アメリカ外交官ユージン・ドゥーマンの父、アイザック・ドゥーマンは1888(明治21)年から25年間、アメリカ聖公会宣教師として日本で活動していました。
ユージン・ドゥーマンの父について
ユージン・ドゥーマン(Eugene H. Dooman: 1890-1969)の父アイザック・ドゥーマン(Isaac Doman: 1857-1931)が明治後半に日本で宣教師として活躍していたことについて紹介します。『アメリカにおけるプロテスタント聖公会の日本ミッションの歴史』(1891)によると、アイザック・ドゥーマンは1887(明治20)年5月に日本行きの宣教師に任命され、ドゥーマン一家は1888(明治21)年2月に東京に到着したと記録されています((注1), p.28)。また、ドゥーマン牧師はペルシャの出身となっています。イスラム圏のイランでキリスト教徒だったことについて、立教大学設立者のヘンリー・セント・ジョージ・タッカー(Henry St. George Tucker: 1874-1959)が回想記の中で以下のように述べています。
ドゥーマン氏はペルシャのイスラム教の環境の中で何世紀もキリスト教信仰を守ってきたキリスト教グループの一員だった。ペルシャで活動していた宣教師グループが若い彼をアメリカに送り、神学校教育を受けさせた。しかし、彼はアメリカに送ってくれた宣教師の非儀式宗派より、米国聖公会の方が自分が育った儀式と信仰が一致した宗派に近いことを知り、自分の支持母体の許可を得て、ゼネラル神学校(General Seminary)に入学した。我々[聖公会]はペルシャでは活動していないので、(中略)彼は卒業後日本での宣教活動を任命された。((注2), p.180)
奈良・和歌山での宣教活動
アイザック・ドゥーマンは自著『神々の国における宣教師の生活—日本におけるアメリカ聖公会宣教師の25年』(A Missionary’s Life in the Land of the Gods: For Twenty-Five Years A Missionary of the American Episcopal Church in Japan, 1914)で日本での宣教師生活と日本観について述べています。1888年3月15日に大阪から妻と幼い子ども2人と奈良に移り、奈良で8年間宣教師活動をしたと書かれていますから((注3), pp.127, 289)、ユージンは日本で生まれました。下の写真は『神々の国における宣教師の生活』に掲載され、「キリスト教徒集会」(A Christian Congregation)というキャプションが付されているだけですが、背後に和歌山の看板があるので、ドゥーマンが和歌山に月1回通って宣教活動をしていた頃(p.266)の写真でしょう。
奈良でのドゥーマン牧師は学校の設立・運営に努力し、125人の子どもたちが入学していたそうです((注1), p.31)。日本聖公会奈良基督教会の歴史(注4)によると、1888年3月14日(ドゥーマン自身は3月15日に到着と書いている:(注3), p.127)に着任し、4月から説教会を開催し、「連日500〜600名」参加したとされています。「教会のほか奈良英和学校にも尽力」とありますから、『アメリカにおけるプロテスタント聖公会の日本ミッションの歴史』に記録されている学校のことでしょう。
『中国・日本・コリアにおけるプロテスタント宣教師名簿』の1910(明治43)年版に「和歌山 I.ドゥーマン牧師(不在)」と記されているのも((注5), p.47)、通いの活動という意味でしょうか。25年間の足取りは『神々の国における宣教師の生活』には詳しく書かれていませんし、『中国・日本・コリアにおけるプロテスタント宣教師名簿』もアクセスできる版が限られているので、追跡することはできませんでした。この名簿の1904(明治37)年版では、アイザックと妻のグレイスが神戸を拠点に活動していたことが記されています((注6), p.33)。
タッカーのドゥーマン評
前述のタッカーはドゥーマンが日本人に対して理解と同情と寛容を示したことを記し、それは彼がイラン系出身であるために、アジアに対する生得の理解があるせいだと示唆しています。
アジア的気質について彼は生得的理解があり、それが時には日本人の特異性に対して寛容すぎることがあった。例えば、浦部老人が信経の朗読の間、司教が出席している時以外は座ることにしていたが、その理由は彼自身しか知らない。私はこのことをドゥーマン氏の後任のジョン・アンブラー牧師が報告するまで全く知らなかった。アンブラー牧師は浦部氏と大げんかをして(身体的ではない)、信経の時は立たせることに成功した。このいささか些細な出来事はドゥーマン氏のおおらかな(easy going)運営方法を示しているが、彼は伝道活動では非常に熱心でエネルギッシュだった。日本人の見方に対する彼の理解と同情は、他の外国人が近づくことができない日本の人々の間に多くの友人を作った。私は個人的に彼がとても好きで、彼の日本に関する知識、特に日本人の生活の芸術面についての知識から非常に多くを学び、恩恵を受けた。((注2), p.180)
壮士とキリスト教宣教師
この浦部氏について、タッカーは以下のように説明しています。このページは奈良県内のアメリカ聖公会の宣教師の活動についてが主なので、「橋本」というのは奈良市の橋本町かと思います。
もう一人の全く違うタイプで、影響力のある有名な教理問答の教師は橋本の浦部氏(Mr. Urabe of Hashimoto)である。彼は改宗前には「壮士」(soshi)だったと言われている。壮士というのは、政党に雇われて、その反対グループのメンバーを叩きのめす男だという。これはフィクションかもしれないが、彼は確かに「壮士」から想定される多くの特徴を持っている。このコミュニティーの全員が彼を恐れていた。彼は並外れて有能な運営者だったが、彼の手法は型破りだった。元田博士[作之助:1862-1928、立教中学校長]が伝道を行うために橋本へ行き、日曜朝の礼拝に間に合うように着いたら、浦部氏が忙しいから日曜朝の礼拝を土曜夜に変えたと言った。私[タッカー]の最初の視察時に起きた出来事のおかげで、私は浦部氏の気に入られた。担当の牧師ドゥーマン氏と私はホテルに滞在していた。出発時間に私はドゥーマン氏に財布を渡して、ホテル代を払うよう頼んだ。浦部氏はそれを見て、「あー、司祭は本当の紳士ですね。部下に金銭取引を委任するんですから」と言った。その時以来、彼はうるさく手に負えない老紳士だったが、私との関係では何の問題もなかった。その後の私の視察時に、私の説教の前に2,3分話させてくれと言った。2,3分が45分のカントの解説:『純粋理性批判』と『実践理性批判』の違いについてだった。彼はカントを1行も読んだことがないので、彼のテーマは純粋に見せかけだったが、集会の人々にキリスト教的生活に関連する助言を与えることに成功していた。浦部氏はいつも聖パウロの「地上の器にこの宝がある」という言葉を思い出させるが、彼の風変わりさにもかかわらず、彼はこれを信者たちにそのまま純粋に伝えている。(pp.178-9)
この浦部氏と思われる「壮士」について、アイザック・ドゥーマン自身が『神々の国における宣教師の生活』で述べています。1893年に奈良市で「破裂太郎」という名前の若者が、ドゥーマンの教会に現れ、「日本から仏教を含めた外国の宗教を金輪際追い出してやる。自分たちの宗教、神道を再興するのだ」と公言したと記しています。ドゥーマンによると、「破裂太郎」は薩摩出身で、奈良が帝国の最古の都だから、浄化と再興を奈良から始めると言う彼は、キリスト教よりも仏教に対して攻撃的だとドゥーマンは分析しています((注3), p.283)。それでも、「破裂太郎」がキリスト教の集会に現れて、説教を遮り、400-500人の子どもを含めた聴衆の前でキリスト教批判を始めた時、ドゥーマンが「下がりなさい、私の番だ」と言うと、「破裂太郎」は凍りついたように身動きしなかったそうです(p.285)。その後、「破裂太郎」がドゥーマンの命を取ると公言したので、友人たちは暫く姿を隠すよう勧めたとのことです。ある日、奈良の壮士のリーダーがドゥーマンの家に来たのですが、個人的な友人であり、よく家に来ていたので特に警戒はしなかったそうです(p.286)。彼が壮士仲間5人を引き連れて、昨夜「破裂太郎」のホテルに行って、以下のように言ったと伝えに来たのです。その箇所を抄訳します。
「お前はドゥーマンさんを暗殺すると脅した。ドゥーマンさんはこの町でとても重要な人だ。あの大きな学校を建ててくれたんだ。あの人は誰も傷つけたことはない。だから、お前が明朝までに奈良から出て行かなければ、俺たちは武力で追い出す」。この壮士は「このホテルから駆けつけたところです。あいつは行ってしまいましたよ」と伝えた。
この爆発紳士については、この時以来何も聞いていない。(p.287)
アイザック・ドゥーマンの日本観
アイザック・ドゥーマン著『神々の国における宣教師の生活』で注目したのは、彼の日本観です。いくつか抄訳します。
日本人の性質を描こうとする外国人のほとんどが「日本は騙し、裏切る国か?」という難しい質問をする。(中略)私には日本人の気質と訓練から、彼らが騙す人種には見えない。反対に、いつもと言っていいほど、彼らは非常にオープンで信頼できるように見える。イギリスとの同盟と友好でさえ、お互いの利益という流砂の上に立っており、その基礎には何もしっかりした実体がないことを日本はよく知っている。クリミア[戦争]と続く巨大列強の集団が日本にとっては永久に研究すべき教材だ。((注3), pp36-7)
[ペリー]提督が日本の閉ざされた門を暴力的にノックし、入れないならお前らを吹き飛ばしてやると脅したことを今でも憤っている男たちがいる。できれば明日にでも門を閉めて閂をかけるだろうが、彼らにはできない。しかし、この憤りの感情は次第に消え、その感情にとって代わって、幸先の良い出来事が起こった好都合な時期に対して自己祝賀の気分が占めている。しかし、この暗黙の敵意の時期が続く限り、宣教師が教育によってでもできることは非常に少ない。(p.188)
読者諸氏はきっとこう尋ねるだろう。「黄色人種の攻撃性を恐れる理由は本当にあるか?」この質問に対し、もし「黄禍」(yellow peril:黄色人種の脅威)という意味が現在の黄色人種によるヨーロッパ侵略ということなら、危険があるとしても、それは際限なく小さいに違いない。しかし、もし「脅威」という意味がヨーロッパの国々のアジア進出、特に黄色人種が住んでいる地域への進出に対する反発ということなら、インドの東のイギリス海軍の撤退、遼東半島の鴨緑江[鴨緑江会戦、(注7)]、奉天[奉天会戦、(注8)]、その他非常に多くの場所で巨大なロシア陸軍が粉砕されたことは、この脅威の急性型だと認識されたに違いない。(pp.382-3)
アイザック・ドゥーマンはこの後、アジア(中東を含む)のイスラム圏と中国・日本の将来の予想を多くのページ数をさいて論じています。
日本の差別社会とアイザック・ドゥーマン
『神々の国における宣教師の生活』でもう1点注目したのは、学校で差別されていた男の子が被差別部落出身と知り、日本の差別社会に生きる男の子の運命に「魂の底が揺さぶられる初めての経験をした」((注3), p.202)と書いていることです。その子を家に連れて行き、自分の子どもたちに紹介したそうです。「1895年の秋、アメリカに短期休暇に戻る際に彼をアメリカに連れて行き、ニューヨーク市のキリスト教関係者の善意の援助によって、彼はアメリカの最高の教育を受けた。彼は今、日本に戻り、大学講師の職を得て、その他の責任ある地位も得ている」(pp.202-3)と書いています。
この男の子が後に著名な社会学者となる米田庄太郎(1873-1945)です。ドゥーマンから洗礼を受け、アメリカでは神学校とコロンビア大学大学院で学び、自分の天職がキリスト教宣教ではなく、社会学に「差別を克服する契機を感じ取」り((注9), p.448)、帰国後、同志社大学の講師となりました。その後、1907(明治40)年に開設された京都大学文学部社会学講座の初代講座担当者として招聘され、「退官までの期間、社会学関係の授業(普通講義、特殊講義、演習、購読)をほとんど独力で担当した」と、京都大学大学院文学研究科社会学教室の「社会学教室小史」(注10)が記しています。就任当時、非常勤講師の身分で、1919(大正8)年に専任講師に、1920年に教授に昇格されたのですが、教授昇格が遅れたのは米田が部落出身であることが教授会で問題にされたからという桑原武夫(1904-1988,フランス文学者)の父親からの証言があるそうです((注9), p.471)。また、貧困や差別の問題などの解決には社会問題の研究所が必要だと感じて私財を投じて大原社会問題研究所を設立した、倉敷紡績会社社長の大原孫三郎が1916年頃から準備を始め、米田も依頼されて1918(大正9)年から研究体制構築にかかわりました。そして、1919年1月の設立趣意書を起草したとのことですが、1922(大正11)年12月に財団法人として認可された大原社会問題研究所から米田を含め開設に尽力した人々が辞職したそうです。『大原孫三郎伝』(1983)では「最初から開設に尽力した京大出身の米田庄太郎、河田嗣郎[かわたしろう:1883-1942,経済学者]が辞職」したため、「研究所はさながら東大経済学部の亡命者の植民地の観を呈した」と述べているそうです(p.467)。
アイザック・ドゥーマンの論文
ドゥーマン牧師は宣教活動だけでなく、日本を研究し、論文発表する活動も行なっていました。1896(明治29)年、来日8年後に「日本美術におけるギリシャ・ペルシャ美術の影響」(The Influence of Greco-Persian Art on Japanese Arts)という題名の論文を東京の「日本アジア協会」で発表し、機関誌The Transactions of Asiatic Society of Japanに出版されています(注11)。翌年3月17日には長い論文「日本人種の起源」(The Origin of the Japanese Race)と「日本歴史・文明・芸術の始まり」(The Beginning of Japanese History, Civilization, and Arts)を口頭発表し、The Transactions of Asiatic Society of Japanの25巻全部を占めています(注12)。
アイザック・ドゥーマンの論に対して、2人から異論が出されました。岡倉天心の弟で英語学者の岡倉由三郎(よしさぶろう、1868-1936)は、英語で書いた本The Japanese Spirit(1905)で以下のように述べています。
ドゥーマン牧師は日本アジア協会で1897年に発表した論文で、「日本列島の最初の住人であるアイヌは南ヒマラヤの中心部の人種に属し、2番目に日本列島にやってきた日本人は北ヒマラヤに属する」と述べた。しかし、問題の人々についてこのような大雑把な推論は、もっと確かなデータが出てくるまで待ったほうがいい。(中略:アイヌに関するチェンバレンの論を簡単に紹介)
本当の日本人(the Japanese proper)に関して、人種的類似性について唯一知られているのは、ドイツの学者ベルツ博士が生きた標本と骸骨を計測し、大和民族はアジア大陸のモンゴル系に属し、朝鮮半島を経て日本にやってきたという論である。((注13), pp.25-6)
もう1人の批判者は、この時の日本アジア協会会長だったアーネスト・サトウで、口頭発表を聞いて会場でコメントしたのが日本アジア協会議事録に残されているので抄訳します。サトウはこの頃、イギリスの駐日特命全権公使で、54歳でした。アイザック・ドゥーマンは40歳でした。
E.サトウ卿は遅れて来たのでドゥーマン氏の最初の部分は聞いていないが、日本人種の起源に関するドゥーマン氏の理論が精神的特徴と言語学的観点、そして多分身体的比較と呼ばれうるものを元にしていると理解したと言った。最後の点は生物学者の分野に限られているので、語る資格はないと思うが、精神的特徴に関しては、この国の異なる地域の日本人の間に完全な均一性はなく、日本人が同質人種だという推定を証明するものはないと思うと言った。言語の調査については、誤った推論に基づいているように思える。同じ言語を話す人々全部が1つの人種から生まれたということではない。フランス人・イタリア人・スペイン人・ポルトガル人はラテン語から派生した言語を話しているが、彼らの起源が同一だとは誰も支持しない。(中略)
チェンバレン氏(Basil Hall Chamberlain: 1850-1935)が主にアイヌの地名から証明したように、アイヌの人種は以前は日本中に、南の九州にまで広がっていたが、次第に北に追いやられ、ついには駆逐されてしまった。有史時代に入ってからも本州の大部分、東京の北部もこの同じ人種が住んでいた。戦争で男たちは殺され、女たちは多分征服者によって盗まれたので、アイヌの基層が続いたに違いない。
最初の日本の侵略者は多少文明化された人種で、農業を知っていた。その後、南から別の征服者が九州に上陸し、以前の住民より戦闘的な人種で、日本全体を征服していった。サトウ氏は現在の日本人は少なくとも3種類の要素から成り立っていると考えている。しかし、言語学的テストが唯一の有効な方法だと仮定すると、最初にすべきは日本語と最も近い人種の言語と比べることだ。サトウ氏はトルコ語を知らないので、ドゥーマン氏が述べる日本語とトルコ語の類似点について議論することはできないと言った。しかし、アストン氏(William George Aston: 1841-1911)は日本語とコリア語には密接な関係があると示した。(中略)
侵略者の2番目の人種はその言語を学んだ人種より戦闘的だったが、文明度では劣った人種だった。被侵略者は侵略者の言語を自分たちの発音の仕方で発音した。このような例は少なくない。例えば、中国の征服者の満州族は中国語を学んだが、発音は自分たちのやり方だったので、それが現在の北京語になったのだ。英語のウェールズ人式発音や、アルザス語式フランス語がその他の例である。(中略)
彼[サトウ]は要約すると、伝統が示すのは日本が朝鮮半島側から出雲に移住し、コリア語に類似した言語を話す人々に征服され、次に南から来て日向に上陸した戦士たち、マレー人かもしれないし、ニュージーランドに生き残っている戦闘的で知的な人種の一種かもしれないが、元は母音で終わる言語を話す人々が、それほど戦闘的でないが、より文明的な居住者を征服し、彼らの言語を自分たちに特有なやり方で変えていったのだと思うと言った。この理論にどんな価値があるかわからないが、ドゥーマン氏に考慮してもらいたいと言った。
ドゥーマン氏はとても興味深いと言い、この問題に関する科学的論文や民族学の研究者の洗練された理論を手に入れるのが非常に難しいと述べた。アーネスト・サトウ卿の批判はこのはっきりしない問題に光を投げかけるに当たって、ドゥーマン氏やその他の者にとって大きな価値があるだろう。((注14), pp.vi-viii)
この議論から120年以上たった2019年4月にようやくアイヌは先住民族だと認める「アイヌ支援新法」が成立し(注15)、2020年4月から使用される小学校教科書にはアイヌ民族に関する記述が増えるとのことです(注16)。ところが、この法律成立から8ヶ月後の2020年1月に、麻生太郎副総理が「政策報告会」で「日本は2000年にわたって単一民族、単一言語の世界唯一の国」だという報告を行ったというニュースが飛び込んできました(注17)。この発言は副総理の間に成立した法律を否定し、安倍政権が認可した教科書を否定したことになります。嘘を言い続け、自己撞着し続ける人々がリーダーでいられる21世紀の日本の将来はどうなるのでしょう。
注
注1 | An Historical Sketch of the Japan Mission of the Protestant Episcopal Church in the U.S.A., Third Edition, New York: The Domestic and Foreign Missionary Society of the Protestant Episcopal Church in the United States of America, 1891. Hathi Trust Digital Library https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=nnc1.0039172570 |
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注2 | Henry St. George Tucker, Exploring the Silent Shore of Memory, Whittet & Shepperson, Richimond, Virginia, 1951. Hathi Trust Digital Library https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=wu.89077079937 |
注3 | Isaac Dooman, A Missionary’s Life in the Land of the Gods: For twenty-five years a Missionary of the American Episcopal Church in Japan, Boston, Gorham Press, 1914 . Hathi Trust Digital Library https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=nyp.33433068285760 |
注4 | 「日本聖公会奈良基督教会 当協会の歴史」 https://nskk-nara.com/history |
注5 | Directory of Protestant Missionaries in China, Japan & Corea for the Year 1910, Hongkong, 1910. http://divinity-adhoc.library.yale.edu/Resources/Directories/1910_Directory.pdf |
注6 | Directory of Protestant Missionaries in China, Japan & Corea for the Year 1904, Hongkong, 1904. http://divinity-adhoc.library.yale.edu/Resources/Directories/1904_Directory.pdf |
注7 | 「日露戦争特別展II 鴨緑江会戦(1904年4月30日)」(Battle of the Yalu River)、国立公文書館アジア歴史資料センター https://www.jacar.go.jp/nichiro2/sensoushi/rikujou01_detail.html |
注8 | 「日露戦争特別展II 奉天会戦(1905年3月1日)」(Battle of Mukden)、国立公文書館アジア歴史資料センター https://www.jacar.go.jp/nichiro2/sensoushi/rikujou09_detail.html |
注9 | 田中和男「大原社会問題研究所の設立と米田庄太郎」『同志社法学』59巻2号、2007. https://doors.doshisha.ac.jp/duar/repository/ir/13634/028003210014.pdf |
注10 | 「京都大学大学院文学研究科 社会学研究室 歴史 社会学教室小史」 https://www.socio.kyoto-u.ac.jp/about/history/ |
注11 | Rev. Isaac Dooman, “The Influence of Greco-Persian Art on Japanese Arts”, The Transactions of Asiatic Society of Japan, Vol.24, 1896. Hathi Trust Digital Library https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=hvd.32044106215445 |
注12 | Rev. Isaac Dooman, “The Origin of the Japanese Race”, “The Beginning of Japanese History, Civilization, and Arts”, The Transactions of Asiatic Society of Japan, Vol.25, 1897. Hathi Trust Digital Library https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=hvd.32044106215445 |
注13 | Okakura Yoshisaburo, The Japanese Spirit with an Introduction by George Meredith, New York, Jamese Pott & Co., 1905. Hathi Trust Digital Library https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=inu.30000132028501 |
注14 | ”Asiatic Society of Japan Minutes of Meetings”, The Transactions of Asiatic Society of Japan, Vol.25, 1897. 注12と同じ出典。 |
注15 | 「『先住民族』初めて明記 アイヌ支援新法が成立」『東京新聞』2019年4月19日 https://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201904/CK2019041902000296.html |
注16 | 「来年4月からの小学校教科書にアイヌ民族の記述が増える」NHK,2019年7月20日 https://www.nhk.or.jp/sapporo/articles/slug-nebdc00e31b3e |
注17 | 平山千里「麻生氏『2000年にわたり同じ民族が、同じ言語で、同じ一つの王朝…日本しかない』批判呼ぶ可能性」『毎日新聞』2020年1月13日 https://mainichi.jp/articles/20200113/k00/00m/010/149000c |