たる二人連、堤の陰を立出でて、佐吉は向うを打見やり、「是れ小松なまなか遠くへ走るより、近くへ隠れて追手の者を、やり過さうと思うたれば、案の定歌川屋の提灯が行き違ひ、花咲屋へも走って来て、戸平もお花も我々を尋ねに出でた様子なれば、其の留守の家へ行き心静かに最期をとげん」と、小松を忍ばせ我一人、花咲屋をさし覗き、「およし、およし夜が更けたに未だ寝ずか」と云われて何の頑是無く、「今宵はとなりのお師匠さんのじゃうるりを聞いて居たれば、小松さんが駈落をさしゃんしたとて迎へが来て、父さんも母さんも、後追うて御座んしたれば、行きたうても留守が無い、さらひをしまうて明日でも逃げさんすればよい物」と云うに佐吉が打ちうなづき、「おれがここに居る程に、聞き度くば聞いておぢゃ」「あいあいそんなら留守して下さんせ」と隣へあたふた走り行く。影見送って小松が手を取り、奥の一間にそっと入り、声もらさじと有り合ふ屏風引廻せば、壁ごしにもれて聞ゆるとなりのじょうるり、 「くも心無き水のおと、北斗はさえて影うつる、星の妹背の天の川、梅田の橋をかさゝぎ の、橋とちぎりていつまでも、我と其方は女夫(めをと)ぼし」 「あれあの文句はお初徳兵衛、屏風にしたる操(あやつり)の、此の看板も同じ人、所も矢張梅田橋、心中して死ぬ者を、阿房とおれはわらうて居たが、 じょうるり「あやなや昨日今日までも、よそに云ひしが明日よりは、我も噂のかずに入り」死ぬ気に成ったも不思議の縁」ト聞いて小松は泣きだし、「不思議所かほんの悪縁、ひょんなわたしにつながって、何の越度(おちど)も無いおまへを、冥土の闇の道連に、すると思へば勿体無い」 じょうるり「げに思へどもなげけども、身も世も思ふまゝならず」「成程外の心中は、人を殺すか金銀につまって死ぬが世の習ひ、それに引替へ見受はすむ、おれも百両持って居たれど、犬奴がお陰で棒にふり、それから死ぬ心になったも、恋路に迷ふ煩悩の犬張子をこゝの家ではそなたの恩を忘れぬ為と、お燈明まで上げて置けど、おれは犬奴がうらめしい、よくおのれほえをった、せめて拳で犬張子、われをぶつのもはらいせ」ト何の科無き犬張子を、打倒せば其の内より、まろび出でたる百両包、「ヤゝこれはおれが落した金どうしてこゝへ這入って居たか、是れで其方のいひなづけが頓死でもして終ふと、心中するにはいよいよ及ばぬ、まァそなたの母御の文どう云ふ事が書いて有るか読んで見やれ」とせりたてられ、
I.L.N.
美しく純真な少女はは悲しみにくれた。「私の選んだ道と行いが私の評判を真っ黒にしてしまいました。私は道を踏み外してしまった。でも、まだ[心の]糧のようなものは残っている」と、恋人のSakitsiに最期の別れを言うことに同意した。 しかし、結局、これは恋人のいる前で自らの命を絶つ機会を得るための巧妙な策に過ぎなかった。
訳者注:『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』はこの後、記者の感想が述べられており、まるで『浮世形六枚屏風』のストーリーはみさをの自死で終わっているかのように書かれています。スネッセン訳では原文通りにハーピーエンドまで訳されています。 『浮世形六枚屏風』のこの後の展開は、母の手紙に、国元の許嫁とは「水間宇源太殿の子息島之助」で、罪が許され、消息を探していると書かれていたので、佐吉は小松に「そなたは網干の家中にて、数村亭大夫殿の娘」かと尋ねます。小松がなぜ知っているのかと驚いているところへ、それまで屏風の陰で聞いていた戸平が現れ、死のうとしたのは許嫁への義理からだろうが、そんなことはどうにでもなると止めに入ります。佐吉は、侍同士の小さい時の口約束を変更することはならぬと、まさか昔の浄瑠璃のように首を切ることはないと自分は「高をくくっていた」が、、小松の本心を試すために死ぬふりをしたのだと言う。そして、島之助というのは自分だ、帰参が叶ったことを知らなければ、「町人にて朽ち果てん」と思っていたのだ、小松のお陰だと言います。また、戸平は屋根舟に百両包みが落ちて来たので犬張子に隠したことを告げ、それが佐吉の金だと屏風の陰で聞いたと言います。柳助も一連の話を聞き、「無事を喜ぶ帰参をよろこ」び、ストーリーは「祝儀の上るり」で終わります。帰参後、佐吉は水間島之助に戻り、小松と結婚し、戸平とお花は米屋の跡を継いで、「男女あまたの子をまうけ、目出度き事のみ重なりけり。めでたし[「く」の字の繰り返し符号が6回続きます]」で終わります スネッセン訳では、Oh! Happy, happy day for Sakitsi and Komatsu!で終わっています。
『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』の最終コメント
場面全体は土着の特性に溢れているが、感情の中に人生・真実・精神を込めながら語られている。唯一残念なのは、この物語を進める上で必要な劇的効果を我々の力では与えることができないことだ。しかし、読者がこの物語を時間のある時に熟読しても、興味が減ることはないだろう。そして、この中に紹介されているわずかの歌の詩的美点に公平な評価を下すだろう。また、歌があまりに少なく、短いのを残念に思うだろう。2篇の主要な歌は、ヨーロッパの最も[選択が]気難しい全集に選ばれることは確かだろう。その調子と長所はイギリスよりも東洋のスタイルにより近い。おかしなことに、この物語はいい結果で終わっている。日本の皇帝[将軍]がこの新聞を購読しているというのは栄誉なことだ。彼が『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』で自国の物語を初めて読むかもしれないというのはありえないことではない。 『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』の記者はスネッセン訳を最後まで読んだようなのに、新聞読者対象にはみさをの自殺を示唆する終わり方をしているのは、奇妙な国と印象付けたいからでしょうか。
柳亭種彦について
柳亭種彦(1783-1842)の略歴については、甲州武士で浅草堀田原に住んでいた人で、他の作家に比べ「其の家柄が最も高かった」と言われています。その人柄について『柳亭種彦集』(1926)「解題」で以下のように述べられています。
穏やかな柔和な、気品のあるお旗本であったから、他の作者のやうな放蕩癖や高慢癖はなかった。若し彼の癖はと云へば、好古癖であった。曲亭馬琴の考證には、極めて嫌味が多く、物識り振が鼻の先にぶら下ってゐたが、京傳と種彦の好古癖は嫌味がないばかりでなく、風俗史上に有益なる資料であった。(, pp.5-6)
種彦の『偐紫田舎源氏』(1829-42)の人気が上がると、天保の改革によって絶版を命じられ、「元来小心の几帳面家であった」(p.17)種彦は心痛し、完結させずに亡くなったとされています。永井荷風が種彦の悩む姿を「散柳窓夕栄(ちるやなぎまどのゆうばえ)」(初出『三田文学』1913、初出時の題名は「戯作者の死」、)で描いて、種彦が奉行所よりお調べがあるので出頭せよとお達しを受け取った後、卒中で突然死したとしています。
1821年—1857年—2019年
『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』の記者の最後のコメントは本サイト4-11-2で紹介した1854年2月11月号の記事「『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』が日本に」を指していますが、160年後の自分にも向けられているように感じます。幕末のイギリス・メディアの日本関連記事を探すうちに、『浮世形六枚屏風』を紹介されて読み、160年の隔たりを感じないテーマと視点だと感じました。この物語は専門家から「それほど推賞すべき作ではない」「実にたわいもない物語」(, p.32)と酷評されていますが、物語は冒頭から、現代の問題を描いていると思わせるエピソードに溢れていると思いました。14歳の島之助(後の佐吉)が大人の口論を仲裁しようと、論理的な方法で鳥を傷つけずに決着をつけ、その論理を主張したら、パワハラによって追放されてしまったという最初のエピソードや、佐吉が働き過ぎて「気鬱の病」「ぶらぶら病」になるのも現代の過労によるうつ病の増加を想起させます。 『浮世形六枚屏風』のもう一つの魅力は、『曽根崎心中』(1703)の道行きの有名な地の文「此の世のなごり夜もなごり」を挿入しながら、120年後の佐吉に、心中して死ぬ者をアホウと言わせ、ハッピーエンドにするところです。義理人情に縛られず、個人の自由を主張するところに、21世紀に通じるものを見ます。 『浮世形六枚屏風』が提起している問題と安倍政権下の日本の問題と共通点があると思った事例を紹介します。まず、若者による正論の表明に対するパワハラを想起させられたのが2019年1月21日の事件です。東洋大学の学生が同大の竹中平蔵氏の授業に反対する立て看板を大学前に設置し、ビラをまき始めたら、大学側に止められ、退学処分に該当すると言われたそうです。「授業反対」の理由は、竹中氏が唱えた規制緩和で非正規労働者が増え、大多数の人が不幸になっていることです。同時期に、非正規雇用に苦しんだ若者(享年32歳)が歌集を出し、出版前に急逝したけれど、その歌集『滑走路』(2017)は「異例のヒットを記録」しているという報道です。「過労死促進法」と水道民営化への竹中氏の関与については、本サイトでも紹介しました(4-10追記1、追記2参照)。水道民営化については、民営化に前向きだった浜松市が市民の反対で水道運営権売却を延期するといういいニュースが入ってきました。 環境保護という正論を訴える市民に対する安倍政権のパワハラも大きな問題です。辺野古に米軍基地を建設し、自然破壊を強行する安倍政権は、反対を訴える市民の顔写真と個人情報リストを警備会社に作成依頼し、市民が情報公開を請求したら削除したという報道です。しかも、基地予定地の地盤はマヨネーズ状だと専門家が警鐘を鳴らしているのに建設を強行していますし、自然破壊の一部とされているサンゴは「移植した」とNHKテレビで公言した安倍首相の発言が虚偽だったこと、地盤改良工事に2兆円以上かかることを隠していることなど、次々と深刻な問題が浮上しています。
続きを読む
『浮世形六枚屏風』(1821)の後半を『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』(1857)がどう要約しているか見ます。
『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』掲載の浮世形六枚屏風のストーリー
R.T.(原文)
座敷もすんで床の内、小松は背中おし向けて、物も云わねばつぎほ無く、佐吉は煙草くゆらせながら、「昔の事を野暮らしく云ひ出して、ふさがせると心に思ふが知らねども、大和巡りをした時に、南円堂でそなたの爪おと毎日々々聞きとれて、折もあらばと思ふ内、何処へかとんと行方は知れず、身を売ったとの人の噂、目と鼻の間程な此の島之内に居るとは知らず、たいてい捜した事では無い、然し今目ぐり遇うたはつきぬえにしと、おれ一人が合点するのも阿房なれど、これから折節来よう程に、いやであらうと付き合うて遊ばせてたもやいの」とざらりと小判で十両ばかり、紙にひねって差出し、「皆の者によい様に、花に取らせて余りがあらば、浴衣でも買うて来や」と云えど小松は見向きもせず、煙管おさえてひたいにあて、うつぶく顔をさしのぞき、「宵からの雷で、気色が悪くば薬もある、なぜ物を云やらぬぞ」と取る手をすげなくふり払い、「気合も悪うは御座んせぬが、ほんの遊び、高が芸子は売物買物、まことが有ると思うて居るは、阿房と悟った人さんには、どう云うてよい物やら、此の小松は知りやんせぬ」とすっかり云えば尚すり寄り、「おれがさっき船宿で云った事を二階で聞き其の様にひぞりやるのか、はて相方を定めぬも、其方の行方を尋ぬるから、こっちは矢張みさをといふ娘と思うて居るわいの」「そんならば五文三文袖乞に、相応な手の内は下さんせず、金さへ出せば自由になると、見下げられたが腹が立つ、嫌ぢや有らうが付き合うての、折節は来ようのとは御深切なお心ざし、折節ぐらゐの事なれば、御座んせぬがはるかにまし、そんなお前の水臭い、心と知らず今日も今日、愛染様へお百度して、これちゃっと見て下さんせ」と、ひらりとしたる書付を出せば、佐吉が手に取り上げ、「亥の年の男のありか知れ候やうに、願ひまゐらせ候、三十六番末吉どうしておれが年までも」「心で夫と定めた人、知らいで何と致しませう」「そんならわが身も真実に」「イエイエ口先ばかりで喜ばせ、末の通らぬ事ならば、いっその事に顔をも見せて下さんすな、愛染様も聞こえませぬ、何の是れが末の吉、あゝいふ主の心では、あきらるゝのは知れてある」とみくじの書付引裂けば、又も鳴り出す雷の、ぐわらぐわらぐわらとひゞく音、あれよと云うて我知らず、佐吉にひたと身を寄せて、又も見合わす顔と顔、「もし真実なら何とする」「わたしが体は主のまま」「命を呉れと云うても引かぬな」「あい」と小声に答うるぞ、深きえにしの始めなる。 前の世よりも結び置く、縁にあらん此の後は、互に離れぬなかとなり、名に負いたる三ツ紋の、月にも通い、雪にも通い、花をふらしつ其の年は、夢見る内にくれはてて、又立帰るみどりの春、小松と云えど余の客は、せきてゆるさぬ初子の日、手と手引合うあいあい駕籠、今日は生魂(いく玉げ)今日は天満、其処よ此処よと浮かれあるき、
I.L.N.(『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』掲載の要約)
Komatsuは部屋の寝床に座って、一言も言わずに背をそむけていた。Sakitsiは遠くに立って、パイプをくゆらしているのも忘れて言った。「二言三言で昔のことを思い出せと私がお前に期待しているか知らないが、私がYamatoのNanyin寺周辺を毎日ぶらついていた頃、お前のリュートの音色に耳を傾けていた。楽しんでいる最中にお前は突然消えてしまった。どこに行ったのか誰もわからなかった。お前が身売りをしたという噂が広まったが、お前を探し回るのを止めなかったし、お前がここUtsumosimaに、しかも私のすぐ近所にいることも知らなかった。今日、お前を見つけ、お前の私への思いが今でも続いているのか全くわからない。もしそうなら、お願いだから言っておくれ」 彼は10両差し出した。「これをFanayoさんに渡して、残りがあれば、軽いドレスを買っておくれ」 そう言うと、Komatsuは彼のパイプを見ずに下ろさせ、顔をそむけながら、屈辱的に頭を下げた。Sakitsiはさらに「真夜中の雷と雲で暗くなっているのは、いい合図だ。答えてくれないか?」と言った。 彼女は答えた。「友情で自分の幸福が傷つくような場合は友情を続けないと決心しています。浮気なリュート吹きの女たちは売買の商品です。でも、私についての噂が本当だと信じられ、バカがそれを納得したという、その噂はKomatsuには知られていません」。彼女がはっきりとした、しかし、哀しげな声でそう言うと、彼は遮って言った。「あのヴェランダでお前が『船乗り居酒屋』(Sailors’ Tavern)にいると聞いたんだ。こんな野蛮なことを私が言えるか? 本当に、どんな付き合いも止めて、お前の隠れている所を探す間、お前がずっと乙女のMisawoだと信じていた」「そうなら、なぜ2,3コーヒー・ビットだけでも贈ってくれないの? 普通の献金額でしょ?あなたがお金を使い果たした途端に、彼らは去ってしまう。もし、あなたが私と話したとき、もし、あなたが私を侮辱せず、あのような言葉で私を軽蔑しなかったとしたら、あなたの目的はこれなんです。これがあなたの本心なんです。あなたが私に示そうとした条件がこれなら、何の思いもなかったほうがはるかに良かった。あなたがこんな下劣な心の人だとは思ってもいなかったので、今日も、今までも100回もOizen寺に行っていたのです。これを御覧なさい」 その紙切れには「彼女を愛している人がいるか」という彼女の祈願へのお告げが書いてあった。お告げには彼の名前が書かれ、二人の婚約で終わると優雅に結ばれていた。そして、次の回想が続く。 夫婦の絆が運命で決められている時、その絆は二度とゆるむことはなく、存在の一部になる。Sakitsiの名前を表す3本の糸は行ったり来たりし、二人の思いを強くする。今年は二人が喜びの幻想に包まれる。青々した春の訪れはKomatsuである。しかし、天罰が彼を取り巻き、彼は免れられない。日毎に鳥の声に誘われて、二人は手に手をとって出かけた。
R.T.
[佐吉が]湯水と遣う金銀に、あかのぬけたる当世男と、世間の取沙汰家の噂、母妙讃は聞き兼ねて、つらく当たるも佐吉が為と、奥の一間に押込めて、我が身のそばを放さねば、恋し恋しと百ばかり、書いた小松がぬらし文、竹斎が手段にて目に付けがしの花活に押込んで差置けば、何心無く佐吉は手に取り、それを見るより心にうれしく、あたり見回しようようと、半分ばかりよむ所へ、立ち出づる母妙讃、「灸すゑようと思うたれど、おれにはどうも読み兼ねる、日がよいか見てたも」と差出す暦の中段も、開くをもしや見られたかと、あやぶむ、をさむ、懐中へ文は隠せど気はどきどき、「今日は天一天上ぬけお部屋へ御座ってちっとの間、こゝを間日になされぬと、こっちの工面が十方くれ、身になる金なら四五百両、手にとるきゃつめが女房になる、それでたひらに、此の家が納まらうのに、それ聞いて下さらねば、血いみでもひょんな心になりませう」と何を云うやらたわいなし。母はあきれて、「これ佐吉始めの内はこっちから、いかに勧めた遊びぢやとて、あの様に出あるいて悪い噂をせられては、第一家のしめしがきかぬ。まァ一年程も辛抱して、何処ぞ人の気の付かぬ遠い所で、月の内に二度や三度の遊びをば、おれは少しも止めはせぬ。さ、さ、其の様に浮々せずと、帳合でもしたがよい。小さい子に甘い物を食はせ過して、虫持ちにするのを見ては笑ひながら、何ぼ病気の保養ぢやとて、遊ばせ過してお山と云ふ、むしもちにして苦労する、あゝ親馬鹿とはよう云うた」と、吐息ついたる
I.L.N.
しかし、愛する人との出歩きも、その費用も彼[佐吉]の財政を逼迫させ、彼の養母であり信仰心の強いMiosanは彼の恥ずかしい行為のニュースに耐えられず、彼を家に閉じ込め、目を離さなかった。Sakitsiは友人のTsikusaiが花瓶の中に隠してくれたKomatsuの「優しい手紙」を読んで慰められるばかりの身になっていた。ある日、養母のMiosanが彼の混乱を察知して、暦を口実にやってきて説教を読んで聞かせていた。
R.T.
(吐息ついたる)其の処へ、小庭に取りし路地口の戸を押開けて、一人の女、「ちと御免なされませ。わたくしは天王寺巫子町の黒格子辻と申すあづさ巫子、笹叩が遊ばしたいとお人の参った、米問屋佐吉様とはうち方で御座りますか」と云いければ、不審そうに母妙讃、「あいの、佐吉とはこちなれど、巫子殿を呼びにやった」と云いかくるを佐吉が引取り、「成程御合点が参らぬ筈、貴方様へはお隠し申し、私が人をやりやした。あいつが例の癖が起って、あまへ居ると仰りませうが、又此の頃は気分も悪く、食も進まぬぶらぶら病、遊んであるけば病気もなほり、内に居ると気色の悪いは祟りもので有らうかと、笹叩きをして見るつもり。巫子殿はサアサアこちへ。貴方は側にお居でなされ、あいをうつとか申しまして、佛様への御挨拶遊ばして下さりませ」と聞いて母は頭をふり、「イヤもうわたしや生まれ付いて涙もろく旦那様の墓参りしてさへも、供に連れた女子が見る前も気の毒な、ましてや巫子にのり移りどうのかうのと仰るを、どうして聞いて居られうぞ、あゝそれは悪い物好き、呼びにやらぬ前なれば、止め様もあらうけれど、巫子殿の御座ったを、断り云うては帰されまい、わがみ一人よう聞いて、入る事許り話してたも、わしは声の聞えぬところで、お念佛を申して居よう」とそこそこ立って奥ふかき佛間へこそは入りにけれ。後見送って佐吉はすり寄り、「お花よう来てたもったの」「はい、おれが内へ来るならば口寄せになって来い、さうせねば遭はれぬと竹斎様へのお言伝、
I.L.N.
ちょうどこの時、呪い師に扮装したWofanaが現れ、Sakitsiの心と[悪]癖を治すために「笹の葉を燃やす」という。Sakitsiが母親に対して仮病を使っていたのである。母親は退室した。
R.T.
[お花の言葉]急にお話し申さねばならぬ様になった災難、それ故かうした姿になり、にっこらしう云ふ内に、びっしょり汗になりました」「おゝさうであらうとも、あの様におれがそばに番してお出でなされては、一寸した話も出来ぬ、ところでこちのおふくろは、雷巫子に胡瓜の香々、此の三色が大お嫌ひ、それからの思ひ付きで巫子ぢゃと云うたら案の條、お部屋へ逃げて御看経、ここでは泣いても笑っても、もう聞える事では無い、まァ聞かうで、何の事ぢゃか訳が知れぬ」と問われてお花は目に涙、「今までは貴方にさへ、お隠し申した程なれば、ましてや他人の聞く前では、小松さん小松さんとよそよそしくは云ふものの、実はわたしが姉の子にて、云はずと知れし現在、伯母、姪、姉婿は鎌倉にて某殿(なにがしどの)のお鷹あづかり、御秘蔵の其の鷹をそらした越度(おちど)で御暇、それよりはずっと前にわたしが花世と云った時、内でつかうた侍と、いたづらしてはるばると、大和国までにげ上り、夫婦と成ったが戸平どの、内證では姉さんと、折ふし文の取りかはし、其の内に御浪々なされた事を聞いての悲しさ、姉さんも途方にくれ、ほんの親はなきよりと、はかないわたしを便(たよ)りにして其方で行儀しつけた上、御奉公をさせてくれと、あの小松がみさをとて、十四の春に大和まで、人を付けて上されたれど、戸平殿が駕籠かいて、やうやう親子が憂き命、繋ぐ程なる身貧な住居、かてて加へて姑御が目かいの見えぬ長の病気、彼の子も見るに絶え兼ねて、わたしが娘の小由(こよし)をつれ、南円堂にて浅ましい袖乞して呉れました」ト泣き出せば佐吉は驚き、「そんならみさをと一所に袖乞に出でた、ちひさな娘は此の頃義太夫三味線の稽古をする、あのおよしか、さう云へば其の時もたしか小よしと云うたと思うた、ちっとの間に大きう成って、おれはとんと見忘れた、それはよいが其のひょんな事と云ふのが早う聞きたい」
I.L.N.
そして、WofanaはKomatsuの物語をKomatsuの恋人に語った。また、昔自分がTofeiとYamatoに駆け落ちした話もした。上手な語り方だった。Komatsuの父親が上司から預かっていたハヤブサの世話を怠ったために地位を失ったのだった。
R.T.
[お花]「さァ昔からの始終(いくたて)を云はねば様子が知れませぬ、それからみさをが袖乞も、はかばかしう貰ひも無しと思うたやら、わたしら夫婦に相談もせず、留守の内此の島之内の徳若屋と云ふ置屋へ、百両に身を売った書置と其の金が、小よしが雛の犬張子の中から出て内は騒動、なんぼ母の病気ぢゃとて、女房の姪なり主人なり、其のお方に勤めをさせては男が立たぬと、戸平殿が半気狂になられたを、わたしがやうやう云ひなだめ、まァ夫婦が連立って徳若屋へ来て見れば、彼方で却って面目ながり、伯母様ゆるして下さりませ、国の父さん母さんが、御浪人で無いならば、貢がねばならぬ筈、其の悲しさにわけも云はず、わたしが身を沈めました、伯母は親の片破(かたわれ)なり、お前ばかりの事ぢゃ無い、国に御座る母様にも孝行かと思ひますと、声を上げて泣いた顔、今に忘れは致しませぬ。其の真実にかんじ入り、戸平殿も得心し、金に明して療治したれば、姑御の目もなほり、残った金で今の住居梅田橋へ引越して、山から川の船宿商売、どうなりかうなり暮すのも、元はと云へばあの子の御陰、常々御覧なされた通り、犬張子を大事にするも、小松が恩を忘れぬ為、姑御は昔かたぎおれは故郷を放れぬと、大和に御座るが気にかゝれど、無理に難波へ呼び申し、今まではお屋敷の御奉公と云うて置いた、あの子の勤めを知らせては、却ってお気がもめようと、隔たりて居る程なれば、国へは尚更秘しかくし、所に今度小松が父さん、わたしの為の姉婿が殿様へ召返され、昔の武士に立帰り、云号(いいなづけ)とやらが有れば、みさをは此方で縁付ける、奉公先の暇を取って、鎌倉へ連れ帰れと、五ツの年まであの子の側に付いて居た、乳母の子、雪室柳助と云ふ男、今はわたしも見違へる立派な武士が迎へに上り安治川に宿取って、みさを様のお勤めなさるお屋敷へ案内して、遭はせてくれと日毎の催促、恥を捨てて今の身を、云ふのは手間暇入らねども、さうして彼方で金調へ見受されては、戸平殿がいよいよ国へ顔向けならず、小松はわたしに取りすがり、国へ帰って久しぶりな、父さんや母さんのお顔を見たうは有るけれど、佐吉さんと縁切って、外へ嫁入をする事なら、わしや死にますと泣いて居る、此方で見受したいには、金才覚のあては無し、たとひ金がとゝのふとても、武士同士の云号(いいなづけ)は反古にはならぬと矢張騒動、大和に居った時分には、わたしは貴方を知らねども、お世話に成ったとあの子が話し、今でも変らず目をかけて下さりますれば、憚りながら婿の様に存じまして、身代の店下し、今宵は幸ひおなじみの歌川屋へ、うらの客で小松は出て居りますれば、まァあれに遭うての上、相談なされて下さりませ」トおろおろ声にて語りける。
I.L.N.
現在、Komatsuの父は元の繁栄に戻されたので、娘をKamakuraに連れ帰るようにKomatsuの異母兄、Jukimaro Riusukeをよこした。彼女はそこでの婚姻契約があるのだ。この使節の目的はSaizoから彼女の自由を買い戻し、彼女が嫌がっても、家に連れて帰ることだった。
R.T.
佐吉は聞いて気もそゞろ、「さう云ふ事では捨てはおかれぬ、えゝまゝよ、母者人に又明日叱らるゝ分の事、そんなら行かうがまァ待てよ、歌川屋に四五十両さがりが有れば上げ居るまい、イヤいイヤそれもどうかならう、まァまァそなたは先へ帰りや」「もう日も暮れますれば、ちっともお早く」「おゝ合点ぢゃ」とお花を戻し、箪笥のきがへ引出し、帯引きしむる一間より、母妙讃は立ち出でて、「巫子殿は何と云はれた話して聞かしや」ト問はれてぎっくり、「はい、それは」「是れ何も其の様にうろたへる事は無い、おれや聞かいでも知って居る、大方そなたの煩ひは、小松と云ふたゝり者、色と酒との二股竹、間のまくらの睦言に、昔は其の身も弓取の、大切の体を忘れ果て、今町人の身の上には、唐の鏡で大切な金銀をまき散らし、両人が浮名は小柴垣、ゆひたてられては庭宝のしめしがきかぬと、此の母が扇の陰や日向となり、意見をしても兎に角に、丸い漬桶に角な蓋、あひ兼ぬるとて聞きはせず、ちっとの内の部屋住みも、茨で目をつく思ひして、意気地とやらを立て烏帽子、揺れば落つる木の葉の露、わが身に掛る災難が、ひょっと出来た其の時は、車は海へ舟は山、逆事(さかさまごと)でも見ようかと、それがどうも気に掛る、百万年も生口(いきぐち)のまめで身代大切にしや」と云いつつそっと袂より投げ出したる百両包み、佐吉は夢見し如くにて、おし頂けば顔そむけ、「巫子へ初穂の百一升、今夜は免(ゆる)してやる程に、明日の朝は店の者の目のさめぬ内帰らうぞ、もう是れぎりぢゃ、後ねだりしても母は知りませぬ」と接穂も雨露の恵みにて、同じ色香に咲く花の小梅を仇に散らさじと、親木の恩ぞ深かりける。
I.L.N.
Wofanaが去るとすぐに、年老いた信心家がSakitsiの元に戻って来て、偽の呪い師等々についての彼の二枚舌を再び厳しく説教した。しかし、百両を与えて、彼の愛人を屈辱的な奴隷状態から救うよう言った。
続きを読む
柳亭種彦『浮世形六枚屏風』の主人公みさをと佐吉が偶然再会する場面の原文(1821)と『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に掲載された要約(1857)です。
R.T. (原文)
これより又五年ほど立ちての物がたりと見給ふべし
梅の難波は梅田橋、梅に実のいる皐月雨、晴れて水無月一日は勝鬘(しょうまん)参りの戻り船、岸に繋いで立ち出づるは、情の恋の二ッ櫛小松と云うて名取の芸子、夕風さっと吹き返すちらし模様を花と見て、蝶もあと追う堤づたい、「まうし其処へ行かしやんすは、花咲屋のお花さんではござんせぬか」と呼びかけられてふり返り、「さう云はしやんすは小松さん、おまへ何処へござんした」「あいちっとした願掛けに、勝鬘の愛染様へお詣り申した戻り道、今お前のうち方へ行く所でござんす」と云うにお花が打笑い、「ひくてあまたといふ心で、小松と名を付けたらうと人さんに云はるゝお前、愛染様へ参るとは、あまり欲でござんすぞえ、それはさうと今わたしも、曽根崎へお客を送って返る所、まちっとの行き違へで逢はれぬ所でござんした、お前も又お舟なら、なぜこちの戸平殿にさう云うては下さんせぬ」「サア皆さんは駕籠なれど、あまり今日のむし暑さ、廻り道でも舟で行かうと、ほんの俄の思ひ付き、頼みにおこす間も無し」と話しながらに花咲の家へ這入れば愛らしく、二階で娘が稽古のじょうるり、「たえてひさしき親のかほうちまもりまもり」と語れば小松が吐息をつき、「あゝ云ふ事が有ったなら、悦しい事であらうぞ」と思わず知らず一人言、お花とふっと顔見合わせ、「あのじゃうるりはお前の娘御およしさんでござんすか」「アイ、鶴澤の御師匠さんがとなりに有るを幸ひと、稽古させては見るものの、未だほんのねゝさんで、何だか埒はござんせぬ」と云いつゝ向うを打見やり「あれあの舟は戸平殿、お客も大勢有るさうな、おまへこちへ」と打連れて二階へ上る程も無く、又岸につく屋根舟よりざゝめき連れて来る三人、此の頃名代の三ッ紋佐吉、匙より舌のよくまはる座敷の配剤加減よき、幇間医者の藪原竹斎常の如くにせんじの羽織、鸚鵡はだしの物真似師深善両人左右に従へ、
I.L.N. (『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』)
物語の第二部はこの出来事の5年後に、Wofanaと呼ばれるようになったFanayoと美しいKomatsuが家に帰る途中の会話で始まる。家では小さいKoyosiが音楽の稽古をしていて、小唄を歌っていた。二人は一緒に二階に上がると同時に、3人の男たちを乗せた舟が岸に現れた。男たちはお互いに喋っていた。一人は名前を変えたMitzumon Sakitsi、同伴者はおしゃべりホールのティー・スプーンに住んでいる快活で愛想のいい呪い師の医者、Jabuwara Tsikusai、その後に続くのは、サルのように裸足で、普段着のようにシルクのマントを着たTokaxenである。
R.T.
「サア是れからは貴様の所で一杯飲んで帰らうか」「ハイあつ苦しい狭い所も、お気が替っておなぐさみ」と、両人が悪口云わぬ内、先へくゞりの裏口を、開けて亭主の戸平が案内、「おっと卑下を宣ふな、此の花咲屋は船宿中で普請の物数寄第一番、しのぶも釣さず黒石に、さつきつゝじの山も無く、板塀かくしの建仁寺、垣根ばかりで植物の、無い所がきぜつきぜつ」といつも変わらず竹斎が、喧しき声
I.L.N.
「おい、途中お前の所で一杯やっていけるかい?」「ええ、狭い所ですが、何なりと」 他の二人が反対しなかったので、亭主のTofeiはヴェランダに続く前庭の戸を開けて、客たちを招き入れた。 おお、これを粗末で低俗と言うなかれ。この「花咲き家」は船着場にある娯楽場である。質素な所で、オレンジの庭もなく、黒木のヴェランダと、木の杭が載せられた頑丈な基礎壁以外見るべきものがないので、家の前にちょっとしたアトラクションが施されている。
R.T.
[竹斎が、喧しき声]聞き付けて、お花も二階を下り来り、「めづらしい佐吉様、すっきりお足の引かぬのは南の方に面白い」「いやいや此方も知って居る通り、何処へ行っても相方を定めぬが己(おれ)が持ちまへ、然し余り遊び過ぎて、何ぼ気のよい母者人も、すこし呆れもされた様子、あの佐吉と云ふ奴はうたゝ寝にも算盤を枕にして帳合の寝言を云った程で有った、若い者には珍しい商売好きの遊び嫌ひ、よい事には二ツ無く、医者も手をおくぶらぶら病、命にはかへられぬと、おれがすゝめて遊ばせたが癖になって、近年は家のことには構ひ居らぬ、あゝ云ふ事では身代を、くづし始めの紋所二ツ紋とやら名を取るを、常々家へ来て居ながら、竹斎や深善が、意見をせぬがうらめしいと、おっしゃったと手代のはなし、それ故丁度百日ばかり戸口へも出なんだ」と云う内
I.L.N.
Tsikusaiは周囲を身回さずに、大声で話しながら入って来た。Wofanaが二階から叫んだ。「南部地区でSakitsi様を見られるとは珍しい。ここには一度も足をお運びになったことがありませんね」「ああ、そうだね。でもいい仲間がいれば閉じこもることはしない。家の近くでは十分楽しんでいる。このSakitsiはテーブルを枕に、楽しい話をしてくれて知ったのだが、若い時代の楽しみとも、優しい母親とも別れたそうだ。儲け商売の仕事を嫌っているが、その仕事から離れられない運命で、医者が手を差し伸べ、霜月の始めに私に店に行けと助言した。近年は店の商売に関わっていない。ため息ばかりつき、体調を壊している。TsikusaiとTokazenが毎日のように家に来ているのに、彼がクモの糸という意味の新しい名前、Mitzumonを使わせてくれないので、彼[佐吉]は二人に怒っている。彼はといえば、二人のうんざりする道化に苦しめられたことはない」。 このわけのわからないスピーチはワインの症状を示していた。
訳者コメント:「わけのわからないスピーチ」と『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』の記者が感想を挿入するほど、佐吉の話は理解不能だったようです。この背景には、日本語特有の主語の省略や、「〜が言った」という発話の主体を示す文言が少ないことに加え、句読点や引用符がほとんどない当時の日本文の特色が大きく影響しているのでしょう。ここで引用しているR.T.の種本は1929年刊の『浮世形六枚屏風』ですから、西洋式に句読点と引用符が施されていますが、プフィッツマイヤーの種本は1821年刊ですから、判読が難しいでしょう。プフィッツマイヤーの苦労が偲ばれます。 そんな中で、『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』の訳が一番原作に近いので、スネッセン訳(1851)、I.L.N訳(1857)、マラン訳(1871, )を比較してみます。マランについては後に紹介しますが、スネッセン訳から20年後の翻訳ということになります。
原作:竹斎の声を聞きつけて、お花が二階から下りて来て、佐吉に話しかける。スネッセン訳:お花は二階の自分の部屋に戻り、小松に話す。I.L.N.訳:お花は二階から叫ぶ。マラン訳:お花は二階に行き、小松と話す声が聞こえる。訳者コメント:「お花も二階を下り来り」の理解だけでも、I.L.Nが一番近いことがわかります。とすると、I.L.N.の記者はスネッセン訳の要約というより、意訳、前後のストーリーの論理に合うような理解の仕方をしたのかもしれません。 お花の「めづらしい佐吉様」という呼びかけに、佐吉が「いやいや此方(こなた)も知って居る通り」と答える。スネッセン:お花が小松に「佐吉が来るのは珍しい」と言う。小松が「私はこの佐吉という人を知っている」と答える。I.L.N.:”Worthy Mr. Sakitsi”と始めて、佐吉に話しかけ、答えは誰が言ったとは書いていない(わからないながらも、佐吉と読めるようにしている)が、読者は佐吉の答えと理解して読み進める。マラン:”that precious Mr. Sakitsi, he is a rare thing”とお花が言うので、「あの大事な佐吉様がめずらしい」と小松に話しかけ、小松が「いえいえ、私は彼をよく知っています」と話し始める。 佐吉が遊びすぎて、母に呆れられ、母のセリフでは、うたた寝でも算盤を枕にし、仕事の取引を寝言で言うぐらい仕事熱心、遊び嫌いだったため、医者も匙を投げるほどのうつ病になり、命に変えられぬと母が遊びを勧めた結果、近頃は家のことを構わず、財産を崩し始める。竹斎や深善がいつも家に来ているのに注意してくれないのが恨めしいと言ったと手代から聞いた。だから100日ぐらい遊びに出なかったのだ。スネッセン:小松の話「小松が仲間を避けて来たが、佐吉は小松と一緒がいいといつも現れ、テーブルを枕に、母と別れ、子供の遊びも絶たれていたか話してくれた。若い時は遊びを嫌い、自分の幸運を楽しんだことはない。医者の手にかかると、熱のうわごとで自分[小松]が去るようなことは二度としてくれるなと言う。去年は家の仕事は全くせず、ふさぎこんで人生に悩んでいた。いつも一緒にいる竹斎と深善が彼[佐吉]がMitzumon、つまり3本の糸という名前を使うのに同意しないことで、彼は怒っているとか。この点で、彼らとのつまらない付き合いを嫌がっているらしいけど、当面は諦めているそう」。マラン:小松の話「彼は私に付き合うよう説得できなかったけれど、私と楽しく多くの時間を過ごしたの。あの佐吉という人、サイドボード(食器棚)を枕がわりに、私のそばで無駄口をたたき、馬鹿げた事ばかり言い、それから、貧しい善良な母親の元を去った経緯を話したわ。若いときは繁盛する商売が嫌いで、働かなかったこと、医者が彼を捕まえ、彼は私[小松]が彼との同棲に同意しなければ、病気が治らないと説得しました。ここ数年、彼は家業を疎かにし、その結果、色々と悪化したので、彼は竹斎と深善に怒っていました。この2人はいつも彼の家にいたのに、彼の服にまつわる三ツ紋という名前にするようにと助言しなかった。それで、彼は2人の長々しいおふざけに注意を払わないのです。
スネッセン訳、I.L.N.要約、マラン訳と見てみると、I.L.N.の記者がなんとか論理的に理解しようと苦心している様子が窺えますが、それでも「わけがわからない」と悲鳴をあげているような感じです。スネッセンの翻訳が掲載された『ホウィットのジャーナル』(1851)も、マラン訳掲載誌『フェニックス』(1871)も購読者数は少なかったでしょうが、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の購読者数は(
4-1)で紹介したように、1863年時点で31万部だったということですから、一家で読む人数を加えれば、その倍以上でしょう。こんなに影響力のある新聞に、「わけのわからない」日本のストーリーを掲載する意図は何だろう思いながら、この号(1857年1月3日)の他の記事を見ると、第二次アヘン戦争の始まりとなったアロー号事件についての記事が掲載され、2ヶ月後に本国の英国議会で、中国に対する侵略戦争だ、人道的に許されないと大議論になり、アロー号事件の首謀者の一人とされたハリー・パークス領事の責任が追求されたこと、そのパークスが後に日本に公使としてやってきたことなどを知ると、複雑な思いを禁じ得ません。『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』では、すでに1850年には、「弱くて無気力な中国人と日本人を考えたら、喧嘩の方がずっと現実的で、ありえる結論だろう」(
4-1参照)と、「喧嘩」=侵略戦争をするのが早いという趣旨を記事で表明しているのですから。 とにかく、最後まで『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』が紹介する『浮世形六枚屏風』の要約と記者の最後の感想を拙訳します。
R.T.
二人の末社ども、「そりゃこそをかしな日よりに成った、南無三くはばらくはばら」と、耳を塞げばお花はうちえみ、「此の雲行きでは、ほんたうに今夜はなるかも知れぬのに、縁起の悪い」と云いながら、さす杯を竹斎が手に取上げて、あたりを見回し、「床の間に三社の託がかゝって有るのは聞こえたが、其のまへの犬張子に七色菓子が上げて有る、なで牛が古いからなで犬とは新しい」と云われて戸平は目配せし、「それは内の山の神が、七ツ目だからと言ひまして、なァお花」「アイそれで大事に今まで致します」と云い紛らせば指折りかぞえ、「お神さんのほんの年は見現はした、此の小道具におよし坊といふ子が有れば、成程さうでも有らうかえ、三十には余程とくだ」と笑えばお花は竹斎を、たゝく真似して立って行く。
I.L.N.
この後、Tsikusaiは間の悪い質問をした。犬の人形にかかっている七色の絹糸についてだったが、Tofeiは説明を避けた。
R.T.
深善がまかりいで、「益も無い口を聞いて、お神さんを取逃した。イヤ逃すと云へば此の屏風は、男と女が連立って駈落をする所、向うに橋がいかい事書いてあるのは何処であらう」と引出せば亭主の戸平、「もし暑くるしい、畳んでお置きなされまし、夫れは矢張ここの景色梅田橋に桜橋、その次が曽根崎橋、いつぞやお初徳兵衛のじゃうるりの出来た時、人形芝居の看板をとなりの三絲に貰ひましたを、屏風にして置きました」と話せば竹斎又さし出で、「其のじゃうるりで思ひ出したは、近年ここで名代の芸子、二ツ櫛の小松とは道行に出さうな名、貴方は三ツ紋二ツ櫛とならべて云ふと、角とやら割外題とやらの様で、狂言名題に打って付け、何と是れから一およぎ」と乗地に成るを佐吉が打消し、「成程おれも名は聞いたが未だ遇ひはせぬ小松とやら、道行の屏風から思ひ付いては悪い対句、末の世までも此の様に、浮名を残すお初天神、情死(しんぢう)をして死ぬ阿房(あはう)にたとへられては迷惑な、遂ぞ今まで相方を定めぬおれはほんの遊び、はてたかが芸子は売物買物、金さへ出せば自由になる、夫れを誠のある様に思うて居るは大たはけ」と人事云わば目白置け、二階を下りる二ツ櫛小松とふっと顔見合わせ、お花が送る後影見とれて佐吉が手に持ちし、酒がこぼれて我が膝も、ぬれのはしとはなるとも知らず、「今の芸子はありゃ誰ぢゃ」「あれが今竹斎様の噂を云った、二ツ櫛の小松さんで御座ります」と聞いて佐吉は呆然と、杯なげ捨て帯しめ直し、「さァ今からあれを上げて遊んで見よう」と心も空もかわりて降り来る夕立雨、「すゞしくなってしっぽりと、おしけりなさるに最屈強、ものどもぬかるな、ヤレ来いえゝ」とそゝり立ったる両人を打連れ、戸平を供に小松をしたひ、島の内にぞ至りける。
I.L.N.
Tokazenが屏風の人物について、神特有の粗雑さを示しているが、Wofano、またはFanayoがTofeiと一緒に家を出奔した逃避行を思わせると言うと、[Tofeiは]話を止めて、会話は最近来た女性ミュージシャン、Futatsugusi Komatsuに向かった。Mitzumonという名前へのもう一つの下品な暗示である。Sakitsiは失望している恋人を呼び出した。「実のところ、この屏風で小松のことをお前が思い出したというが、最近よく耳にする小松に会ったことがない。最近の記憶に残るつまらない名前を表現する歌には重荷しか生み出さない。もしWofatsenが心に天の神々を秘めているとしたら、そして、もし致命的な愚かさが彼らをこの問題に引き摺り込んだとしたら、悲しいことだ。私の確たる決意はそのような関係に引き込まれないというものだ。ああ! こんな浮気なリュート弾きの女たちは売買対象の商品に過ぎない! 私たちの金が尽きたら、彼らは去っていく。これが真実だとよく知っている。これが重要なことだ」。 ちょうどこの時、Wofanaがそっと振り向いた。Sakitsiは持っていたカップを倒し、中の液体が自分の膝にかかったことを気づかなかった。「リュート弾きの女がいるぞ、こいつは誰だ?」「竹斎様がご存知のFutatsugasi Komatsuです」。Sakitsiはそう聞いて驚愕し、カップを投げ出すと、無意識に帯を緩めたり、締めたりした。「また嬉しいことになった」。彼はTofeiの招きで家に入り、そこで、たった今侮辱したばかりの無垢で高貴な女性に会った。
マランの翻訳について
“MISAWO, THE JAPANESE GIRL. Translated
続きを読む
柳亭種彦『浮世形六枚屏風』の主人公みさをが伯母一家を救うために身売りをする場面の原文(1821)と『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に掲載された要約(1857)です。
R.T.(原文)
[才蔵の口上を]まことと思い母朽葉、枕屏風を押しのけて「左様ならお前さまは、ご奉公のお目見えに今からお出まし遊ばしますか」「あい姉さんや戸平殿は、かねがね承知の事なれど、お前の病気の其の中へ、心無しと思ふ故、今日まで延べて置きました」「はて訳も無い事おっしゃります。戸平といふせがれはあり、嫁と云ふは勿体なけれど、花世殿はあれ程に、孝行にして下さりますれば、何も不自由はござりませぬ。申すではなけれども、取分け貴方は大切のお体、かう云ふ所にうかうかと置き申すのは心遣ひ、一日なりとも早い方が、此の婆は却って安堵、やれやれ貴方、ご苦労さまに存じます。して判官様のお屋敷はどの辺でござりまする」と問われて、才蔵が真面目になり、「上屋敷は扇が谷、南無三それは鎌倉だ、伯州でも遠すぎる。おゝそれそれ此の程奥方花世御前病気によって、ご保養がてら八幡辺にご逗留、あの山崎の渡し場を左へ取り、判官様のお屋敷はもうここかへと、お尋ねあらば早速あい知れ申すべし」と取繕へば尚すり寄り、「わたしもあの辺へ参った事もあったれど、見も聞きもせぬ其のお屋敷、いつ頃御普請なされました」と聞かれてはっと思いながら、「イヤ昔も昔、大むかし、彌勒十年辰の年、諸神の立ったる御屋敷」「お広いことでござりませう」「広いとも広いとも、お座敷なんぞを見てあれば、綾のヘリが五百畳錦のヘリが五百畳、高麗縁が五百畳千五百畳のたァたみを、さらりやさっと敷かァれたり」と、己が名から案じ付き、我を忘れて舞ひ出す才蔵。
I.L.N.(『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』)
年老いたKutsiwaは彼が言ったこと全部が本当だと思い、寝間の屏風を開いて、「何と!召使いとなるために直ぐ行きなさるのか」と言った。「そうです。姉さんとTofeiさんは嫌々ながらも同意してくれました。ご病気が今頃は治るだろうと想像して、今まで引き延ばしていたのです」「そんなこと構いません。息子Tofeiも嫁も私もとても残念です。主婦のFanayoが私の病気の世話をとてもよくしてくれるので、病気は問題ありません。あなたには今まであまり言ってこなかったが、あなたは本当に立派だと感じていました。この出来事で私が今心に感じていることを一刻も早く申し上げたく思いますが、長くなるから別の時にしましょう。私は貴方が仰ってるお方をよく知っていますが、この判官様のお屋敷はどの辺でしょうか?」 この質問にSaizoの顔色が変わり、ばつが悪そうな表情をした。「お屋敷は扇の谷にある。鎌部屋の平野[plain of sickle-rooms:鎌倉のことか?]があり、数百本の灌木を通らなければならない。本当に広大な景色だぞ。貴方はご病気だから、平癒の寺の近くの8本の旗の山で泊まるのがいいかもしれない。その山の向こうの渡し場で左に折れ、そこでお屋敷はどこか尋ねれば、すぐにわかる」「貴方の説明は最近の場所のようです。あの辺はよく行きましたが、そんな所は聞いたことも見たこともありません。そのお屋敷はいつ建てられたのでしょうか」 才蔵は非常に困ったが、「ああ、ずっと昔じゃ。Miraku10年だ。藩の人々が建てたお屋敷じゃ」と答えた。「とても広いお屋敷なのでしょうね」「これ以上ないほど広い。大広間は驚くほどだ。500枚の縞柄の縁付きカーペット、500枚の縁付きコリア・カーペット、500枚の刺繍のシルク・カーペット、全部で1500枚で誰もが驚く」。彼は名前を思い出そうとしたが、度忘れした。
R.T.
みさをは見るにあぶあぶと、「風が当たれば御身の毒、まァまァこちへ」と朽葉が手を取り、寝間に誘いあたふたと、枕屏風を引廻し、「どれ着物をきかようか」と口には云えど無い袖の、ふりも作らずみだれ髪、ついそこそこにかき上ぐる。才蔵は胴巻より百両の金取出せば、みさをは心得証文と引き換えに、件の金手に取りながらあたりを見回し、かねて認め置きたりけん、書置諸共かたわらなる、雛に並ぶ犬張子の中に隠して、「そんならば大切に養生遊ばせや」と云う声聞いて母朽葉、又もや寝間をさぐり出て、「もうお出で遊ばしますか、定めし今日は総模様、立派にお着替えなされた所を、たった一目見たけれど、云ふに甲斐ない此の盲目、どれ探ってなりと見ませう」とすり寄ればみさをは驚き、切ない時の神ならで、仏の前にかかった打敷昔模様の綸子の地黒をこれ幸いと仏壇よりそっと外して膝に押し当て、探らすればにこにこ顔、「おゝ是でこそ数村様のお娘御、随分お首尾なされまして、暑さ寒さは云ふに及ばず、あがり物に気をつけて、おわづらいの出ぬ様に、大切にお勤めなされませ」と売られて行くとはしらがの母、
I.L.N.
これを見たMisawoは出し抜けに「ここは風がひどいので、風邪を引いてしまいます。こちらへ」と言って、Kutsiwaの手を取り、寝間に誘い、屏風を立てた。「何を着たらいいだろう?」と言うと、髪の毛を掻きあげたが、今言ったような着替えはしなかった。Saizoは銅の巻物から100両を取り出した。Misawoは交換に証文を渡し、金貨を手にして、周囲を注意深く見回した。そして以前書いておいて上記の人形の後ろに隠していた別れの手紙と金を犬の箱に隠した。 Kutsiwaは質問するために前に進み出た。また、娘がこの機会のためにどんな衣装を着ているか確かめようとした。しかしMisawoは部屋の仏壇にかけられていた古いシルクのカーテンを急いで取ると、普段着の上にかけた。盲目の老婆はそれを触って騙された。
R.T.
[母朽葉が]喜ぶ折から納戸より立ち出る小よしは頑是無く、「おやおやおかしな前垂れして」と云いかくるをみさをは打ち消し、「あゝ是れ姉がうつゝいベゝを着て、羨ましう思やらうが、おし付けそなたも大きうなると、わたしが方へ引取って、なァ申し朽葉さま」「おゝそれそれ小職(こじょく)とやら、小僧とやら、お使ひなされて下さりませ」とつい何となく云う言葉も、疵持つすねにあたりをきょろきょろ、合点行かねばうっかりと、小よしは二人の顔打守り、物も得云わず居たりけり。才蔵は打ちしわぶき「遅なはっては屋敷の手前、拙者何とも迷惑致す、いざ御越し」としかつべらしくすゝめられて涙を隠し、暇乞いさえそこそこに、みさをは外へ立ち出でて、小手招ぎして小よしを呼び出し、「母様か父さんか、今にも戻らしゃんした時、わたしを尋ねなさんしたら、毎晩教へて置いた通り、花咲爺の此の赤本ここの所をいつもの様に、絵解きして聞かせると、わたしが行った所が知れる、必ずわすれてたもんなや」と名残おし気に見返り見返り小声になって、「親方さんお待遠でござりませう」「イヤもう待遠より、云ひ付けぬ切口上によわり果てた、さァ急いでやらかさう」とみさをを駕籠に打乗せて、足を早めて帰りけり。
I.L.N.
Koyosiが入ってきて、その新しいエプロンについて言い始めたのをMisawoが止め、[Misawoは]訳のわからないことを言った。彼女は次にその子に、親族が戻って来たら、自分の留守の説明を子どもが読んでいた小さな絵本からするように指示した。この本には今の状況に似た話が含まれている。そして、[Misawoは]Saizoに急かされて行った。
R.T.
斯くとも知らず主人の戸平、忙しげに立帰り、そこら見回し上り口、忘れた煙管手に取り上げ、「南無三道で落としたかと、戻ってみればやっぱりここに、どうでもほんのあはう草、煙草のお陰で暇つひやした。それはさうと母者人、もうお目がさめましたか」「おゝさめた段かいの。今塩谷様のお屋敷から迎へが来て、みさを様は御奉公のお目見得に上がると云ふて、身ごしらへにも人手は無し、お一人で小袖を召し替へ、鋲打の乗物で行かれたに、彼のこなた道で逢ひはしやらぬか」と、云うに戸平は不審晴れず、「さう云ふ事が有るならば、何ぞお役に立たねばとて、一通りは私に、御相談も有る筈の事、どう云ふわけでせわし無く」と問えば朽葉は打笑い、「こなた衆夫婦はかねがねに、承知の事と貴方のお言葉、よもや嘘はおっしゃるまい、それを忘れてけたゝましい」「イエイエイエ此の戸平は真以って(しんもって)存じませぬ。フウ今道で見た四ツ手駕籠、おれに逢ふと垂を下し、どうやら急にかくれる様子、何にしても合点が行かぬ、後ぼっかけて」と駆出す、向うへ廻って娘の小よし、「これ父さん、今姉さんの行かしゃんした所はわたしが知って居る」「ヤ、そんなら吾が身が聞いて置いたか、さァどうぢゃ早う云ふやれ」と気をあせれど、頑是無い子のいたいけに、そばなる赤本押開き、「むかしむかし有ったとさ」と云うに戸平は気を焦ち、「是れ小よし其処どころぢゃ無い、みさを様のお行方は、さア何処ぢゃ、ちゃっと云うて聞かしや」「アイ此の赤本の絵解きをするとおれが行先が知れると、姉さんが云うてぢゃから、まァ下に居て聞かしゃんせ。そこで、正直爺と云ふものが有って、犬の子の命を助けてかはいがって育てたら、其の犬がだんだん大きく成って、ある時爺にいふには、明日私を連れて出て、転んだ所を掘って見ろと、教へると思ったら夢がさめたから、夜が明けると此の犬を連れて出て、転んだ所を掘ったれば、小判や小粒といふお金がたんと出て、それで一期栄えた」とまわらぬ舌で長々しく云うに、戸平は唯うろうろ、「えゝ何の事たか埒も無い、どうでも貴方に追付いて、様子を聞くのが近道」と、駆出す足に思わずも、蹴かえす雛の犬張子、「ヤ、ヤ、是りやこれ小判、フウ犬が転んで金が出ると、今の絵解きは犬張子が、ころべば金が出るとの謎々、中に込めたる此の一通、なにお両方へ申し置き、みさをと有るは合点行かず」と封おし切れば母朽葉、「何じゃみさを様のお文が有る。どう云ふ事ぢゃ読んで聞かしや」と、耳そば立つればくりひろげ、驚きながら笑いに紛らし、「お気遣ひなされますな、くれぐれもお国許の親御の事が案じられる、お前さまのご病気がお心ようなったなら、鎌倉へ私に下って安否を聞いてくれ、お気にさへ入ったならもう家へは戻るまい、直に屋敷へ落付く程に、宿下りまで逢われぬと、夫婦の者へ残し文。「イヤ申し母者人、風がひやひや当っては、ご気分にさはりませう、ま一寝入りなされませ」と寝屋に連行き障子を立て切り、
I.L.N.
そのすぐ後にTofeiが戻り、Misawoが出て行ったことを呆然として聞いた。絵本の話は、親切な人に助けられた犬が、その人を宝が埋まっている所に連れて行ったというもので、問題を解き明かす役には立たなかった。絶望したTofeiがうっかりと犬の箱(日本ではこのような家具は空想的な形である)につまずくと、Misawoからの手紙と100両の金が出てきた。しかし、彼はMisawoが消えた理由をKutsiwaに隠し、部屋が寒すぎるからと彼女を部屋から出した。
R.T.
[戸平は]思はず知らぬ一人ごと、「もしみさをさま、お情過ぎてうらめしい、なんぼ貴君が編笠で顔をお隠しなされても、毎日通る南円堂、袖乞をなさること、知らいで何といたしませう、あゝ、身貧な此の暮し、貢いで下さるおこゝろざし、それを無足に致すまいと、今日までわざとしらぬ顔、陰で拝んでおりました、それさへ有るに勿体無い、おまへ様の身の代で、何と浮世が渡られませう」とどっかとすわってはらはら涙。いつの間にかは戻りけん、門に様子を聞き居る女房、「えゝ、そんならみさをはアノ曲輪へ」「おゝ様子はあらまし此の書置、母者人に聞えぬ様読んでみやれ」と投げ出せば取る手おそしとおし開き、 一筆申しのこし参らせ候、たゞ今まではごふうふに深くつゝみ、まい日まい日小よしをつれ、観音さまへ参るといつはり袖乞にいで、国もとよりの貢と申し、少しは御ちからになり候へども、それも思ふ様にはかどりかね、此の様にうかうか致し居り候ては、いよいよ貧苦の御身になり候はんかと、それが悲しく島之内之置屋へ、百両にこの身をうりまゐらせ候、此の金にておもふやうに朽葉様の御養生なされ、何になりとも少しも早く、御商売に御とりつき、若しも余計の金子あり候はば、鎌倉へ御下しくださるべく候、是れもにはかの御浪人の事に候へば、さぞ御不自由がちと察し参らせて、なにもなにも取急ぎあらあらかしこ。と読み下せば戸平は聞くに絶え兼ねて、件の金をひっつかみ、駆け出すもすそを花世は引き止め、「きつさう変へてこりゃ何処へ行かしやんす」「はて知れた事、此の金返してみさを様を」「イエイエ一旦証文すんだ上では、元金はさておいて一倍しても返さぬおきて、わしには現在姪の事、勤めさするは本意で無けれど、斯うなるからは仕方が無い、これ此の文にあれが書いて置いた通り、此の金を資本とし身を粉に砕いて身上仕上げ、国元の姉さん御夫婦御貢ぎ申して、其の内に見受けするより外は無い」とさまざまに云いなだめ、母は更なり鎌倉へも武家奉公といい下し、夫婦いよいよ心を用い、金にあかして養生なしけるにぞ、程無く母の眼病平癒なし、是れになおなお力を得て、すこししるべの有りければ、摂州難波へ引移りけるとぞ。 かくてみさをは島之内の芸子となり、其の名を小松と改めしが、きりょうよき其の上に、利発なる生まれなりければ、全盛ならぶ方も無く、常に二ッの櫛を押並べてさしけるにぞ、難波の人彼を仇名して、二ッ櫛の小松とぞ呼びなしける。 又米商人佐吉はみさをが行方知れずなりければ、せんかた無く是れも難波へ立返り、病気保養の其の為とて、折にふれ其処此処と浮かれあるき、月雪花の三ッ紋を付けるにぞ、誰云うと無くかれをも仇名して、三ッ紋の佐吉と呼び、同じ難波に住みながら、さすが繁華の土地なれば、未だみさをにはめぐり逢わざりけりとなん。
I.L.N.
Fanayoが戻ってくると、その悲しい別れの手紙が読み上げられ、真実が告げられた。証文に署名がされ、金が支払われたので、取引を元に戻す望みはなかった。その金は一家の必要経費に使われ、Kutsiwaの盲目を治療し、夫婦がSi-SiouのNaniwaに引退するのに使われた。 Misawoはリュート奏者になり、日本の慣習に従って、Komatsuと名前を変えた。しかし、この名前の下品な接頭辞はFutatsugushiというあだ名である。SakitsiもまたMisawo、現在のKomatsuの行方が一切わからなくなり、絶望してNaniwaに戻り、そこでMitzumonという名前を称した。しかし、一度も愛人と接触することはなかった。それどころか、忙しく外出していた。
続きを読む
『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』1857年1月3日号に掲載された柳亭種彦の『浮世形六枚屏風』(1821)の英訳と原作を比較します。
『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』掲載の浮世形六枚屏風のストーリー
年号の最後とはいっても、大判の『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』(1857年1月3日)に2ページにわたって、日本の絵草紙を紹介した意図は何だったのか、どこを抜粋したのか、どんなコメントが付けられているのかを探ってみます。スネッセンの英訳を連載した『大衆とホイットのジャーナル』はこの4巻目をもって廃刊になったそうですから、購読者数が少なかったと推測できます。それでも「本作品が日本の人々の特徴、作法、考え方などを正確に伝えている」ことが紹介の理由なのかもしれません。 では6年後にこの英訳を要約したと考えられる『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の記者はどんな思いで紹介したのでしょうか。以下に最初のコメントを抄訳します。
今日読者諸氏に提供する本物の日本の物語の珍しさは、我々が知る限り他の物語が未だかつてヨーロッパとイギリスに届いていないという事実からも証明できる。旅行者を通して、日本帝国の一般的な民俗習慣については世界に知られるようになったが、その情報を役立てるのは主に博識な学者たちに限られていた。おそらく、この閉ざされた奇妙な国に関する情報を大衆に広める唯一の手段は、この新聞のコラムで度々提示されているイラストレーションだけだろう。 この物語の趣旨自体が中国の物語と驚くほどの対極にあるように見える。この二つの国はその近さと位置から、ほとんど同じだと推測されるかもしれないが、この2人種の民俗と感性は似た点が全くない。読者が中国の物語の紡ぎ方や行動について思い起こせば、その違いはどの段階でも驚くほど明らかだろう。
この後、筋の紹介に入ります。ちなみに、イタリア語訳が1872年に、フランス語訳が1875年に出ているそうですから、スネッセンの英訳も『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の記者による要約も、ずっと早いわけです。英訳に関しては、1871年に新訳が「日本の女性、みさを」という題名で雑誌『フェニックス』に掲載されていますので、最後に紹介します。まずは、スネッセンの1851年訳を『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』がどう要約しているのか、ストーリーのどの部分を採用しているのか、どんな誤解があるのか見るために、原作の各エピソードの後に、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の拙訳を付します。原文の要約にはR.T.(柳亭種彦)、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の拙訳にはI.L.N.と付して区別し、英訳の固有名詞と地名はローマ字のままにします。原文の旧漢字と旧仮名遣いは現代日本語に、会話文の旧仮名遣いは原文通りにしました。
R.T.
むかしむかし、関東の管領濱名入道の一族に、網干多門太郎員好(あぼしたもんたろうかずよし)という者ありけり。上総国半国を領し、文を好み武に長じ、名ある家来も多かりければ、勢いはおさおさ管領に劣らず、相州鎌倉小袋坂のほとりに、善美をつくしたる館をかまえ、又大潮金沢なんど所々に遊猟の亭をもうけ、いと目出度く富みさかえたり。 頃しも秋の末つかた、今を盛りの紅葉見がてら、射鳥狩せばやとて、かねてしつらえおきし大磯の下館へ赴き、日めもす遊び暮らして、はや黄昏の頃、鴫たつ沢にぞ至りける。実に「心無き身にもあはれは知られけり鴫立つ澤の秋の夕暮」と西行法師がよめりしも宜なり。はるか人家に引離れ、唯かたわらに古りたる辻堂の立てるのみ、いと物さびしき所なり。折しも遥か向こうの方に、鴫の一羽あさり居るを近習の侍、「あれあれ御覧候え、鴫立つ沢の名において、鴫の下り居るもひとしお興あり、先ず暫し此の堂にみ腰をかけられ、鴫の飛び立つを見給はば、時も秋の夕暮れなり、西行の歌のさまに少しも違ひ候まじ」と言いければ、多門太郎打笑い、「鴫立つ澤と詠みたるは、飛び立つ事にはあらず、唯何と無く下り居て、鳥の立てる様を云ふなり。斯の歌の体を描くに、鴫の飛ぶ所を描くは、返す返すもあやまりなり。あれ今あさりもやらず飛びもやらず、物寂しげに立てるこそ、鴫立つ澤とは云ふべけれ」と物語り給えども、歌道に疎き侍はよくも心得ざるにや、上の空に聞き流し、「彼の鳥の居る所までは凡そ三十間もあらん」と何気なく言い出ずるを、一人の侍聞きとがめ、「イヤ鴫と云ふのは鶉に等しき小鳥なり、斯くあざらかに見ゆるは二十間にはよも過ぎじ」と答うるに、以前の侍頭をふり、「人々のどよめく声に、恐れもやらず立てるこそ、遥かに隔たる證なれ」「イヤイヤ試みにこぶしを付け小的を射るべき心にて試し見るに、左まで遠くには覚えじ」と両人が言い募り、此の争いさらに果つべう様も見えず。時に員好が近習の侍、水間宇源太が倅同苗島之助、其の年漸く十四歳、お側去らずの小姓にて、今日もお供にありけるが、両人が前に進み出で、「先ず暫く此の争ひをやめ給へ、それがしが細矢を以て遠近を計り見るべし」と袴のそば高く取り上げ、弓に矢からりと打ちつがえ、よっぴいてひょうと放せば、矢はあやうくも鳥の背をすって蘆間に止まり、鳥は驚き飛びさりけり。多門太郎大いに怒り、「汝若輩の身を以て古老の武士を差置き、人も頼まぬでかし立て、あまつさえ鳥を射損じ、面目無くは思はずや」とさんざんにしかり給えば、島之助も其の怒り面に現れ、弓をかたえにはったと投退け、「あの矢取りて来るべし」と下部に向かい言い付けけるにぞ、何かは知らず沢に下り立ちようようにして拾い取り、件の矢を差出せば、島之助手に取り上げ、更に恐るゝ気色もなく、主人の前に進み出で、「鳥の下り居る其の所を、遠し近しと云ひ、二人が争ひ果てし無ければ、それがしが其の間を計り争論を静めんと存じ、始めより遠近を計らんとは申しつれど、鳥に射当てんとは申さず、是れ御覧候へ、それ故に征矢(そや)を用ゐず。陣頭の蟇目(ひきめ)の中へ鴫の羽を止めたれば、矢のとゞきしには疑ひも無し、東夷の荒くれしく歌の事は知らずと云へども、所も所折もをり、彼の鳥を射留めん心かつ以って候はず、如何に方々小腕と云ひ、未熟のそれがし目当はづれず、鳥の羽を蟇目に留め候こそ其の間近き證なれ」と言葉よどまず云ひ放つ。 多門太郎はますます怒り、「おのれに道理あるにもせよ、主人に言葉を返すのみか、今投げ捨てし其の弓は我に投打なせしも同然、其のまゝに差置きなば寵愛あまって道知らぬ曲者を召使ふと、世の人口にかゝりやせん。さある時には家の瑕瑾(かきん)、切腹さすべき奴なれど、前髪あれば小児も同然、今日よりしては勘当なるぞ。其處退れよ」と、眼色変え、はったとにらみ給いければ、島之助も今更に何と返さん言葉もなく、大小差置きすごすごと、其の場をそのまゝ立ち去りけり。 此の日島之助が父宇源太は御供に加わらず、島之助は面目無くや思いけん、立帰って父に対面する事も無く、何地へか立去りけん、絶えて行方は知れざりけりとなん。
I.LN.
物語は高官 Abosi Tamontaraがシギ狩に出かけるところから始まる。夕暮れ時に近くの沼でシギを見ると、家臣の間でその種類について議論が始まる。また、その沼が飛び立つシギの沼という、よく知られている名前にふさわしいか、あるいは、「葬式の木の沼」がふさわしいかと議論していた。主人も議論に参加したが、その間、重臣の不運な息子が羽一本だけ取ってシギだと証明しようと、矢を射る。弓矢は日本では非常に洗練された技術だが、彼の技量は不幸をもたらした。Tamontaraはこの沼に与えられた名称の不明瞭さに決着つけようと、偉そうな微笑を浮かべていたが、目下の者が彼の面前で矢を射る行為に怒り、少年が説明したにもかかわらず、追放し、父親もお役御免とする。
訳者注:スネッセン訳で西行の和歌の解釈部分に注をつけて、「原文の表現があいまいで、二つの読み方ができる。Sigo tatsu sawa(鴫が飛び上がる沼)かSiki tatsu sawa(死の木trees of Death)が立っている沼」([ref]”THE SIX FOLDING SCREENS OF LIFE. AN ORIGINAL JAPANESE NOVEL”,
People’s & Howitt’s Journal of Literature, Art, and Popular Progress, London, Willoughby & Co.,
続きを読む
『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』(1857年1月)に紹介された絵双紙。
れは、『ペリー日本遠征記』(1856)を紹介した『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』(1856年12月13日号、
5-1-2参照)の次の日本関連記事で、柳亭種彦作・歌川豊国画『浮世形六枚屏風』(1821:文政4)の粗筋紹介です。1857(安政4)年1月3日号に掲載されています。「THE FOLDING SCREEN: A JAPANESE TALE(屏風:日本の物語)」と題されていますが、作者名もなく、「記者より」としか書かれていません。研究者も出典が探せなかったようで、「記者より」をそのまま引用しています。
ドイツ語訳『浮世形六枚屏風』
柳亭種彦作『浮世形六枚屏風』を最初に訳したのは言語学者東洋学者アウグスト・プフィッツマイヤー(August Pfizmaier: 1808-1887)で、初めて外国語に翻訳された日本文学とされています。フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト(Philipp Franzvon Siebold: 1796-1866)が第1回日本滞在中(1823-1828)に収集した日本の書物のうち60冊をウィーン帝室図書館に寄贈し、その中に『浮世形六枚屏風』が入っていたそうです。それをプフィッツマイヤーが見つけて翻訳し、1847年にウィーン大蔵省印刷局から出版されました。 フィッツマイヤーの『浮世形六枚屏風』の題名は
Sechs Wandschirme in Gestalten der vergänglichen Weltで、国立国会図書館デジタルコレクションとドイツの国立ヴァーチャル・ライブラリーBayerische Staatsbibliothecがデジタル化して、ネット掲載しています[ref]柳亭種彦作・歌川豊国画『浮世形六枚屏風』上下巻、1847年版。国立国会図書館デジタルコレクション。
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1884392August Pfizmaier,
Sechs Wandschirme in Gestalten der 続きを読む
『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』は『ペリー提督日本遠征』から何を選んだか?
の2葉の絵の最初のは『ペリー提督日本遠征』(1856:)に掲載されているもの、2番目のは同じものを白黒版で『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』がその年の12月13日号に掲載したものです。キャプションは『ペリー提督日本遠征』のものをそのまま使っています。それぞれ、早稲田大学図書館蔵の「大井川歩行渡/広重画」と比べてみてください。アメリカとイギリスで紹介されたこの絵の作者名は記されていません。『ペリー提督日本遠征』掲載のは落款部分が滲んでいて「廣重」かどうか判明しませんが、字体から想像つきます。ところが、『東洋・西洋美術の出会い』(Michael Sullivan, The Meeting of Eastern and Western Art, University of California Press, 1989, p.211)では、国貞作とされています。 『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』では、『ペリー提督日本遠征』がアメリカ議会の命によって出版されたと紹介していて、「100点のリトグラフと、同程度の数の木版画の挿絵がつき、すべてが日本人の賞賛すべき生活、習慣、景色の特徴が示されている。これらはダゲレオタイプ(銀板写真法)で行われたので、その正確性を保証している」と述べています。500ページを超えるこの本を買う余裕がない読者には、八つ折り版(octavo edition)が半分以下の値段で売られているというので、『ペリー提督日本遠征』が相当広く読まれたと想像できます。 『ペリー提督日本遠征』に掲載された広重の「大井川歩行渡[おおいがわかちわたし]」は『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』では「日本の特徴——アメリカ合衆国遠征」と題された長い記事の途中に挿入されていて、記事の内容がほぼ『ペリー提督日本遠征記』からの引用です。 この本から『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の記者は何を選んだのでしょうか。絵入り新聞らしく、最初に「美術」(原文強調)の例を3点印刷したと述べて、最初は第二回遠征で条約署名が終わった後に寄った下田の現地人(母親と娘)の絵を選んでいます。文章の方は、『ペリー提督日本遠征』の横浜と下田の記述が混在していますが、正確な時系列は次のように『ペリー提督日本遠征』では記されています。 1854年4月に署名済みの条約を一足先にワシントンに送るためにアダムス司令官に託してサラトガ号が出発します。ペリー提督一行は日本人の生活を見聞するために、許された範囲内(5マイル=約8km)を歩き、「この国の多くを見て、いくつかの村と多くの人々を見る機会があった」(, p.394)と記されています。以下の『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の解説では、ペリー一行がその後に行った下田の記述で始まり、その次の日本女性観も下田での見聞のようになっていますが、実際はペリー一行が横浜で観察した時の記述です。
『ペリー提督日本遠征』によると、人家は1,000、人口は7,000で、その5分の1は商人と職人である。人々は繁栄している様子を見せ、物乞いはほとんどいない。通りでは商取引の様子がなく、市場もなく、日常の売り買いは密かに行われているようで、通りすがりのよそ者には、下田はこの世の煩わしさや心配が全くない場所に見える。(中略) 条約の特権が保証された後だからか、ペリー提督と士官たちは下田の町を自由に歩き回った。平民はこの異人たちをとても歓迎しているようで、フレンドリーな会話を交わした。彼らはいつもの好奇心を見せて、アメリカ人の周りに群がり、アメリカ人の服を観察して、気に入った箇所について手振り身振りで英語の名前を聞いた。しかし、日本の役人たちはこのような接触を認めないので、武装兵士や警官が飛んできて、市民たちを追いやった。人々は逃げ、町の店も閉じられ、通りも人がいなくなり、まるで伝染病にやられてしまった町のような悲しい光景だった。(中略) 女性はヨーロッパの人口密集地の多くの地域と同じく、野に出て働いている姿をペリー一行は観察した。この人口の多い帝国では、一人でも多くの手が必要だということを示していた。最下級の人々さえ、快適な服装をしていた。上流階級の人と同じ粗い綿の同じ形の着物を着て、上流階級よりも短く、腰を隠すぐらいの長さのゆるい着物をまとっていた。ほとんどの男たちは裸足で、頭にも何もかぶっていなかった。女たちも男性とほぼ同じ服装だが、頭は男性のように剃ってはおらず、長い髪をてっぺんで結ったり、下で結わえていた。(中略) 『ペリー提督日本遠征』によると、日本社会には一つの特徴がある。それは他のすべての東洋の国々より優れていることがはっきりと示されている。女性が仲間、パートナーとして認められ、単なる奴隷として扱われているのではないことである。確かに、女性の地位はキリスト教の影響下にある国々ほどは高くないが、日本の母・妻・娘は中国のように家財、家庭内労働者として扱われるのでもなければ、トルコのハーレムのように気まぐれに購入した物として扱われるのでもない。一夫多妻制が存在しないことが日本をアジアで最も道徳的で洗練された国にしていることは明らかである。この下品な習慣がないことは女性を優れた性質に導き、家庭の徳を広める傾向にしている。 既婚女性のお歯黒を除いて、日本女性は不器量ではない。若い女の子は体つきがよく、かなり可愛い。彼女たちの振る舞いには自立心と陽気さが多く見られる。それは彼女たちが持つ比較的高い評価から生まれる尊厳の意識から出てくるものである。友人や家族との普通の会話や交流において、女性は同等に参加し、アメリカと同様、日本でもティー・パーティーや訪問などが活発に行われている。
『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に採用されなかった『日本遠征』の記述
『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』はここで終わっているのですが、『ペリー提督日本遠征』ではさらに続いています。
提督と一行がいるところで平伏する女性たちが見せる態度は、彼女たちの従属の証拠というより、異人に対する畏敬の印とみなすべきだ。日本の大きな町や都市に大歓楽街があることは、不幸なことだが、あらゆる大コミュニティーの普遍的な法則だとみなすのが合理的だ。しかし、日本女性の名誉のために述べておかなければならないのは、江戸湾に艦隊が停泊している間中、艦隊の様々な人間と女性とが時たま持つ関係において、普通見られる女性たちの側からのみだらな素振りは全くなかったことだ。(, pp.392-393)
ただ、『ペリー提督日本遠征』では下田で見聞した公衆浴場の混浴について、「みだらな人々」と批判的です。『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』で紹介している版は民間出版社の版で、本稿で引用しているのはワシントンでアメリカ議会が出版した版です。アメリカ議会刊の『ペリー提督日本遠征』には混浴の図(
続きを読む
地球上で最も閉ざされた国」日本から「驚くほど優雅なデザイン」の家具などが1854年にロンドンで展示され、その挿絵が『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に掲載されています。ジャポニズムの先駆けとも言える役割をこの新聞が果たしていました。
ジャポニズムの先駆け
本の開国に伴って、北斎漫画や浮世絵がヨーロッパに広まり、特に美術界でジャポニズムが一世を風靡しましたが、一般庶民におけるジャポニズムは日本風の家具や陶磁器、扇子、着物などを購入するという消費に結びついたとも言われています。イギリスにおけるジャポニズムの先駆け役を『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』が果たしたのではないかと思える記事が、1853年から掲載されています。日本の工芸・美術品が正式に多くの人に展示されたのが、1862年にロンドンで開催された万国博覧会とされていますから、その10年前に日本の工芸品が展示されたのです。 「大勧業博覧会ダブリン」(Great Industrial Exhibition, Dublin)が1853年5月から10月末までアイルランドのダブリンで開催され、『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』でも連日のように内容について紹介されています。1853年6月4日号には「ジャパン・コレクション」(, p.450)という見出しで、「オランダ王室の日本コレクションが送られてきた。見事な細工の家具、着物、武具、傘、掛け軸、屏風、扇、盆、金銀銅貨のケースなど」と紹介されました。この公式カタログには、オランダの国名の下に「オランダ政府の命により展示される日本品はヘイグ博物館の所蔵品」と書かれ、番号付きで95点挙げられています(pp.117-118)。そのうちの一つの番号に46点入れられているので、合わせると150点近く展示されたことになります。中に「日本で作成された日本地図」「金貨・銀貨・紙幣の入った箱」刀などがあり、解説に「いかなる武器も貨幣も地図も日本から持ち出すことは死罪として禁じられているので、これらがヨーロッパで目にできるのは非常に稀で、興味深い」(p.118)と書かれています。
1854年の日本博覧会
『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の1854年2月4日号に「日本博覧会」という見出しで以下の長い記事と絵が掲載されています(, p.98)。
地球上で最も閉ざされた国の一つ、日本から珍しい品を積んだ貨物がロンドンに到着した。鎖国の扉を超えてきたこの国の製品の希少性は世界市民[the Citizen of the Worldと大文字で強調]がオランダ商人の卑劣さにムカムカしてきた思いを呼び覚ます。我々がこれまで慣れてきた彼らの密かな取引を通して、日本美術と産物の準見本を我々だけが受け取るのだ。 このコレクションは先週月曜日にポールモール・イーストの水彩画家協会のギャラリーで一般公開された。これは我が国初の直接輸入と言われている。日本と毎年貿易を許されているヨーロッパで唯一の船はオランダ商人の船である。コレクションはテーブル・キャビネット・箱など、表面に日本の装飾(japanned upon wood)、中に真珠やエナメルなどが施された木製品;その極度の軽さと滑らかさと、絵がないことで、この国のパピエマシェとは区別され、そのデザインの特異性はほとんどの場合、驚くほど優雅だ。また、色のついたわらの非常に美しいデザインのものもある。これは日本独特の装飾で、本紙の版画に見られる鳥が彫られたキャビネットがその最高のものである。ブロンズはまれで、ほとんどがアンティークである。二つの最大のブロンズ壺はその形状において非常に純粋で、本紙のイラストレーションにあるテーブルの上のものだが、これはマルボロー・ハウスの実用芸術美術館が購入したということだ。また、非常に美しく装飾された小物入れ(glove box)と、本当に希少な赤と緑の漆塗りの箱数点、わらで装飾された小テーブルも購入したそうである。 磁器も目だった展示品で、優美な形の花瓶や水差し、いくつかはグロテスクな性質のもの、カップなど、それらはすべて尋常じゃない軽さと透明さで、そのいくつかは非常に素晴らしい装飾がほどこされている;その多くは周囲を竹で見事に編み込まれ、カップの厚さが卵の殻ほどなことを考えると素晴らしい。本紙のイラストレーションの中のテーブルの上の高い花瓶、水差しとカップはこの展覧会を代表するものとして選ばれた。竹の編みかごの細工は素晴らしく、その形と模様には独創性がある。 また、絹の着物と包装物もある。非常に柔らかく、軽く綿入れがされ、日本の貴族が着るものである。壁には日本の全階層の人々の絵がかけられている。男も女も、様々な衣装を着て、本紙のイラストレーションに描かれているのは、花嫁と扇のようなパラソルをさして歩く女性である。このパラソルはかの国でよく使われている。他にイラストレーションに描かれているのは、数種類の屏風のうちの一つで、人家と人々の生活習慣が描かれている。イラストレーションの背後にあるのは、象嵌細工のワードローブで、純粋の日本製である;ほとんどの家具の形は明らかにヨーロッパのものだが、装飾はすべて日本のものである。中央のテーブルが一番いい;テーブル上部は非常に優雅なデザインで、真珠がはめ込まれている;鉤爪足は斬新な形で、3匹のオオコウモリを表し、その羽が支柱を形作っている。支柱がサルと魚になっているテーブルもある;様々な種類のパズル・ボックス;一般用よりはるかに優れていると言われる醤油など。これらすべてが非常に珍しいコレクションを成している;そして、疑いなく、最近のアメリカ合衆国の日本遠征に対する興奮からして、これは非常に魅力的なものになろう。
この日本製品展示会の説明の中で、"japanned upon wood"とJapanが動詞として使われているので、『ブリタニカ百科事典』第7版第12巻(1842)を調べたところ、"japanning"という項目で説明されていました。「ジャパニングとは木材の表面にニスや絵を施す技術で、日本の方法を真似たため、この名称が使われる」([ref]
Encyclopaedia Britannica or Dictionary of Arts, Sciences, and General Literature.Seventh Edition, with Preliminary dissertations on the History of the Sciences, and Other Extensive Improvements and Additions; Including the Late
続きを読む
ペリー来航前に日本に来たアメリカ船についての19, 20世紀の論考を紹介します。
ペリー来航の半世紀前に長崎に来航したアメリカ船
ローニンの『日本幽囚記』の英訳改訂版(1852)に付された解説「英国と日本の通商記録」の中で、「奇妙なことは、イギリスの船がイギリス人(スチュアート船長)の指揮で1797年と1798年に実際に日本を訪れている」こと、「この船がアメリカの旗を掲げ、アメリカの通行証を携えて、バタビアのオランダ当局によって日本に送られた」ことと記されています。この点はラッフルズが『ジャワの歴史』(1817)第2巻の付録「日本貿易について」で触れています。その内容をラッフルズはHogendorpから引用とだけ記していますが、ディルク・ファン・ホーヘンドルプ(Dirk van Hogendorp: 1761-1822)のようです。
1-1で紹介したリチャード・ヒルドレスも『日本—過去と現在—』(1855,, p.448)の中で、ラッフルズが引用している”Heer Hagendorp”と述べ、これは1800年にこの人物がバタビヤで出版したジャワに関する小論文に掲載されているというのです。 『エンサイクロペディア・ブリタニカ』によると、ホーヘンドルプはオランダの軍人・政治家、後にオランダ東インド会社の役員としてインドやジャワに滞在します。そしてイギリスのベンガルの植民地統治法に感銘を受け、「バタビヤ領土の現状報告」という小論文で、インドネシア人もヨーロッパ人と同じ経済原則で導かれるべきだと主張し、当時の東インド総督の怒りをかって投獄され、オランダに逃げたそうです。 以下が、ラッフルズが引用符でくくった部分の拙訳です。
わが国と日本との通商関係は非常に奇妙な性質のものである。誰もが知っているように、わが国はヨーロッパで唯一日本から通商許可をもらっている国である。そのために苦しまなければいけないとは、何という屈辱であろうか。江戸城へ使節を送る費用の何と大きなことか。日本貿易は昔は儲かったのに、近年は費用をまかなうだけの利益がないと思う。船や船員の損失を考えたら、このような屈辱を受けさせられる正当性はない。 それなのに、我々は貿易を諦めることができないでいる。諦める必要があるか、または、そうした方が懸命なのかだろうか。1797年と1798年に奇妙な船、実際はイギリスの船なのに、隠すためにアメリカの旗を揚げて、生粋のイギリス人のスチュアート船長に指揮をさせ、彼はマドラスかベンガルの所属なのにアメリカの通行証を持っているという、そんな船を送ることをバタビヤ政府がどう説明できるのか、途方にくれる。この貿易を放棄するのは馬鹿げているが、日本の規則に従うしかないし、この規則を取り払うのはほとんど不可能だろうし、日本をオープンで自由にすることは実現できないかもしれない。国家のためや会社のためにこれを追求するのでは、目的を達成することには決してならない。したがって、私は1,2年間バタビヤで船1隻か2隻に限られた積荷を日本で取引するための許可証やパスをオークションにかけ、最高値の入札者に与えようと思う。出島の館長を任命しなければならない。その維持は政府がして、館長には一種の領事の役割をさせ、必要なら江戸に使節として行かせる。しかし、これ以外は貿易の規則やシステムすべては船主に任せなければならない。我々の取引に課される日本の法律以外は。 毎年の使節は非常に費用がかかる。すでに日本側がしなくてもよいと言っているが、時々なら利用価値があるので、将来は10年に1回ぐらい使節を送るか、[出島の]新居住者が来た時や新領事が着任した時に、滞在中1回だけ[江戸に]行くことの許可を得るのが得策かもしれない。それ以外の特権や自由を得るのは容易なことではないだろう。あちらにいる我々の社員の何人かがこの点で我々に何を信じこませようとしても、我々が行こうと行くまいと、日本人が全く無関心なことは明らかで、我々にそうさせる許可を出すこと自体が単なる彼らの気まぐれなのだ。この貿易が個人に開かれたら、すぐさま人々はリスクや危険を犯してでも利益を上げる方法を見つけることは疑う余地がない。そしてこの利益の価値が高まるにつれ、許可証の価値も増すだろう。--Hogendorp(, Appendix B.: Japan Trade, pp.xxix-xxx)
ヒルドレスは1800年刊の小論文と言いながら題名を記していませんが、初版は1799年で、1800年に再版されたそうです。この日本語訳は国会図書館からアクセスできます。『鹿児島大学史録』4号(1971)から11号(1979)にかけて連載された田淵保雄訳註「バタビヤ領土の現状報告(1799)」です。この11号(1979)に掲載されている「ディルク・ファン・ホーヘンドルプ著、田淵保雄訳註 バタビヤ領土の現状報告(1799)[7]」に「日本貿易」という小見出しで2ページにわたって見解が述べられています。
ヒルドレスの指摘
ヒルドレスはこのスチュアート船長なる人物について、重要な指摘をしています。まず乗ってきた船エリザ号がニューヨークの船である事、出島のオランダ商館ではスチュアートがアメリカ人だと信じていた事です。1799年にオランダ商館の職員として来日し、1803年に商館長に就任して、1817年に帰国するまで出島にいたヘンドリック・ドゥーフ(Hendrik Doeff: 1777-1835)が1835年に出版した『日本回想録』で、スチュアートはアメリカ人だと述べているという指摘です。この回想録の英訳はみつかりませんでしたが、インターネット・アーカイブに1922(大正11)年刊斎藤阿具著の『ヅーフと日本』という本が掲載されています。 ヒルドレスはオランダ語の『日本回想録』を丁寧に読んだようで、当時の日本の状況はドゥーフによるところが大きいと述べて、スチュアート船長の長崎来航について詳しい要約をしています。ゴローニンの『日本幽囚記』改訂版の解説「英国と日本の通商記録」(1852)はラッフルズの『ジャワの歴史』(1817)を参照したことを明言していますから、イギリスではスチュアートがイギリス人だったことが伝わっていたようです。興味深いのは、「英国と日本の通商記録」ではイギリスの日本との通商努力という視点からイギリス人を強調していること、ヒルドレスは意地悪な見方をすれば、逆にイギリス人でこんな怪しい人間もいたという視点を持ちながら、ドゥーフのアメリカ人説を否定していることです。この点で興味深いのは、ペリーの『日本遠征記』(1856)の序で「西洋文明国と日本帝国との過去の関係」という節で、ポルトガル・オランダ・イギリス・ロシアは詳しく述べていますが、アメリカについてはモリソン号事件(1837)以降のことしか記載されていません。 ヒルドレスはなぜ1790年代後半にオランダがアメリカ船を使ったかの説明から始めています。「フランス軍によるオランダ占領はオランダ船がイギリスに拿捕される危険に晒されただけでなく、オランダが東洋植民地を失うことになり、したがって、日本貿易に関しても新たな障害をもたらすことになった」(p.446)と述べています。この状況下でイギリスに捕らえられないために、アメリカ船を雇う傭船手法を使ったというのです。『ヅーフと日本』でも同様の解説をし、この頃の幕府とオランダ商館とのやりとりを述べています。ナポレオン戦争の影響を日本が感じ始めたのも1795年からです。この年に入港したのはオランダ船1隻だけで、商品も欠乏していて、商館長は「奉行の譴責を受けたり」と述べ、1796年には入港なし。1797年に1隻入港したが、「中立國たる米國の一小船エリザ丸(Eliza)を臨時に雇入れしものにて、積荷も有合せ品のみにて、獻上品・御用品を始め一般商品も整はざりしかば、又奉行の為に詰責せられたり」(p.12)と解説しています。以後ほとんど毎年「雇入米國船のみ我國に來りし所以なり」と書かれた後、バタビアの重役はオランダ商館長に貿易の復興を計れ、さもないと日本貿易は廃止すると厳命され、商館長と幕府との交渉が始まったとのことです。幕府は1790(寛政2)年に秋田銅産出額減少を理由に、オランダには年1隻に限り、銅の輸出高を60万斤に減らしたのに、商館長の懇願で、1798年に以後5年間25万2千斤増額、船2隻を許可したそうです(p.13)。1798年にもバタビアから1隻入港したけれど、同じくスチュアート船長のエリザ号(直接引用の場合以外は「号」に統一)で、しかも、オランダ東インド会社に内密に、会社の徽章を揚げず、商品も不足していたのですが、「此時に至りては奉行も最早蘭人を虚喝するの勇氣を失ひ、却て之を憐憫し」た(p.15)と書かれています。 ヒルドレスの関心は、最初にエリザ号が入港した時の奉行所の混乱ぶりで、「乗組員は英語を話したけれど、『イギリス人』ではなく別の国であること、さらにもっと基本的な点は、この船が貿易とは何の関係もなく、拿捕逮捕されないために商品を運ぶ雇われに過ぎなかったことだった。その説明の結果、エリザ号はオランダの船だと理解することで合意した」(p.447)と記されています。
太平洋戦争中の米日交流史論
アメリカ人にとってはペリー来航前にアメリカ船が日本に来ていたというのは魅力的なテーマのようで、1909年刊の『昔のセーラムの船と船員』や、太平洋戦争の真っ最中に発表された「1801年のマーガレット号航海:セーラム市の日本への最初の航海」(1944年10月)などがあります。前者は「1853年に日本の古い鎖国を壊滅させたペリー提督の艦隊の印象的な日本訪問前にアメリカの船がこの国の港に留まり、貿易を許されたことはないと一般的に思われてきた」(, p.330)と述べて、1799年にボストンで所有されていたフランクリン号が長崎に行ったこと、1800年にマサチューセッツ号、1801年にマサチューセッツ州セーラム市の船マーガレット号が長崎に行ったことを記しています。1909年時点で、これらの[航海]記録が「まるでヨーロッパ中世の歴史の1章のように古めかしく聞こえる」(p.331)と書いています。 私は後者の米日交流史論「1801年のマーガレット号航海:セーラム市の日本への最初の航海」に、その発表年月日の点で注目しました。太平洋戦争の最中、American Antiquarian
続きを読む
1673年のリターン号来航時の日英交渉記録が「英国と日本の通商記録」(1852)で紹介され、日本との通商を希望していた1850年代の人々がリターン号の交渉記録のどこに関心を示していたのかがわかります。
「日本日記」の解説
まず、前節の「日本日記」に記されていることについて、解説します。
「聖ジョージ十字」
聖ジョージ(St George)はイギリスの守護聖人とされ、4月23日が「聖ジョージの日」とされていて、2018年4月23日にBBCが解説を掲載しているので紹介します。ゲオルギオスという名前の実在のクリスチャンのローマ兵で、西暦270年頃にトルコのカッパドキアに生まれ、303年にローマ皇帝ディオクレティアヌスのキリスト教弾圧によって、パレスチナのローマ州で殉教したと伝えられています。イギリスの守護聖人にされた理由は、聖ジョージにまつわる伝説の中から、拷問の末に殺されたために勇気、栄誉を象徴し、軍所属ということなどで、イギリスの価値観を代表すると考えられたのだろうといいます。15世紀初頭に彼が殉教したとされる4月23日が「聖ジョージの日」とされるようになったそうです。 BBCの記事にアクセスすると、白地に赤の十字の旗がみられます。ただ、2012年の記事「聖ジョージの旗は人種差別のシンボルだとイギリス人の4分の1が言う」によると、「聖ジョージの十字」の旗にイギリス人としての誇りと愛国心を感じるという人は61%で、24%は「この旗は人種差別の旗」だと考えるという世論調査結果が出たそうです。それは極右グループ「イギリス防衛同盟」(English Defence League)がこの旗を使ってデモをするからだと分析しています。
第三次英蘭戦争
「日本日記」の1673年7月7日に、デルボーが英蘭戦争が始まったことを知らなかったと言っていますが、イギリスとオランダの間で1652年から1783年まで4回戦争が起こって、そのうちの第三次英蘭戦争(1672)を指しています。英蘭戦争の理由は商業的権益をめぐる争いで、最初の3回の戦争が起こった頃、アジアの植民地における貿易大国だったポルトガルに代わってオランダが絶頂期にありました。オランダ東インド会社はその富と権力において抜きん出ていて、イギリスがその権益を狙い、やがて、オランダに代わってイギリスが商船事業の中心を占めます。第三次英蘭戦争では、チャールズ国王がフランスと秘密の取引をして、イギリスの東海岸、ソールベイでフランスとイギリスがオランダと戦った「ソールベイ海戦」(1672)では、イギリス、オランダ双方が勝利宣言をしていますが、いずれも損害がひどかったそうです。
踏絵について
「日本日記」には踏絵をさせられたとは書かれていませんが、日本側の資料では「イギリス人はオランダ人と同じ宗旨であると言っているが、その事実を試すために踏絵をさせるので、オランダ人に同行してほしい」(, p.7)と奉行所役人がオランダ商館に求めたそうです。同行したオランダ商館の助手によると、踏絵を求める時の「通詞の話し方は非常に特異だった」から、「イギリス人がこれをよく理解しなかったと考えている。(中略)すでに暗かったので船長は何を踏んでいるのかわからなかったと思う」と書いています。
長崎奉行所の情報網
最初の日(1673年6月29日)に役人たちが質問した内容で、この当時の幕府の情報通は明らかです。オランダ人に世界の動向について情報提供を義務付けることが1641年から始まり、「オランダ風説書」として1659年には慣例化していたからだそうです(, p.63)。デルボーの答え(内乱が20年ほど続き)についても、幕府側はすでに1662年のオランダ風説書で知っていたし、チャールズ1世が処刑されたこともオランダから伝えられています(, p.3)。 奉行所の役人たちがデルボーにオランダ商館側が言ったことの真偽を聞いたり、オランダ商館長宛の手紙の内容を確かめたりしたことは、幕府側が「外国人から得た情報を比較検討」(, p.62)するためだったというは、リターン号でのやり取りが表しています。
1852年のイギリスの関心
「英国と日本の通商記録」(
4-9参照)の筆者はリターン号の日本派遣について、「イギリスの王政復古の後すぐに商業事業精神が復活し、1673年の遠征をチャールズ2世が即座に承認し、王の後援のもとに実行された」(, p.19)と解説して、ケンペルの記述をほぼ忠実に要約しています。解説者の関心が特にどこにあったのかは、直接引用を長くしている箇所、解説者の感想などに見られると思うので、以下に挙げてみます。
リターン号の船長以下全員が日本に来るのは初めてだと知った役人たちの驚きが大きく、水先案内人なしにどうやって港に入って来られたのか聞かれ、海図を見せると納得した(pp.21-22)。 船から陸に運んだ武器一切を正確に書き留め、上級役人の前でキャビンの記録と照合して、この役人が承認すると、非常に丁寧に出て行った。 本文では解説が加えられていないやりとりについて、「英国と日本の通商記録」では「日本側が最近警戒し困っている海賊と、イギリス人が関係を持っているらしいと、オランダ人たちが言いふらしていることについて、イギリスの船長は虚偽だと否定した」と述べられています。 日本側の質問方法が、まずポルトガル語かスペイン語で質問し、次にオランダ語でするため、同じ内容が5,6回繰り返されることです。そのたびに彼らの理解が確かなものになっていくとイギリス側が解釈している点が直接引用で指摘されています。 長崎奉行所側がイギリス人をオランダ人と同じように守ると約束したくだりについて紹介したあと、「これらの詳細なやりとりは、日本人側の良識と穏健さを示しており、イギリスに対する好意を明らかに示している」と感想が書かれています。
今から345年も前の交渉記録を読んで感心するのは、双方が礼儀をもって忍耐強く対応していることです。特にイギリス側が貿易交渉を達成するためとはいえ、2ヶ月も上陸させてもらえず、その間、幕府役人が入れ替わり立ち代わりやってきて、同じ質問に答えさせられるのは苦痛以外の何物でもなかったでしょうが、怒りや苛立ちを抑えて対応したことと、日本側が2ヶ国語以上で同じ質問と答えを求めることで、理解が確かなものになると洞察していることです。幕府側も礼儀を示しながらも譲らなかったことが、3世紀半後の安倍政権の対米隷属と対照的です。そして何よりも、公文書偽造・改ざん・隠蔽・破棄などが常態化している安倍政権下で生きている私たちにとって、この交渉記録を読むと、記録の大切さが身にしみます。「経済産業省幹部が省内外の打ち合わせ記録を残さないように指示」したというニュースを読むと、安倍政権は自分の時代を歴史的空白の時代にしようとしているのだと感じます。
『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』が将軍に送られた
幕府の情報収集という観点から非常に興味深い記事が『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』(1854年2月11日号 [ref]
The Illustrated London News,
続きを読む
イギリス国王の親書と1613年の家康の朱印状を携えて通商を求めて、1673年に長崎に来たイギリス船リターン号の船長と長崎奉行所とのやりとりを紹介します。
815 続きを読む
有吉佐和子が『複合汚染』で農薬は化学兵器の平和利用だと批判してから44年後の今、ベトナム戦争の枯葉剤が日本全国に埋設され、豪雨と地震が頻発する現在の日本で、ダイオキシンが漏出する可能性が指摘されています。
812 続きを読む