アロー号事件(1856年10月)とイギリスによるカントン砲撃のニュースがイギリス・メディアにどう報じられたか、第一報を紹介します。
アロー号事件の報道
「THE FOLDING SCREEN: A JAPANESE TALE(屏風:日本の物語、5-2参照)」が掲載された『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』1857年1月3日号には、アロー号事件とカントン(廣州)砲撃の報道が掲載されています。同じ号のコラム「外国と植民地のニュース」では、「ペルシャとの戦争」と題して、ペルシャでイギリスが占領のための戦争をし、ロシアがペルシャに加担していることも伝えられています。
イギリスがアロー号事件を理由としてカントン攻撃を1856年10月に開始しました。イギリス議会で不当な攻撃と糾弾されますが、その首謀者の1人は、後に日本公使になるハリー・パークス[Harry Parkes: 1828-1885]で、香港提督のボーリング卿[John Bowring: 1792-1872]と共に中国に一方的な戦争を仕掛けます。そのニュースがイギリス本国に4ヶ月後に伝わり、イギリスの上院・下院で大論争になります。パーマーストン首相(3rd Viscount Palmerston: 1784-1865)はパークスらの行動を支持しますが、下院では非難決議が多数で通り、解散総選挙が行われます。結果はパーマーストンの圧勝で、カントン攻撃を非難した議員たちは落選します。
アロー号事件について、当時の新聞がどう報じたのか、議会ではどんな議論がされたのか、その議論がどう報じられたのかなどを検証したいと思います。まず、アロー号事件の第一報を『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』と『ロンドン・タイムズ』などがどう報じたかを見てから、議会での論争を紹介します。
カントンの砲撃((注1), p.664)
最新のオーバーランド・メールは、中国当局の無礼な行為に関連してイギリス艦隊がカントンを砲撃したという驚くべきニュースを運んできた。最近、イギリス商人の不満を是正することをカントンの知事が拒否したために、イギリス当局者と知事との間でやりとりが行われてきたが、非常な困惑をもたらした。[1856年]10月8日に中国当局はイギリスの船を拿捕し、乗組員を逮捕するという独断的な暴力行為を完遂した。確かな筋の情報によると、中国当局は乗組員のうち、4人を斬首した。イギリス側の役人、パークス領事は現地で、まず当該船に乗りこみ、次に中国の役人を問いただした。船上で領事は中国役人に脅され、中国側はこれらの出来事の説明を拒否した。これらの経緯を領事はすぐさま香港のジョン・ボーリング卿と、現地にいたマイケル・シーモア卿[イギリス海軍東インド・中国基地最高司令官 Michael Seymour: 1802-1887] に伝えた。この報復が穏やかな方法で開始された。中国役人のジャンクをシビル号のエリオット艦長[Charles Elliot: 1818-1895]が拿捕し、香港に連行した。
一方、パークス領事はカントンの知事、葉[葉名琛ようめいちん:1807-59]に強い抗議文を送ったが、返答はなかった。努力が無駄だと悟ったパークス領事はさらなる調停の試みを放棄した。そしてすぐに海軍が現場に登場した。
10月18日にマイケル・シーモア卿は香港から艦隊を送り(詳細は中略)、シーモア提督自身もカントンに進軍して作戦の指揮をとった。イギリス人と他の貿易商たちは事態について公式な警告を知らされており、1週間前からほとんどなかった商取引は停止された。カントンの前の川はロンドン・ブリッジのテームズ川より広いが、水深は2尋以上はない。(支流についての説明は中略)カントンは5つの砦に守られており、そのうち2つは陸側、他の2つは珠江川(Pearl River)側にある。これらの砦が10月24日に我が軍の男たちによって攻撃され、占拠された。シーモア提督はそれ以上攻撃せずに砦の戦闘を終わらせたが、中国の知事はイギリス指揮官に対し、満足の意を表明することも、面会を許可することもしなかった。
そこでシーモア提督はカントン市自体を攻撃することにした。市を取り囲む塀は一部は砂岩、一部はレンガ作りだ。30フィートほどの高さで、25フィートの厚さであり、大砲が据えられいる。10月27日に塀に向かって砲撃が始まった。29日には城壁が破られ、部隊が市内に入った。知事の宮殿が占領されたが、その地理的位置は大した価値がないとされて、夕方には部隊が撤退した。死者はわずか3人、負傷者は12人だった。(市の中心部への攻撃は中略)11月3日と4日に、市内の軍駐屯地が砲撃された。6日にバラクータ号が[中国軍]のジャンク23隻を破壊した。中国の知事にはさらなる熟考の時間が与えられたが、カントンの状況についての最新の知らせが香港に届いた時点で、調停の気配は見られなかった。カントンの帝国守備隊は非常に弱体化していた。知事は兵卒の給料を月6ドルから9ドルに上げた。(中略)
事件全体を統括するシーモア卿閣下はカントンのイギリス人全員から賞賛と尊敬を浴びた。彼が示した忍耐と人間性と、怯むことなく決断して行動したことは、最高の自信をかきたてた。この間ずっと、[英国人]コミュニティは知るべきことはその都度十分な情報が与えられた。商館は強固に守られた。(中略)以下の外国コミュニティ向け回覧が伝えているように、和平はすぐには期待できないし、交易の再開も望めないし、当面は最終的結果を予想することは無駄である。
回覧:カントンの英国コミュニテイに告ぐ
在カントン 英国領事館、1856年11月15日
英国女王陛下の領事は英国海軍最高司令官、シーモア卿閣下の指示を受け、イギリス・コミュニティに以下の告示をする。
過去2,3週間にカントンで女王陛下の海軍によって閣下の指揮のもとに何がなされたか、その原因と進捗状態を要約することは不必要だと閣下は考える。海軍の損失は幸いなことにわずかであり、作戦はボーグ砦(Bogue Forts)の占領を含め、極めて成功している。
閣下が残念に思うのは、[中国の]帝国長官が条約の義務に反したために閣下がこのような極端な方法を取らざるを得なかったこと、[カントン]市と市民が女王陛下の戦艦に翻弄されているという明快な証拠をもってしても、将来の誤解を招かないために閣下が要求する譲歩を帝国長官が受け入れようとしないことだ。
この譲歩案はカントン中国人の上層階級の感じ方を代表する人物によって不当ではないと考えられていると閣下は理解している。さらに、中国人にとってこの譲歩には何も障害となるものはないと見られている。しかし、長官自身の実行不能性が障害である。長官はイギリス人を反逆者や不法者の仲間だとして、その敵意をイギリス国民の首に区別なく報奨金をかけるという残忍な手段にさえ訴えた。
閣下は要求を認めさせる決意だが、[英国]コミュニテイは閣下が今後取るいかなる道も、広報によって傷つけられる可能性に注意しなければならない。従って、和平の回復の可能性はすぐにはないという見解だけに留めるというのが閣下の声明である。
外国の地位の安全は今まで通り保たれるであろう。作戦の性質や目的がどんなものになろうと、閣下のみに留められる。
署名 ハリー・パークス
在カントン 女王陛下の領事
『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』の第一報
このニュースがアメリカにどう伝えられたかを調べたいと思い、『ニューヨーク・タイムズ』の前身、『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』の報道を追ってみました。イギリスより2週間ほど遅く、第一報は1857年1月19日に報道されています。この頃の『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』の海外報道は、まず郵便船の入港の情報から始まり、船名、入港日、積荷、著名な乗客についての記述の後に、海外ニュースが報じられています。
1857年1月19日第一面見出し(注2)
「ワシントン市号の到着/ ヨーロッパとアジアの重要ニュース/ 英国によるカントン砲撃/ 安南政府が中国侵略の大規模準備/ フランスが中国で軍事行動」
- 全く予想もしなかった情報が中国から届いた。10月24日にイギリス艦隊がシーモア提督の指揮の元に、カントン市への砲撃を開始した。砲撃は2日間続き、市の壁は突破され、ボーグ砦が占領された。商業は完全に麻痺した。
- この戦闘の原因はイギリス人船員複数が捕らえられたことである。
第二面見出し「英国と中国との戦争/ カントンの砲撃/ 広大な破壊規模」
この欄では『ロンドン・デイリー・ニュース』と『ロンドン・タイムズ』からの記事が掲載されています。『ニューヨーク・デイリー・ニュース』によって選択された抜粋であっても、2紙の特色が現れているように感じます。最初に『ロンドン・デイリー・ニュース』の記事を掲載していますが、「最近のカントンでの出来事がかなり完全な姿で見ることができる」と断って、現地の英国当局とカントン知事との交渉は困難で、「英国商人のどうしようもない怒りの結果となっている」と書いた上で、事件の詳細を記しています。『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』とほぼ同じです。
記事の最後に「この時のシナ海における我が艦隊は大きい」と、全戦艦名、規模、指揮官名をあげています。香港には5隻、ワンポアに5隻、カントンに1隻など、合計8隻の英国艦隊がカントン攻撃に集結できると挑発的な内容だと感じます。次に『ロンドン・タイムズ』(1856年12月30日)の記事を掲載していますので、異なる内容部分を抄訳します。
『ロンドン・タイムズ』(1856年12月30日)
現代の電信は、それが誰の感情に衝撃を与えるか、誰の同情心を傷つけるか、誰の神経を揺さぶるか御構いなしに、無遠慮で無作法な簡潔さでメッセージを口走る。残された私たちはそれをどう飲み込み、信じていいのか。
最後の文は、”leaving us to swallow it as well as we may”で、swallow(飲み込む)に、「鵜呑みにする、耐える」の意味もあるので、意訳しました。次の文は、「日曜日の夜、平和な眠りについたロンドン市民は月曜に起きてみると」と始まり、以下が続きます。
我々が砦を占領し破壊し、カントン市の壁を突破して急襲し、カントン市を砲爆したという突然の確信に目覚めた。これら全ての虐殺と荒廃をこのように突然、ズバリと伝える記事を読んで、誰もが最初に感じるのは、これほどの激しい軍事力に訴えなければならないほどのことが起こったのかという残念な思いである。
この後、電信の内容が伝えられますが、その前に、ニュースを伝える人は信頼できるかという内容が9行も続いて、「この報告には急いだ形跡がないと言えることは喜ばしい。英国提督は適切な自制心をもって行動したようである」と始まっています。アロー号の乗組員12名を中国当局が逮捕したとは書かれていても、上記2紙のような、斬首したという文言はありません。しかし、英国領事が暴力で脅されたと書いています。「葉総督は以前に増して軽蔑的に見えた」というような、主観的、印象操作的な表現がある一方、他紙が触れていない中国側の被害について、『ロンドン・タイムズ』の記事は以下のように触れています。
この古都は11月3日に再び砲撃された。150万以上の住民を擁するこの町は住居が密集しており、砲撃の影響は恐ろしいものだったに違いなく、失われた人命は膨大な数に違いない。しかし、我々が聞くのは火事による資産の喪失のことだけである。
そして、海軍の艦隊が砦を砲撃する様子が伝えられ、「たった2,3日で先の中国戦争[第一次アヘン戦争]全体で行われたのと同じぐらいの戦闘と破壊だったと理解できた」と続きます。最後の段落を抄訳します。
このような定期的な衝突が起こることを防ぐ方法を我々が考え出す力があればと心から願う。このような衝突が政府の愚かさと傲慢さで起こる一方、その影響は哀れな人々に悲しむべき過酷さを及ぼす。カントンは、我が陸軍と海軍の連隊本部がある所の近くに位置し、中国帝国のどこよりも、ヨーロッパ文明と中国文明との接触に適応していない。気候は熱帯で不健康、人民は乱暴で残酷、市は船では近づけない、帝国の最南端に位置している。我々の中国との関係は徹底的に完全に再調整が必要である。我が植民地をこの国の主食が生産されている地方、気候が比較的温暖な地方の近くに移動させること、そして我々の陣地は大きな川の河口の近くでなければならないから、このような地方への移動について検討する価値があるのではないか。我々が舟山(Chusan)を諦めて香港を選んだことは悲しむべき手落ちだったと、ずっと考えられてきた。中国がこの問題を再考するよう要請しているから、この間違いを正すに遅すぎることはないだろう。
これらの新聞記事の内容が事実かどうか、2ヶ月後のイギリス議会上院(貴族院)で2日間、下院(庶民院)で4日間、激しい議論の応酬がありました。次節で紹介します。
注
注1 | “The Bombardment of Canton”, Jan.3, 1857, Illustrated London News, vol.29, 1856 July-Dec. (1857年1月3日号はこの巻の最後に掲載されています)、p.664(米国大学図書館協同デジタルアーカイブ、ハーティトラスト・デジタル・ライブラリー https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=mdp.39015013762649 |
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注2 | The New York Daily Times, Jan.19, 1857. https://timesmachine.nytimes.com/timesmachine/1857/01/19/issue.html |