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2019-09-06

英米に伝えられた攘夷の日本(6-6-3)

『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』の日本遠征計画に対する批判は続き、「艦隊を江戸湾に送るのは日本人を恐怖に陥れ、不信感を持たせるだけだ」と警告します。

 以下の記事も長いので、原文にはない小見出しをつけて、段落を細かくして訳します。

日本と合衆国

  • 1852年2月24日(NYDT):「日本と合衆国」(注1)
     この初春に出発するとされている日本遠征について、我々はほとんど聞かされていない。ペリー 提督がこの遠征を指揮するよう命じられ、主に蒸気戦艦で構成される大きな艦隊になる。この遠征の真の目的について、その公式の性格は何も暴露されていないが、最近出回っている噂が概ね正しいと思う。もし日本と我が国の通商が確立したら、双方にとって利益があると証明されるだろう。我々の意見は、もし優秀な外交官をこの目的のために採用すれば、通商までの段階は平和に、好戦的な態度を示さずに達成されるというものだ。

艦隊を江戸湾に送るのは日本人を恐怖に陥れ、条約に不信感を持たせるだけだ

 ペリー 提督は今ワシントンで遠征の準備をしているそうだ。そして、彼が取るべき手段を海軍と国務省から口頭で指示を受けていると聞く。噂では、この遠征の準備を「威風堂々」(原文強調”pomp and circumstance”)と表現しているが、そこから判断するに、その指示がどんなものか知るのは簡単だ。数隻の蒸気戦艦と護衛のフリゲート艦と1,2隻のコルベット艦で構成されている艦隊が平和的な行進であるわけがない。そして、これらの船が日本の海に現れたら、かわいそうに海沿いの町の日本人を恐怖に陥れ、同時に正気を失わせるだろうと心配だ。そうなれば、彼らと誠意を持って交渉できるはずがない。その危機感から何らかの条約を結ばせることはできるかもしれないが、戦艦が離れたら条約を自由に破棄できると感じるだろう。

日本は信用できない国か?

 野蛮人を扱う際には、武力に訴える前に彼らの信頼と善意を得る努力が必要だと思う。もし彼らが信用できないとしたら、その裏切りは強制的な条約の後に現れるだろう。(中略)しかし、日本が信用できない国だという知識を我々は持っていない。[そうだとしたら]昔、日本と交易が許されたポルトガル人から、日本はこの[裏切りの]術を学んだのかもしれない。(中略)

 日本には、我が国の地理的位置、広さ、我が国の軍事力、日本製品と生産物に対する我が国の需要が大きいこと、そして我々が代わりに何を与えられるかなどを十分に理解させるべきだ。そして最後に我々が国として度量が広いことを感じさせる必要がある。彼らにそう感じさせるためには、我々がそう振舞わなければならない。我々が彼らをそう扱うのは長い時間がかかるかもしれない。(中略)軍事力の強い国が弱い国に対して強制的手段を採る衝動と精神を我々は憎む。

日本はキリスト教国から悪い助言を得ていた

 日本には昔からアドバイザーがいた—しかも、非常に悪いアドバイザーだ—あるキリスト教国である。もし我々が望んでいることを日本との間で平和裡に達成できなければ、それは日本が唯一貿易を許可しているその国より、我々が外交において劣ることを認めるに等しい。我々の考えでは、[軍人ではない]一般人で十分な外交力と著名な能力を持つ人物に、重要な貿易交渉を任せるのがいい。船は1隻だけで、強制的目的で「脅しの」(in terrorem)艦隊を実際に[日本の港に]配置することは必要条件ではない。(後略)。

解説:ペリーの日本遠征の準備の様子を「威風堂々」(pomp and circumstance)と表現していると指摘している引用の出典はシェークスピアの『オセロー』のようです。オセローを貶めようとする部下のイアーゴーが、オセローの新婚の妻デズデモーナとオセローの部下との間によからぬ関係があるとデマを吹き込み、それに惑わされたオセローが嘆く場面で、この文言が発されます。武将として数々の戦勝を誇るオセローが輝かしい経歴ともお別れだと叫ぶように言う場面(第3幕第3場)です。日本語訳は福田恆存の訳(注2)です。

Farewell the neighing steed and the shrill trump,
The spirit-stirring drum, th’ ear-piercing fife,
The royal banner, and all quality,
Pride, pomp, and circumstance of glorious war!
And O you mortal engines, whose rude throats
The immortal Jove’s dead clamors counterfeit,
Farewell! Othello’s occupation’s gone.

ああ、みんなお別れだ! いななく軍馬、鋭い喇叭らっぱの音、心を躍らす太鼓の響き、耳に突裂つんざく笛の声、軍旗の荘厳、輝かしい戦場のすべて、その誇り、名誉、手柄、一切とお別れだ! それに、ああ、あのすさまじい巨砲のとどろきき、荒々しい咽喉のどうなりに雷神ジュピターの怒号すら吹消してしまうお前ともお別れだ! オセローの、命をけた事業も、ついに終ってしまった!

 “pomp and circumstance”を「威風堂々」としたのは、この文言がイギリスの作曲家エドワード・エルガー(Edward Elgar: 1857-1934)が1901年に作曲した行進曲名” pomp and circumstance march”になり、その日本語訳が「威風堂々」なので、時代は違いますが、採用しました。この曲は1902年のエドワード7世の戴冠式に使われました。そして歌詞がつけられ、イギリスの愛国歌”Land of Hope and Glory”(希望と栄光の国)として現在まで歌われ続けているそうです(注3)。この曲を演奏するオーケストラの聴衆が、国旗を掲げながら歌っている様子が、BBCの音楽祭Proms2012の映像(注4)からわかります。なぜか日の丸を振っている日本人らしい人も数人います。

 さらに、この曲はアメリカでも広まっていきます。1906年にイェール大学の名誉博士号をエルガーが受けた時にこの曲が演奏され、その後プリンストン大学、シカゴ大学なども卒業式に「威風堂々」を演奏し始め、今ではアメリカ全土の高校の卒業式で演奏されているそうです(注5)

  • 1852年3月11日(NYDT):「日本遠征」ワシントン発、3月10日(注6)
     以下が最近指令が出た東インド艦隊を構成する軍艦である。

     蒸気旗艦ミシシッピー号、マックルーニー船長、艦隊の司令官であるペリー提督が乗船している。(中略:補給船を含めて7隻の名前と提督名)

     サスケハナ号、プリマス号、サラトガ号はすでに太平洋岸で艦隊の残りの船の到着を待っている。セント・メアリー号は日本に向かっている。日本人の船乗りを乗せており、日本に到着したら艦隊の到着を待つことになっている。艦隊の残りは多分4月中に出発する。

     この遠征の目的はよく知られている。日本の首都、江戸に、いかなる危険を犯しても上陸することと、海岸線の様々な踏査することが指令されている。そして、いかなる手段を使っても、この長い間開けられることのなかった国と通商関係を開くことが命じられている。艦隊は18ヶ月留守になると予想されている。

解説:この「日本人漂流民」を探ってみました。確証はありませんが、日付から、後に「ジョセフ・ヒコ」として知られるようになる彦太郎または彦蔵を含めた漂流民17人のようです。彼らの運命を語った『漂流—ジョセフ・ヒコと仲間たち』(1982,(注7))から関連事項を拾います。

 1850年10月に大阪から江戸に向かった樽廻船「栄力丸」は、10月26日に浦賀から帰航の途につきますが、嵐で南鳥島と推測されるあたりを漂流することになります。12月20日にアメリカ商船に救われ、乗組員17人がサンフランシスコ港に着いたのは1851年3月4日でした。日本人漂流民の記事は翌日にはサンフランシスコの新聞で大きく取り上げられ、「中国と日本」という見出しで、漂流民を厚遇して、アメリカの軍艦で日本に送り返し、司令官は日本側に開国を迫るべきだという論調でした。その翌日には「日本との国交」という見出しの論説が掲載され、アメリカ商人にとっての好機だと、漂流民の利用を訴えました。

 1851年5月に政府はオーリックに日本遠征の任務を与え、オーリックは日本人漂流民の情報をサンフランシスコから得て、彼らの送還を手掛かりに日本と開国交渉に入るべきだと政府に進言します。ところが、オーリックはサスケハナ号艦長と衝突し、政府はオーリックを解任してしまいます。

 日本人漂流民17人の間に帰国できそうだという期待が広がり、1851年の間サンフランシスコ港内の船で待っていましたが、結局、帰国話が持ち上がっては消えという状態が続き、ようやく迎えの軍艦がサンフランシスコに来て、一行を乗せてハワイに出発したのは1852年2月でした。病気だった船頭の万蔵は4月3日にハワイに着くとすぐに亡くなり、ハワイで埋葬して、残り16人は1852年5月20日に香港に到着します。そこでサスケハナ号に乗り換えて、日本行きを待ちますが、その過程で知り合ったのが漂流民の先輩、力松でした。1835年に天草から今の熊本市に戻る途中で漂流し、ルソン島にたどり着いて、4人の乗組員はマカオに送られ、尾張の漂流民とともにモリソン号で帰国を果たそうとしましたが、浦賀と鹿児島で砲火を浴びせられ、それ以降、中国のヨーロッパ人居留地で生活していました。

 その力松が自分の経験から、アメリカの軍艦で帰国する危険性を説き、16人のうち数人は中国の船で帰国する方が安全かもしれないと別行動を取りますが、紆余曲折の結果、1853年3月にサスケハナ号で上海に送られます。そこで一行はモリソン号での帰国に失敗した別の漂流民音吉の訪問を受けます。音吉はこの1年半後にイギリス艦隊の通訳として長崎に来航しています(2-2参照)。音吉も力松同様、アメリカ艦隊で日本に帰国するのは危険だから中国に頼る方がいいと忠告して、一行を1ヶ月以上も家に滞在させます。ペリーが5月4日に上海に到着した時に、迎えに来たアメリカ側に音吉は引き渡しを断ります。彼がイギリスの保護下にあったために、アメリカの言いなりにならないという認識があったのだろうと言われています。その結果、ペリー遠征隊は漂流民を連れずに日本に向かいます。

 この後の漂流民の運命は、彦太郎がアメリカに残り、中国当局を頼って中国船で日本に向かったのは11人でした。そのうちの1人は長崎入港の直前に亡くなり、1853年7月27日に長崎に到着し、長崎奉行所で取り調べが行われます。長い取り調べ期間中に音吉がイギリス艦隊の通訳として長崎を訪問しますが、栄力丸一行と再会することはなかったそうです。11月に取り調べが終了して、各自出身地に送られました。元々の16人のうち、5人は外国残留でした。

  • 1852年4月1日(NYDT):議会・上院、3月31日「日本遠征」(注8)
     ボーランド氏(Solon Borland: 1808-64)の決議、海軍長官に最近東インド艦隊に命じた海軍遠征の目的を上院に説明するよう要請することと、提督たちに出した全司令書のコピーを求める決議が検討された。

     グウィン氏(William Gwin: 1805-85)が反対し、決議は延期された。

  • 1852年4月3日(ILN):「合衆国」((注9), p.267)
    3月20日付のニューヨーク州からの情報によると、ワシントンでは日本からの書簡を受け取った。日本はオランダに援助を依頼し、アメリカ合衆国が計画している遠征に関し、日本政府の政治方針が「内政不干渉」(原文強調”non-intervention”)の日本版だということを強く主張すると知らせるものだった。

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1 ”Japan and the United States”, The New York Daily Times, Feb. 24, 1852, p.2.
https://timesmachine.nytimes.com/timesmachine/1852/02/24/issue.html
2 シェイクスピア、福田恆存(訳)『オセロー』、新潮文庫(1973)、平成25年、p.113.
3 Betsy Schwarm “Pomp and Circumstance March in D Major, Op. 39, No.1”, Encyclopaedia Britannica.
https://www.britannica.com/topic/Pomp-and-Circumstance-March-in-D-Major
4 BBC Proms 2012, Elgar “Pomp and Circumstance March”
https://www.youtube.com/watch?v=Vvgl_2JRIUs
5 Kat Eschner “Why Does Every American Graduation Play ‘Pomp and circumstance’?”, Smithosonian.com, June 2, 2017.
https://www.smithsonianmag.com/smart-news/why-does-every-american-graduation-play-pomp-and-circumstance-180963504/
6 “The Japan Expedition”, The New York Daily Times, March 11, 1852, p.2.
https://timesmachine.nytimes.com/timesmachine/1852/03/11/issue.html
7 春名徹『漂流—ジョセフ・ヒコと仲間たち』(角川選書)角川書店、昭和57年
8 ”XXXIId CONGRESS…First Session. Senate…. Washington, March 31.
The Japan Expedition”, The New York Daily Times, April 1, 1852, p.1.
https://timesmachine.nytimes.com/timesmachine/1852/04/01/issue.html
9 ”United States”, The Illustrated London Times, April 3, 1852, p.267. Vol.20, 1852 Jan.-June.
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https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=uc1.c0000041897