1857年2月24日のイギリス議会上院(貴族院)で、在中国のイギリス当局者のアロー号事件対応とイギリス軍によるカントン攻撃について、非難する動議が出されます。
カントン攻撃についてのイギリス議会での論争:上院(貴族院)
イギリス議会では上院(貴族院)で1857年2月24日と26日、下院(庶民院)で2月26日、27日、3月2日、3月3日に大論争が展開されます。
2月24日の上院で中国問題の解決策の動議を提出したダービー伯爵[Edward Stanley, Earl of Derby: 1799-1869]の論点(注1)を紹介します。彼の演説は2,3時間続いたようで、反論の議員1人が話したところで真夜中になったからと、議長が1日考える時間をとって、2日後に再開すると宣言します。ダービー伯爵は自分の信条を述べてから、アロー号事件とそれに続くイギリスの戦闘行為の真相と解釈を述べます。
ダービー伯爵の論点
- 立場の表明:私は動議に関して利害関係はないし、報酬も受けていない。純粋に政策・正義・人間性を支持する者として発言する。権力に対する弱者、傲慢な自称文明国の要求に対する困惑した野蛮を支持する。大英帝国の強圧的な力に対する中国のか弱い無防備を支持する。
- 中国との貿易関係:中国からのお茶、絹などの輸入は急速に増え、この貿易は非常に奇妙な難しい状況で行われてきており、英中貿易は英国にとって利益の大きいものとなってきた。それが突然、英国政府からの令状も宣戦布告もなしに、中国と戦争状態になり、貿易もストップしている。
- 攻撃について:商船を拿捕、友好的な国の砦を破壊し占拠した。我が国の優勢な戦力で中国の戦隊全体を拿捕し、英国提督の命によって市民の住宅を爆撃し、英国の戦艦で無防備な市を砲撃した。これを議会は国民に対し正当化できるのか、議員全員が正当化できるのか、説明を要求もせずに沈黙して済まされるのか。もし満足いく説明がなされないなら、このような行為が英国役人としてふさわしくないと議会が強く非難すべきだ。
- アロー号事件の経緯:パークスからの中国長官とジョン・ボーリング卿宛の通信(カントン、1856年10月8日)では、イギリス国旗を揚げていたイギリス船アロー号に今朝突然中国軍艦に乗った中国役人が押し入り、14人の乗組員のうち12人を縛って連行したと記されている。この暴力行為に加え、彼らは国旗を引き摺り下ろすという侮辱を行ったと主張した。
- 条約違反というパークスらの主張について:1843年の追加条約によると、中国人不法者がイギリス船に逃げ込み、中国当局が犯罪を確認した場合、イギリス当局に連絡し、犯罪者の捜索をし、証拠または自白によって逮捕することができる。
- アロー号はイギリス船か?:アロー号は中国で中国人が製造し、中国沿岸で交易していた。海賊に襲われ、のちに中国当局に奪還され、カントンの中国人に売却された。香港に移動して、香港在住の中国人に売却の交渉が進んでいたところに事件が起こった。
- ダービー卿の質問「どんな手品でこの中国船がイギリス船に変身したのか?」:1855年3月に香港議会が条例を制定し、中国本土との貿易用船舶の登録に関する違法行為を改めるため、イギリス人所有の船舶は当植民地内の港で自由に貿易ができること、何人も当植民地で船舶登録を望む場合、植民地省長官に文書で申請し、中国貿易のみか遠距離航海かを明記することとされている。
ダービー卿の見解:この条例はイギリスの法律に矛盾しているだけでなく、イギリス船の資格に関してイギリス法全体を無効にした。
- 植民地におけるイギリス国籍資格:香港の法務長官の見解は、香港植民地には6万人の中国人がいるが一人として法的にイギリス国籍者とは呼べないとして、次のように言った。「ここの中国人をイギリスに帰化させるのは勧められない。しかし、香港の上流階級の多くは、長期借地のテナントになったのだから自分たちは本物のイギリス人だとみなしている。永久植民地になれば、彼らの子孫は法律によっても事実上もイギリス国籍ということになると考えている。イギリス法務官として、イギリス領長期借地の中国人テナントには登録証を与えるべきだと提言する」。
- ダービー卿が指摘する香港条例とイギリス法の齟齬:イギリス商船はイギリス人が所有者であること、イギリス人とは出生または帰化によってイギリス国籍を得、忠誠宣誓をした者である。これらの者だけがイギリス商船を所有でき、イギリス国旗を掲げることができる。香港の条例を確認する勅令は出されていないから、この条例は紙くずにすぎない。
- 香港の条例が密輸を奨励する:数ヶ月前に条例で許可証を交付された船2隻が塩の密輸で拿捕され、中国当局が船を没収した。ジョン・ボーリング卿は葉知事に荷を没収するのはいいが、船は逃すよう指示し、ここで初めて条例を伝え、この条例によると、イギリス船が密輸をした場合、中国当局は密輸品の没収はしてよいが、船は逃すことになっている。今回中国当局が船の解体までしたことは行き過ぎで、条約違反だと伝えた。
ダービー卿の見解:この条例が違法に制定されたので、条例そのものが条約違反である。しかも船はイギリス船ではなく中国船だった。
- イギリス国旗:イギリス海軍総司令官と領事と中国当局からの苦情によると、商船がイギリス国旗を掲げるという悪用が横行している。香港植民地の繁栄は土着民に関する限り、商船による沿岸貿易に頼っているため、植民地政府はこの条例を通すことを奨励する。アロー号がイギリス国旗を掲げる資格があるかについて、香港総督ボーリング卿がパークス領事に宛てた1856年10月11日付書簡で、「アロー号の許可証は9月27日に失効しているから、この船はイギリス国旗を揚げる権利はないし、イギリスの保護を受ける資格もない」と言ったと書いている。従って、9月27日以降、アロー号はイギリス船だと主張することはできない。
- 中国当局がイギリス国旗を引き摺り下ろしたのはイギリスに対する侮辱か?:名目上の船長は当時アロー号の隣の船におり、国旗が降ろされたのを見たと証言し、他の船の船長も同じ証言をした。乗船した中国役人は何度も、そもそも国旗はなかったし、自分たちが国旗を降ろしもしていない、アロー号は中国の船で乗船していた2人の海賊を逮捕する役目を果たしただけで、条約違反ではないと厳粛な様子で言った。中国長官はイギリス国旗は掲げられていなかったと何度も言った上で、「貴国の規則では、錨をおろすと旗を降ろし、出港するまで旗をあげない。アロー号に我々が乗船した時、旗は上がっていなかったという確かな証拠があるから、[上がっていない]旗を下ろすことがどうしたらできるのか?」
- 条約違反を理由にカントン攻撃したことの是非:アロー号がイギリス船でなければ、条約違反ではない。アロー号で唯一のイギリス人は23歳の名目上船長とされた人物で、彼は船主が誰かも、船についても、何も知らない青年だった。この船に2人の悪名高い海賊が乗っていたので、イギリス当局がいない時に逮捕された。それだけでイギリス政府が中国皇帝に宣戦布告したら、イギリス人立法者として、常識と信義を重んじる人間として、このような行為を認めるか?
- 香港総督ボーリング卿の二枚舌:アロー号はイギリス国旗を揚げる権利はないと言いながら、葉知事には「アロー号は私が認可した登録証によってイギリス国旗を揚げていた。貴殿の部下がイギリス領事に知らせずに乗組員を逮捕したのは条約違反である。貴殿の部下が旗を引きずり下ろすまでイギリス国旗は揚がっていたという疑いのない証拠がある」(葉知事宛11月14日付書簡)と書いている。
ダービー卿の問いかけ:これが、イギリス人官僚の特徴であるべきオープンで正直な交渉だろうか?これは、最も疑い深く、しかし同時に最も商業的な国民からイギリス人官僚が尊敬と信頼を得るために計算された進め方だろうか?このようなことを元に、この国は我が国の代表者によって破滅的で高くつく戦争に引き摺り込まれのだろうか?
- 南京条約の経緯について:香港総督ボーリング卿、パークス領事、英国海軍最高司令官・シーモア卿がカントン開港が条約で約束されているとして攻撃したことの是非を、ダービー卿は条約作成の経緯と履行状況から解説します。第一次アヘン戦争で締結された南京条約(1842)にカントンを含めた5港の開港が書かれていたが、「中国皇帝が署名したとき、イギリス人がカントンの城廓都市内に住むことを許したと考えていたとは疑わしい」「1846年の追加条約は酷い脅迫のもとでなされ、双方の和平が確実なものとなった際にカントンに外国人を入れるのが安全だとされた。しかし、条約の権利をイギリス政府が主張することを諦めたわけではないと書かれている。その後1847年にカントン・広西総督の耆英[きえい、Keying:1787-1858]との協定で、イギリス人がカントンの市内に入れるのは1849年と定められた」。
- 強制的に締結された条約の権利の主張について:1848年にイギリスの全権大使だったジョージ・ボーナム卿(当時は氏、George Bonham: 1803-1863)は当時外務大臣だったパーマーストン卿に指示を仰いだ。中国当局が明らかに嫌がっており、懸念しているのに、イギリス人を入れさせるべきかと。ボーナム卿は1849年7月20日付の書簡で、こう書いている。「もしイギリス政府がカントン市を他の4港と同じく[イギリス人に]開放することに固執するなら、私が実行できるような手段を私が自由に使えることが必要です。ご存知のように私は植民地省によって香港からイギリス軍部隊を移動させることは止められています。しかし、軍隊による示威行為以外には市内に入ろうとするのは無意味です。中国当局が我々の入市に終始反対していたのは、騒動と暴動の恐れと、カントン市の暴徒を抑えることができないからです。(中略)このような状況下で、100万人都市に強引に入ろうとすれば、その結果は明らかです。起こるであろう[イギリス人に対する]侮辱行為や暴力に備えて、軍隊を待機させます」。これに対し、パーマーストン卿は「カントンに武力行使することは勧められないというのが私の明確な意見である。あるいは、北京に使節を送って、カントンにイギリス人を入れろと主張するというような異例の措置を取ることも勧められない。確かに主張する権利はあるが、それを武力で進めたら安全も利益もないことになる。(後略)」(12月30日付書簡)と返答します。これに対するボーナム氏の以下の見解を、ダービー卿は「諸君、これが中国で最大の経験を重ね、中国人の性格を完全に把握しており、非常に長い間女王陛下の官僚として仕えてきた人の言葉です」と注意喚起しています。
ジョージ・ボーナム香港知事の見解
- イギリス人がカントンに無差別に入市することが認められても、イギリスの商業に何の物質的利益はないと考えます。イギリス政府が中国政府と敵意を持って話し合うという危険なリスクに見合うものは何もありません。この変化[カントンにイギリス人を入れる]に関するカントン市民の現在の感情を考慮すると、この特権を利用しようと入ってくるイギリス人に対して、市民全体が侮辱行為や暴力行為を犯さずに1ヶ月ももつとは思えません。
- 当地の商業社会の代表者たちの見解を聞いた結果、イギリスが権利を主張することから起こる政治的不都合に彼らは非常に敏感で、イギリスが武力に訴えて要求を通すより、この問題を棚上げにしたままの方が彼らにとっても商業全般にとっても被害が少ない。
外務大臣パーマーストン卿(当時)の結論
- ボーナム氏宛て1849年6月25日付書簡:「イギリス政府が条約で合意したイギリス人のカントンへの入市の権利を完全に永久に放棄するのが問題を簡単にするのは確かだ。一方、武力で中国政府に認めさせ、将来の英中関係の足場を確かなものにする。あらゆることを考慮した結果、イギリス政府はいずれの道も取りたくない。(中略)陸海軍の武力による条約権の執行には我が方の貴重な人命の損失の可能性があり、中国側には多大な人命と財産の喪失を負わせることになる。(中略)イギリス政府は将来条約違反が起こるまで待つことを選択する。」
ダービー卿の解釈
- ボーナム氏は中国事情に通じていて、時のイギリス政府と外務大臣はこの件を強制しないのが得策だと判断し、1849年にボーナム氏はカントンにイギリス人が入ることを禁じる宣言を出した。中国側がイギリス人のカントン入市に反対していた理由は、両国民の衝突から生じる結果、中国人の敵意からイギリス人を守ることができないという恐れ、両国間の良好な関係の生き残っているものまでが危険に晒されることだ。
- イギリス人は中国を専制国家で、中国皇帝を完全な専制君主だと見ているが、彼らにも原則や金言がある。葉知事がシーモア総督に書き送った金言がある。「中国で守られているルールは、天(自然)が示す道が追及すべき正しい道である。その主眼は人民である。(中略)人民は国家の基礎とみなされている。君主が人民を愛せば、人民が君主に従う希望がある。(中略)皇帝自身の言葉でも、人民を守ることに国家の安全がある。(中略)中国政府は人民の望みに逆らって、遠来の人々の望みを聞く権力はない。外国の国家は自分たちの商人がリスクなしに自由に商売できるようにするためには、人民の気性や気持ちを研究する義務がある」。
- イギリス側と中国側がやりとりした書簡を読むと、イギリス側の言葉遣いとトーンは恥ずかしい。威嚇的で無礼で、苛立った傲慢な調子だ。一方、中国側の言葉遣いは一貫して寛容、丁寧、そして紳士的である。例えば、アロー号の拿捕が起こった日、10月8日にパークス領事は[中国側からの]説明を待たずに、賠償を強要するためにエリオット海軍司令官に協力を要請し、11日にはボーリング総督が領事に対して、最大級の高圧的方法で賠償と謝罪を要求せよ、もし[中国側が]応じなかったら、中国の船を拿捕せよと命じた。これは中国側とのやりとりもしない時で、中国側に説明の機会を与えずに攻撃することを最初から狙っていたように見える。
- イギリス当局の緊急な要求に従って、逮捕された12人全員がイギリス領事に返されたが、領事は自ら要求した逮捕者の引き取りを拒否した。理由は中国の役人が付き添っていなかったからだが、中国側は要請通りに外国人関係の担当者を送り、その地位役割なども述べさせたのに、「おかしなことに、彼は認められませんでした」と中国長官は述べている。一方、パークス領事はシーモア海軍司令官に次のように説明している。「逮捕者の引き渡しについて、そのうち10人を返してきたが、12人全員でなかったので、私は受け取りを拒否した。すると知事は12人返してきたが、私が8日の手紙で要求した方法ではなかったので受け取らなかった。(中略)[知事からは]何の謝罪も来なかった」。
ダービー卿のコメント:諸君、もちろん、中国長官は手紙で要求された通りの行為をしたのだから、謝罪はしなかったのです。中国長官はこう書いています。「パークス領事は[自分が]要求したことを承諾しないと決めていました」。パークス領事とジョン・ボーリング卿が、カントンに自由に入市するというボーリング卿の偏執狂的要求を付け加えるために、このような不満を最大限活用する決意だったという中国長官の意見に私は大いに同意します。
- パークス領事の計画:10月20日、アロー号事件の12日後に開催された香港会議でパークスはカントン攻撃計画を披露した。「カントンにおけるイギリスの権益を守る役割の者として提案する」と前置きし、「[珠江]川には中国の戦艦がいなかったので、中国長官がイギリスの要求に24時間以内に応じない場合、黄埔(ワンポア)とカントンの間の砦を占拠するべきだ。中国長官がそれでもなお反抗的なら、カントンの砦を占拠し、長官の住居も爆撃することを強く提案する」と言った。
- 実際の攻撃内容:作戦はパークスの提案通りに進められた。バリア砦(Barrier Forts)は[イギリス側の]死傷者なしに占拠され、カントン市の砦は抵抗なしに占領された。
ダービー卿の見解:ボーリング卿は商業的ではあるが、同時に疑い深い中国人に外国人との自由な交流を認めさせるために、彼らの家を叩き壊し、彼らの都市を爆撃し、父親・子ども・家を失わせるという、あらゆる方法の中で最も奇妙な方法を使ったのです。この全作戦の結果は、完全な平和時に、宣戦布告もなく、我々は[中国の]船を拿捕し、砦を破壊し、知事の邸宅を砲撃し、無害の商業都市を砲撃したことです。
- 葉知事の抗議:「貴国は1世紀以上もカントン市民と交易をしてきました。この間、カントン人と貴国民とは敵対関係ではなく、友好関係にありました。最近のアロー号事件は些細なことです。これは根深い憎悪の事件ではないし、忘れられない巨悪というものではありません。それなのに、あなた方は突然武器を取り、数知れぬ市民の住居を焼き払い、多くの市民を殺すまで数日間も砲弾を発射し続けました。苦しみながら家から逃げなければならなかった老人・子ども・女性が何人いたか計り知れません。貴国民がこの情景を見ていなかったとしても、[叫び声を]聞いた筈です。これほどの惨事を被らなければならない、どんな罪をカントンの人々が犯したというのですか?あなた[ボーリング卿]がカントン市内で公式な入市式を主張していると知りました。友好的な関係ならば、これ[行えること]は疑いないが、あなたの唯一の儀式が我々に向かって発砲し、その結果、市民を殺すことですから、たとえあなたが市内に入れたとしても、あなたが焼き殺した市民の息子・兄弟・親族たちは貴国民に復讐するために命を捨てる用意があるでしょう。これらの人々を止めることは当局にはできません。当局はあなたの入市を認めることはできますが、貴国民が[カントンに]入るにあたって、完全な安全性を保証することはできません。もし貴国民の入市が認められたら、彼らの安全を守るために大部隊を常駐させることができますか?護衛部隊は長期間ここに残ることはできません。もし死亡や負傷があなたの入市の条件なら、たとえあなたが入市を獲得できたとしても、カントン市に入るには何という恩恵がもたらされることでしょう。
もう1点は、カントン市に砲弾が数日間投げ込まれ、建物が焼かれ、人々が殺されたのに、[中国]部隊による反撃はありませんでした。これは本当に友好的で譲歩的ですから、あなたにも十分ご満足していただけるでしょう。些細な事件に対して戦争という最後の手段を使ったのですから、今度は市民の生命のために、攻撃を一時停止し、この作戦で達成したことを考慮して、終結していただきたい。現在続行中の困難に、なぜさらなる困難を加え、両国の友好的な関係を妨げる原因を作るのか?」
- ダービー卿の訴え:諸君、中国人は被った損害に対する賠償を求めているのではない。この損害が友好関係を邪魔するものだとしてはいない。彼らが言っているのはただ「作戦を止めてくれさえしたら、我々は昔のように商業関係を再開する用意がある。あなた方が我々平和的市民の血を流し、無防備なカントン市を爆撃したことで復讐を求めてはいない」ということだ。諸君、アメリカ人が似たような状況でどんな対応をしたか見てみよう。アメリカが砦に近づきすぎた時、砦から発砲された。アメリカはどうしたか?町を爆撃する代わりに、砦を黙らせただけで、以前通りの交易を平和裡に続けたのです。ところが我々は賠償問題を手に、残酷な行為を次から次に進め、どんな状況下でも決して正当化できない野蛮の数々を犯したのです。その結果、カントン市民の中に、数世紀かかっても根絶できない反英感情を生み出したのです。この感情を示すのは、中国長官が皇帝の指示を仰ごうとした時、ボーリングは海軍提督に「もし長官が北京に指示を求めようとするなら、貴殿はいかなる手段を取っても聞き入れてはならない」と書いたのです。諸君、この手段はイギリス政府からの指示なしにイギリス全権大使が採用し、この役人が自分の権限で戦争を起こし、指示なしどころか、指示に反して、本国の当局に相談なく、[彼が]戦争を仕掛けた国の皇帝と一切のコミュニケーションなしに起こしたのです。
イギリス議会の正義感を信頼しています。イギリス人の寛大な気質を信頼しています。何よりもキリスト教界に期待しています。私が述べてきた行為、異教の人々に外国が行った行為が、聖なる宗教の恵みを広め、関心を高めるために計算されたのかお尋ねしたい。キリスト教によって教えられ、たたき込まれた親切、我慢強さ、寛容という根本原理を聞いてきた中国の無知な原住民が、キリスト教国の代表者が無慈悲で非寛容で野蛮で血に飢えた人間だとわかった時の思いはどんなものだっただろう。中国人はこう言うかもしれない。「あなた方が行ったことはあなた方の教えに直接違反するから、あなた方の宗教は何の価値もない。彼らは戦争追求、あるいは商業追求の人々で、物欲に目がくらんでいて、自分たちの宗教の原則を無視している」。しかし一方で、これらの役人たちの出身国にはその国の最高の高貴な人々で構成される威厳ある議会が存在していると中国人は気づいているかもしれない。このような時にキリスト教を守り、汚名を晴らすために立ち上がる男たちがいるかもしれないと思うかもしれない。キリスト教会の長が人間愛と文明という大義のために立ち上がってくれることを望む。もし教会が曖昧な表明をしたら、私は深く嘆きます。今夜、諸君の投票によって、次のことを宣言していただきたい。この国の最もひどい特権を持つ下級当局者たちによってなされた権利の侵害を認めないこと、軽微でささいな諍いを基にした宣戦布告を容認しないこと、あるいは沈黙によって認めるようなことをしないこと、友好国の砦の破壊を容認しないこと、無防備な商業都市を爆撃することを容認しないこと、法的道義的正当性なしに非好戦的で無辜の民の血を流すことを認めるような声をあげないこと。
- ダービー卿の動議
- カントンの中国当局とイギリス人との間の友好的関係の妨害について本議会は遺憾の思いで知った。
- この問題をめぐる紛争の発生は、1849年以来停止状態になっているイギリス人のカントン入市を中国当局に武力で要求することで、これは時期的に非常に不利であるというのが本議会の見解である。
- 実際の戦争行為が、イギリス政府が事前に指示を出し、それを受け取ってから行われるべきであったというのが本会議の見解である。言及された当事者のいずれもが、このような戦争行為の正当性を十分に証明していない。
注
注1 | 「決議の動議。討議の延会」上院(貴族院)、1857年2月24日 https://api.parliament.uk/historic-hansard/lords/1857/feb/24/resolutions-moved-debate-adjourned#S3V0144P0_18570224_HOL_12 |
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