アロー号事件を理由にカントンを攻撃したイギリス政府に対し、議会として非難決議すべきだとイギリス議会上院で動議され、動議に対する賛成・反対の議論が続きます。
クラレンドン伯爵の反論
外務大臣だったクラレンドン伯爵(Earl of Clarendon: 1800-1870)がダービー伯爵の動議に反論します。その論点を以下にあげます(注1)。
- 中国はイギリスが条約で認められた特権を行使するのを制限し、イギリスを侮辱し続けている。この状況は耐え難く、続くべきではない、遅かれ早かれ、決裂関係の事態が生じると感じない人はいない。
- その事態が生じた今、現場にいた人たちは皆、取られた措置を必要と認めた。彼らが今夜ここにいたら、ダービー伯爵が提案する非難決議に賛成しないよう頼むだろう。
- 真の問題はアロー号が香港の中国当局によってイギリス船だと認められ、イギリス国旗を掲げ、イギリスの保護を認められていたかどうかだ。これこそが我々が考慮しなければいけない点である。アロー号は[中国船に使われる]”junk”ではなく、外国船を表す”lorcha”と呼ばれている。”lorcha”は元々はポルトガルの船のことで、中国人は外国船とみなしてきた。だから、[アロー号は]イギリス船として知られていたのだ。
- アロー号はイギリスの登録証を持ち、イギリス国旗を掲げてカントン川にいた。登録の有効期限が切れていても、イギリス船が海上にいる時に期限切れになった場合、所属する植民地に戻るまでは登録証によって保護される。アロー号は海上にいて、出帆旗(Blue Peter)が上がり、イギリス国旗が掲げられていた。したがって、このイギリス船とイギリス国旗に対する故意の侮辱が行われたことは疑いない事実である。
- パークス領事に対する不当な非難がされたが、もし彼が別の行動をとっていたら、彼はイギリス国旗と国旗が意味することを貶め、危険に晒していただろう。もし彼が自分の苦情とその後の脅しを無視されたままにしていたら、中国当局はこの状況で、「白い悪魔と外夷」(”white devils and outside barbarians”)に勝ったと理解して、さらにもっと酷い侮辱を行うだろう。
- この事件が証明するのは、中国は文明度が低く、他国に存在する国際法順守というものがないことだ。中国のような国と取引し、友好関係を維持し、利用価値のある関係を築こうとするなら、武力による方法に意味があると彼らにわからせ、彼らが理解できる方法で訴えなければならないというのが我々の結論だと思う。
- 諸君が、中国にいる女王陛下の公僕の手を縛り、自由にできなくさせるような決議案に同意しないことと信じている。そんなことをすれば、我々の名前と国旗を汚し、中国との貿易を破滅させることになる。
リンドハースト卿の動議賛成論
次にリンドハースト卿[John Singleton Copley, Lord Lyndhurst: 1772-1863]が立ち上がって、ダービー伯爵の動議に賛成だと熱弁をふるいます。『ニューヨーク・タイムズ』の訃報記事(注2)によると、1846年、74歳の時に自身で「公人としての人生も、寿命も終わりに近づいた」と述べたけれど、「その後も彼の声は貴族院で度々聞かれた」そうです。1857年2月24日時点では、85歳を前にした高齢ですが、90歳近くになっても、彼は「素晴らしくハンサムで、活力があり、優雅な物腰は非常に若々しい様子を与えていた」と書かれています。
他の貴族と違って、リンドハースト卿は生まれながらの貴族ではなく、それほど裕福ではない画家の息子として生まれ、ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジを卒業後、弁護士となって両親を援助しました。有能で雄弁な弁護士として知られて政界入りを請われ、1819年に法務長官に任命され、爵位を与えられました。「重要な事柄を最も明確に、簡潔に、力強く」話す議員として知られていたそうです。彼が立ち上がって話す時は、「議場で一本のピンが落ちても聞こえるほどで、まるでキケロ[Cicero:106BC-43BC ローマの雄弁家・政治家・哲学者]の顔を見ながらキケロの演説を聞いているようだった。彼の人柄、ジェスチャー、顔つきと声は全て威厳があり、力強く、説得力があった」と評されています。彼は議題を徹底的に考え抜き、思考過程で生まれてくるいくつかの表現以外はスピーチを準備せず、話の流れに任せると語っています。話しながら頭と心を働かせるエネルギーは聴く者を捉えたそうです(注3)。それは議事録の彼の演説からも感じられます。重要箇所を抄訳します。
- 諸君、私はこの討論を紹介した伯爵のスピーチと、今座ったばかりの伯爵のスピーチを注意深く聞き、諸君の前に置かれている資料も特別な注意を払って読んだ結果、残念ながら、苦痛を伴う結論に達したと言わなければならない。この不運な紛争が起こった結果の成り行きは法や論理のいかなる原則においても正当化できないという結論だ。我が友、ダービー伯爵が諸君に述べた、包括的で決定的根拠のある議論を聞いたが、反論した伯爵[クラレンドン]は何一つ答えていない。
- 条約の条項に当てはめるために、外国人所有の外国船をイギリス船に変えることはできない。諸君、我々が東洋の国と条約の契約をする場合、彼らに関する限り、ある種、ゆるい法律、道徳のゆるい概念で当たる。私は中国政府が使った言葉で主張するが、アロー号はいかなる点でもイギリス船ではない。ジョン・ボーリング卿が手紙で自らはっきりと認めているように、アロー号はイギリス国旗を掲げる権利はない。ボーリング卿はその部分を捨てて、こう付け足した。「中国側はそれを知らないから、我々は侮辱だと言って、賠償を要求しよう」。中国が我々の旗を侮辱したというのは事実ではない。そのような賠償を負わせる証拠は一つもない。この問題の根本は権利の問題である。中国の知事は最初から「これは中国の船だ。いかなる点でもイギリス船ではない。あなた方はなぜ外国船に登録証を与えるのか?そうすることで、両国の間に紛争を作り出す」と言い続けている。私は資料を細心の注意をもって読み、カントンの知事が最初からこの点を指摘し、彼にはイギリス国旗を侮辱する意図がなかったのを知った。
- ボーリング卿は[罰として]中国の軍船(war junk)を拿捕した。それが最初の行動だ。これは違反に対する罰として十分だったか? ジョン・ボーリング卿は「十分じゃない。もっとやろう」と言って、2,3の砦を叩き壊したのである。たとえ、この件[アロー号事件]が相手方にそう示されたとしても、ボーリング卿はここで立ち止まり、こう言えたはずだ。「もう十分罰した。ジャンクを拿捕し、砦を複数叩き壊した。これ以上は本国政府からの指示なしには何もしない」。そしてこう考えられたはずである。「私は母国を戦争に巻き込むわけにはいかない。これまでしてきたことは私の名誉を守るためだったが、戦争に発展するようなことは我が政府の指示なしには、もうしない」。彼はそう考えなかった。彼はどこで止めるべきだったか? ボーリング卿は止める気などなかった。
諸君、この直後にカントン近郊の4つの砦が占領された。これで十分だったか? とんでもない、その後も次々と砦が占領され、その後、[中国]軍の艦隊が破壊され、知事の宮殿が爆撃され、カントンの塀は壊され、カントン市は戦争状態に入った。これら全ての攻撃をボーリング卿は途方もない尊大さで「警告だ」と呼んだのである。こんな理由から、こんな戦闘行為を起こすことを冷静に考えられる人がいるだろうか? ボーリング卿が宣戦布告する権限があると考えるとは異常だ。彼のような地位の人間が防衛作戦を遂行するための権限を持つ必要性は理解できるが、このような理由で、このような口実を元に攻撃作戦を行うとは、世界史の中で最も異常な成り行きだ。
- 諸君の中に覚えている人がいるかもしれないが、1847年頃、条約が実施されるべきだと香港知事のジョージ・ボーナム卿がカントンの長官・耆英[きえい、Keying]に言うと、カントン市民はヨーロッパ人の入市に激しく反対していると言って、強行すれば、市の平和と安全に深刻な危険を、ヨーロッパ人の命にも大きなリスクがあると返答してきた。ボーナム卿が調査した結果、条約履行に対する反対は十分な根拠があると結論づけ、条項は強行されなかった。現在政府のトップにいる方[パーマーストン首相]がボーナム卿への書簡で、慎重さと寛容さをいつも以上に示す表現で、こう言った。「この件でボーナム卿が何をすべきかは言うことができないが、何をすべきでないかは言える。それは、目的を達成するために、いかなる形でも武力を行使してはならないということである」。ジョージ・ボーナム卿に、武力で[カントン]入市を実行することは無益な結果をもたらすと強調したのである。正気の人ならこのようなアドバイスを無視して、市内に入るためにこの国を戦争に追い込むようなことはしないと思う。この道をとったために、我が国の商業の貴重な部分が一時停止し、150万ドルにのぼるイギリス人の資産が危険に晒され、カントンの商館全てが焼失した。これが私が知る限り最悪の悪意ある人間がした悪意ある政策の結果である。「人間は、傲慢な人間は、束の間の権威をかさに着て、自分がガラスのようにもろいものであるという たしかな事実も悟らず、まるで怒った猿のように、天に向かって愚かな道化ぶりを演じては天使たちを泣かせています」(注4)。
- もう1点お話ししておきたいことがある。「中国・インドと貿易する商人の会」のメンバーは中国との戦争を続けるべきだと希望しているようだ。その理由がイギリス商人をカントンに入れろと中国皇帝に強要するだけでなく、関税の改定と中国全土を外国人に開放させるためだという。この会のメンバーがいかに社会的地位があるとしても、彼ら自身の欲得に目がくらんで、現在彼らが携わっている不運な成り行きの中で、政府に対して[戦争を]誘導するような影響力を行使しないよう、心から切に願う。諸君、私はこれらの意見を表明して座るが、我が高貴な友人[ダービー伯爵]が雄弁に表明した思いに完全に同意し、彼の動議を心から支持する。
この後も議論が続きますが、真夜中になったので1日考える時間をおいて、1857年2月26日に再び議論を続けることになり、閉会します。リンドハースト卿が最後の方で引用したのは、シャークスピアの『尺には尺を』(Measure for Measure)の台詞です。ロイヤル・シェークスピア・カンパニーはこの作品を「17世紀初頭に書かれたのに、驚くほど現在に通じる」(注5)と評価しています。
ケリー卿の意見書
上院での議論に参加できなかった議員フィッツロイ・ケリー卿(Fitzroy Kelly: 1796-1880)がリンドハースト卿宛の長い手紙(1857年3月6日付)に「中国に関する最近の議論」という題をつけて同年に出版しています(注6)。社会に知らしめる意図からなのか不明ですが、論争点を整理した上で、以下の点を強調しています。
- ロシアとの条約で「イギリス商船」とされた船が、ロシアの港で犯罪捜査から免除されたと想像してみてください。ロンドン在住のポーランド人が購入し所有しているロシア船を[イギリスが]イギリス商船として登録証を与えて、捜査を免除してオデッサ[1854年に英仏軍が攻撃したウクライナ南部の港]に逃がすでしょうか? 我々はオデッサを合法的に砲撃し、焼き尽くし、その住民を殺せますか?
- 我々は外国を規制する法律を制定して、外国をその法律で拘束することができますか?我々は中国船がイギリス船であると制定して、中国の港にいるその船をイギリス船だと中国に認めさせることができますか? 我々はフランス船をイギリス船だと宣言して、フランス国旗を引き摺り下ろして、マストにイギリス国旗をあげて、マルセイユに停泊中のその旗に敬意を示せとフランスに要求できますか?
- もし、この前代未聞の奇妙な原則をイギリスが、独立国であり、強国である国、自国の権利を持つことができ、世界の他の国々に自国の意見を聞いてもらえるような国に適用した途端に、我々は詐欺の元に不当な戦争を遂行した罪を問われ、全人類の常識の声に非難されるでしょう。辛い事実は我々が何の正当な理由なく、無防備な中国を攻撃したことです。
- 我々が中国を我が国の法で縛る権力を持っているのでなければ(もし持っていれば、地球上の全国家を同じく縛ることになります)、我々は全く間違っていることになります。我々は攻撃もされていないのに、数千、数万の罪のない男女子どもに死と痛みと悲しみを与え、我が国の男たちの命も犠牲にしたのです。
- もし我々が中国人は救い難く、血なまぐさい、野蛮な人種として扱うと公言したなら、この人種と交渉することも、国際的な名誉と誠実の原則のもとに行動することも不可能かもしれない。彼ら自身が自分たちを文明国の圏外に位置付けたなら、我々が自衛や必要性という理由で攻撃するのも正当化できるかもしれない。しかし我々はこのことを申し立てることはできない。なぜなら、これらのいわゆる野蛮人を国家、帝国と認めたのですから。女王陛下が中国皇帝と結ばれた条約は現時点で有効です。したがって、中国との交渉で、フランス・ロシア・アメリカに対して主張している国際法の原則と違うことを進めることは恥ずべき不名誉です。
- 我々が猛攻撃した国のようなか弱い無防備な人々に対しては、穏やかに寛容になれるはずです。この不幸な出来事全てにおいて、我々の本当の不運は、我々が最初から間違っていたことです。貴族院議員の大半はこれを正す投票ができたはずですが、そうできなかった。我々は歴史から事実を消すことはできません。将来にわたって、これは我々に立ち向かうものとして記録されます。世界中の賢い、善良な思惟的な人々は我々を非難するでしょう。我々の罪の真紅の血痕は消えません。だが、少なくとも我々が間違っていたと告白するのはまだ遅すぎないと期待しましょう。下院(庶民院)の投票によって大臣たちが我々の間違いを償うように導かれると期待しましょう。
投票結果
2月26日の議論の結果、ダービー伯爵の動議に対する評決が行われました。結果は、賛成110票、反対146で、36票の差で否決されました(注7)。この結果をカール・マルクス(Karl Marx: 1818-1883)は『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』への寄稿記事「中国攻撃に関する議会討論」(1857年3月16日)で、「36票という比較的弱いマジョリティという結果はパーマーストン内閣に衝撃を与えた」(注8)と述べています。
注
注1 | 「決議の動議。討議の延会」貴族院、1857年2月24日、イギリス議会アーカイブ “Resolution Moved. Debate Adjourned”, House of Lords, 24 February 1857”. https://api.parliament.uk/historic-hansard/lords/1857/feb/24/resolutions-moved-debate-adjourned#S3V0144P0_18570224_HOL_12 |
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注2 | ”Obituary.; Lord Lyndhurst”, The New York Times, Oct.23, 1863. https://www.nytimes.com/1863/10/23/archives/obituary-lord-lyndhurst.html |
注3 | Marjorie Bloy, ”John Singleton Coplery, Lord Lyndhurst (1722-1863)”, A Web of English History. http://www.historyhome.co.uk/people/lyndhurs.htm |
注4 | ウィリアム・シエイクスピア、小田島雄志訳『尺には尺を』(1983)、白水ブックス、2016, p.60. |
注5 | “Measure for Measure”, Royal Shakespeare Company https://www.rsc.org.uk/measure-for-measure/ |
注6 | Sir Fitzroy Kelly, A Letter to Lord Lyndhurst on the Late Debate upon China, John Murray, London, 1857. http://library.umac.mo/ebooks/b35940268.pdf |
注7 | 「決議の動議。討議再開(2晩目)」貴族院、1857年2月26日、イギリス議会アーカイブ “Resolution Moved. Resumed Debate (Second Night), House of Lords, 26 February 1857”. https://api.parliament.uk/historic-hansard/lords/1857/feb/26/resolutions-moved-resumed-debate-second |
注8 | Karl Marx, “Parliamentary Debates on the Chinese Hostilities”, Marx Engels Archive. https://www.marxists.org/archive/marx/works/1857/03/16.htm |