日本兵の証言や被害者の証言、そしてNYタイムズの記事から、日本軍の残虐行為は南京以外でも広く行われ、太平洋戦争中にはインドネシアでもイギリス・オーストラリアの看護婦たちの虐殺もあったことが明らかにされつつあります。
南京以外の残虐行為
日本軍の略奪・虐殺・強姦が南京だけではなく、広範囲に行われていたことが様々な情報源からわかります。まず、1938年1月6日のNYタイムズは杭州で調査したカナダの保険会社検査員の報告を報道しています。
「日本軍が杭州を3日間恐怖に陥れたとカナダ人が非難—酔っ払った兵士たちが女性を襲い、略奪したと言われている」:上海発、1938年1月6日((注1), p.6)
1937年12月24日に、浙江州の首都、杭州の占領で「略奪、強姦、殺害の乱行」が続いたと、昨日上海に戻ってきたカナダの保険検査員が述べた。杭州を占領した後の日本軍の最初の動きは兵士たちに3日間の休暇を宣言したことだ。その結果は、中国の酒店の略奪、酔っ払った日本兵、そして彼らは通りで暴れまくり、家々、店舗、ホテル、公共施設に闖入し、中国人市民は郊外に逃げたり、地下室や屋根裏に隠れたとカナダ人は言った。数百人の女性と女の子が酔っ払った日本兵に強姦された後殺されたという。この運命をかろうじて逃れた他の数百人は、市中6箇所にある避難センターに逃げた。これはアメリカ・イギリス・フランスの宣教師たち30人が設立したものである。
カナダ人が言う。「これらの勇気ある外国人が中国の女子どもに英雄的援助を与えた。彼らは数百人の命を救った。この避難キャンプに避難を求めた女子ども全員が受け入れられたが、避難所はどこも超満員だった」。南京同様、日本兵は最初の略奪者ではなかった。中国部隊は外国の敷地は略奪しなかったが、中国所有の浙江大学と杭州の多くの米屋は逃走する中国部隊に略奪されたとカナダ人は非難した。
抗議が警備をもたらす
外国のミッショナリーが「この恐怖の支配を止めさせなければ、人道的な法律を実施するよう」本国に電報すると大胆な脅しで強い抗議をしたため、12月27日に日本軍は6避難キャンプの入り口に衛兵の配置を指令した。これで「外国宣教師が女性と日本兵の間に立ちはだかって、命をかける必要性に終止符を打った」とカナダ人は言った。
メソジスト・ウェイランド・アカデミーのカーティス・E.クレイトン司教(Bishop Curtis E. Clayton)、Y.M.C.A.避難キャンプのDr. K. Vanevererとジーン・ターナー(Gene Turner)、そしてその他のアメリカ人全員は多くの場合、命をかけたとカナダ人は賞賛している。彼はまたチャイナ・インランド・ミッションのE.フェアクロフ(Fairclough)が「うろたえて通りを走り回る女子どもを避難センターに導いた」ことを賞賛した。また、日本兵が女性に乱暴を働こうとしたのをフランス人宣教師ダミエール神父が止めた時、日本兵は神父のあごひげを引っ張ったとカナダ人は言った。
アメリカ人の家が略奪された:杭州、1月1日、AP通信
略奪と無秩序と恐怖の9日間の後、憲兵隊が今日平和と秩序を回復し、杭州の恐怖に震える市民を安心させた。アメリカン・スクールとアメリカその他の外国の建物には外国の旗と、日本軍による入場禁止の貼紙があったにもかかわらず、略奪された。日本兵と中国人が略奪にかかわった。本特派員はこの目で多くの現場を見たし、その他の現場を見た外国宣教師たちから聞いた。
日本軍の南京占領を特徴付けた大量処刑はここではなかった。略奪者2,3人が射殺された。このような場合、言葉の困難さが影響しているのだろう。外国人は誰も襲われなかったが、脅かされる事件はいくつかあった。その一つはフランス人司祭が日本兵に顔を叩かれたことだ。
将校が司祭を守った
日本兵がカトリックの避難所に入ってきて、女性を要求した。司祭が阻止すると、兵士が司祭の顔を平手で殴った。幸い、その時、日本の将校2人が入ってきて、その兵士たちを殴って、他の兵士を呼んで、本部に連れて行けと命じた。
避難キャンプに逃げ込んだ多くの中国人の女の子たちは美しさを隠すために顔に泥を塗っていた。その他の数百人は教会や外国人の家に隠れている。最初の日本部隊が入市してすぐに、中国人が食料を求めて全市の店を略奪したが、日本兵は止めようとしなかった。
退却する中国兵は杭州発電所、飛行場、川のフェリー桟橋、電信電話施設を破壊した。食料事情は極端に厳しいが、日本軍が市を通って内陸に向かうので、改善すると期待されている。
元日本兵の告白と証言
1950年代に中国内で行われた特別軍事裁判で起訴された元中尉を保阪正康氏が1991(平成3)年にインタビューし、起訴状と判決文を公開してもよいと渡され、その一部を紹介しています。この元中尉は、その裁判記録に書かれている「旧日本軍の蛮行は『氷山の一角にすぎない』」と言ったそうですが、その蛮行の数々は「目を覆いたくなるような内容」です((注2), pp.209-211)。
1956(昭和31)年6月に瀋陽の特別軍事法廷で旧日本軍の8人に判決が言い渡される前に一人(師団長の中将)が絞首刑にしてほしいと意思表示をしたそうですが、死刑が当然だと思われていたのに、判決は禁固13年から20年でした(p.207)。不満な傍聴人たちが審判長席に殺到しましたが、審判長が傍聴人たちに次のように言ったそうです。「この判決は中国人民代議員大会の決議よりもさらに上級の指示によっている。厳罰に処すべきだが、死刑にしてはいけない。なぜなら中日永遠の友好を考えて、あえてここは譲るべきだと上級は言っている」。そして「戦犯たちは監房に戻ってから、上級の指示というのは毛沢東主席と周恩来首相をさしていると聞かされた」(p.208)そうです。
起訴事実には師団長や連隊長が直接に蛮行を働いたわけではなくとも、その命令によって部下の兵士たちが繰り返した蛮行が克明に書かれていて、その一部を保坂氏が引用しているので要約します。
- 1942(昭和17)年4月:被告人[1]の配下の部隊は河北省遵化(ジュンカ)県で「斬り殺す、焼き殺す、毒ガスを放つなどの残虐な手段で」平和的住民220余名を虐殺、民家1900余戸を焼き払った。18歳の娘はガス中毒で逃げ出たところを輪姦されてついに死亡した。[氏名略の]妻は強姦に抵抗したため腹を切りさかれて胎児をえぐりだされ、[氏名略の]妻は強姦されたあと焼き殺されている。
- 同年10月:被告人[1]は配下の第一連隊と騎兵隊に命じ、河北省灤(ラン)県で血なまぐさい集団虐殺をおこない、棍棒でなぐる、銃剣で突く、生き埋めにする、焼き殺すなどの野蛮な手段で平和的住民1280余名を惨殺し、民家1000余戸を焼き払った。63名の妊婦が惨殺され、多くの妊婦が胎児をえぐりだされ、19名の嬰児が母親のふところからもぎとられ、地面にたたきつけられて殺されている。
- 1939(昭和14)年1月から1945年6月までに、被告人[2]は連隊長、旅団長、師団長として、部下の将校にたいし、生きた人間を「標的」として兵士の「度胸だめし教育」を実施せよとつねに訓示を与えた。被告人のこの犯罪的な訓示のもとに、配下の部隊は1945年5月から6月までのあいだ、山東省で、わが捕虜と平和的住民前後100余名を殺害している。被告人は配下の部隊にたいし「捕虜は戦場で殺し、これを戦果に計上すべし」と命令した。
- 1945(昭和20)年3月、被告人[3]は師団長として配下の部隊を指揮命令し、湖北省で侵略作戦をおこなったさい、凶悪きわまりない手段でわが平和的住民90余名を殺害した。南漳県では婦人、子供、老人ら12名を残酷にも絞殺した。わが平和的住民18名を手のひらにはりがねをつき通して数珠つなぎにし、銃剣でその全部を突き殺した。襄陽市では、部下が婦人を強姦するのを放任し、甚だしきにいたっては輪姦のあげく死にいたらしめている。
8人の被告の1人が1991年に保坂氏のインタビューに応じたのは、「われわれの世代はあの戦争で人間としてあるまじき行為を働いたという自責の念があるからだ。蛮行とか残虐行為というのはいまになっていえることで、あのころはこういう行為こそ、お国のためだと思っていた。その錯誤をあなたたちに知ってほしい」と体をふるわせて真意を繰り返したそうです(p.213)。日本軍がなぜ中国大陸でこのような蛮行を働いたかという問いには、士官学校出身者が牛耳っていた日本陸軍のヒエラルキー制度が問題で、階級が上がるには目立つことをしなければいけない;士官学校出身者は政治教育がされていないから、軍事と政治の関係が理解できなかった;新任の将校は兵士の前で臆病でないことを示すために残虐行為をしたなどです。
この元中尉は息子たちに全てを話し、息子たちは悩んでいるが、それによっていかなる戦争にも反対してくれると思うと述べています。その一方で、戦後になっても自責の念のないまま生き続けている元軍医(現在開業医)がいると、この元中尉が紹介しています。しゃれこうべを戦場の土産にするために、捕虜を斬殺し、首をはねて、天日で乾かし、顔面の肉を別の捕虜に剥ぎ取らせ、その捕虜は泣きながら仕事を続けて、何日後かに頭骨を捕虜に磨かせ、元軍医、現開業医は1991年時点でも診察室に飾っていると平然と言ったそうです(p.214)。
猟奇殺人者になってしまった上、その自覚がないまま医療活動を続ける人間になったのは、戦争に行かされたからだけなのか、差別意識が善悪の境を無くさせ、人間を悪魔にしてしまうのか、後世の私たちに突きつけられた課題です。
中国以外の強姦/虐殺事件
日本軍による略奪/強姦/虐殺が中国に限らなかったことが判明しています。1985(昭和60)年に発見された旧日本軍第五師団参謀部作成の極秘書類に、1944(昭和19)年11月に現インドネシア領ババル島の住民400人(その三分の一は女性と子ども)を「虐殺」と記されていることが1986(昭和61)年に報道されました(注3)。戦争犯罪の追求を恐れて、「原住民の反乱」に書き換えられた過程が分かる内容だそうです。現場責任者だった元大尉は戦犯となることなく、戦後は陸上自衛隊に入って一佐で退役し、この事件についてインタビューに答え「今さら、こんなことを暴いても何もならない。しかし、すまないことをしたと思っている」と語ったと報道されています。この旧日本軍の体質について、秦郁彦(1932-)・拓殖大教授[1986年当時]は「南方戦線でこれだけの事件が、これまで明るみに出なかったことに驚く。(中略)多くの場合、住民をいきなり殴りつけるなどの、日本軍の側のごう慢な態度が原因になっている。アジアの解放と言いながら、アジアの人の心を全く理解していなかった旧日本軍の体質に改めて驚く思いだ」と述べています。
77年後に明らかにされたもう一つの事件は、インドネシア・バンカ島でオーストラリア人看護婦22人が日本兵に強姦された上で虐殺された事件です(BBC, 2019年4月22日,(注4))。虐殺は「バンカ島虐殺事件」として知られているそうですが、彼女たちが殺される前に1部隊に強姦され、別の部隊にも輪姦された可能性があると報道されています。虐殺は知られていても、強姦はひた隠しにされていたこと、その背景には「レイプが死よりもひどい運命と考えられ、ニュー・サウス・ウェールズ州では1955年まで(加害者が)絞首刑による極刑で処罰されていた」社会だったからだと示唆されています。22人のうち、銃弾を受けながらも死んだふりをして生き残った女性は、東京裁判で強姦について話すことをオーストラリア政府から禁じられたそうです。強姦がタブーだったことと、1942(昭和17)年の香港侵攻時にイギリス人看護婦が日本兵に強姦されたことを知りながら、シンガポールからオーストラリア人看護婦を避難させなかったことでオーストラリア政府に罪悪感があったからだろうと推察されています。21人の虐殺者は「今も特定されず、『罪について何も処罰されていない』」とのことです。彼女たちの記録文書から「重要な証言部分が抜き取られていることも発見」されたそうです。ニュー・サウス・ウェールズ大学の軍事史研究家は「この話が表に出るのをずっと待っていた。長年、うわさされていたし、(中略)第2次世界大戦中に香港やフィリピン、シンガポールで記録された、日本兵による性的暴行とも一貫性がある」と述べています。
残虐行為は軍だけではない、否定/沈黙は共犯という21世紀のメッセージ
虐殺が軍の行為に限られないことは、関東大震災時(1923年9月1日〜)に市民がデマを流して朝鮮人虐殺に走った事件を思い出せば、差別意識に毒された一般市民が簡単に殺人者になることがわかります。虐殺された人々の中に沖縄出身者が3人いたこと、2016年4月の熊本地震で高校生がツイッターに「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ」と関東大震災時のデマを流したことも報告され、安部政権下でデマと差別が拡大していることに警鐘が鳴らされています(注5)。私自身、留学生対象の授業で有吉佐和子の『恍惚の人』(1972)を教材にした時、関東大震災への言及がある箇所で朝鮮人虐殺事件を紹介したところ、学生が日本人の知り合いに「朝鮮人が井戸に毒を入れたのは本当だ」と言われたと述べたのが衝撃でした。
内閣府ホームページ掲載の報告書を「見当たらない」と国会答弁する安倍政権
その上、歴代都知事が追悼文を送付していた「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式」に小池百合子都知事は2017年から追悼文を取りやめ、都議会では虐殺はなかったという否定論が展開されました。それを踏まえて2017(平成29)年11月に衆議院で安部政権に対して、政府として虐殺の事実を認めるかという質問主意書が提出されました(注6)。この質問に対し、国務大臣(当時)・麻生太郎氏が「事実関係を把握することのできる記録が見当たらないことから、お尋ねについてお答えすることは困難である」と回答しました(注7)。ところが、麻生内閣発足(2008年9月)の6ヶ月前、2008(平成20)年3月には「内閣府・防災情報のページ」に「災害教訓の継承に関する専門調査会報告書 平成20年3月 1923 関東大震災【第2編】」が掲載されていたのです。その第4章は朝鮮人虐殺に関する報告です(注8)。
この報告書は多くの調査研究を踏まえて、流言蜚語の原因について「警察による治安維持のための朝鮮人拘束が流言のきっかけとなり、それが多くの殺傷事件を引き起こした」「社会主義者及び民族解放闘争を昂揚させる朝鮮人への弾圧の機会を狙っていた日本の支配階級が、朝鮮人『暴動』の流言を捏造して宣伝し、それを根拠に戒厳令を敷き、軍隊、警察とその司令下の自警団によって社会主義者と大量の朝鮮人を虐殺した」、犠牲者は6,600余名((注9), p.219)とされています。さらに聞き取り調査によって、埼玉県では警察署が襲われ、「警察の保護下の朝鮮人を殺傷する事件が多かった」(p.220)ため、加害者の検挙も多かったとのことです。千葉県では「保護のため習志野の高津廠舎[しょうしゃ:軍隊演習用の小屋]に収容された朝鮮人の一部が、9月6日以降、周辺の村に引き渡されて、村民の手によって殺害され」(p.220)たことも記されています。
中国人犠牲者も多かったことをこの報告書で知りました。張学良や周恩来などの知己が多かった王希天(1896-1923)が大島の中国人労働者遭難の状況を調査するために9月9日に大島に渡ってから行方不明になり、外交上の問題になったそうです。外務省記録「大島町事件其他支那人殺傷事件」によると、野戦重砲兵第一連隊による殺害事件でした(p.220)。また浙江省温州から集団で大島に来ていた中国人労働者が「中国人労働者を敵視する人夫請負人や警察の扇動によって」殺害され、1990年の現地調査によって死者656名、行方不明11名と判明し、その8割以上が「大島やそれに隣接する江東地区」で起こったとのことです(p.221)。
この報告書の「おわりに—関東大震災の応急対応における教訓—」で、「火災による爆発や火災の延焼、飛び火、井戸水や池水の濁りなど震災の一部を、爆弾投擲[とうてき]、放火、投毒などのテロ行為によるものと誤認したことが流言の一原因」「過去の反省と民族差別の解消の努力が必要なのは改めて確認しておく(引用者強調)。その上で、流言の発生、そして自然災害とテロの混同が現在も生じ得る事態であることを認識する必要がある」((注10), p.224)と結論付けています。安倍政権はこの報告書を否定するために「記録は見当たらない」と国会答弁し、歴史的事実である朝鮮人・中国人虐殺を否定したことになります。
注