1850年10月にイギリス戦艦が琉球に行き、宣教師の処遇改善を要求します。琉球側に要求をのませるには、武力の示威が有効だと考えていることも伝えられています。
以下は1850年10月に琉球王国に来航したイギリス海軍レイナード号の報道です。『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』1851年3月8日号に掲載されました。「1816年にバジル・ホール艦長の訪問以来、この興味深い島についてほとんど知られていなかったが、女王陛下の蒸気スループ船レイナード号の最近の訪問が、我が国の人々にこの島に関する知識のストックを増やす機会を与えてくれた」と始まる長い記事と4葉の挿絵です(注1)。
琉球のスケッチ
この琉球訪問の目的は、琉球に滞在中の医療宣教師のDr. J.B. ベッテルハイムに関する琉球政府の対応について、イギリス政府からのメッセージを琉球政府に渡すことで、彼の琉球でのミッションを琉球政府に知らせるために、香港司教が乗船しており、いい結果をもたらすよう、断固とした、しかし、懐柔的な調子をとることになっている。
レイナード号は那覇ロードに[1850年]10月3日に到着し、1週間滞在した。その間、当局と3回会談を行った。10月5日の最初の会見で、Dr.ベッテルハイムの様々な苦情が当局に伝えられた。最も深刻なのは、彼がミッショナリー活動をしている時に当局のスパイか調査官に暴行を加えられたというものだった。当局の説明が要求された。
次の会見には琉球の総督か主席が同席し、Dr.ベッテルハイムの扱いは今後非常に違ったものになるという確証を得た。最後の会見では、武力誇示が政治的に有利だと考えて、クラクロフト艦長(Captain Cracroft)と司教は50人の護衛を伴い、レイナード号の全士官が制服を着て従った。9日に司教と官吏たちが船上のエンターテイメントに参加し、プレゼント交換が行われた。琉球に蒸気船が来たのはこれが初めてで、[琉球人は]エンジンとプロペラの音に驚き、翌日の離港に大きな安堵を覚えたのは間違いない。
士官たちが銃を持って自由に歩き回ることを阻止する様子はなかったが、ヤマシギには早すぎ、スポーツマンたちが手に入れたのはうずら2,3羽とムナグロ・チドリだけだった。那覇の自然は非常に美しい。(中略:風景描写)琉球の人々はフレンドリーで親切で、彼らのサービスに対して支払いをしようとしても、すべて断った。サツマイモと米が主食のようで、外見は極貧とはほど遠く見えるが、明らかに貧困の最低ラインだ。この土地の所有者である政府は、生産の半分で官僚と知識階級を養い、彼らは人口の大半を占めて、安逸を貪っている。(中略:琉球の人々の衣服についての記述)
琉球のスケッチ(続き)
琉球は300年か400年前に中国の明朝の皇帝によって王国に格上げされたと言われている。中国と日本の間で戦争が行われ、中国が日本の[琉球に対する]関心から琉球を引き離そうとするためだったと言われている。
琉球は隷属の印に、毎年中国の福州市の港に船を送っている。これは福建の大きな首都の貿易港で、我が国にも開かれている。この都市に琉球の学者たちは勉学に訪れる。中国語がこの国の丁寧語(polite language)だが、琉球人の日常の話し言葉や顔つき、習慣、気質は明らかに日本人である。日本の影響は、地方政府の役職すべての任命を日本の内閣が指示することに現れている。
今回の訪問によって、Dr.ベッテルハイムの状況改善という効果があることが期待されている。ベッテルハイムは布教の熱意にあふれすぎているが、彼の意見や行動には奇妙な点もある。したがって、この遠隔の地に於ける彼の布教活動はキリスト教伝道に対してはほとんど効果も益もない。しかし、この地のフレンドリーな性格の人々と彼が接触することを当局が妨げているので、当然である。しかしながら、彼は時間を無駄に過ごしたわけではない。一人も改宗させられなかったが、ルカ福音書と使徒行伝を琉球語に翻訳した。
掲載のイラストのうち、Dr.ベッテルハイムの家は、元は寺だったが、今は管理状態が悪い。その下の椅子はこの島の唯一の移動手段である。この島には馬はほとんどおらず、いても、それは役人しか使えない。首都・首里の風景は二重の城壁に囲まれている王の城である。ヨーロッパ人は入ることを禁じられているが、レイナード号の士官候補生の一人が城壁のてっぺんに登って、中を見た。群集が集まってきて、彼をそれ以上行かせないよう止めたので、それ以上この都市を検分することはできなかった。
琉球王国の成立
「琉球のスケッチ」の中で気になるのは、「300年か400年前に」「中国と日本の間で戦争が行われ」、その理由が、中国が日本の関心を琉球から離し、そのために琉球を王国にしたという部分です。この記述の根拠が英語で1850年前にあったのかを知ろうと、1816年のバジル・ホール艦長の記録『コリアと琉球島への航海』(Voyage to Corea, and the Island of Loo Choo, 1820,(注2))や、ケンペル、シーボルトをチェックしましたが、該当する記述はありません。来間泰男著『琉球王国の成立』(上下2014、(注3))を読んでみました。これは多くの先行研究を紹介しながら、それぞれの問題点と著者の疑問点をまとめてあり、大変参考になりました。定説と著者の見解などを拾ったものが以下です。
1372年に明朝が琉球に使節を送って、朝貢関係を呼びかけ、当時中山・山北・山南と三つの勢力に分かれていた沖縄本島の中山王察度(さっと)が1377年に、山南王承察度(しょうさっと)が1380年に、山北王岶尼柴(はにし)が1383年に朝貢使を明に送ったとされています。これは服属を目的とした関係ではなく、貿易の交渉や遭難者の送還などの交渉を円滑に行うための制度とされていました。明が琉球と朝貢関係を結ぼうという目的は、光武帝が新王朝の成立を周辺国に知らしめると共に、沿岸を荒らしていた倭寇の禁圧でしたが、期待した日本が南北朝の動乱期だったため、関係を築けない状況下で、琉球が登場しました。
多くの歴史家は琉球王国の成立を、正史によって記述が異なりますが、1422年か1429年の三山統一の時期としているそうです。著者は明が琉球に三王国あると認めた時であり、明によって王国にさせられたので、内側から支配者が王国を作ったのではないと主張します。そもそも、中国側が琉球という名称も王という称号も与え、「初期の琉球王国の政治は中国人が主要な役割を果たしていた」(下p.42)ことは、明から与えられた交易船の航海術も、通訳も、外交文書も中国人が主導したことからも明らかだとのことです。
日本は1404年に中国と朝貢関係を結びました。一方、琉球と日本との間の交流は、現存の資料で最古のものが1404年頃に「をきなう船」が足利幕府への使船として記録されており、1414年の将軍義持が「りうきう国のよのぬしへ」(琉球国代主)進物品の受け取り状を出していることでも証明されています(下p.319)。興味深いのは、将軍から琉球宛の文書がかな書き、琉球国からの外交文書が和様漢文で、琉球国王が東南アジアや朝鮮の国王とやりとりした文書は、中国の同レベルの官庁間で用いられる公文書を基本としているという点です。
ペリーの前任者が日本へ向かう
1851年にはもう一つ日本関連の記事が『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に掲載されています。1851年7月12日号の「国内外ニュースの概略」と題するコラム(注4)です。
アメリカ合衆国フリゲート艦サスケハナ号のオーリック提督が最近、サンフランシスコから日本に向けて出発した。もしできたら、この帝国との通商を開始せよという指令を受けている。彼は数人の日本の漂流民も連れている。カリフォルニアとそれ以前の[獲得]州はサンドイッチ島[ハワイ]を切望の眼差しで見ている。なぜなら、この島はアメリカ捕鯨にとって主要兵站地であり、中継貿易地だからだ。しかも、アジアへの中間地だ。
オーリック提督(John H. Aulick: 1791頃-1873)は1850年に東インド艦隊を指揮するよう命令を受け、国務長官に日本との通商交渉を提案します。国務長官はフィルモア大統領に伝え、大統領はオーリックに日本政府との友好通商条約の交渉役を任命します。そして、1851年6月にサスケハナ号で出発しますが、途中でサスケハナ号の船長と喧嘩をし、寄港したブラジルで船長を降ろし、その後の些細な誤解が発展して、オーリック提督は任務途中で解任されてしまいます(注5)。
アメリカが日本に開国を求めた理由
なぜ19世紀中葉にアメリカが日本の開国を求めたのか、アメリカ国務省のサイト(注6)で次のように説明しています。
中国の港が通常取引用に開港したことと、カリフォルニアの併合によってアメリカの港が太平洋側にできたことにより、北アメリカとアジアとの間の海運が安定的に続くことが確かなものになった。その頃、太平洋におけるアメリカの貿易商は帆船から蒸気船に変えて航海しため、石炭補給地を必要とした。アメリカから中国へ行く長い航海の途中で食料や石炭を補給できる港が必要だった。日本は地理的に[アメリカにとって]有利な条件を満たしている上、日本には石炭の膨大な鉱床があるという噂があったので、日本と貿易・外交的接触を確立する要請が増していた。その上、アメリカの捕鯨産業は18世紀中頃には北太平洋に進出していたので、難破時に援助を得るための安全な港、安定した補給地を求めていた。ペリー使節団が行くまでに、多くのアメリカの船乗りが難破して日本にたどり着き、歓迎しない日本人の手で酷い扱いを受けた話が全米の商人コミュニティの間に広まっていた。
経済的考慮と、北アメリカ大陸全土に拡張するアメリカを動かしていた「明白な天命」(Manifest Destiny)の信仰という同じ組み合わせが、多くのアメリカの商人と宣教師を駆り立てて、太平洋を渡りたいと思わせたのである。この頃、多くのアメリカ人が中国人と日本人を文明化・近代化させる特別な責任があると信じていた。日本の場合、宣教師たちはカトリックが拒否されたところでは、プロテスタントは受け入れられると感じていた。その他のアメリカ人は、たとえ日本人が西洋の理想を受容しなくても、世界との交流と通商を強制することは不可欠であり、最終的には両国にとってプラスになると主張した。
「明白な天命」という考え方は、南北戦争(1861-65)前にオレゴン・テキサス・ニューメキシコ・カリフォルニアの獲得を正当化するために使われ、南北戦争後にもこの概念が使われ続け、スペインとの戦争、ハワイ併合などにアメリカの外交政策の武器として再確認されたそうです(注7)。
『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の日本関連記事は1852年1〜6月分は検証できませんでしたが、7〜12月分にはなく、1853年4月16日号に次の記事が掲載されています。アメリカ関連記事の中にわずか6行の短い報道です。
ワシントンでは、日本遠征は断念されるという報告が流されている。ピアース将軍が[日本遠征は]無用で、不適当だと考えている。その理由は、日本に開港を強制するには[日本遠征は]十分強いと言えないし、議論や条約の力は全く無力だからだ(注8)。
この記事でGeneral Pierceと書かれていますが、フランクリン・ピアース(Franklin Pierce: 1804-1869)第14代大統領です。就任時が1853年3月というので、この記事が書かれた時期にはまだ就任していなかったのかもしれません。いずれにしろ、武力行使して、アメリカにとって好条件の結論を出せと言っているようにさえ読み取れます。年末の1853年12月5日の第一回年頭教書では、「ペリー提督が日本の皇帝に訪問の目的を知らせたという情報が入っているが、皇帝が鎖国政策をどの程度断念し、合衆国と通商するために人口の多いこの国をどの程度開放するかは確かめられていない」(注9)と述べています。「明白な天命」によって、次々と領土を獲得しようとする姿勢は、ペリーがフォルモサ(台湾)と太平洋の島々を併合すべきだと提案したことにも表れていますが、国務長官のマーシー(William Marcy: 1786-1857)に拒否されます(注10)。
ピアース将軍が日本遠征は無用だと考えているという報道の1か月後には、「アメリカ合衆国の日本遠征」(1853年5月7日号,(注8))という大きな記事が出ます。「ピアース大統領が遠征を取り消す命令を出したという噂は、最近はっきりと否定された」と述べて、アメリカがこの遠征から何を期待しているかが書かれています。最後にアメリカ海軍長官の年度報告書から以下の部分が引用されています。
日本の開国はすべてのキリスト教国の商業的冒険において、そして、アメリカの捕鯨船のあらゆる船主と、カリフォルニアと中国の間を航海する者すべてによって認められている必要性になった。この重要な責務が東インド艦隊の司令官に委ねられた。
注
注1 | The Illustrated London News, vol.18, 1851 Ja.-June. https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=mdp.39015027902827 |
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注2 | Captain Basil Hall, Voyage to Corea and the Island of Loo-Choo, a New Edition, London, John Murray, 1820. https://archive.org/details/voyagetocoreaan00hallgoog |
注3 | 来間泰男『琉球王国の成立』上下、日本経済評論社、2014 |
注4 | The Illustrated London News, vol.19, 1851 July-Dec. https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=mdp.39015027902801 |
注5 | Tamara Moser Melia and the Dictionary of Virginia Biography, “John H. Aulick (ca.1791-1873), Encyclopedia Virginia https://www.encyclopediavirginia.org/Aulick_John_H_ca_1791-1873#start_entry |
注6 | ”The United States and the Opening to Japan, 1853”, Office of the Historian, Bureau of Public Affairs, United States Department of State https://history.state.gov/milestones/1830-1860/opening-to-japan |
注7 | David S. Heidler, Jeanne T. Heidler, “Manifest Destiny: United States History”, Encyclopedia Britannica. https://www.britannica.com/event/Manifest-Destiny |
注8 | The Illustrated London News, vol.22, 1853, Jan.-June. https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=chi.60765664 |
注9 | ”Franklin Pierce, First Annual Message, December 5, 1853”, The American Presidency Project. http://www.presidency.ucsb.edu/ws/index.php?pid=29494 |
注10 | Larry Gara “Pierce, Franklin”, American National Biography http://www.anb.org/view/10.1093/anb/9780198606697.001.0001/anb-9780198606697-e-0400788 |