Indian Crisis「インドの危機」
挿絵キャプションBritish Attack of Mandarin Junks in Fatsham Creek, Canton River—Sketched from the Fort. カントン川[支流]佛山水道の中国ジャンクを攻撃する英国—砦からのスケッチ
出典:『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』1857年8月8日号((注1), p.129)
中国への攻撃とインドの反乱
前節で紹介したイギリスによるカントン攻撃の情報を幕府に伝えたオランダ商館長の幕府への忠告を受けて老中が各部署に出したお達しと、それに対する各部署からの意見書がどんなものだったかを見る前に、第二次カントン攻撃やその他の「戦争」を英米の新聞から辿ります。欧米列強の世界戦略の中で、幕府が置かれていた立場がよく見えてくると思います。
上の中国を攻撃するイギリス軍を描いた挿絵は、『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』1857年8月8日号の第一面に掲載されましたが、第一面の記事の見出しは「インドの危機」です。セポイの反乱として知られているインドの反乱は5月から始まっており、挿絵の中国攻撃作戦は6月1日に行われました。これらが英米のメディアでどう伝えられたかを見ていきます。『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』経由のロンドン『タイムズ』の報道と、1857年7月以降の『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』の記事を中心に見ます。
「インドの反乱」の最初の詳細ニュースは「ボンベイ発5月11日」の報告が掲載された1857年6月24日の『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』(注2)です。この頃のアメリカの新聞には「インディアン」の反乱や戦争という見出しが多発し、国内でもインド人との戦争が起こっているのかと驚きますが、国内の「インディアン」とは当時、アメリカ・インディアンと呼ばれていたネイティヴ・アメリカンのことです。
5月11日ボンベイ発の報道では、ボンベイからの報告は誇張されているようだと断った上で、「ベンガル騎兵隊の第三連隊が公然と反乱を起こし、将校数人と兵士が死傷して、将校のバンガローが全焼した」と伝えています。以下にインドの反乱に関する報道の流れを、特徴的な部分だけ抄訳します。『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』の記事はNYDT、『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』はILNと略しています。
1857年7月4日(ILN,(注1), p.19)「インド:現地人部隊の反乱とヨーロッパ人の虐殺」
「インド」(カルカッタ発5月18日;マドラス発5月25日;ボンベイ発5月27日)
- ベンガル軍の反乱は恐るべき方法で広がっている。メーラト[Meerut:インド北部]の第3ベンガル軽騎兵隊の1部隊がパレードで、政府が供給した弾薬筒を装填して発射するよう指令された。90人のうち5人しか指令に従わなかった。拒否した85人は軍法会議にかけられ、5年から10年の厳しい求刑があった。5月9日に部隊全員が見る前で彼らは刑務所に行進した。救助の試みもなく、怪しい動きはなかった。
- 5月10日、日曜の夕方、連隊が突然、怒りの暴動を市民の参加で起こした。11日と20日はこの地区に駐屯している現地人の歩兵連隊2隊が立ち上がった。彼らは刑務所から仲間たちとその他1,200人の囚人を解放し、血なまぐさい仕事を始めた。
- メーラトはインド最大の駐屯地で、軍のヨーロッパ隊は女王陛下の第6ドラゴン衛兵隊、第60ライフル隊、砲兵隊だ。駐屯地の半分は炎に包まれ、我々の兵士たちの妻や子どもたちは激怒した兵士たちの野蛮な手にかかった。彼らは前代未聞の残酷さで殺した。
- 将校たちはバンガローから飛び出し、男たちに忠誠を呼びかけようとしたが、射殺された。ヨーロッパ部隊が到着する前に、残虐行為はほぼ終わっていた。
- 男たちは100マイルほど先にあるデリーに逃げた。デリーのベンガル人部隊の間にすでに反乱の種は広まっていた。市に逃亡者として入った反乱者たちはすぐに、この地の3現地人連隊、第38・54・74隊はデリーに駐屯しており、彼らを監視するヨーロッパ部隊はいなかった。その結果は酷いものだった。
- 反乱した兵士たちは市を完全掌握し、卑屈な従順さからヒンドゥーの性質である残酷な獰猛さに即座に変身し、デリーのヨーロッパ人居住者を年齢性別に関係なく無差別な虐殺を始めた。銀行を略奪し、故皇帝の息子をインドのムガル王と宣言した。
- この不満の原因について確かなことはまだ伝えられていないが、カーストに関するインド人の思いを蹂躙する行為があったという疑いに基づいている。セポイ[インド人傭兵]に供給された新しい弾薬筒はイギリスから直接送られたもので、塗られているのは不浄の動物の油脂だとセポイたちは聞かされた。不満が密かにゆっくりと拡散し、デリーでの惨劇は密かに完全に組織化された陰謀が存在していたことを証明している。
- メーラトの反乱部隊が宿営地におけるインド兵の対応がヨーロッパ人と平等ではないと思ってデリーに逃げたのは明らかに偶然ではない。デリー駐屯の3連隊が同じ思いを持っていることを知っていて、デリーに行けば、反乱の共謀者が見つかると確信していたに違いない。
- ペルシャ湾にいる3ヨーロッパ連隊は和平によって解放されているので、カルカッタに直接航行できる。反乱を鎮圧し、反逆者を罰する作戦がすぐに取られた。全地域の反乱者を圧倒する量の軍隊が行軍した。
- 月曜朝に公式の報告がロンドンに届くと、午後には閣議が行われた。東インド会社の幹部との長時間の会議も行われ、夜議会で発表される前に、女王陛下の軍隊の大部隊が出発の準備を始めていた。香港の出来事で、4連隊が行先をインドから中国に変えなければならなかった。中国での仕事が済み次第、元々の行く先インドに向かうことになっている。
同じ7月4日号の表紙に「インドの反乱」という見出しの巻頭言が掲載されています。
- インドの我々の家が燃えている。この家には保険がかけられていない。この家を失うことは、我々の力と特権と性格を失い、世界ランキングで地位が落ち、我々の過去の栄光と現在の野望によってではなく、ヨーロッパの地図における我が国のサイズに応じた地位に落ちるということだ。この火はどんなことをしてでも消さなければならない。このような危機の大きさと突然性の前にはあらゆる普通の配慮はなくなる。幸い[英国]インド政府はこの危機に対する十分な力があるし、もし資力がなければ、大英帝国のすべての富・軍事力・エネルギー・リソースで支援されるだろう。その場合は恨み言などないだろう。
- 我々が剣でインドに勝つことが望ましいかどうかなど、もはや問題ではない。勝ったのだから、インドを保持しなければならない。剣がインドを獲得したのだから、剣がインドを守らなければならない。現在の我が国の力に対する恐れと、我が国の過去の無敵さの記憶によって我々は支配する。この恐れと記憶はいかなる危険があろうとも、いかなる犠牲があろうとも維持されなければならない。
1857年7月8日(NYDT,(注3)):(ロンドン『タイムズ』6月27日)「英印軍における反乱の大拡大/現地民部隊に暴動と反乱/デリーでヨーロッパ人の虐殺」
本節の最初に掲載した8月8日号第一面の記事「インドの危機」は社説のように国民を鼓舞する内容になっていますので、抄訳します。
1857年8月8日(ILN, p.129)第一面「インドの危機」
- [イギリス国民は日常に追われているが]最初の警告の叫びで、彼らは事件の大きさに耳目を開けた。そして、世論と政府の行動によって、インド全体と両側の世界に向かって、東洋の帝国を守るために、いかなる流血や宝物の犠牲を被ろうと、必要なことは躊躇なく行う精神が十分あると証明した。また、3年前に世界の最強の君主国の一つ[である我が国]がヨーロッパの均衡を守るために全力をあげたことを示したように、アジアの均衡を守るために国内外の敵と戦う用意があると、インド全体と世界全体に示す。
- 増強軍は本国の英国人が海外の英国人と同じくらいの強い目的を持っていると証明するだろう。[インドの]反乱者たちは計画も主導者もなく、英国軍の全力で戦うこの紛争に勝ち目はないと証明するだろう。必要な時は全英国軍が反乱者たちに向かって行くことは確かだと証明するだろう。
- 反乱者たちは自分たちを野蛮性[の時代]に追い戻すようなアワドの王も、その他の彼のような野蛮で残忍な暴君も望んではない。
- そして、もしいつか反乱者たちがヨーロッパの白い顔の異人の支配からの自由と独立に署名するとしても、英国政府より1000倍も酷い暴君にならない首長と頭首を自分たちの人種の中から探すだろうが無駄だ。
The Princes of Oude and Suit—from A Photograph by Mayall
アワドの王子たちと随行者たち—写真より
左からInterpreter通訳、Brother of the King of Oudeアワド王の兄弟、Eldest Son and the Heir of the Deposed King of Oude退位したアワド王の長男・継承者、The King’s Aide-de-camp王の侍従武官
出典:『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』1857年8月1日, p.121
1857年9月19日(ILN, p.283):反乱中の死者リスト(『ホームワード・メイル』より)
インドの悲惨な暴動で現在までに死亡した者のリストを細心の注意を払って作成した。[この後、イギリス人士官と兵士の氏名と所属部隊名、224名が記載されています。]1857年10月3日(ILN, p.331):反乱におけるイギリス軍の死者(『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』9月19日号の死者リストの続き、『インドと中国からのホームワード・メイル』10月1日付より)[この後、イギリス人士官と兵士の氏名と所属部隊名、約135名が記載されています。]
1858年4月17日(ILN, (注4), p.383):「インドの反乱/ ラクナウの陥落と5万人の反乱者の逃走」ボンベイ発、3月24日付
[3月]19日にラクナウが落ち、117丁の銃が捕獲された。包囲作戦の間に敵の2000人が殺害された。敵の5万人が逃亡し、ローヒルカンド(Rohilcund)とブンデールカンド(Bundelcund)に向かっている。[イギリス・インド]軍は反乱者を追跡中。
インドの反乱について
セポイという呼称は英米の報道に従っていますが、東インド会社に雇われたインド人兵士とされています。『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』1857年7月18日号には「反乱を起こした連隊、解散させられたり、武装解除させられた連隊のリスト」が掲載され、この時点でメーラト、デリーの他に11地域の連隊、合計21連隊が反乱し、7連隊が武装解除されたと記されています。それぞれの蜂起の日付もあり、5月10日から5月末までの間に、各地で反乱が起こっていたことがわかります。
イギリスの目からは「反乱」ですが、インドでは「第一次独立戦争」と呼ばれ、最初に立ち上がったセポイ、マンガル・パンデイ(Mangal Pandey: 1827-1857)はイギリス支配に対抗した自由の闘士としてインド政府によって1984年に切手に描かれ、2005年には映画化・舞台化されました。パンデイはインドのカースト最高位のバラモンの地主家族の生まれで、1849年に東インド会社の傭兵となり、その後ベンガル部隊に入隊します(注5)。
『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』7月4日号の記事に書かれているライフルの弾薬筒に塗られている油脂というのは、ヒンズー教徒やイスラム教徒が避けるべき牛や豚の油脂で、ライフルを装填するためには兵士が弾薬筒の端を嚙み切らなければならないようになっていたため、ヒンズー教徒が多いインド兵士の間に、イギリスが意図的に動物油脂を使ったという噂が起こったそうです。バンディが呼びかけ、イギリス人将校2人を殺して逮捕されます。反乱が広がることを恐れたイギリス軍はすぐに絞首刑にします(注5)。
アワド王国は1732年にムガル帝国によって認められてから王国の歴史が始まったそうですが、1764年にムガル帝国と共に東インド会社軍に敗北しました。東インド会社に従属することで延命を図ってきましたが、1856年2月に東インド会社に併合されました。アワドの人々は併合に怒り、ベンガル軍の1/3がアワド出身者であることもインドの反乱に関係しているそうです(注6)。
ハリスがペナン滞在中にアワド王国の併合のニュースを聞き、その感想を日記(注7)に記していますので、抄訳します。
1856年3月10日(月):アワド王国が併合され、東インド会社の所有になったというニュースがここに届いた。インド総督であるダルハウジー伯爵[James Andrew Broun Ramsay, Tenth Earl of Dalhousie: 1812-60],大英帝国のインド帝国の建設者の一人]の布告によってなされた。
過去4年間、その準備が進んでいたので、驚きはなかった。(中略)アワドは肥沃で豊かな地域で、人々は勤勉だ。私が1855年1月にアワドのラクナウにいた時、東インド会社の近隣の地域より、ずっと栄えていた。布告は、アワド王が悪政で、人民を抑圧していたと非難している。しかし、誰がダルハウジー卿をこの事件の判事にし、または、アワドの人の守護者にしたのだろう。布告では王が宗教抗争による流血をもたらしたと責めている。この抗争はイギリスの使者によって煽られたのではないのか? アワド中に出回った扇動的な新聞はカルカッタか東インド会社の領土のどこかで印刷されたのではなかったか? ラクナウの王の新聞社以外にアワドに新聞社があったか?
時がこれらの質問に答えてくれる。「真実は時の娘」である。アワド政府は1765年以来東インド会社と平和裡にあった。アワドは1816年にネパールに参加しなかった。この時、イギリスがベンガルから追い出される可能性がはっきりとあったのだ。カブールの惨事が1847年に起こると、[英国]インド政府は骨の髄まで震えた。[英国]軍の威信は深刻な打撃を受けた。(中略)ベンガルの部隊はボラン峠を目指したが、パンジャブにさえ届かなかった。この暗澹たる難局の時に、アワド王その人が求められてもいないのに、インド政府に500万ルピーも提供したのだ。そして部隊は行軍を続け、カブールでの後退から回復して、威力を取り戻せた。アワド王のこの寛大な援助がなければ、インドにおける英国の力はどうなっていたかというのは大きな問題である。
過去40年間、アワドにはインド政府の介入が絶えず続いた。特にネパール戦争から始まる。イギリス人の居住がアジアのどの国にでも強制されたら、その国がどれくらい存在を許されるか時間の問題で、やがて併合の命令が出され、現地の主権国家の政府は全滅させられる。
ハリスが言及している1816年のネパールというのは、イギリス-ネパール戦争(1814-1816)の結果、ネパールのグルカ首長と英国インド政府との間に交わされたサガウリ条約(1816)で、 ネパールは独立を維持し、イギリス人大使をインドの最高政府の支配者としてでなく、独立国への大使としての居住を認めたとされています(注8)。最後の部分は、これから日本に向かうハリスが日本もそうなると思いながら書いていたのか、イギリスとアメリカは違う、アメリカは日本を全滅させることはないと考えていたのかわかりませんが、彼の使命は外国人の居住を認めていない日本政府に乗り込んで行って、強制的に居住を認めさせることでしたから、「アジアのいかなる国も」という箇所が不気味です。
注
注1 | The Illustrated London News, Vol.31, 1857 July-Dec. 米国大学図書館協同デジタルアーカイブ、ハーティトラスト・デジタル・ライブラリー https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=uc1.c0000066803 |
---|---|
注2 | The New York Daily Times, June 24, 1857. https://timesmachine.nytimes.com/timesmachine/1857/06/24/issue.html |
注3 | The New York Daily Times, July 8, 1857. https://timesmachine.nytimes.com/timesmachine/1857/07/08/issue.html |
注4 | ”The Mutiny in India—Fall of Lucknow, and Flight of fifty Thousand of the Rebels”, The Illustrated London News, Vol.32, 1858 Jan.-June, p.383, ハーティトラスト・デジタル・ライブラリー https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=uc1.c0000066811 |
注5 | Shanthie Mariet D’Souza “Mangal Pandey: Indian Soldier”, Encyclopaedia Britannica, April 4, 2019 https://www.britannica.com/biography/Mangal-Pandey |
注6 | 長崎暢子『インド大反乱一八五七年』中公新書(1981)、1991, pp.184-186. |
注7 | The Complete Journal of Townsend Harris, published for Japan Society, Doubleday, Doran & Company, New York, 1930, pp.71-73. ハーティトラスト・デジタル・ライブラリー https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=uiuo.ark:/13960/t68350n87;view=1up;seq=9 |
注8 | Larraine Murray, ”Treaty of Sagauli: British-Nepalese History [1816]”, Encyclopaedia Britannica. https://www.britannica.com/event/Treaty-of-Sagauli |