『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』は『ペリー提督日本遠征』から何を選んだか?
上の2葉の絵の最初のは『ペリー提督日本遠征』(1856:(注1))に掲載されているもの、2番目のは同じものを白黒版で『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』がその年の12月13日号(注2)に掲載したものです。キャプションは『ペリー提督日本遠征』のものをそのまま使っています。それぞれ、早稲田大学図書館蔵の「大井川歩行渡/広重画」(注3)と比べてみてください。アメリカとイギリスで紹介されたこの絵の作者名は記されていません。『ペリー提督日本遠征』掲載のは落款部分が滲んでいて「廣重」かどうか判明しませんが、字体から想像つきます。ところが、『東洋・西洋美術の出会い』(Michael Sullivan, The Meeting of Eastern and Western Art, University of California Press, 1989, p.211)では、国貞作とされています。
『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』では、『ペリー提督日本遠征』がアメリカ議会の命によって出版されたと紹介していて、「100点のリトグラフと、同程度の数の木版画の挿絵がつき、すべてが日本人の賞賛すべき生活、習慣、景色の特徴が示されている。これらはダゲレオタイプ(銀板写真法)で行われたので、その正確性を保証している」と述べています。500ページを超えるこの本を買う余裕がない読者には、八つ折り版(octavo edition)が半分以下の値段で売られているというので、『ペリー提督日本遠征』が相当広く読まれたと想像できます。
『ペリー提督日本遠征』に掲載された広重の「大井川歩行渡[おおいがわかちわたし]」は『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』では「日本の特徴——アメリカ合衆国遠征」と題された長い記事の途中に挿入されていて、記事の内容がほぼ『ペリー提督日本遠征記』からの引用です。 この本から『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の記者は何を選んだのでしょうか。絵入り新聞らしく、最初に「美術」(原文強調)の例を3点印刷したと述べて、最初は第二回遠征で条約署名が終わった後に寄った下田の現地人(母親と娘)の絵を選んでいます。文章の方は、『ペリー提督日本遠征』の横浜と下田の記述が混在していますが、正確な時系列は次のように『ペリー提督日本遠征』では記されています。
1854年4月に署名済みの条約を一足先にワシントンに送るためにアダムス司令官に託してサラトガ号が出発します。ペリー提督一行は日本人の生活を見聞するために、許された範囲内(5マイル=約8km)を歩き、「この国の多くを見て、いくつかの村と多くの人々を見る機会があった」((注1), p.394)と記されています。以下の『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』の解説では、ペリー一行がその後に行った下田の記述で始まり、その次の日本女性観も下田での見聞のようになっていますが、実際はペリー一行が横浜で観察した時の記述です。
『ペリー提督日本遠征』によると、人家は1,000、人口は7,000で、その5分の1は商人と職人である。人々は繁栄している様子を見せ、物乞いはほとんどいない。通りでは商取引の様子がなく、市場もなく、日常の売り買いは密かに行われているようで、通りすがりのよそ者には、下田はこの世の煩わしさや心配が全くない場所に見える。(中略)
条約の特権が保証された後だからか、ペリー提督と士官たちは下田の町を自由に歩き回った。平民はこの異人たちをとても歓迎しているようで、フレンドリーな会話を交わした。彼らはいつもの好奇心を見せて、アメリカ人の周りに群がり、アメリカ人の服を観察して、気に入った箇所について手振り身振りで英語の名前を聞いた。しかし、日本の役人たちはこのような接触を認めないので、武装兵士や警官が飛んできて、市民たちを追いやった。人々は逃げ、町の店も閉じられ、通りも人がいなくなり、まるで伝染病にやられてしまった町のような悲しい光景だった。(中略)
女性はヨーロッパの人口密集地の多くの地域と同じく、野に出て働いている姿をペリー一行は観察した。この人口の多い帝国では、一人でも多くの手が必要だということを示していた。最下級の人々さえ、快適な服装をしていた。上流階級の人と同じ粗い綿の同じ形の着物を着て、上流階級よりも短く、腰を隠すぐらいの長さのゆるい着物をまとっていた。ほとんどの男たちは裸足で、頭にも何もかぶっていなかった。女たちも男性とほぼ同じ服装だが、頭は男性のように剃ってはおらず、長い髪をてっぺんで結ったり、下で結わえていた。(中略)
『ペリー提督日本遠征』によると、日本社会には一つの特徴がある。それは他のすべての東洋の国々より優れていることがはっきりと示されている。女性が仲間、パートナーとして認められ、単なる奴隷として扱われているのではないことである。確かに、女性の地位はキリスト教の影響下にある国々ほどは高くないが、日本の母・妻・娘は中国のように家財、家庭内労働者として扱われるのでもなければ、トルコのハーレムのように気まぐれに購入した物として扱われるのでもない。一夫多妻制が存在しないことが日本をアジアで最も道徳的で洗練された国にしていることは明らかである。この下品な習慣がないことは女性を優れた性質に導き、家庭の徳を広める傾向にしている。
既婚女性のお歯黒を除いて、日本女性は不器量ではない。若い女の子は体つきがよく、かなり可愛い。彼女たちの振る舞いには自立心と陽気さが多く見られる。それは彼女たちが持つ比較的高い評価から生まれる尊厳の意識から出てくるものである。友人や家族との普通の会話や交流において、女性は同等に参加し、アメリカと同様、日本でもティー・パーティーや訪問などが活発に行われている。
『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』に採用されなかった『日本遠征』の記述
『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』はここで終わっているのですが、『ペリー提督日本遠征』ではさらに続いています。
提督と一行がいるところで平伏する女性たちが見せる態度は、彼女たちの従属の証拠というより、異人に対する畏敬の印とみなすべきだ。日本の大きな町や都市に大歓楽街があることは、不幸なことだが、あらゆる大コミュニティーの普遍的な法則だとみなすのが合理的だ。しかし、日本女性の名誉のために述べておかなければならないのは、江戸湾に艦隊が停泊している間中、艦隊の様々な人間と女性とが時たま持つ関係において、普通見られる女性たちの側からのみだらな素振りは全くなかったことだ。((注1), pp.392-393)
ただ、『ペリー提督日本遠征』では下田で見聞した公衆浴場の混浴について、「みだらな人々」と批判的です。『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』で紹介している版は民間出版社の版で、本稿で引用しているのはワシントンでアメリカ議会が出版した版です。アメリカ議会刊の『ペリー提督日本遠征』には混浴の図((注1), p.408)と以下の文章がありますが、ニューヨークのD. Appleton and Company刊の版(注4)にはありませんし、広重の絵も掲載されていません。以下がアメリカ議会刊の該当箇所(p.405)の拙訳です。
[下田の]人々は礼儀正しく控え目だが、気持ちのよい振る舞いという日本人のすべての特徴を見せていた。一つの公衆浴場での光景、男女が無差別に混じり合って、裸であることを意識していないという光景は、住民の道徳観に関してアメリカ人が非常に好感を持つことを計算していたわけではない。これは日本全国で行われていることではないかもしれない。実際、我々の身近の日本人はそうではないと言った。しかし、下級の日本人は、多くの東洋の国々より道徳標準が高いにもかかわらず、疑いなく、みだらな人々である。この浴場の光景以外にも、大衆向け文学にはわいせつな挿絵がついたものがたくさんあり、人口のある種の階級の人々のみだらな趣味や行為を証明している。これは汚らわしい堕落をみっともなく示し、ムカつくほど浸透していることを示している。
イギリス艦艇軍医助手の見た混浴場面
当時の日本の混浴の習慣は欧米艦隊乗組員の間で相当評判になっていたようで、4-4で紹介した1854年9月に長崎来航のイギリス艦隊の1隻、バラクータ号の軍医助手・トロンソンが長々と記しています。長崎——香港——カムチャッカを経て函館に1955年4月下旬に来航し、トロンソンが上陸後真っ直ぐ向かったのが、「私たちが散々聞かされてきた珍しい所、公衆浴場(Bath House)」でした。イギリス人男性の一群が入って行っても止められることもなかったようで、料金を徴収する若者に銅貨5枚渡し、中に入ります。進むにつれて変化する公衆浴場内の構造を詳しく述べながら、最初に目にするのが、冷水風呂で、「お湯から上がった男女子どもが火照った体に冷水を惜しげもなく浴びせていた」と書いた後、以下のように続けます((注5), pp.256-257)。
彼らは全裸だった。赤くなって、気分爽快そうだった。外国人の存在にも全く恥ずかしがらず、元気よく仕事[体を洗うこと]を続けていた。その展示[露出]は日本人には全く下品だとは見られていない。彼らにとってはまるでアダムとイヴの素朴さからくることなのかもしれない。我々、人工的な慣習を持つ人間は日本人の原始的単純さに驚かされる。そして、このような露出は若者男女に堕落的影響を与えると思う。公衆浴場は画家や解剖学者、また、完璧な形、あるいは、筋肉の発達を賛美する者にとって最高のスタジオだ。人間の体の自然なプロポーションや男女の美しさを観察する良い機会を与える場所だ。風呂を出ると、人々は粗いタオルで体を拭き、着物を着て浴場を出るか、お茶を提供する小部屋に入ってゆく。ここで私が浴場で観察した日本人の肉体について述べよう。
『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』では公衆浴場のことは触れられていません。その他、一般大衆向けに避けたのだろうかと思わされる違いは、お歯黒に関する記述です。『ペリー提督日本遠征』ではかなりしつこく、醜いばかりでなく、不健康だと述べています。「腐食性が強い成分を歯に塗るので、繊細な組織の歯茎や唇を守らなければならない。なぜなら、ちょっと触っただけで、皮膚が焼け、紫の壊疽のスポットができてしまう。どんなに注意しても歯肉は損なわれ、血色のよい色と生気は失われる」と述べた後、なぜこんな習慣が幸せな結婚生活を助けると考えるのか((注6), p.395)と疑問視しています。
注
注1 | Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan, Performed in the Years 1852, 1853, and 1854., Under the Command of Commodore M.C. Perry, United States Navy by Order of the Government of the United States. Compiled by Francis L. Hawks, Washington, A.O.P. Nicholson, Printer, 1856. 大井川歩行渡はp.462の後に挿入されています。 https://archive.org/details/narrativeofexpe01perr |
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注2 | ”Characteristics of Japan”, The Illustrated London News, Dec. 13, 1856, p.590, Hathi Trust Digital Library. https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=mdp.39015013762649 |
注3 | 「大井川歩行渡/オオイガワカチワタシ/広重画」早稲田大学図書館 http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/chi05/chi05_03950/index.html |
注4 | Narrative of the Expedition of an American Squadron to the China Seas and Japan, Performed in the Years 1852, 1853, and 1854., Under the Command of Commodore M.C. Perry, United States Navy by Order of the Government of the United States. Compiled by Francis L. Hawks, New York, D. Appleton and Co., 1856. https://archive.org/details/narrativeofexped00perr |
注5 | J.M. Tronson, Personal Narrative of a Voyage to Japan, Kamtschatka, Siberia, Tartary, and Various Parts of Coast of China; in H.M.S. Barrcouta, London, Smith, Elder, & Co., 1859. https://archive.org/details/personalnarrativ00tron |
注6 | (注1) |