日本人を救おうとした在上海のアメリカ総領事の努力を無にした国務長官の命令に異議申し立てをした『ハーパーズ・ウィークリー』の記事(1894年12月1日号)を支持し、NYタイムズが激しく政府批判をします。国務長官も真摯にメディアの疑問と批判に答え、アメリカ議会でも取り上げられます。
メディアの力:日本人スパイ事件を大きく取り上げ、政府を鋭く批判したNYタイムズ
前節で紹介したジュリアン・ラルフの意見記事の反響が大きく、『ハーパーズ・ウィークリー』の1894年12月1日号が出た11月末にNYタイムズが大きく取り上げ、アメリカ議会上院でも大統領に真偽を確かめるための情報提供を求める決議案が出されます。以下がこの件を取り上げたNYタイムズの記事の見出しです。
1894年11月28日(注1)
第1面:「アジアにおける我が国の海軍力—アメリカの権益を守るには十分—国務長官が批判に答える—上海のアメリカ領事が日本人スパイを引き渡したのは避けられなかった」
第4面:社説「中国における我が国の位置」
第5面:「ラルフ氏の事件に関するストーリー[『ハーパーズ・ウィークリー』から転載]—中国の処罰方法」
1894年11月29日
第1面:「上海事件—国務長官がスパイに関する処置を再検討—自分が賢明に行動したと示した—我が国は中国の司法に介入する権利はない—国務省はできうる限りの全てのことをした」
第4面:社説「中国が破った約束」
1894年12月6日
第5面:「引き渡された日本人スパイ—上院でロッジ議員が提出した決議案が外交委員会に」
特派員ジュリアン・ラルフの批判に答える国務長官
11月28日の第一面では、前節で紹介したラルフの記事をNYタイムズの記者が国務長官に渡し、注意喚起をしたこと、それに対する国務長官の説明が報道されていますので、要点を抄訳します。
NYタイムズ:1894年11月28日
第1面:グレシャム国務長官の説明
- 長官がラルフ氏の文章から判断する限り、ラルフ氏はこの事件の事実を十分に把握していない。
- 中国側がこの日本人を確保し、殺すことを防ぐのは簡単だとラルフ氏に見えたのに対し、見逃されている不運で複雑な問題がある。
- 長官がこの日本人の逮捕を最初に知ったのは、[ワシントンの]中国公使が訪ねてきて、上海のアメリカ総領事に対しアメリカ領事館に逃げ込んだ2人の日本人スパイを中国当局に引き渡すよう指令してほしいと依頼した時だ。
- 中国からの要求にすぐには答えなかった。中国政府からの要求が届いた後、この件について北京の代理公使、デンビーJrからこの日本人の保護を領事館でさせてほしいという依頼が届いた。デンビー公使は休暇中で、中国に戻る途中だった。
- グレシャム氏は数日間検討した。2人の日本人の容疑の性格を知らされ、彼は日本公使に相談した。日本公使は2人を逃すよう切望した。なぜなら、日本のアメリカ公使が中国人スパイを保護していたら、日本政府は引き渡しを要求し、引き渡されると予想しているからだ。
- 中国側の引き渡し要求の根拠は、2人が軍事犯罪者で、有罪とみなせる書類を身につけていたこと、アメリカ領事館が保護する資格はないというものだ。
- この問題を十分に検討した結果、長官は北京のデンビー公使に対して、ジャーニガン総領事は日本人をこれ以上保護できないと指示した。
- この時、グレシャム氏は日本人が公正に扱われ、デンビー公使が北京に到着するまでこの事件が処理されないと信じるに足る理由があった。
- ワシントンの栗野(慎一郎:1851-1937)公使は本記者に次のように語った。ジャーニガン総領事は日本人を中国当局から救うために全力を尽くした。その後、ラルフ氏の記事にあった200人の日本人が逃げるのを認めることによって、友情を示した。しかし、この日本人にはスパイ容疑がかけられていなかった。もしかけられていたら、中国への引き渡しは確約されただろう。もし在日本のアメリカ人役人が中国人スパイを匿っていたら、日本政府は日本の法律に則って、引き渡しを要求する筈だ。栗野公使の意見では、この件に関して国務省の処置は完全に正しい;この日本人2人が本当にスパイなのかは、疑問があるかもしれない;中国はスパイだと主張し、その証拠に満足している。
- グレシャム氏はジャーニガン総領事が公式な行動をしていなかったので、日本人を被保護者とみなすことはできないし、彼らを公式に匿うことはできないと言う。
- ラルフ氏はアメリカ政府が中国の日本人に対し保護権があると誤解している。ラルフ氏が日本における我が国海軍の力と性格について批判したことに関して、グレシャム氏はアメリカ人の権益を守るに十分な海軍力だと言う。
- [海軍の]ラムゼイ提督は、アメリカ艦隊が魅力的な日本の港にいるというラルフ氏の批判は、艦隊から届いた報告では正当化されない。
- イギリス・フランス・ドイツの大艦隊がアジアの海にいることがアメリカ人にとって腹立たしいことは目新しいことではない。この戦争[日清戦争]の前、アジアの海岸を護衛するイギリスの小艦隊がいて、緊急時には他の地域から艦隊を呼び寄せ、大艦隊にするのは簡単だった。我が国の海軍は世界のこの地域でイギリスと海軍競争をすることを認めなかったし、守らなければならない商業的権益はイギリス・フランスほど大きくない。
NYタイムズ:1894年11月28日
第4面:社説「中国における我が国の位置」
- ラルフ氏は評判の高い、経験豊かな識者の特派員であり、彼の主張は決してセンセーショナルな調子ではない。彼は自国の世論に注意喚起をしようと、真面目に節度ある調子で、真の危機であり、惨事になりうる、そして恥と屈辱に満ちた状況と彼がみなしたことを述べた。
- その状況は確かに即座の、そして慎重な検討を必要とする事件だし、もしそれが確認されたら、賢明だが毅然とした行動を要する事件だ。
- 彼の主張の重要性は、中国の海で強力な海軍の援護がないまま合衆国の代表が極端に困難でデリケートな任務を実行し、その過程で最も不運な事件が起こり、それが一方では中国人の反アメリカの感情を起こすことを計算し、他方では東洋人に対し我々が自発的に義務だとみなした非常に深刻な任務を全うする能力のなさ、ひいては我々の準備・覚悟不足さえ印象づけることが計算されていたことだ。
- まず、中国人と中国当局の脅迫的精神と態度の前に、日本人2人はアメリカ人のいる中国全土の中で上海に逃げてきたこと;2番目に、上海ではアメリカ人は本国から適切な保護を受けられないこと;3番目に中国当局は数百人の日本人の引き渡しを要求したこと;この日本人たちはポルトガル公使の遅らせる行動[作戦]によってのみ逃げることができた。最後に、もし中国が日本に負けて、皇帝の政府が崩壊し、実際の権力が相当弱まれば、全外国人に対する恐ろしい反乱が起こるだろう。その時、アメリカ人は安全確保のために自国ではなく、外国政府の軍に頼ることになる。
- ラルフ氏の記事が示している在中国の我が国代表が負った責任の性質や程度についての見解を、国務長官は採らない。スパイ容疑の日本国籍者の保護に対する責任があること、または我が国の総領事がその容疑をかけられた人物の引き渡しを拒否したことが正当化されると長官は考えない。
- この点について、文明国家の政府の場合、責任ある裁判所が採用する認められた原則に従って容疑者を扱うことに疑いの余地はない。中国の場合、ことはそれほど明確ではない。拷問が司法審問の最も明らかな特徴だからだ。
- 更に、これは我が国の代表が考えた本当の義務とは何かという問題よりも、中国人が我が国の行為をどう見たか、そしてその結果起こったことの方が問題だ。中国人が合衆国が義務とみなしたことを実行しなかったと見ることが許されれば、そして、それが中国人役人の裏切りで実行を防げたと見ることが許されたなら、我が国政府は信用を失い、中国におけるアメリカ人は重大なリスクに晒されるだろう。多分、これほどの苦痛を生じることになった任務を遂行するより、中国の日本国籍者の保護はどんな程度のものであれ、一切しない方が良かった。
- グレシャム長官によると、休暇から中国に戻る途中だったデンビー公使の到着まで、中国の公使は引き渡された学生について何も断行しないとはっきり同意したという。それならば、この誓約がされたという声明と、学生たちが拷問され、または殺されたということが適切な調査委員会で確認されたら、我が国政府は中国に対して、断行の最も深刻な性質と正当化について文句を言う理由があるだろう。この犯罪に対する十分な謝罪と合衆国が正当だとみなす賠償を課すことが、最終的に目指す目的であり、行動だろう。これが実際に起きたことで引き起こされた被害に対する論理的で唯一効果的な矯正だろう。
NYタイムズと国務長官の応酬
NYタイムズ:1894年11月29日第1面(注2)
- グレシャム氏は十分に義務を果たしたし、全ての事実が知られたら自分が懸命に行動したと誰をも説得できると信じている。日本人の処刑のニュースを聞いた時は彼の人道的衝動がショックを受け、中国政府が空約束したことは驚いたが、自分は他に何もできなかった。
- 著名な外交官も彼の行動を支持し、スパイ容疑の日本人囚人を混合裁判で裁くというのは支持できない提案で、我が国の政策とも相容れないし、国際法でも前例がないと言った。
- ある程度、中国の滞在経験のある人の印象では、ラルフ氏の見解はほとんどが上海のミッショナリーや商人たちのもので、これらの人々は中国にアメリカ軍の姿がないと度々苦情を出していたという。
- 日本人の年齢はある情報では18歳と19歳、別の情報では24歳と28歳とされている。彼らがフランス地区で捕らえられた時、捜査され、70のメッセージが発見されて、これは日本に送られたものだとされている。また、砦の絵も見つかった。
- 彼らが中国服を着ていたことを国務長官は問題にしていないが、国務省の中で中国に住んだことがあり、中国法に詳しい者によると、中国で外国人が中国服を着ることは禁じられており、軍事犯罪を犯した時に着ていたことは深刻な問題になるという。
- 日本人が処刑時に劇的なスピーチをしたというのは真実ではない。
- 2人が軍事犯罪者だと決定された以上、合衆国が彼らのために介入することは正当化されない。我々が我が国の政策を捨て、中国の内政に介入するつもりがない限り、反対することは得策ではない。
- 国務長官は日本人囚人の殺害に対する賠償を合衆国が求める理由がないと言う。中国公使を通して合衆国に約束したことを破ったことで北京政府に謝罪を求めることは難しいことではない、手紙でできると言った。
- 中国に住んだことのあるここの役人は、北京政府はそのような約束[日本人の処罰をデンビー公使が戻るまで行わない]を履行する力はない。宮廷政府は北の首府・北京で、囚人は南の首府・南京で、この省の提督は、皇帝維持のための税収分担額を提供する以外は、まるで別の国家のように、北の提督や皇帝の権力から完全に独立している。
NYタイムズ社説で反論
NYタイムズ:1894年11月29日第4面「中国が破った約束」
- 中国が我が国の信頼をこれほどの残忍な方法で破ったことをグレシャム長官の声明が公式に認めたことを何らかの抗議なしに見過ごすことはできない。
- いかなる文明国もこの引き渡しの状況を注視しただろう。中国当局はすぐに2人のJapsを拷問してから、斬首した。我が社のワシントン特派員が伝えたように、北京政府が厳粛な公約を破ったことで合衆国は謝罪を要求するかもしれない。これが我々ができる最低限のことだ。
- [南京は北京から独立した別国家のようなものだという解説について]独立した管轄区だと言うフィクションを作って、中国は責任を逃れることはできない。
訳注:この社説の中で、”Japs”という語が使われているのですが、”Japanese”が使えるスペースがあるので、省略語としての使用とは考えにくいです。2人の日本人がスパイだと判明したことによる、怒りの表れでしょうか。日清戦争で日本の勝利が伝えられ始めた頃から、”Japs”の使用が頻出し、日露戦争前後から黄禍論が見られるようになります。
アメリカ議会上院で決議案が議論される
1894年12月6日第5面「引き渡された日本人スパイ—上院でロッジ議員の決議案が委員会に」(注3)
- 上院では月曜日[3日]にロッジ議員(共和党・マサチューセッツ州)が提出した決議案が議論された。上海で2人の日本市民が中国に引き渡され、その後拷問され殺されたことに関する情報を提供するよう大統領に依頼する決議案だ。
- シャーマン議員(共和党・オハイオ州)はこの決議案は外交委員会に任せるべきだと提案した。
- ロッジ議員は、日本人の引き渡しは合衆国と全文明人の人道性の評判を落とすと考える。この説明はアメリカ国民に対して当然されるべきだと思っている。外交委員会に任せるのは反対しないが、この件は抑圧されたり、消されたりすべきではないとロッジ議員は考えている。
- 外交委員会委員長のモーガン議員(民主党・アラスカ州)は決議案は誰かに反対するほのめかしがあるように見えると言った。大統領か国務長官か、上海の合衆国領事か。したがって、この件は性急にすべきではないと彼は考える。それに日中間の戦争が激しくなっているので、合衆国の上院が交戦国のいずれかに好意的だとみなされることは避けるべきだと言った。現在の状況下で、中国、日本、どの強国をも苛立たせることに関与したくないと言った。
- この後も議論が続き、この件は外交委員会に任せることになった。
日本人スパイとは誰?
『ハーパーズ・ウィークリー』もNYタイムズも、この日本人スパイの氏名を記していないので、100%の確証はありませんが、最近の研究論文(注4)に「上海のアメリカ総領事が福原と楠内を中国側に引き渡したことで二人が最終的に酷刑に処せられたため、多くのアメリカメディアが国務長官を批判したという」とあること;この論文で引用されている日本の外交文書「上海仏居留地内旅宿ニ於テ岡山県人福原某、鹿児島県人楠内某ナル者間諜ノ嫌疑ヲ以て捕縛セラレタリトノ件」(明治27年9月10日、(注5))が時期的にも事件の詳細からも、ジュリアン・ラルフの記事とNYタイムズの記事に記されている詳細に合致することから、この2人の日本人は福原林平(1868-1894)と楠内友次郎(1865-1894)のようです。2人の処刑時の年齢が福原27歳、楠内30歳ですから、NYタイムズ(11月29日)で、一説では「24歳と28歳」と報道しているのに近いです。2人の出身と経歴を調べてみると、明治初期の日本の動きを体現しているように思えますので、少々詳しく紹介します。
2人とも1890(明治23)年に上海イギリス租界に設立された日本人教育機関の日清貿易研究所の卒業生でした。この研究所について戦後の研究では「軍事的謀略機関」という評価でしたが、1990年代以降は「貿易振興の養成機関」として再評価されているそうです(注6)。楠内友次郎の記録(注7)によると、佐賀出身で、父は対馬厳原藩士儒者・青木文造;楠内家を継ぎ、1885(明治18)年に陸軍士官学校を受験しますが、視力不足のため落第しました。楠内はその後、鹿児島県属官の登用試験に最高点で合格し、収税属とされています。その後、何年かは分かりませんが、東京専門学校(早稲田大学の前身)に入学し、法律を学んでから英語科に転科しました。そして、日清貿易研究所設立の中心人物だった陸軍参謀本部の荒尾精(1859-96)の勧誘講演を聞き、中国に渡る決心をして、1890(明治23)年に研究所の入所試験を受験して、1893(明治26)に卒業します。卒業後、九州・四国・大阪方面の海産物調査をして、上海に行き、日清戦争勃発後に自ら偵察参加を要望して、福原林平と共に、各地の敵情報告をしていて逮捕されたという経緯です。
福原林平は現在の岡山県津山市に生まれ、1890(明治23)年6月4日付日清貿易研究所の入学試験合格証((注4), p.12)によると「平民」とされています。少年時代は 閑谷黌(しずたにこう:岡山藩主池田光政の創設した庶民教育のための藩校)に学び、福原が感化を受けたという黌長の西毅一(1843-1904)は「明治期に荒廃した 閑谷学校を再興し」、「中国と提携して列強に対抗しようとする」志を持っていたとされています。そして、日清貿易研究所開設のために全国遊説をしていた荒尾精が閑谷黌を訪れ、荒尾に共鳴した西が福原をはじめとして門下生3人を中国に送ったということです(p.7)。黒龍会編纂『東亜先覚志士記伝』上・中・下巻(1933-1936)によると、日清貿易研究所の入学試験に落第した福原は憤慨し、荒尾に面会を求め「先生の計画は国家有用の人材を養成するのが目的でありませう。然るに英語や数学が少し計り出来るとか出来ぬとかいふことを標準にして採否を決するのは、大きな間違ひではありませぬか。そんなことよりも真に国家の用に立つ有為の人物かどうかを吟味して採否を決するのが至当です」と訴えたと記されています(p.13)。
上海の日清貿易研究所での教育の様子が福原林平の日記『随感随録』から窺えると、(注4)の論文筆者の土屋洋氏が一部翻刻して解説を付しています。1891(明治24)年1月の日記は所長の根津一(1860-1927)による訓話の筆記で、「日本は将来天下商業の中心とならねばならず、研究所生徒はその『命脈者』『責任者』であるから、『大覚悟』が必要である」「支那ヲ取ル」『戦争アルハ望ムへキ」(p.16)という言葉も見られるそうです。
福原は卒業後、岡山に帰省し、1893年11月に再び上海に渡り、日清貿易研究所付属の実習機関だった日清商品陳列所で実地取引を練習し、日清戦争勃発後に楠内友次郎と敵情視察の任務に当たっていて、事件になったという経緯です。日清貿易研究所関係者で敵情探査に当たったのは14名(うち9名死亡)ということですが、日清戦争が始まると参謀本部は中国語のできる者を総動員し、通訳官になった者は300名以上にのぼったそうです(p.22)。
福原の死後すぐに日本で公表された伝記には最後の福原の言葉が2種類あげられています。1895(明治28)年6月9日に福原が他の2名と合葬された時に会葬者に配布された『生芻一束』所収の「祭福原君洞巌文」によると、福原が「死に臨みて殊に従容(しょうよう:落ち着いて)としてく、「吾が事畢(おわ)れり」と 言ったとされています(pp.10-11)。一方、別の伝記では「刑に臨んだ福原は刑吏を一喝し、『我大日本、天皇陛下東に在り、吾何為れぞ北面せん・・・』と述べ、東に向かって刑に処せられた」(p.20)そうです。これはラルフが伝えた最期に近いです。
この事件は当時の中国メディアでも大きく取り上げられ、「近代中国の最も代表的な新聞」『申報』で2人が引き渡されてから処刑に至るまで連日のように報道されていたそうです。また、旬刊絵入新聞『点石斎画法』でも取り上げられました(pp.20-27)。これらの中国メディアを分析した土屋洋氏によると、2人の処刑までの論調は日本がスパイを用いることを卑劣と捉え、2人を蔑みと憐れみの対象としていたものが、旅順占領などのニュースで動揺していた頃、処刑後の論説が大きく変化したとのことです。「日本の情報収集力の高さへの驚きとともに、それまでの嘲笑とは異なる、深刻な危機感が表明され」(p.26)ていると分析しています。そして、1895年に中国で発行されたベストセラー書籍『盛世危言』(14巻本)に掲載されたのが福原について言及している『申報』の論説であり、「当時、変革を志した知識人の必読の書として、若き日の毛沢東も愛読した」(p.28)そうです。
竹内好の荒尾精評価
福原・楠内に中国行きを決意させたのが、日清貿易研究所創設者の荒尾精の講演だとされていますが、竹内好(1910-1977)が『アジア主義』(1963、(注8))の解説で荒尾を次のように評価しています。荒尾が初めて中国に行った時は陸軍中尉現職のままで、「参謀本部の謀略活動の最初期の一ケースだった」こと。当時、出世コース志望の軍人は欧米留学を希望したのに、荒尾が「なぜあんな固陋(ころう:古い習慣・考えに固執する)きわまる支那などに行こうと思うのであるか」と聞かれて、「世間のものは欧米に心酔して支那を顧みようとしません。それゆえ私は支那に行こうと思うのであります」と答えます。「支那へ行って何をするのか」という問いに「支那へ行って支那を取ります。支那を取ってよい統治を施し、それによってアジアを復興しようと思います」と答えたと、前述の『東亜先覚志士記伝』から引用しています。そして竹内は「彼は『占領主義者』かもしれないが、占領の目的は少なくとも私欲ではなかった。彼は日清戦争の講和に当っては領土不割譲を主張している」(p.23)と評しています。
荒尾は自分が勧誘した若者たちが拷問・斬首という非業の死を遂げたことをどう感じたでしょうか。
注