イギリスによるカントン攻撃について、当時のメディアがどう報道していたか、好戦的なパーマーストン政権が解散総選挙で圧勝したこととメディアとの関係を見ていきます。
『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』に掲載された中国関係の記事
1857年前半の『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』はアーカイブにも、デジタル・ライブラリー(米国大学図書館協同デジタルアーカイブ、ハーティトラスト・デジタル・ライブラリー)にも掲載されていませんが、『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』(『ニューヨーク・タイムズ』の前身)でロンドンの『タイムズ』その他の新聞がどう報道したのかを紹介しています。
1857年1月26日:第3面(注1)
- 『ロンドン・タイムズ』(1月8日):「中国は[武力で]文明国にさせるべき」(China to be forced into Civilization)
カントンにおける軍事行動は両サイドによる計画的な戦闘である。カントン長官が最初に平和を破り、その後賠償を拒否した。イギリス海軍大将は敵対行為に進んだ。イギリス人の虐殺への報酬だ。それに対して葉は商館の破壊で対応した。そしてイギリス船の焼損を企てた。従って、我々は実際に中国と戦争状態にある。我々は賠償を要求しているが、今のところ賠償は支払われていない。それどころか、我々の居住区と船舶は当局によって攻撃された。これに対する十分な賠償が支払われなければならないことは言うまでもない。さらに、我々の名誉と利権が我々と中国との関係を新たな立ち位置に置くことを求めているのは疑うことができない。中国を強制的に文明国との完全な対話に持ちこまなければならない[原文は強調のゴシック体]。そして、中国を鎖国から引き摺り出す(dragging her from seclusion)役割は英国人がやるのがベストである。従って、人間性と文明のために、我々はこの問題をこのままにしておくべきではない。
- 我々は中国を征服することを望んでいない。数千年の麻痺状態から新たな生活に目覚めたこの巨大な帝国を改造する中心者はイギリスの影響力と冒険心(enterprise)であることを否定するのは誠実ではないだろう。そこで、我々が即刻準備しなければならないのは、この広大な領土の全地域で自由貿易とコミュニケーションを求める文明国家の権利を強要することと、我々の立場を主張することである。このような国を、まるでヨーロッパの開化国家のように扱うのは無意味だ。イギリス当局は何を要求するつもりなのか、その保証として何を取るつもりなのかについて、決断すべきだ。
訳者コメント:カントン攻撃の第一報を伝えた『ロンドン・タイムズ』(1856年12月30日, 6-1参照)が、150万の都市の攻撃によって膨大な人命が失われた可能性に言及し、攻撃が避けられなかったのかという疑問を呈した論調とあまりに違うので、最初の記者が左遷されたのかと思ってしまいます。「カントンにおける軍事行動は両サイドによる計画的な戦闘である」と断定する『タイムズ』が読者をミスリードしていることは、イギリス議会上院・下院での議論から明らかになります(6-2-1〜6-3-3参照)。
『タイムズ』の論調を見ると、安倍政権と日本のテレビ・メディアの関係のようなものが、パーマーストン政権と『タイムズ』に生じたのかと思わされます。当時の心あるジャーナリストやマルクスが政権とメディアの関係について指摘していることを後に紹介します。
1857年2月2日:第2面
- 『ホンコン・チャイナ・メイル』(1856年11月24日):「アメリカによるバリア砦の占領」
最も奮起する出来事は、アメリカ軍艦のボートを中国帝国が攻撃し、それに対して大成功の罰が彼らに与えられたことだ。バリア砦が完全に破壊されたので、アメリカ軍とフランス軍はこの戦闘から退却するつもりだと報道されている。[この後に、カントン攻撃の詳細、葉長官の対応について長い記事が続きます]。
1857年2月7日:第1面「カントンは破壊されるべき—中国戦争をロシアはどう見ているか」
- カントン市[の破壊]はもはや免れないと言われ、ロケットと砲弾の発砲が始まった。
1857年2月12日:第3面『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』への投書(2月6日)
投書者:アンドリュー・ハッパー(Andrew P. Happer)
- 「現在の紛争の歴史—その目的、終戦の可能性」
カントンにおける外国人[欧米人]に対する偏見と差別は、この国のどこより強いということが問題の根本にあるかもしれない。アヘン戦争終結時に、英国と中国が交わした条約ではイギリス領事と商人は、カントン・アモイ・福州・寧波・上海に住んでよいと規定されている。(中略)しかしカントン当局と市民は条約が調印された時から、外国人役人と商人を市内から排除する意思を明らかにし続けている。 - 1842年8月20日、南京で条約が署名された直後に、英国長官ヘンリー・ポッティンジャー(Henry Pottinger: 1789-1856)がリベラルで開明的な政治家Keying[Qiying耆英きえい:1787-1858]にカントン市内の邸宅での饗応に招待された。Keyingはタタール族で、カントン人の外国人排斥の偏見は全くない。ヘンリー卿は招待を受け入れたが、それが市民に知られるやいなや、市内での饗応に対する反対が起こった。この結果Keiyingはヘンリー卿に手紙で状況を説明し、市外での饗応の招待を受けてくれるよう依頼した。ヘンリー卿ほどの東洋通なら、この招待を受け入れたら前例となるからと、招待場所の変更を拒否すべきだった。しかし、市外での饗応の招待は受け入れられた。中国はヘンリー卿の例から、イギリスが問題を諦めたと主張するが、イギリスは[カントン]市と自由で制限なしの交流の権利を引っ込めたわけではない。そして、この要求が拒否された時、ヘンリー卿の後任、ジョン・デイヴィス卿(John Davis: 1795-1890)が強圧的方法で、この権利を中国に認めさせた。条約が調印された後も、2島を保持し続けた。この島は中国がアヘンを没収したことによる賠償金と戦争経費2,100万ドルを取り立てる保証としてイギリスが保持している。ジョン卿はカントン入市の要求が認められなければ、島は引き渡さないと言った。この結果、先の中国皇帝によって、市民が受け入れる準備ができたら、入市の権利が認められると約束された。しかし、この約束の不明瞭な表現が新たな紛争を引き起こした。市民の準備ができたと誰が判断するのか?
- 1848年から1849年にかけてのヨーロッパの状況のせいで、イギリス政府はジョージ・ボーナム卿(当時の香港総督、本サイト6-2-1参照)に指示を出し、条約履行は平和的方法[原文の強調はゴシック]で行い、決して武力を使わないこととした。この指示は中国提督にも知られた。(中略)現在の提督はこの時の提督と同じである。先の中国皇帝は提督がイギリス人を市内に入れないことで、提督に特別敬称を与えた。皇帝はイギリスに対するこの勝利を記念するために、市周辺に6本の凱旋アーチを建設するよう命じた。
- [カントン]入市の問題はこの後二度と再開されなかった。彼らが考える勝利で、中国人の傲慢さが肥大する一方、イギリスは将来の調停の機会を待った。[中略:長々とアロー号事件をパークス・ボーリングの主張に沿って解説し、アメリカ軍の砦の攻撃も正当化する解説を展開しています]
- イギリス政府がこのように中国との戦争におとしいれられたので、ロンドン・タイムズは2国間の交渉が満足いくものになるよう政府が主張すべきだと強調している。カントン市内での自由な交流だけでなく、大臣が中国帝国の首都、北京に住むことが認められるよう要求すべきだという。現在、外国の代表はカントンの長官公邸でしか公式交流が認められていない。この主張は非常に重要で、条約締結国の3列強が共同で要求すれば、永久平和と人類にとって大きな促進力になるだろう。
訳者コメント:この投書者アンドリュー・ハッパーは同姓同名の別人でなければ、1884年から1891年まで中国で宣教活動をしたアメリカ人宣教師、Andrew P. Happer(1818-1894)で、カントン・クリスチャン大学を設立し、初代学長だった人物です(注2)。キリスト教の伝道者が中国に対する戦争を正当化し、抵抗する中国を傲慢だと批判し、武力で開国させることが人類のためになるとアメリカ人に主張するのは、この時期に日本でハリスが同じ調子で幕府相手に条約を強要していたことを考えると、イギリスだけでなく、アメリカも幕府が抵抗すれば、砲撃する用意があったことがわかります。
イギリス議会下院のコブデンの反戦動議スピーチの報道
1857年3月16日:第1面「下院で中国戦争について討論」
『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』の特派員はコブデンのスピーチ(6-3-1参照)をかなり長く紹介しており、賛同の”Hear! hear!”や”Cheers”(喝采)も挿入されているので、好意的に聞いた様子が伝わってきます。そのいくつかを訳します。
- 上院でダービー伯爵が雄弁に論じた以上の強く正しい指摘はできない。それは片方[中国]が礼儀正しく忍耐強く対応するのに、もう片方[イギリス]は傲慢で失礼千万だという評価である。[Hear! hear!]
- イギリス国旗を買うことが、イギリス船であるという証明ではない。[喝采]
- イギリスがカントン入市の口実を作ろうと前もって決めていたのは明らかだ。[Hear! hear!]
- 我らの役人[ボーリングとパークス]は、我が国の法律家が正当化できないような、世界が「恥を知れ」と叫ぶような、口実に飛びついたのだ。[喝采]
- ジョン・デイヴィス卿がカントンの暴動の後、1846年11月12日にパーマーストン卿宛の手紙で、中国人より我が国の国民の方がずっと対応が難しいと書いている。イギリス人商人たちのせいで生じた損害の賠償$16,000を[中国に]払わせるより、コンプトン氏に$200払わせる方がずっと難しかった。[喝采]
- 彼[コブデン]は、外国政府と条約を締結している状態で、現地にいる政府代表が宣戦布告したことを本議会は正当化し、承認するのかと尋ねた。[喝采]
訳者コメント:コブデンのスピーチの中で、1846年のカントン暴動とコンプトン氏に賠償金を払わせる困難さについて述べたと報道されているので調べたところ、カントン在住のイギリス人Charles Spencer Comptonが中国人に暴力を度々ふるい、中国人との暴動に発展して、複数の中国人が射殺され、負傷者も出たとされています。その裁判記録と領事館と当該イギリス人(複数)との文書のやり取りが25ページにわたって記録され、それが173年後の現在、米国大学図書館協同デジタルアーカイブ(注3)によって世界中に無料で読めるようにされていることに改めて感心します。
尚、『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』が引用している『タイムズ』について、時には『ロンドン・タイムズ』、時には『タイムズ』と表現していることに注意が必要です。例えば、1835年3月16日第2面の記事の見出しはThe London Times in Reply to Mr. Cobden. From the Times, Feb.27.となっていますが、これは正式名称の『タイムズ』の通称として「ロンドン・タイムズ」が使われるからです。また、イギリスの『タイムズ』と『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』の省略形の『タイムズ』とを区別するためもあるのでしょう。
『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』特派員によるコブデン・スピーチの要約記事と並列で掲載されたのは、ロンドンの『タイムズ』によるコブデン批判でした。以下に抄訳します。
1857年3月16日:第2面「ロンドン・タイムズがコブデン氏に反論」(『タイムズ』2月27日より)
- コブデン氏のスピーチほど、我々の国民性の破壊を直接狙ったものはない。もちろん、彼は長い付き合いのある、長く尊敬してきた友、ジョン・ボーリング卿を捨てた。彼はまた我が国の商人全て(中略)を捨てた。
- コブデン氏のスピーチで正当化できない点は、イギリスがいつも腰抜け、いじめの行動をし、イギリスの政策が弱者と強者に対して(中略)非常に異なる方法をとっていると示そうとしたことである。実に、スピーチ全体が、カントンだけでなく、世界中の英国人の性質と行動を徹底的に軽視しているものである。(中略)そして本国の英国人全体の軽視である。これらの人々がこのようなことを鵜呑みにし、我々の誤った行為で貿易がすでに失われ、完全に消えてしまうという警告を撒き散らすだろう。
- あらゆる種類の訴えで、この[反欧米]感情を保ち続けているのは彼ら[中国]だ。彼らは東洋のもったいぶった言葉遣いのいやらしさで訴え続けた。(中略)最後に彼らは[外国人]排除の必然的結果を我々のせいにしたいと思っている。排除が人類の利益と権利に反するのと同じくらい、彼らにとって不名誉なことだ。これが中国人だ、これが[彼らの]狡猾さだ、これがコブデン氏の主張がもたらした英国の穏健さ・人間性・正義に対する偏見である。
『タイムズ』の好戦的論調
1857年3月21日:第2面「イギリス議会で中国戦争の討論閉会/パーマーストン政権の敗北」
この日の報道は下院での議論の続きと評決結果を報道した後で、『タイムズ』のコメント記事を掲載していますので、抄訳します。
「中国問題で政府が敗北:ロンドン・タイムズより」
- 女王陛下の大臣たちは、この危機に際して自分たちがどうすべきだったか、香港の英国代表者たちがどうすべきだったかについて、筋の通った、時宜を得たアドバイスをくれた下院の野党に感謝しなければならない。
- この討論の中で最も頻繁に出された提案は、パークス領事がアロー号船員の逮捕と、死刑執行人の手によって彼らの運命が差し迫っていることを、ジョン・ボーリング卿とシーモア提督に伝えるとすぐに、この二人は自分たちが事件当時、乗船していなかった幸運を感謝してから、抜け道を探すべきだったということだ。例えば、国旗は上がっていなかったという事実、または主張、船長が事件当時乗船していなかったこと、登録証が更新されていなかったこと、船主が香港の自宅の家賃を払っていなかったこと、植民地の法令が正常ではないこと、葉が適切に情報を与えられていなかったこと等々。
- このような望ましい抜け道を見つけたら、二人はディナーに出かけて、処刑されたアロー号の乗組員のために杯を上げ、日曜には更なる熱意で、自分たちの時代の平和を祈る祈祷に参加するべきだった。
- この提案から生じる変種は、この扱いにくい出来事の直後に全英国コミュニティは催眠術にかかって完全に停止すべきだったということだ。女王陛下の政府が次の一手を考えるまで90日間、戦艦も商船も停泊したまま、茶箱も生糸の梱も拘束されるべきだったというのだ。
- 女王陛下の大臣たちに直接提出された提案は、この情報が届いたらすぐに、香港とカントン川河口のすべての女王陛下の公務員を取り替え、葉に謙虚な謝罪を送り、葉が考えつくどんな野蛮な苦行的儀式も行うべきだというものだ。
- 昨夜の議会討論では、さらに興味深い表現で、これらの提案が繰り返された。我々がこの問題の事件を中国皇帝に報告して、彼の決断を待つべきだというのだ。彼は葉長官を叱責したかもしれないし、反対に、この地のすべての英国役人、商人、陸海軍の首を要求したかもしれないというのだ。先の戦争[第一次アヘン戦争]で中国皇帝が払った身代金の返還は言うまでもない。
- 質問の答がカントンからロンドンに届くのに少なくとも90日、その逆も90日かかる。今この瞬間、何がなされているか我々は全く知らない。従って、不信任決議がとんでもなくおかしいと思わせるような出来事が起こっている可能性が十分にある。毒殺、暗殺、そして、何よりも、英国と関係を持つ者の親族を殺すという独特の方法で、中国役人が戦争をする可能性は大いにある。英国当局が反撃が必要と認めざるを得ない状況があり得る。
- 中国近海にはいつもより多くの戦艦がいる。アメリカの戦艦4隻、その他の文明国の戦艦8隻、英国の戦艦18隻が集結している。これらの戦艦全てがカントン攻撃に向かえると言われている。この地域のヨーロッパ・コミュニティのことをよく知っている者によると、我々が聞いたよりも、もっと深刻な攻撃が行われた可能性が高いという。
- 我々は我が国の代理を信頼しなければならない。女王陛下の政府は彼らを支持し、彼らの支配権限を強化する以外の選択肢はない。
- 中国に関して、我々が感ずべき後悔は、中国が果たすべき義務をこんなにも長い間、中国が我々を騙し続けることを許してきた、我々の弱さである。これこそ我々は後悔する。
訳者コメント:このすぐ下に『ロンドン・スター』の記事が掲載され、パーマーストン首相賛美の文章が続きます。身が凍るようなメディアの論調ですが、フェイク情報(アロー号乗組員が処刑された等)を報道して、権力側に都合のいい印象操作をする手法は現在の日本を含めて行われていることを思い起こします。
注
注1 | The New York Daily Times, Jan.26, 1857,p.3 “Important Movement in Chinese Affairs” https://timesmachine.nytimes.com/timesmachine/1857/01/26/issue.html この後の出典は上のURLの日付を変えれば、アクセスできます。 |
---|---|
注2 | Loren W. Crabtree, “Andrew P. Happer and Presbyterian Missions in China, 1844-1891”, Journal of Presbyterian History Society, vol.62, no.1 (Spring 1984). https://www.jstor.org/stable/pdf/23328500.pdf?seq=1#page_scan_tab_contents |
注3 | The Chinese Repository, Vol.15, 1846, pp.540-565. https://catalog.hathitrust.org/Record/000541105 リストのうち、vol.15 (1846)をクリックするとアクセスできます。) |