コロナウィルス のパンデミックの中で増加するアジア系の人々に対するヘイトクライムが19世紀から欧米で起こっていたという指摘で、19世紀の英米メディアに登場する蔑称”Jap”を追います。日清戦争前にアメリカで13年間”Jap”と呼ばれながら苦学した片山潜が究極の反戦・厭戦表明をアメリカ・メディアに投稿し、掲載された文章を紹介します。
2020〜21年にアメリカ・カナダ・イギリスで増加するアジア系へのヘイトクライム
コロナウイルス禍でアメリカ・イギリス・カナダなどでアジア系アメリカ人・イギリス人・カナダ人に対するヘイトクライム(憎悪・偏見を動機とする犯罪)が激増している現状に、メディアが19世紀に遡る長い差別の歴史をあげています。『ワシントン・ポスト』(2021年3月18日、(注1))は「最近の研究によると、コロナウイルス ・パンデミックが始まってからアジア人をターゲットにしたヘイト・クライムが150パーセント増えた。合衆国にはアジア系の人が160年以上前から暮らしているが、ずっと偏見のターゲットにされてきた」と始めて、1850年代からの代表的なヘイトクライムの事例をあげています。
中東メディア、アルジャジーラは、2020年の第一四半期に、イギリスで中国系、東アジア系、東南アジア系に対するヘイトクライムが、2019年と2018年の同時期に比べ300%増加したと指摘し、20世紀初頭からのイギリス国内のアジア系イギリス人と移民に対するヘイトクライムを挙げています。解決法として専門家は「イギリス政府が歴史的差別を認めて謝罪しない限り、パンデミック下のアジア差別は終わらない。それだけでなく、イギリス社会のあらゆる面、政治からエンターテイメントまで、社会のエスニック人口の3番目に多いアジア系イギリス人を登場させない限り、終わらない」と警告しています(2021年4月1日、(注2))。
カナダでも、2020年3月から2021年2月28日までに、「1,150件の事件がカナダで起こった。暴行、被害者へ咳を吹きかけたり、唾を吐いたり、言葉による暴行も含める。アンチ・アジア事件は人口一人当たりでは、アメリカよりカナダの方が多い」と指摘されています。カナダには大規模なアフリカ奴隷はいなかった理由として、奴隷で成り立っていたコットン、米、タバコ、砂糖を生産しなかったことを挙げています。その一方で、アメリカから逃亡した奴隷にとってカナダは約束された土地だったこと;19世紀中頃までに、2万から4万人のアフリカ系がカナダに住んでいたこと;奴隷制は1834年に廃止されたが、学校・レストラン・劇場などでは人種別が普通だったため、モントリオールの劇場では二階バルコニーを「猿の檻」と呼んでいたこと;KKKはカナダにもいて、彼らのテロは珍しくなかったことなどを挙げています。
2018年にカナダ政府は移民政策を支援し、10ドル紙幣にヴィオラ・デズモンドの肖像を使ったそうです。この人物は1946年に映画館の白人オンリーの席から離れることを拒否した黒人女性ですが、アメリカ紙幣に黒人女性を使うというのはまだ実現していないとも述べられています(2021年4月2日、(注3))。
「級友に侮辱されたから殺す」という14歳のジャップ
6-7-4-16-7-2で紹介したNYタイムズの社説(1894年11月29日)で、”Japs”という語が単に略称として使われたのではないようなので、アメリカ・メディアが使い始めた”Jap”を通して何が見えるか調べてみました。19世紀のアメリカ・メディアのうち、日刊紙NYタイムズ、週刊誌ハーパーズ・ウィークリーに現れた”Jap”の初出は、管見では、生麦事件(1862年9月14日、文久2年8月21日)に関する記事が初出です。
その後、『ハーパーズ・ウィークリー』の1883(明治16)年11月17日号の「ひと」欄に以下の内容が掲載されました。
日本人は個人の尊厳の感覚に完全に欠けているというわけではない。最近、ニューヘブンの学校で起こったことがそれを物語っている。14歳の小さなジャップが、仲間の一人から侮辱されたと感じ、その不愉快な少年を殺してもいいかと重々しい調子で教師に許可を求めて、教師を驚かせた。しかし、教師から、そのようなことはこの国の習慣ではないと言われて、この少年が全く満足したようだというのは称賛に値する。(注4)
片山潜の士族観
「侮辱されたから殺す」という発想は新島襄(1843-1890)にも見られたと片山潜(1859-1933)が自伝で述べています。片山潜がアメリカで読んだと推測される新島襄の「自伝」とは『ジョセフ・ハーディー・新島の人生と書簡』(Life and Letters of Joseph Hardy Neesima, 1891, (注5))を指すようです。これによると、安中藩士の長男として生まれ、1864年に国禁を犯してアメリカに行き、援助してくれるアメリカ人に恵まれて、アルフィーアス・ハーディー(Alpheus Hardy: 1815-1887)の庇護を受けることになります。そして、ハーディー夫妻の援助で、1865年から1870年にマサチューセッツ州のアマースト大学で学び、理学士を授与されました。その後、日本での宣教活動をするためにアンドーヴァー神学校で学び、1874年に聖職叙任され、日本に帰国しました。
一方、片山潜の自伝(注6)によると、現在の岡山県久米郡久米南町の「百姓」の次男として生まれました。生地に明治維新の影響が現れたのは1871(明治4)年以後なので、「少年時代は徳川幕府の封建制度の下で過ごした」(p.13)こと、維新直前は「浪人共が徘徊して予の村の様な辺鄙な山の中へでも時々浪人が舞ひ込んで来て百姓を威嚇した為めに百姓等は安心して稼業に従ふことが出来なかつた。又同時に浪人のなれの果てで、所謂『雲助』となつた者が予の家などには金品をネダリに来たことを予は薄々覚えている」(p.12)と述べています。そして、明治維新について「維新の革命は士族以上の革命であつて、一般の百姓は殆ど携わらなかつた」(p.13)と述べて、全人口の12.7%程度の士族(注7)と人口の多くを占める「百姓」との違いを指摘しています。
片山潜は農家の次男であるために「立身の道はなかった」(p.76)ので、東京で勉強しようと上京しましたが金が尽き、活版印刷所で職工となりました。1日10時間で15銭で、休日も働いて下宿料が払える程度でした。「車廻はし人足として数ヶ月働いた」(p.84)後に「アメリカは貧乏でも勉強が出来る所だ」(p.111)とアメリカに行った友人から聞いて渡米を決心しました。
1884(明治17)年の暮れに横浜からサンフランシスコ行きの船に乗ります。横浜を出帆して2,3日すると「モグリ」の人夫が石炭部屋から這い出してきて、船長が遠くの漁船まで泳ぐかと脅しました。それを聞いていた岩下という同船者が、「予を振り返って曰く『一人位死んだっていいぢやないか』と予は之を聞いて異様の感にうたれた。由来、武士は人間に対して冷酷だ、残忍だと聞いているが、果たしてさうだなと予は心の中で思った」(p.118)と記しています。船長はこの「モグリ」にサンフランシスコまで船の仕事をさせ、上陸させずに同船で日本に送還したと顛末も書いています。
片山潜の新島襄観
片山潜はサンフランシスコ到着後から一文無しになり、言葉もできずに「当時の予の境遇は寔(まこと)にプレカリオウスであつた」(p.120)と述べていますが、「プレカリオウス」は”precarious”(不安定な)のカタカナ語です。現在でこそ「プレカリアス」として目にするようになった英語カタカナ化の言葉を1949(昭和24)年出版の自伝に書いています。彼がアメリカで最初に見つけた仕事は主婦と2,3歳の女の子、下女の3人家族の家でした。掃除、皿洗い、給仕などの楽な仕事で、言葉ができなくても親切に扱ってくれたと述べた後、新島襄の伝記を読んだと、感想を述べています。
我々が異郷に彷徨ふと言語が通じない、人情風俗にくらいといふことから誰でも子供々々しくなる。幼稚になる。殊に強く現れるのは依頼心の増長することである。之れは故新島襄氏の傳(アルフツエス・ハーデー氏著)を読んでもよく分る。新島氏は船中でスタツキングス(靴下)を洗へと命ぜられたので、その船員を一刀両断にせんと憤慨したといふことである。
氏がハーデー夫妻に救はれてその家庭に住み、アンドヴツーに学びアムハーストに学ぶに及んで子供らしくなつたことが、其の通信書に依つて明らかに看取される。(p.121)
片山の自伝では、新島襄の伝記が「アルフツエス・ハーデー氏著」とされていますが、「アルフツエス・ハーデー氏」というのは新島襄の庇護者であったアルフィーアス・ハーディーのことでしょう。この伝記をまとめたのはアルフィーアス・ハーディーの息子アーサー・シャーバーン・ハーディー(Arthur Sherburne Hardy: 1847-1930)ですから、片山の記憶違いのようです。
また、新島襄が「一刀両断にせんと憤慨した」理由も、伝記に記されている事例と違っています。片山が指摘した新島襄の「侮辱されたから殺す」という発想について書かれている箇所を抄訳します。アーサー・ハーディーは「序」で、新島襄がアルフィーアス・ハーディー夫妻に宛てた書簡と彼の日記をまとめたものなので、新島襄の「自伝」だと述べていますから、引用箇所は新島襄自身の記述です。1864年の春、箱館から上海に向かう船上で知り合ったイギリス人かアメリカ人について述べています。
彼は私に対して、時には親切に、時には非常に荒っぽく接しました。ある時、彼が私にするように命じたことを私が理解しなかったので、殴られました。私は怒り狂って、船倉の自分のキャビンに走って行って、報復するために日本刀を取りに行ったのです。刀を掴んで部屋から飛び出そうとした時、こんなことをする前に、よくよく考えなければならないという思いが起こりました。そこでベッドの上に座って内心こう言いました。「これは大したことではないかもしれない。これからもっと酷い目にあうかもしれない。今これに我慢できないとしたら、もっと深刻な目にあった時どう対応したらいいだろうか。私は自分の忍耐力のなさに恥ずかしくなりました。そして、いかなる理由があろうとも、刀で解決しようとしてはならないと決心しました。((注5), p.39)
サムライ対百姓
片山潜の士族観の一片を紹介しましたが、「冷酷・残忍」と「百姓」の間で認識されていた人々に率いられた近代日本の侵略戦争である日清戦争の最中に、片山は自然と共生する平和でささやかな百姓の生活を「『百姓』の夏の楽しみ」(”The H’yakusho’s Summer Pleasures”)という題で、月刊誌『ハーパーズ・マガジン』(1895年2月号、(注8))に投稿し、掲載されました。この経緯を自伝の中で語っています。
アイオワ大学卒業後、1894年春に「白人の友達と二人で英国の徒歩旅行を企て」((注6), p.156)、9月中旬にボストンに戻ったところ、25ドルが自分宛に届いていました。「何処より予に銭を送る者あるやと聞き見ればセンチュリー雑誌社よりの原稿料なりき(数月前同誌に掲載)」(p.171)と書いていますが、この掲載誌名は片山の記憶違いのようです。『センチュリー・マガジン』を検索しましたが、Sen Katayamaの記事は見当たりません。掲載時期も記憶の誤りのようです。
掲載したのはアメリカで著名な文芸月刊誌『ハーパーズ・マガジン』で、6ページの長い文章でした。自然と共生しながら、自然を愛で、自然の恵をありがたく受けながら暮らす百姓を描いたものですが、最初に「百姓」対「サムライ」の階級の違いについて、昔は「サムライ」だったと語る祖父の世代のコンプレックスを皮肉に描いています。そして、彼が強調したいことが続きます。
片山潜「百姓の夏の楽しみ」
「百姓」は日本の地主で、地主でありながら自分の土地を耕す。その土地は狭い場合も、数千エーカーの場合もあるが、いずれも「百姓」である。社会階級的には軍人階級の次に位置し、祖先の歴史が昔は名誉ある職にあったことを辿ることができるものとして、勲章や紋章を多分家宝にしてきたのだろう。あるいは父たちが多分住んでいた偉大な城を示すものとして大事にしてきただろうが、今では歳老いた祖父たちが語る単なる物語に過ぎない。
百姓の理想の家は、現実の家の場合も多いが、紫の衣に包まれ、雪をいただいた山々の間にあり、雨が優しく降り、そよ風が吹く、厳しい風雨から守られた居心地の良い谷にある。(中略)百姓は自然の美しさを愛している。そして自然は喜びでお返しする。(p.403)
[1日の農作業の後] 輝く星が夜の美しさを見るよう百姓に呼びかけた。彼は1日の疲れが吹き飛ぶような感動を覚えた。彼は田んぼの米の育ち具合を見たが、それがいくらになるかを調べるためではなく、米の生き生きとした美しさにうっとりとして喜びを感じたからだった。
百姓の仕事が何であれ、その中に彼は保養を見つける—自然の美しさ、自然の音楽、自分の魂に感応するものを見た。(p.405)
年中行事の収穫祭り
出典:「百姓の夏の楽しみ」『ハーパーズ・マガジン』1895年2月号
新島襄のサムライVS日本国民観
一方、片山潜の文章がアメリカで発表される10年ほど前に、新島襄が1884年頃にアメリカのキリスト教組織への書簡で以下の内容を述べたと、引用されています。
明治維新で封建制度は廃止されましたが、士族階級の男たちが国を率いています。その若い世代は父親たちからサムライ精神を受け継ぎ、近い将来彼らもリーダーになるでしょう。(中略)彼らは封建時代の主に対し死までも忠義を尽くすように訓練されてきました。愛国精神は世代を超えて引き継がれています。この男たちにとって名誉が全てであり、命や財産は無意味です。自死の行為であるハラキリはこの階級だけに行われました。他人に殺されるのを恥と考えられたからです。彼らこそ東洋の騎士であり、日本精神であり、国の花です。(中略)彼らが崩壊したら、日本は彼らと共に消滅します。もし彼らが立ち上がれば、彼らが日本全体を押し上げてくれることは確かです。もし彼らを国民から引き離したら、旧式なノロノロした人々しかいなくなります。国の繁栄、あるいは悲惨はこの特別な階級の中心にかかっています。((注6)
, pp.170-71)
苦学の中で3種類の学位を獲得した片山潜
興味深いのは、新島襄が幕末に、片山潜が日清戦争前にアメリカに渡り、10年前後の長い年月を費やして学位を得て帰国したこと、キリスト教徒になり、神学校を卒業したという共通点があることです。それ以外は正反対の経験をしてきた二人の見方の違いが如実に現れているので、その違いを見たいと思います。
新島襄がアメリカ人の財政援助で学位を取得したのに対し、片山潜は過酷な労働条件の中で働き口を転々とし、せっかく貯めたお金を日本人に巻き上げられるなどの苦労をしています。1885年から1887年1月まで働き詰めで500ドルほど貯めて、カリフォルニア州オークランド市の予備校ホプキンス・アカデミーに入学できた時は、念願の勉強が出来るので、「予の瞳は希望に燃え、予の胸は歓喜に波打った」(p.129)と書いています。校長の家庭の給仕をして自活しながら勉学に励みましたが、級友からのいじめで退学します。コックとして働いて学費を作った後、テネシー州メリーヴィル大学に入学します。しかし、この大学で教授・学生が黒人学生を不公平に扱うので「予の常に不満足を感じた」(p.136)と述べています。
そして、1889年にアイオワ大学(Iowa College:現在のGrinnel College)に編入し、ギリシャ語・ラテン語・ドイツ語などを学び、卒業時は優秀賞としてゲーテ全集を授与され、「二千人からの学生の前で報告して貰ったのだから先づ名誉と云ふことが出来る」(p.154)と書いています。卒業後、イェール神学校、現在のイェール大学の奨学金を得て、そこでも「卒業式で進歩主義のスピーチができたのは予とブラウンだけ」と述べています。
片山潜が経験した人種差別
片山の自伝では、各種の仕事をしている時に奴隷のように扱われた事以外、あからさまな人種差別の経験は述べていませんが、アイオワ大学での経験(1889-94年)を語る中で、「ジャップ」を自虐的に使っているので、日常的に「ジャップ」と呼ばれていたのだろうと推測できます。「我々ジャップ学生の止まっていたのは、一番立派な学生寄宿舎」「ベースボールを見物していたジャップ」「僕もジャップの一人である」(p.149)という表現の後、アイオワ大学卒業の年、1894年春にアメリカ人の友人と一緒に3ヶ月間イギリス・スコットランドを旅した時に「ロンドンでジャップとしての経験を味わった」と、その経験を語っています。それはイギリス人による人種差別ではなく、日本外務省からの日本人市民に対する差別です。
ロンドン滞在中にイギリス議会を傍聴しようとしますが、そのためには代議士・政府役人・外交官からの紹介状が必要だと聞いて、アメリカ人の場合は皆公使館に行って紹介状を簡単にもらってくるので、ロンドンの日本公使館に行きます。
予も日本の官吏がどんなものか又我が外交官がどう其の日本人を待遇するか知らないから米国人並を考へて愚かにも日本公使館に国会傍聴の紹介をして貰ひに行つた。すると書記を勤めて居つた現政府の外務大臣殿が(中略)予の要望を聞き、如何にも馬鹿にしたやうな態度で苦笑ひをしながら拒絶した。之がロンドンにおける予の失敗の唯一である。(p.163)
また、ロンドンで片山潜が目にした青木周蔵全権大使の姿を記しています。
当時青木周蔵が全権大使としてロンドンに来て居つた。彼は頗る生意気な男で日本人が面会に行くと一層ソリ返つて同邦人を馬鹿にしたものだが、日清戦争後の三国干渉を、彼の鼻下で計画されていたのも一向御存知ないと云ふ間抜外交官であつた。予は当時日本人の友人詩家としてロンドンで可なり評判を持つていたエドウィン・アーノルド(Edwin Arnold: 1832-1904)に誘はれてロンドン市長の日本全権大使青木招待会に行つて見たが、青木が市長に紹介されて面会する其風体の如何にもコセコセ然として旧幕時代の商家の番頭が主人の面前に呼びつけられて行くかの如く腰をかゞめて早足に走りよつたのをよく覚えている。如何にも軽々しい人物であつた。独逸で失敗したのも無理はない。(pp.162-3)
片山潜がアメリカの大学で学んだこと
アメリカ滞在13年間の半分をアメリカ人の家庭の下男、ホテルのコックや給仕などとして働き、様々な苦労を重ねて、大学生活を送った中で、何を得たかを述べています。ギリシャ語の勉学はその後の人生に役に立たなかったが、図書館で研究する習慣を身につけ、大学内で図書館を最も活用する学生の一人だったこと;大学3年間毎土曜の夜開かれていた演説討論の練習会に参加し、アメリカ議会の規定に従った会議方法を学んだことの益を「深く感ずる」(p.143)と述べています。
また、Christian Union Magazineに掲載されていたイリー教授(Richard T. Ely: 1854-1943; 経済学のウイスコンシン学派の基礎を築いた)の社会問題の論文をよく読み、メリーヴィル大学の高学年で応用経済の科目として社会主義を研究して、社会問題に興味を持つようになったとも書いています(p.155)。1894年のイギリス旅行では、「社会及び慈善事業其の他何でも社会問題に関する事業を観察する/監獄、感化院、孤児院、貧民院等も見物した」(p.158)ことが、帰国後の運動に結びついているようです。
彼の信念であった議会での討論を経て政策形成するための普通選挙、労働者の労働条件と生活改善のための労働組合結成と工場法制定などの達成に向かって、孤軍奮闘しますが、「窮乏と圧迫と孤立とに耐えかね」((注9), p.249)、1914(大正3)年9月にアメリカに発ち、二度と日本に戻りませんでした。
日本のキリスト教界への失望
「孤立」の理由は様々あるとされていますが、1896(明治29)年1月に日本に帰国した当時のキリスト教徒としての抱負を『幸徳秋水と片山潜』の著者・大河内一男(1905-84)は以下のように述べています。
かれ[片山潜]にとってキリスト教とはたんに神学上の教義の問題ではなく、信仰はヒューマニズムの問題であり、人道主義の問題であり、低い階層のもの、貧しいものを同胞として救済するところに、かれの「社会的キリスト教」の基調があった。(中略)イリー教授の著作『キリスト教の社会的側面』に啓蒙され、労働者に接してみて、かれらの社会的地位を向上させ、かれらの生活改善のために奮闘することが真のキリスト教徒の役割だという確信にみちて(中略)日本にもどった。((注9), pp.172-3)
隅谷三喜男著『片山潜』(1960, (注10))では次のように解説されています。「日露戦争中まで、反戦論と結びついた社会主義運動の中心的な担い手となったのは、キリスト教会出身の青年たちであった」が、日露戦争後は「教会の指導者はもちろん青年たちも社会主義に理解を持とうとしなかった」ため、1909(明治42)年に片山潜はキリスト教界に対し、公開質問状でなぜ「人道の為め平民の為めに弱者の為めに労働者解放の為めに奮闘し社会の改善を計る為めにする社会主義者を排斥せんとする」のかと質します(pp.185-6)。そして、権力による圧力で「社会主義運動に対するすべての途が閉ざされていき、身心も疲れ果てていったとき、片山はそれまで持ち続けたキリスト教に対する希望をもあきらめたのである」(p.187)。
日本の社会主義者たちから排斥された片山潜
最初にアメリカから帰国した時、片山潜は37歳ですから決して若くはなかったのですが、労働者の生活改善のための労働運動と社会主義による社会の改良を目指す活動ぶりについて、1903(明治36)年当時「親しい同志」だった幸徳秋水(1871-1911)の以下の片山潜評が隅谷三喜男著『片山潜』に引用されています。
[君の]風采を一見すれば、何人も君が幼年から今日迄、如何に浮世の風浪と手痛き戦ひを続けたか、如何に多くの苛酷な迫害に堪へ来つたか、如何に苦痛の労働に服して来たかといふ来歴を、髣髴として読み取ることが出来るであらう。
(中略)米国の労働界で、腕一本裸一貫で遣り通して来た君は、今も猶腕一本、裸一貫で遣り通し、如何なる妨害痛苦をも物ともせずに進み行く、意志の鞏固なのと精神の強いのは驚くばかりで、親からの仕送りで学問した生白いハイカラなどの、夢にも想像せられぬ所である。
君の精通する所は経済学、社会学、歴史である。而も君は決して学者として立たないで、常に労働者の代表者を以て自ら居る。君の態度も其生活も全く規律あり品格ある文明的労働者のそれである。(中略)外に出ては、予は一回も君が人力車に乗つたのを見ない。(『平民新聞』明二六・一一・二九)。((注10), pp.120-21)
この後、幸徳秋水たちの無政府主義と片山の議会主義との対立が深まり、片山は1908(明治41)年2月に「社会主義同志会」から除名されます。片山の「社会主義」は理論が弱く、労働者の生活・労働条件の向上のための運動の実践を重んじたこと;非暴力主義で議論による議会主義と普通選挙の実現を目指したこと;親分肌ではなかったこと等々の理由が挙げられています。片山を受けとめたのは唯一、「鉱山や鉄道の現場に働く労働者」たちだったそうです((注11), p.117)。
ソヴィエトのコミンテルン執行委員会幹部に選出され、国葬された片山潜
その後の片山の足跡は、「日本での逆境にたえない」と、1914(大正3)年9月にアメリカに行きますが、アメリカの赤狩りのために知人宅に潜り、1921(大正10)年11月にソヴィエトに渡ります。そして1924(大正13)年にコミンテルン執行部委員会幹部に選ばれ、1933(昭和8)年11月にクレムリン病院で亡くなります。以下の訃報記事がNYタイムズに掲載されました。
「片山潜死す;日本のボルシェヴィスト」モスクワ、11月5日(AP)(1933年11月6日、(注12))
日本のベテランのボルシェヴィスト、片山潜が今日死去した。共産党インターナショナル執行委員会の発表をソヴィエト通信は即座に配布した。
「共産党インターナショナル執行委員会は深い哀悼をもって片山潜同志の死を報告する。彼は執行委員会の幹部会の最古の委員、日本のプロレタリア運動のオーガナイザー、日本の共産党のオーガナイザーでありリーダー、確固たるボルシェヴィスト、国際プロレタリア革命と社会主義の勝利のための忠実な奮闘者だった」。
この日本人は多分ソヴィエトの国葬を受けるだろう。
片山潜は73歳だった。社会主義の開拓者で、共産主義思想を受け入れ、ソヴィエト政府の第3インターナショナルの執行委員会メンバーだった。
片山潜の娘・片山やすはモスクワで父を看病し、「クレムリンの壁」に葬られた様子を語っています(注13)。
アメリカ・メディアの懐の深さ
『ハーパーズ・マガジン』(1895年2月号)に掲載された「『百姓』の夏の楽しみ」(”The H’yakusho’s Summer Pleasures”)は上記3冊の片山潜評に取り上げられていませんし、ほとんど知られていないようです。片山のその後の活動を知ると、この文章に片山が日本で求め続けたことが凝縮されているように感じます。また、1895年にアメリカの著名な月刊誌に掲載されたことの意義にも感銘を受けます。この頃のアメリカ読者は、週刊誌『ハーパーズ・ウィークリー』その他で日清戦争の報道に日々接しているので、好戦的な日本人が日本人の全てではないというメッセージのようにも読めたのではないでしょうか。アメリカ・メディアの懐の深さを感じたのは、Sen Katayamaという全く無名の日本人学生の投稿を、著名な英米の作家たちの文章と並列で掲載したことです。アメリカ人読者が受け取るメッセージは、戦争=大量殺人を庶民は望んでいない;平和で幸せな生活は自然との共存等です。
注
注1 | Gillian Brockell “The long and ugly history of anti-Asian racism and violence in the US” The Washington Post, March 18, 2021. https://www.washingtonpost.com/history/2021/03/18/history-anti-asian-violence-racism/ |
---|---|
注2 | Tom Matsuda “It’s time to talk about anti-Asian racism in the UK”, Al Jazeera, 1 April 2021 https://www.aljazeera.com/opinions/2021/4/1/its-time-to-talk-about-anti-asian-racism-in-the-uk |
注3 | Francis Wilkinson “Anti-Asian Racism Is Also Rising in Canada”, Bloomberg, 2021/4/2 https://www.bloomberg.com/opinion/articles/2021-04-02/anti-asian-hate-crimes-in-canada-show-racism-knows-no-borders |
注4 | Harper’s Weekly, vol.27, Nov.17, 1883, Hathi Trust Digital Library. https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=mdp.39015020054360 |
注5 | Arthur Sherburne Hardy, Life and Letters of Joseph Hardy Neesima, Houghton, Mifflin and Company, 1892 (第4版、初版1891)、Hathi Trust Digital Library. https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=coo1.ark:/13960/t0sr0324k |
注6 | 日本共産党党史資料委員会(監修)『片山潜選集』第一巻、昭和二十四年、真理社、国立国会図書館デジタルコレクション、https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1267278 |
注7 | 安田三郎「士族と社会移動」, Japanese Sociological Review, Vol.19, Issue 4, 1969 https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsr1950/19/4/19_4_21/_article |
注8 | Sen Katayama “The H’yakusho’s summer pleasures”, Harper’s New Monthly Magazine, February 1895, pp.403-6. Hathi Trust Digital Library. https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=uiug.30112004247257 |
注9 | 大河内一男『幸徳秋水と片山潜』講談社現代新書、昭和47(1972)年 |
注10 | 隅谷三喜男『片山潜—近代日本の思想家』、東京大学出版会、1960. |
注11 | 大原慧『片山潜の思想と大逆事件』論創社、1995. |
注12 | The New York Times, November 6, 1933. https://timesmachine.nytimes.com/timesmachine/1933/11/06/issue.html |
注13 | エリザヴェータ・ジワニードワ(編)、小山内道子(編訳)、片山やす他『わたしの歩んだ道—父片山潜の思い出とともに』成文 社、2009 |