ユージン・ドゥーマンは上院の公聴会(1951)で、ドゥーマンが後にポツダム宣言となる草案を作成したこと、1945年5月末に国防省の会議にかけられたが、降伏を促すのは時期尚早とされたことを語ります。反対された背景には原爆投下計画がありました。
(写真:1945年8月14日、日本のポツダム宣言受諾を発表するトルーマン)
「太平洋問題調査会に関する公聴会」(1951年9月14日、(注1))でのユージン・ドゥーマンの証言の続きです。Dはドゥーマン、Mは委員会の弁護人モリスの略です。原文にはない小見出しをつけています。
天皇の問題について
D:私の証言を通して、私が天皇の問題に絶えず触れてきたことにお気づきだと思います。1945年3月か4月に、ハワイにおける心理戦争(Psychological Warfare)のチーフだったダナ・ジョンソン大佐がワシントンに来て、グルー氏と私と会いました。日本の高官の捕虜を尋問して得た結論は、日本人は降伏する用意があるが、君主制問題に関する様々な陳述や世論の傾向は、天皇個人が戦争犯罪者として裁判にかけられ処罰され、君主制が廃止されるという印象を国民が持ったら、そしてこれらの考えが世論だとされて、日本の降伏後のアメリカ政策として実施されるという印象を持ったら、日本は降伏しないだろうというものでした。
それから間もなく、4月17日だったと思いますが、[日本]政府に変化がありました。大将が首相を辞任し、政府が再編成され、鈴木大将[鈴木貫太郎:1868-1958]が首相になりました。彼はこの時、天皇の侍従で、彼のキャリアを通して穏健派でした。彼は日本が降伏する用意があり、降伏に関して話し合いする用意があるという非常に明確なシグナルを送りました。
さらに、我々は日本政府とモスクワの日本大使との間のメッセージを読むという利点がありました。この通信とその他の兆候から、この意見がアメリカの政策ではないとはっきりすれば降伏する用意があるということは明確でした。アメリカの左派メディアが展開してきた、天皇が戦犯として裁判にかけられ、君主制が廃止されるという意見です。
そこで、私たちは文書を準備し始めました。5月中旬にヘンリー・ルース氏(Henry Luce: 1898-1967,雑誌『タイム』創始者)が太平洋を訪問し、戻ってきて非常に興奮していました。彼が言うには、日本に降伏を説得できないアメリカ政府がサイパンとタワラで戦ったアメリカ軍の士気の低下を起こし続け、彼らは日本の攻撃を予想し、アメリカ軍の損失を恐れていると言いました。
ヘンリー・ルースに会ったグルー氏は私たちがその方向で計画し、努力していることを説明しました。私の記憶が正確なら、5月24日のことだったと思います。
M:1945年?
D:1945年です。グルー氏は土曜に私を呼んで、月曜朝までに大統領に提出する文書を用意するよう指示しました。もし日本が降伏したら、合衆国が取る政策を説明したものです。そこで、私はその文書を準備し、月曜朝にグルー氏のところに持って行きました。
天皇に関する箇所について、私のオリジナルは次のようなものです。[D氏が読み上げる]
連合国の占領軍は以下の目的が達成されたら、すぐに日本から撤退する。
日本国民を代表する人物が責任を持つ平和的な傾向の政府が確立し、もしその政府が日本における攻撃的軍国主義の将来の発展を不可能にする平和政策に従うという決意が本物だと、平和を愛する国民が納得し、現在の天皇家のもとに立憲君主制の政府を達成したら占領軍は撤退する。(pp.727-8)
グルー氏はこのドラフトを承認し、国務省の政策委員会を招集しました。この頃の国務省政策委員会は国務省の次官補たちと顧問弁護士で構成されていました。グルー氏はこの文書を読み上げ、私が今引用したパラグラフまでは反対はありませんでした。この箇所に来ると、アチソン氏とマックリーシュ氏(MacLeish)氏が激しく反応しました。
M:この二人は当時どんな立場だったのですか?
D:私はこの会議に出席してませんでしたが、君主制を残させるという考えそのものが不快だったのです。
M:アチソン-マックリーシュ氏にとって?
D:そうです。
サワーワイン議員:ドゥーマンさん、あなたが会議に出席していなかったのなら、そこで起こったことをどうして知ったのか説明すべきです。
D:この会議の後すぐにグルー氏が語ってくれました。
サワーワイン議員:それでは、あなたが言っていることは、その会議で何が起こったかをグルー氏が描写したことなんですね?
D:その通りです。グルー氏はこの委員会は彼の助言機関で、最終責任は自分にあるのだから、大統領にこの文書と提言を提出する責任を取ると言いました。適当な時にスピーチをし、この文書の提言を含めると言いました。
彼は 5月28日にローゼンマン判事と一緒に大統領に会いに行きました。大統領はそれを読んで、軍が同意するなら、この文書を承認して、受け入れると言いました。
5月29日にグルー氏、ローゼンマン判事と私はスティムソン氏(Henry Stimson: 1867-1950)のオフィスに行きました。
議長:誰のオフィスだって?
D:スティムソン氏です。この時、陸軍省長官でした。これはペンタゴン(国防省)で行われました。出席者は国防長官のフォレスタル氏(James Forrestal: 1892-1949)、マックロイ氏、戦争情報局長のエルマー・デイヴィス氏(Elmer Davis: 1890-1958)、グルー氏、私とマーシャル元帥(George Marshall Jr.: 1880-1959)でした。付け加えるべきは、10-12人の陸海軍の最高士官も出席していましたが、今は誰だか覚えていません。
私たちはこの文書をコピーして、全員に配布する準備をしていました。スティムソン氏がこの会議の議長でしたが、この文書をすぐに承認し、賛同しました。実のところ、スティムソン氏は私たちが日本は過去に進歩的な男たち、幣原男爵(幣原喜重郎:1872-1951)、濱口(雄幸おさち:1870-1931)、若槻(禮次郎:1866-1949)、その他の人々を生んだ国だという点への十分な配慮が足りないと思ったのです。これらは日本の過去の首相です。
フォレスタル氏は文書を全部読んで賛同しました。マックロイ氏も賛同しました。
議長:賛同したのか、承認したのか?(Agreed, or approved?)
D:承認しました。エルマー・デイヴィス氏は非常に激しく反応して、文書のどれも認めませんでした。
M:このとき、彼はどんな立ち位置でしたか?(p.729)
D:彼は申し上げたように戦争情報局長でした。その他、色々な士官たちが承認しましたが、この文書の出版については———
M:ヴィンセントは出席していなかったのですか?
D:していませんでした。実はこれに関する情報は非常に少数の人に限られていて、私が今申し上げた人たちだけでした。
サワーワイン議員:あなたはその会議に出席していたのですか?
D:私は出席していました。
サワーワイン議員:デイヴィス氏が激しい反応をしたと言いましたが、あなたはそこでその反応を見たのですね?
D:そうです。
サワーワイン議員:デイヴィス氏はどう反応したのです。その激しい反応の性格は?
D:彼は承認しませんでした。降伏を交渉する元となるものを作成すると理解できるもの全てを承認しませんでした。
サワーワイン議員:彼がそう言ったのですか?
D:はい、事実上、そう言いました。しかし、問題はこれが握りつぶされたことです。軍の中にこの文書をこの時に公表するのは時期尚早だという考えがあったからです。
M:軍のどの人たちですか?
D:特にマーシャル元帥です。
M:マーシャル元帥は反対表明したのですか?
D:いいえ、彼は文書に賛成でしたが、この文書をその時に公表するのは「時期尚早」(premature)と字句通りに彼が言ったのを覚えています。それでこの文書は脇に置かれたのです。しかし、この時から2,3週間後だと思いますが—
M:それがいつか、できるなら週、月も、もう一度言ってくれませんか?
D:1945年5月29日にこの会議がスティムソン氏のオフィスで行われました。その後、2週間後だと思いますが、ラティモア博士が大統領に会いに行って、日本で君主制が残るような決断を政府がすることに非常に強く抗議したという情報が国務省で入手できました。
サワーワイン議員:ドゥーマンさん、「情報が国務省で入手できた」(Information was available in the State Department)とはどういう意味ですか?
D:日本に関する限り、私はかなり重要な地位にいて、国務省とホワイト・ハウスの間で行き来する情報で固く守られているものもありました。
サワーワイン議員:公式の情報ということですか?
D:公式の情報です。
サワーワイン議員:アチソン氏が大統領に抗議したことを公式———
D:ラティモア氏です。
サワーワイン議員:ラティモア氏の抗議が公式文書に書かれ、それがあなたのデスクに届いたということですか?
D:口づてです。
サワーワイン議員:誰が伝えたのですか?
D:グルー氏です。(p.730)
(中略)
D:この文書はスティムソン氏がポツダムに持って行きました。私はポツダムに7月13日に着いたのですが、そこにいたマックロイ氏から聞いたのは、スティムソン氏はチャーチル氏とこの文書について活発な話し合いをしたそうです。後でマックロイ氏からだったと思いますが、聞いたところでは、スティムソン氏とチャーチル氏の間で合意があり、その後二人はトルーマン氏とバーンズ氏のところに行って、文書の受け取りがあったそうです。文書はその後蒋介石将軍に電報で送られ、5月29日[7月の間違い?]に日本へのポツダム宣言として公布されました。そして、日本はこの文書を基にして降伏したのです。
付け加えさせていただきたいのは、他の人の功績を自分のものにしたくないので、ここで記録に残していただきたいのは、ポツダム宣言の前文は心理戦争省の海軍部所属のダグラス・フェアバンクスが準備した文書から取られたのです。(中略)彼の貢献に謝辞を述べたいと思います。この文書は歴史の一部ですから。
サワーワイン議員:あの映画俳優の?
D:映画俳優の。
サワーワイン議員:父親の方、息子の方?
D:息子の方です。
サワーワイン議員:ダグラス・フェアバンクス・ジュニア (Douglas Fairbanks Jr.: 1909-2000) ?
D:そうです。(中略)これは準備段階では「アメリカ・イギリス・中国の国家元首による宣言案」(Draft Proclamation by the Heads of the State, U.S.-U.K.-China)という題名でした。そして、最終的にポツダムで7月29日に、アトリー首相(Clement Attlee: 1883-1967)、トルーマン大統領(Harry Truman: 1884-1972)と蒋介石(1887-1975)によって発行されました。ロシアが参戦した時、ソヴィエトはこの文書に付けられました。(pp.731-2)
(中略)
議長:それはマーシャル元帥に否定された文書ですか?
D:のちに署名されました。
議長:しかし、一時的にでも、放棄されたんですね?
D:その通りです。
議長:それが後でポツダムで採用されたんですか?
D:そうです。
議長:その前に前文がダグラス・フェアバンクスによって作成されたと?
D:そうです。言っておきたいことは、私の草案で変えられたのは、内容ではなく、文章ですが、私が先ほど読み上げた箇所です。日本人は望むような政府を作って良いと読めるように削除されました。(p.732)
訳者コメント:中略の箇所ではマッカラン議長の迷走的な質問が多く、この後にも、ポツダム宣言の「前文」(preamble)という言葉を知らないかのように、ドゥーマンに何だと説明を求めていて、ドゥーマンは辛抱強く、条約にはpreambleというものがあると説明しています。
1945年5月29日の会議で戦争情報局長のエルマー・デイヴィスが「降伏を交渉する元となるものを作成すると理解できるもの全てを承認しない」と激しく反対し、マーシャル元帥が「文書をその時に公表するのは『時期尚早』」と主張した意味は、すでに軍上層部で原爆投下が決まっていたため、グルーとドゥーマンが推進していた降伏を促す文書は出さないという決定になったと『原爆投下決断の内幕 上』((注2), pp.73-81)は分析しています。
ドゥーマンの証言を読む前に『原爆投下決断の内幕 上』を読んだ時、この会議にドゥーマンがいた意味がはっきりしませんでしたが、証言を読んで流れがわかりました。この会議では原爆投下について「聞かせてはならない連中が出席していた」こと、会議後にスティムソン、マーシャル、マックロイが原爆の「利用について何をなすべきかについて意見を交換した」とスティムソンが日記に記していたそうです((注2), pp75-6)。原爆投下計画について聞かせてはならない相手とはグルーとドゥーマンだったのでしょう。
注
注1 | ”Hearings before the Subcommittee to Investigate the Administration of the Internal Security Act and Other Internal Security Laws of the Committee on the Judiciary United States Senate, Eighty-Second Congress, First Session on the Institute of Pacific Relations, Part 3”, United States, 1951. Hathi Trust Digital Library https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=uc1.a0002243236&view=1up&seq=5 |
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注2 | ガー・アルベロビッツ著、鈴木俊彦他訳『原爆投下決断の内幕 上』、ほるぷ出版、1995 |