「玄武門攻撃随—軍功者原田重吉氏登奮戦図」(出典:国立国会図書館、(注1))
出典:国立公文書館アジア歴史資料センター・大英博物館共同インターネット特別展(注2)
上に掲載した錦絵は日清戦争で軍功を挙げたとして、一躍有名になった一等卒・原田重吉(1868-1938)が平壌総攻撃の1894(明治27)年9月15日に要塞となっていた平壌の玄武門によじ登り、内側から門の扉を開けて部隊を入れ、日本軍を勝利に導いた時の様子を描いたものです。この41年後に萩原朔太郎がノンフィクション「日清戦争異聞—原田重吉の夢」を発表しました。初出は朔太郎の個人雑誌『生理』の1935(昭和10)年2月号です。朔太郎がなぜ実在の軍功者の名前を使って、大幅な脚色を日中戦争の2年ほど前に発表したのか探りたいと思いますが、その前に、実在の原田重吉のその後が1932(昭和7)年1月18日の報知新聞に掲載されたので、紹介します。
重吉は報道時点では65歳でした。郷里は現在の愛知県豊田市で、日露戦争にも出征しました。日清戦争から凱旋すると、お祝いに来る人が絶えず、「飲み倒され、当時の金で千何百円という借金が出来てしまった。とやかく言われながら、仕方なく舞台に立ったのも、此の借金が返したいからであった」とのことです。舞台に立ったというのは、朔太郎も採用した、実物が演じる田舎芝居です。本物の原田重吉は借金を返した後、農業にもどり、麦の増産に精進し、報道によると、「大正十二年、十三年に亘って、郡農会や知事から表彰された程である。したがって玄武門の勇士は、今では東加茂郡きっての篤農家として、村の尊敬を一身に集めている」((注3), pp.134-35)そうです。
この出典は太平洋戦争の最中、1943(昭和18)年に出版された『大国史美談』と題された本です。「序」に出版の意図が書かれていますが、英米を相手に戦っている時代に、子どもたちに「皇国の道に則って」「国民精神の涵養上特に尊重すべき国民的美談を豊富に提供し」、「青少年の教育にあたるべき教職員各位及び一般人士の読物となり、又青少年の課外読物にもなるよう心掛けつゝ書上げた」(pp.2-3)と述べられています。この前には、『大国史美談』を必要とする戦局が以下のように述べられています。
多年我が国勢の発展を嫉視し、常に毒牙を磨いて抑圧を加え来った英米両国は、赫々たる我が国戦果に驚き、遂に重慶政権と連衡[れんこう:連合]して戦を挑んで憚らざるようになった。我が国は奮然起ってこれに応じ、東西到る所で彼らに大鉄槌を加え、以て彼らをして顔色なからしめて居る。しかも彼等は物資の豊富を恃みとして長期持久の策を執り、小癪にも最後の勝利を夢みて居る。
もとより邪は正に勝ち難し。連衡の邪敵は敢て恐れるに及ばないが、油断は禁物、決して彼等を侮ることは出来ない。堅忍持久高度国防施設の強化を図ると共に、益々国民精神を発揮して、有始有終の勝利獲得に勇往邁進しなければならない。(p.2)
戦争美談のアンチテーゼとしての『日清戦争異聞』
朔太郎の「日清戦争異聞」は報知新聞の報道に刺激されたのかもしれません。この作品は青空文庫で読むことができます(注4)。朔太郎の原田重吉は「軍隊生活の土産として、酒と女の味を知った」ため、「次第に放蕩に身を持ちくづし、とうとう壮士芝居の一座に入った」と、軍隊生活が人生を狂わせる構図にしています。そして見物客が喜ぶのは「重吉の経験した戦争ではなく、その頃錦絵に描いて売り出して居た『原田重吉玄武門破りの図』で、彼が「ただ一人で三十もの支那兵を斬り殺」すと、「見物は熱狂し、割れるように喝采した」と、戦争=大量殺戮に熱狂する多くの国民の姿を描いています。
もう一つの特色は、「支那兵」の描き方です。それは「日清戦争異聞」の始まり方に示されています。
日清戦争が始まった。「支那も昔は聖賢の教ありつる国」で、孔孟の生れた中華であったが、今は暴逆無道の野蛮国であるから、よろしく膺懲[ようちょう]すべしという歌が流行った。月琴の師匠の家へ石が投げられた、明笛を吹く青年等は非国民として殴られた。(中略)[支那人]の辮髪は、支那人の背中の影で、いつも嘆息(ためいき)深く、閑雅に、憂鬱に沈思しながら、戦争の最中でさえも、阿片の夢のように逍遥って居た。彼等の姿は、真に幻想的な詩題であった。だが日本の兵士たちは、もっと勇敢で規律正しく、現実的な戦意に燃えていた。彼らは銃剣で敵を突き刺し、その辮髪をつかんで樹に巻きつけ、高梁[コーリャン]畑の薄暮の空に、捕虜になった支那人の幻想を野晒しにした。殺される支那人たちは、笛のような悲鳴をあげて、いつも北風の中で泣き叫んで居た。チャンチャン坊主は、無限の哀傷の表象だった。((注5), p. 404)
「日清戦争異聞」はこれらの錦絵を描いているようですが、誇らしげに西洋の軍服姿で西洋式の軍隊で清国に戦争をしかける日本を描いた錦絵に対し、朔太郎の描写には自国で外国軍の捕虜になり、命乞いする清国軍の兵士将校たちへの哀傷の想いが窺われます。
朔太郎の原田重吉は戦争によって人生を破壊され、「しまいにはルンペンにまで零落し」、浅草公園の隅のベンチで「遠い昔の夢を思い出した」と描かれ、その夢の中で支那人と「黙って、何も言わず、無言に地べたに座りこんで」賭博をしていたと語られています。目が覚めると重吉は過去の記憶を思い出そうとしますが、思い出せず「そんな昔のことなんか、どうだって好いや!」と呟き、「また眠りに落ち、公園のベンチの上でそのまま永久に死んでしまった。丁度昔、彼が玄武門で戦争したり、夢の中で賭博をしたりした、憐れな、見すぼらしい日傭人の支那傭兵と同じように、そっくりの様子をして」(pp.407-409)と締めくくられています。
「日清戦争異聞」で原田重吉に「そんな昔のことなんか、どうだって好いや!」と言わせたことに朔太郎の重要なメッセージが込められているように感じます。この作品が発表される4年前に満州事変(1931)を起こした日本軍が、この2年後に日中戦争を始めたことが、日清戦争の続きのような流れになっていて、「そんな昔のこと」が繰り返されていることへの警鐘とも読めます。同時に満州事変から37年前に侵略して殺した中国兵と夢の中で仲間のように賭博ゲームをし、自分が死んだ時はその中国兵と「同じように、そっくりの様子をして」いたと描かれる点にも重要なメッセージが読み取れます。
「日清戦争異聞」が描いた原田重吉が自分を主人公とした壮士芝居に金儲けのために出演したこと以外は本人の人生と全く違うことは、1932年の新聞報道でも知られていたし、1943年刊の『大国史美談』で紹介されたことは見てきた通りですが、朔太郎が描いた原田重吉が事実だと現在の研究者は信じているようです。『日清戦争異聞 萩原朔太郎が描いた戦争』(2008, (注6))では、「原田重吉本人においては日露戦争は全くの空白であり、日清戦争でその生涯は終わっている」(p.65)と書かれ、『報知新聞』で報道された日露戦争にも出征したことが看過されています。『日清戦争—「国民」の誕生』(2009, (注7))でも原田重吉について「その後は酒色にふけり、ついに旅芝居の役者にまで身を落としている。美談の主になったことが、原田の人生を狂わせたのである」(pp.107-8)と解説されています。朔太郎が「異聞」と題したのですから、この内容が原田重吉の事実とは異なると想像するのが合理的でしょうが、「日清戦争異聞」が原田重吉その人の真実を語っていると信じる人が現在多いとしたら、それこそが朔太郎のフィクションの凄さを物語っていると喜ばしいです。
朔太郎の従兄・萩原栄次の日清戦争批判
前節で萩原朔太郎が6歳の頃から大きな感化を受けた従兄の萩原栄次を紹介しましたが、栄次は24歳の年、日露戦争前の1902(明治35)年に父親に宛てた手紙の中で日清戦争批判を吐露しています。
考えれば考える程、兵役ほど馬鹿げた者はない。国民の義務だと云えばナルホド圧政な義務たるに相違ないが、是が人間の義務でない事はたしかだ。其がいつでも正義の敵、人道の蹂躙者を斃すのなら立派な役目であるが、時とすると無辜の民を屠る様な事がある。否、其の様な場合の方が却って多いのだ。日清戦争なども義戦だとか称してエバッテ居るが、真面目に考えると、あれは寧ろ正義に逆いた戦争であった様だ。上の役人が正邪曲直を明察する立派な正しい人であるならば、ソノ様な非道な事をやらしはせまいが、今の日本ではソノ希望はだめだ。自分で是は人間のすまじき事だと考えて居ても、国益だ、国民の義務だなどとやたらに国家を笠にきせられてはシカタがない。人の道に逆いても、国の法律を守らねばならぬ、コンナ馬鹿な事はあるまい。僕は人間を離れて国家があるまいと考える。人道に逆いた忠義は、ホントウの忠義ではあるまいと考える。((注8), p.22)
栄次は1900年に大阪医学校を卒業して、1903年10月まで前橋で朔太郎の父親の代診を務めていたので、16歳だった朔太郎と日清戦争について話し合っていた可能性は高いです。
日清戦争に反対した勝海舟
日清戦争の最中に反対表明した数少ない人の中に勝海舟(1828-99)がいます。江戸城の無血開城の立役者だった海舟は西郷隆盛に談判に行き、その時の様子を語った談話が『氷川清話』に掲載されています。西郷が海舟の話を信用し、「『私が一身にかけて御引受けします』西郷のこの一言で、江戸百万の生霊も、その生命と財産を保つことが出来、また徳川氏もその滅亡を免れたのだ」((注9), p.73)と述べています。
この海舟が日本初の侵略戦争に反対したのも頷けますが、この事実を私たちが知ったのは、80年ほど後の1973年です。その理由は後ほど紹介しますが、勝海舟の談話を現代仮名遣いに直して引用します。
日清戦争はおれは大反対だったよ。なぜかって、兄弟喧嘩だもの犬も喰わないじゃないか。たとえ日本が勝ってもドーなる。支那はやはりスフィンクスとして外国の奴らが分らぬに限る。支那の実力が分ったら最後、欧米からドシドシ押し掛けて来る。ツマリ欧米人が分らないうちに、日本は支那と組んで商業なり工業なり鉄道なりやるに限るよ。
一体支那五億の民衆は日本にとっては最大の顧客サ。また支那は昔時から日本の師ではないか。それで東洋の事は東洋だけでやるに限るよ。(p.269)
勝海舟が日清戦争開戦時に「大反対」したという事実が1973年まで知られていなかった理由を2000年初版の講談社学術文庫版の編者の一人、松浦玲氏が「学術文庫版刊行に当って」と「解題」で述べています。1897(明治30)年刊の吉本襄(撰)『海舟先生 氷川清話』(注10)が現在に至るまで流布しているのですが、松浦氏は「勝海舟があんなことを喋る筈が無いという疑いを長く持っていた」((注9), p.3)ので、徹底的に洗いなおしたところ、「吉本が、海舟の談話を勝手に書き変え、海舟の真意をひどく歪曲していた」(p.381)ことが判明したそうです。例として、「海舟の痛烈な時局批判、明治政府批判はあらかた削りとられ、首相や閣僚を名指しで攻撃している談話が(中略)抽象的道徳論にすりかえられる。大臣の名前を差し替えて、別の内閣について論じているようにみせかけたものもある」(p.383)、「日清戦争を戦争中に批判した時局談は、削除するか、(中略)抽象論に書き変える」(p.384)等々が挙げられています。
そして松浦氏は「学術文庫版刊行に当って」(2000年10月)を以下のように締めくくっています。
海舟は、激動の十九世紀を鷲掴みにした上で二十世紀のアジアと世界を憂え、百年後の知己を待った。いま我々は二十世紀について結果を知っている。海舟において既知の十九世紀と、未知の二十世紀がどういう位相を呈していたか。それを正確に知ることは我々が未知の二十一世紀に対処するための何よりの勉強材料ではなかろうか。(pp.6-7)
注
注1 | 日清戦争錦絵、年方作「玄武門攻撃随一軍功者原田重吉氏登奮戦図」、明治27、国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1312093 |
---|---|
注2 | 国立公文書館アジア歴史資料センター・大英博物館共同インターネット特別展に日清戦争の錦絵が掲載されています。 https://www.jacar.go.jp/jacarbl-fsjwar-j/smart/gallery/gallery005.html |
注3 | 北垣恭次郎『大国史美談 巻7』実業之日本社、昭和18年、国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1041515 |
注4 | 萩原朔太郎「日清戦争異聞(原田重吉の夢)」 https://www.aozora.gr.jp/cards/000067/files/1771_45449.html |
注5 | 「日清戦争異聞(原田重吉の夢)」、『生理』1935(昭和10)年2月号、『萩原朔太郎全集』第5巻、筑摩書房、昭和51年 |
注6 | 樋口覚『日清戦争異聞 萩原朔太郎が描いた戦争』、青土社、2008. |
注7 | 佐谷眞木人『日清戦争—「国民」の誕生—』、講談社現代新書、2009. |
注8 | 萩原隆『若き日の萩原朔太郎』、筑摩書房、1979. |
注9 | 江藤淳・松浦玲(編)勝海舟『氷川清話』、講談社学術文庫、2000. |
注10 | 吉本襄撰『海舟先生 氷川清話』鐡華書院、明治30、国会国立図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/781229 |