日清戦争時に旅順で日本軍による虐殺があったというニュースを『ニューヨーク・タイムズ』がどう伝えているか紹介します。
GENERAL VIEW OF PORT ARTHUR—OBJECT OF THE JAPANESE ATTACK UNDER FIELD-MARSHAL OYAMA
旅順港の全景 大山陸軍元帥指揮下の日本軍の攻撃目標
(左)有栖川宮 日本陸軍参謀総長
(中)大山陸軍大将 旅順攻略の日本軍司令官
(右)山縣伯爵 コリア内の日本軍司令官
出典:『ハーパーズ・ウィークリー』1894年10月27日号、(注1), p.1024
「旅順虐殺」に関する報道
『NYタイムズ』には1894年12月9日から1895年1月1日まで、「旅順虐殺」に関する報道が掲載されていますので、『NYタイムズ』がどう報じているかを見ます。
『NYタイムズ』1894年12月9日((注2), p.5)
「旅順で報復」:ロンドン発、12月8日—
『セントラル・ニュース』の東京特派員によると、旅順陥落の夜、数人の軍夫が自己防衛のための刀を身につけて町に入った。刀を持ったのは、軍の特務兵が自分たちを護衛する義務から解放させようという考えからだという。町で彼らは狂乱状態になるまで中国の酒を飲み、中国市民に対して報復行為を行ったという明らかな証拠を特派員は入手したという。
この事実を知らされた帝(Mikado)と政府高官は激しい怒りと恥を表明し、陛下は即座に調査を命じ、犯人を厳罰に処すよう命じた。
『NYタイムズ』1894年12月13日((注3), p.5)
「日本公使が旅順虐殺の報道を否定」:ワシントン発、12月12日—
日本公使は旅順で日本部隊が犯したと推定される虐殺の報道を信じられないと強く表明した。横浜からの電報で、旅順が陥落後に3日間無制限の殺人行為に支配され、ほぼ全ての住民が冷酷に殺戮されたという報告を公使は全くの虚偽だと躊躇なく非難した。大山[巌:1842-1916]元帥は部隊に何事も過度はいけないと命令しており、その命令は最高に厳しいので、彼の考えでは、日本軍隊内で維持されている規律はそのようなこと[虐殺]を不可能にしている。したがって、大山はこの報道は極端に誇張されており、実際に起こったことの公式報告がきっと公表され、証明されると思っている。公使館はこの件についてまだ明確な報告はしていないが、数人の日本の軍夫が自衛のために刀を身につけて戦闘の最中に町に入ってきて、ある程度の過度な行為をしたと報告された。金州(Kin-Chow)と土城子(Tuchengzi; NYタイムズではTalien Kuan)での戦闘後、日本人の死体が斬首されたり、残虐に切断されているのが発見された。日本人軍夫がこの残虐行為を思い出して怒りに駆られ、陥落後に、町で見つけた酒を飲んで酔い、まだ戦闘が行われている時に、申し立てられている行為をした可能性はある。しかし公使館の高官たちは申し立ての行為はこれ以上のものではないと信じており、犯人は直ちに厳罰に処せられると確信している。
旅順占領に伴う状況はこの種のことがたやすく起こることを示している。11月21日午後遅くまで、日本軍右翼はこの町に入っていなかった。海岸防御用の砦のいくつかはまだ踏みとどまっており、戦闘は実際に一日中、翌朝10時まで続いた。戦闘の合間に軍の随行員たちがこの過度な行為を犯したのかもしれないが、日本公使はそれが言われているようなレベルや性質のものではないと信じている。
大山巌の指示
まるでこのような事件を予測していたかのような大山巌(陸軍第二軍司令官)の指示が、この4日後のNYタイムズに掲載されています。見出しは「赤十字の仕事—誕生・歴史とこの有名な組織の方法—人道のために—国際協定のもとに44か国が団結—日本の赤十字とその活動」です。
『NYタイムズ』1894年12月17日((注4), p.9)
赤十字ジュネーブ条約を採用するにあたり、各国は即座に自国の軍隊に条約の博愛・人道目標を教育することを求められた。日本は赤十字ジュネーブ条約に1886年に調印した。(中略)昨年の9月22日に[日本の]陸軍大臣は以下の通達を陸軍と国民に出した。自国の軍隊であろうと、敵軍であろうと、苦しんでいる者、病気や負傷している者には慈悲と義務のためにやるべきことを思い出せという指示である。
「交戦作戦は実際に行なっている陸海軍に限られ、国同士が戦争にあるからと言って、個人間にはいかなる遺恨を持つ理由はない。人道の一般原則は、敵軍であっても、負傷または病気で障害を負った者は救助することを命じている。この原則に従って、平和時の文明国はこの条約を締結し、戦争時には敵味方に関係なく障害者をお互いに助けることを約束した。この人道的団体はジュネーブ条約、またはもっと一般的には赤十字協会(Red Cross Assocaiton)と呼ばれる。日本は1886年6月にメンバーになり、日本兵は負傷や病気で障害を負った敵を親切に救助しなければならないと既に指示を受けている。
「中国はこのような条約に入っていないため、中国兵がこれらの開明的な原則を知らない可能性があり、負傷したり、病気の日本兵を無慈悲に扱うかもしれない。そのような不測の事態が起きないよう、日本部隊は警戒しなければならない。しかし、同時に、敵がどんなに残酷で復讐心に満ちていることを示しても、文明が認めた規則に従って敵を扱わなければならない。障害を負っていれば救助し、捕虜を親切に思慮深く扱わなければならないということを決して忘れてはならない。負傷したり病気で障害を負った者だけに慈悲深く優しい扱いをするのではない。我が軍に抵抗しない者たちも同様の扱いをしなければならない。敵軍の死者の亡骸も敬意をもって扱われなければならない。ある西洋の国が敵軍の将軍を引き渡す時にこの捕虜のランクにふさわしい儀式全てを行ったことは称賛すべきだ。」
「日本兵は天皇の優しい慈悲を絶えず念頭におかなければならない。そして、慈悲を示すより勇敢さを示すことを望むべきではないということをいつも心に留めよ。今こそ、これらの原則の価値の現実的な証拠を示す機会である。」
大山巌 公爵
陸軍大臣明治27年9月22日(Sept. 22, 27 the year of Meiji)
この訓示の原文は見つかりませんが、陸軍大臣としての訓示なので、大山巌が第二軍司令官として出軍する直前のことでしょう。10月16日に長門丸で宇品港を出帆する前の9月30日に伊藤博文総理大臣が出軍前の大山の宿を訪ね、大山の出軍中、陸軍大臣は海軍大臣の兼務になるが異存はないかと尋ねたそうです((注5), p.549)。そして、出帆前日の10月15日に部下一般に訓示を下した内容が『元帥公爵大山巌』に記録されています(pp.550-551)。漢字と仮名遣いは現代日本語にして引用します。
我軍は仁義を以て動き、文明に依りて戦うものなり。故に我軍の敵とする所は敵国の軍隊にして、其の一個人にあらず。左れば敵軍に当りては素より勇壮なるべしと雖も、其の降人俘虜傷者の如き我に抗敵せざるものに対しては、之を愛撫すべきこと、曩[さき]に陸軍大臣より訓示せられたるが如し。況[ま]して敵国一般の人民に対しては、最も此の意を体し、我妨害を為さゞる限りは、之を遇するに仁愛の心を以てすべし、秋毫[しゅうごう:わずか]の微と雖も、決して略奪することある可からず。若し其の服食器具の類に於て、緊急所要の場合あらば、相当の代償を以て之を購買すべし。到る所勉めて人民を撫し、綏[やす]んじて安堵せしめ、我恩徳に懐かしむべし。思うに我軍人は、平素是等の教示を受け、能く会得せることならば、素より不法不義の挙動なかるべしと雖も、人夫等に至りては、予め教養を経たるものにあらざれば、特別に注意して、規律に服従をせしむるを要す。若し違い犯すものあらば、厳罰を以て之を処分し、決して宥赦[ゆうしゃ:手心を加えて刑罰を免除する]すべからず。今や我軍将[まさ]に本国を離れて敵地に赴かんとす、因[よっ]て特に訓示す。各団長は深く此の主意を体して、部下を戒餝[かいちょく:注意を与えて慎ませる]し、我天皇陛下の御仁徳をして、益々海外に昭明ならしめ、我軍隊の義心を世界に発揮すべし。
外務大臣・陸奥宗光の言い分
『NYタイムズ』1894年12月18日((注6), p.5)
「日本の態度—旅順における中国人虐殺が公式に否定された—赤十字のエピソード—平和な住民が全員避難した人のいない町で侵略者は私服に変装した兵隊に遭遇」:ワシントン発、12月17日—
旅順陥落後に日本軍が中国人を虐殺したと報道された件の詳細が東京の陸奥(宗光:1844-97)外相から日本公使の栗野(慎一郎:1851-1937)氏に届いた。陸奥氏によると、日本政府は申し立てられている虐殺の全事実をまだ入手していないが、多くの事実が確認された。陸奥氏が入手した情報は以下の電報メッセージで伝えられた:日本軍の捕虜となった旅順と周囲の砦の中国人兵士の多くは軍服を脱ぎ捨て、今知られていることは、旅順で殺された私服の中国人のほとんどは変装した兵士である。旅順の市民はこの事件の前に避難していた。しかし残っていた2,3人は武装して、日本軍に発砲して
抵抗するよう命じられていた。彼らはその通りにした。戦闘の混乱の中で、彼らと中国兵を見分けるのは不可能だった。旅順に入った日本軍部隊は日本人捕虜の残酷に切断された死体を見て酷く怒った。死体の何人かは生きながら焼き殺され、他は磔にされて殺された。それにもかかわらず、日本軍の規律は維持された。中国人数人が捕虜にされたが、親切に扱われた。負傷した中国人と日本兵で動ける者は東京に移送され、2,3日中に到着する。(中略)
栗野公使は日本兵による3日間の惨殺の話を全く信じていない。事件の詳細が、女子供が彼の同国人によって殺されたのではないと証明すると彼は思っている。
赤十字条約締結国としての日本の対応
この後も日本政府の言い分が述べられています。この記事の後半には、赤十字の原則を遵守すると宣言した陸軍の方針と、天津の赤十字の要望とが衝突したことも報道されました。陸奥外相から栗野公使宛の文書で述べられています。
旅順陥落後、11月28日に旅順に中国の蒸気船が入港した。乗船していた外国人2,3人は天津の赤十字の者だと言い、李鴻章と外国領事の証明書を見せて、負傷している中国兵は治療のために天津に連れて行くべきだと言った。我が国の陸軍当局は、その慈善精神には感謝するが、中国兵は戦争捕虜なので日本に敵対している彼らの国に連れて行くことを許すわけにはいかない;第三国の中立国の領事からの依頼であっても認められないと回答した。さらに、中国捕虜の負傷者は日本の野戦病院で治療すること、そこには十分な設備が整っていると言った。
『NYタイムズ』1894年12月19日((注7), p.5)
「中国における干渉—上海地域での戦闘は禁じられる—英露協定—中国の武器入手を妨げない条項を認めないと日本が脅した」:ロンドン発、12月18日—
東洋の戦争に関するイギリスとロシアの協定は、上海地域でのいかなる戦闘行為も認めないと理解されている。これは揚子江の南北河口を戦艦が通ることも禁じている。日本は最初、この協定の条項を受け入れたが、最近、上海兵器庫が中国軍に武器を供給しているという理由で認めないと脅している。広島の陸軍第三軍が南京に向かうと信じられている。英露政府はこの動きを阻止すると仄かし、イギリス艦隊が舟山(Chusan)に集結し、ロシア艦隊が煙台(Che-Foo)に集結した。イギリスとロシアは必要とあれば、揚子江上の戦闘を阻止するために戦うと決定したと理解されている。(中略)
広島のロンドン・タイムズ特派員によると、日本陸軍の外国人特派員が広島に戻ってきて、旅順で日本軍による残念な暴挙があったが、日本軍の行為はヨーロッパの最高の軍隊と比較しても許されるものだと言った。彼[ロンドン・タイムズ特派員]はこの記者たちが日本軍を嫌悪して離れたことははっきりと否定した。旅順の日本人文官は、旅順に戻ってくる住民の安全を守るために厳格な規則を発令した。多くの住民には日本が食料を提供している。
日本軍が中国人市民に食料を提供している挿絵が『ハーパーズ・ウィークリー』(1895年4月20日号)の表紙に掲載されています。
THE WAR IN THE EAST—CHINESE POOR RECEIVING ALMS AT THE JAPANESE STAFF-OFFICE IN THE KINCHU CITADEL DRAWN BY C.S. REINHART FROM AN OFFICIAL PHOTOGRAPH TAKEN FOR THE JAPANESE GOVERNMENT
東洋の戦争—中国人貧困者が金州城砦の日本軍本部で救援物資を受け取る様子
日本政府の公式写真をもとにC.S.レインハートによる絵(注8)
『NYタイムズ』1895年1月1日((注9), p.5)
「中国人の残酷性—旅順虐殺の噂に関する日本側の説明」:ワシントン発、12月31日—
ここ[ワシントン]の日本公使館に今日届いた東京からの非公式便には報道されている旅順の虐殺に関して追加情報はほとんどない。戦闘についての説明の一つは、旅順陥落直前の蘇家屯 [そかとんSuchiatun:奉天/現瀋陽から16km]での戦闘で「中国人はいつもの残虐行為をした。切断された死体を見た日本部隊の怒りは深く、将校も兵士もこの不幸な仲間の仇をうつと誓った」。
上海からの電報が日本の新聞に掲載された。日本人の捕虜に対する中国の非人道的対応に報復するため、錦州(Chin-Chow)を奪還するために福州(Foo-Chow)から行軍していた[中国]部隊に容赦なく部隊の多くを打ち倒した。Ma-Kwo-Lingで400人の中国人と遭遇し、事実上全滅させたこの人々は旅順からの逃亡者だと言われている。この逃亡者たちは細い道で日本軍の大隊と遭遇し、唯一の逃げ道は戦うことだと考えて、結果は大量虐殺だった。
横浜で出版されている英字新聞『ジャパン・メイル』は以下のパラグラフで虐殺の話を認めている。
「日本軍部隊が旅順で無慈悲な傾向を示し、中国人の殺害は不必要な規模で行われたという内容の上海からの電報が広まっている。我々はこれが大いにあり得ると考える。結局、兵士も人間だ。同国人2人が中国人に骨を砕かれ、生きたまま焼き殺されたことを知り、戦闘中に負傷したり殺された仲間の遺体が残酷に切断されたのを見て、彼らが次に敵に出会ったら、力の続く限り殺し続けると決意したとしても不思議はない。我々は我が軍がインドで何をしたか知っている。日本人はまさに鋭く注視され、批判されているのだから、彼らはできる限り否定されなければならない。報復の贅沢、だが、「仲間が死んだ」のを見た男たちについてのマルヴァニー(Mulvaney)のストーリーはイギリス兵と同じく、日本兵にも当てはまる。我々の誰がそのような状況下で我慢できるだろうか?」
旅順占領は日本中で熱狂的に祝われた。この帝国のあらゆる町々、村々で小学生がパレードをした。横浜のアメリカ人居住者もこの祝賀に参加した。彼らは祝賀行列に日本海軍旗と星条旗を振りながら、バイオリンとアコーディオンの音楽に合わせて、いかにもアメリカ人らしい熱狂さで町を練り歩いた。
この記事で言及されている「マルヴァニーのストーリー」については後に紹介します。
アメリカ赤十字社者設立者の日本擁護論
上掲の『NYタイムズ』(1894年12月18日)の記事で紹介された日本軍による中国人捕虜の扱いについて、『ハーパーズ・ウィークリー』(1895年1月19日号)でアメリカ赤十字の設立者で1904年まで会長だったクララ・バートン(Clara Barton: 1821-1912,(注10))が「日本の赤十字」(The Red Cross in Japan, (注11), pp.31,33)という題名の解説をしていますので、抄訳します。
全部で40ほどの国が赤十字として知られている1864年の国際ジュネーブ条約によって連携している。この条約のエッセンスは「中立」という一語で表されている。これが定義するのは、全傷病兵士、全医師・看護婦・看護人、全病院・救急車、その他の器具で、それらには所属する軍隊が認めた赤十字の腕章や旗が示されている。さらに、戦闘が行われている地域の住民と建物は中立とみなされ、彼らは傷病者と障害者の助けとなり、あるいは病院に雇用される。
傷ついた兵士が敵の手に落ちた時は「中立」として、できるだけ早く自分の所属部隊の前線に送られなければならない。もちろん、兵士たちの国が赤十字条約に締結していることが前提である。
上記の原則を適用すると、なぜ日本が人道的国家としてあのような効果的かつ称賛すべき仕事をしているのか理解できる。日本は1886年にジュネーブ赤十字条約を締結し、日本の天皇は民間赤十字社の代表として、日本はその精神と義務を実行している。
赤十字は6つの大戦争で存在感を示した。書き記された歴史がその慈善溢れる仕事を記録しているが、記されていない歴史だけがすべての戦地での語られていない苦しみと悲惨さを防ぐことに結びつく。
現在の戦争で日本は赤十字国として、赤十字が今まで関わったどの戦争でも経験したことのない困難と危険に遭遇している。日本の敵である中国は赤十字締結国ではなく、したがって、傷病者に対して片方は人道的な扱いをし、もう片方の国では非人道的扱いがはびこっている。
最近の新聞で日本が赤十字を拒否し、旅順で赤十字を追い払ったという煽動的な報道によって、国際的に赤十字と日本に対する大きな不正が行われた。その事実は以下の通りだ:数人の人道的で立派な紳士—中国在住のアメリカ人・イギリス人・ドイツ人、そしてその他の国の市民、牧師、医師、政府役人—が赤十字社を設立し、李鴻章の承認を得て、中国の負傷者の救助に行った。彼らは蒸気船トゥーナン号を得て、旅順に入り、私立赤十字社と称して、日本の司令官に負傷中国兵の引き渡しを求めた。船の出発地、天津まで兵士を送るためである。日本の司令官の任務は単純だ。中国は赤十字条約の締結国ではなく、したがって、天津赤十字社は、その目的がどんなに称賛されるべきものでも、政府機関でもなく、認定された存在でもない。その意図が高貴で称賛に値するものであっても、その活動を承認し、責任を持つべき政府もないという観点からは不運にも無責任な団体である。
この協会は[日本軍に]礼儀正しく迎えられ、その善意は評価されたが、その要望は適切に拒否されて、出港するよう求められた。日本軍の管理下にあった中国の負傷兵は戦争捕虜であり、日本赤十字病院で慈悲に満ちた治療を受けていたが、中立国の公使館の認可と支持を持って来ても、中国兵を私立協会に引き渡す権限はない。この条約のメンバー国に求められている政府の責任は完全に欠如している。
中国の文明が赤十字の人道主義を認め評価できるところまで到達していたら、そして中国が条約国になっていたら、中国の負傷者は移動できる状態になったらすぐに日本軍によって送還されていただろう。(中略)
社会とメディアは普通、赤十字社を普通の慈善団体とみなし、一般的な協会と同じく、自由に条件を決められ、担当者の勝手な判断で動けると考えている。彼らが忘れている、というより、最初から無知であることは、赤十字が条約であり、厳しくデリケートな法に縛られ、それを無視することは、その他の条約同様、その有効性を傷つけること、結果として、その活動をコントロールし、責任を持つのは個人の希望や意志ではなく、世界の国々の最高権威者が骨組みを作り確認した国際法である。
この事実がもっとよく知られたら、あるいはもっと十分に認識されたら、今日のようなメディアが誤解させ、信頼できない、情報として啓蒙的でない、そして満足できない記事を流すことがなくなるだろう。
この記事には中国人捕虜が治療のために送られた青山の赤十字病院の写真が5種類も掲載されています。
CHINESE PRISONERS IN ONE OF THE WARDS
THE RED CROSS HOSPITAL, AOYAMA, TOKYO, JAPAN
病棟の中国人捕虜、赤十字病院、日本 東京 青山
CHINESE PRISONERS UNDER TREATMENT
治療中の中国人捕虜
ビゴーの日本軍同行スケッチ
バートンの解説が掲載された『ハーパーズ・ウィークリー』1895年1月19日号には特別アーティスト(ジョルジュ・ビゴーG. Bigot: 1860-1927)を日清戦争に同行させ、「戦いの後の光景」(Scenes after a Battle, p.68 )という記事とスケッチ3葉を載せていますので、抄訳しスケッチ2葉を紹介します。
近代の戦争に付随する陰惨な特徴が、満州の戦闘で日本軍に同行している『ハーパーズ・ウィークリー』の特別アーティストによって描かれた。これらの光景は戦闘の興奮の後に起こった。悲しげな顔つきの手を前で縛られている捕虜たちの長い列は前線から行進してきたところで、日本軍の騎兵隊と歩兵隊の衛兵に伴われ、後方の捕虜護衛官に引き渡されることになっている。そして、やがて船で日本に送られる。
最初、捕虜になった時に中国兵はいつも侵略者の手によって自分がどうなるかと大きな恐怖と警戒心を示した。なぜなら、彼ら自身が常に捕虜を殺し、切断していたからだ。しかし、日本軍の捕虜として2,3週間過ぎると、親切で文明的な扱いに安心し元気付けられ、彼らの多くは捕獲者のために、ガイドや偵察として前線に戻ると志願する。ほぼ全員が日本軍の捕虜としての扱いは、自分の上官の扱いよりずっと人間的だと主張する。
JAPANESE SOLDIERS TAKING CHINESE PRISONERS TO THE REAR
THE WAR IN CHINA—FROM SKETCHES MADE BY G. BIGOT, SPECIAL ARTIST IN MANCHOORIA
中国人捕虜を後方に連れて行く日本兵
中国における戦争—満洲における特別アーティスト、ジョルジュ・ビゴーによるスケッチ
戦病死者の埋葬
この後は各戦闘地から送られてくる死体の身元確認の様子のスケッチと説明文が続きますが中略します。最後は埋葬の様子のスケッチと説明文です。
この仕事[死者の確認とリスト作り]が終わると、葬式の読経があり、それから埋葬される。戦争の初期の頃、中国軍が抵抗して多くの死者が出るまでは、可能な限り、兵士一人一人が別々に埋葬され、名前を書いた杭が立てられた。しかし最近はあまりに死者が多いので、多数の日本兵と病死した軍夫を一つの穴に埋葬することが必要だと帝(Mikado’s)の軍隊将校はみなした。また、ある場合は伝染病の流行を防ぐために火葬にされた。死体は松の棺に入れられ、穴に下ろされ、その底には数本の木の束が並べられている。それから棺は石油を浸したワラの束で覆われ、火がつけられる。これはキャンプから離れた人のいない場所で行われるが、平坦な地域全体に炎の柱が高く上がり、暗い、ひとけのない戦闘地に不気味な幽霊のような様相を与える。
病死した兵士と軍夫の死体を火葬する
中国兵負傷者を赤十字の医師が手術する写真
1894年11月24日の『ハーパーズ・ウィークリー』に「合衆国海軍・ユースタス・ロジャーズ」(Eustace B. Rogers, U.S.N)という署名入りの記事「アジアの戦争のストーリー」(The Story of the War in Asia, (注12), pp.1112-3, 1119-20)と多くの写真が掲載されています。当時の階級は記されていませんが、この人(1855-1929)は1906-10年に海軍主計長官になっています。
過去の日本の歴史が内戦の連続で、日本人の上層部の血には軍事的本能が流れており、日本の政治家は国民の尊敬を得る確かな方法は戦争に勝つことだと述べていると始めています。日清戦争に至るまでの経緯(1873年の台湾遠征以降)を紹介してから、1894年9月14日にピョンヤン(平壌)に入市するまでの各部隊の動きを解説した後、以下の描写が続きます。
勝利した日本軍は翌朝、市内に入った。彼らが見た光景は酷かった。通りは中国人、コリアン、牛馬の死体が散乱していた。多くの家は中国人や現地人の略奪者に破壊されたり、ドアと窓が打ち壊されていた。中国軍が市を占領した時に逃げなかった住民は、日本軍が来る前に逃げていた。残っていた生存者は2,3匹の哀れな犬と泣き叫ぶ豚だけだった。市の中心にある知事の宮殿は最近まで敵の司令部だったが、野津大将(野津道貫:1841-1908)が同じ目的で占拠した。大広間には前日負傷し、中国軍に捕らえられた将校の首が転がっていた。至る所、泥と汚物に塗れていた。市内で捕虜になった700人は獰猛な顔つきの野蛮人だった。日本軍の捕虜の扱いは良かったが、捕虜は自分たちの習慣のように、いつ何時殺され切断されるかと思って、安心した様子はなかった。砦では、日本人捕虜25人ほどの頭があった。
この反対の写真を見ると気分が良くなる。中国兵の負傷者、全部で200人が病院で日本兵と隣り合わせで治療を受けている。実際に見た証人が熱をこめて書いたことは、これらの病院の称賛すべき器具、日本人医師の献身、救急部隊と野戦病院の素晴らしさだ。切断手術と弾の除去は器用に高い技術で行われる。医療装置と薬品と器具は最新型だ。至る所で赤十字の救急隊が慈悲の使いに走り回るのが見られる。これら全てが基本的に戦争の恐怖を和らげるが、中国には完全に欠けている。
日本赤十字の医師がピョンヤンで中国人負傷者の手術をする
『ハーパーズ・ウィークリー』の1894年と95年の記事を網羅的にチェックしましたが、「旅順虐殺」に関する記事はありません。
注