toggle
2021-10-17

英米に伝えられた攘夷の日本(7-2-1-2)

薩英戦争の責任問題を追及するイギリス議会の議論の続きです。


 前節で1864年2月9日開催のイギリス議会下院でのバクストン議員の薩英戦争の反対決議案を動議する演説の冒頭部分を抄訳しましたが、以下はその続きです。出典は前節を参照してください。

日本は文明国ではないから砲撃は正当化されると考える人々

 しかし彼が恐れているのは、これらを弁護する多くの人たちに影響を与えたのが、日本は文明の範囲外で、そのような国と対する場合、我々と同等の国との交渉では決して使わない手段を使うことが正当化されるという気持ちだ。この気持ちがキューパー提督の心の中にあることは、日本の使節との会話からわかる。提督は相手の気持ちを思うデリカシーに恐ろしく欠けていて、使節に対し「我々が世界で最初の国家で、我々と同じ文明人と会う代わりに、実は野蛮人にあっている」と言った。日本の使節はこの侮辱に返答するには自尊心がありすぎ、ただ立ち上がって去って行った。キリスト教国と接するとき誠実さを持つべきだが、文明度が低い国と交渉する時は道徳心はだらしなくなるべきだという考えを心魂から否定し嫌悪する。我が国の政治家が我々よりも弱い国、あるいは文明度で我々よりも低い立場の国と接する時は、寛容と忍耐、そして我々が強国に対する時に使う厳格さと同じような正義を何よりも先に守るべき原則だ。

キャプション:Vice-Admiral Kuper, C.B., Commander-in-Chief on the East India and China Station
キューパー海軍中将、東インド・中国基地最高司令官(出典:ILN, 1864年2月20日, (注1), p.189)

イギリスは犯人じゃない男たちを処刑させたのか?

 もし我々が[日本の]主要都市の1つを破壊したら、全階層の同情と愛国心を引き起こすだろう。もし我々がキューパー提督を信じれば、日本人は野蛮人だ。しかし、野蛮人にも人間性がある。彼らの隣人の家と彼自身の耳を打ちのめした者たちにフレンドリーでいることは人間性の中にはない。それに同じことをその者たちにすることはかなりあり得る。バクストン氏は薩摩藩主が賠償金を払い、一定の譲歩をしたというようなことが今日の新聞のニュースになるだろうと言った。(中略)2万5000ポンドの支払いでさえ、ある種のまだ知られていない譲歩に添えられたのかもしれない。大きな犯罪を犯したとは言わないが、いわば大きな災難を与えたという理由に対して、これらがイギリスのような国に完全な満足感を与えるに十分だと認める用意はない。バクストン氏はその他の譲歩がなんだったのか知りたいと言った。薩摩藩の父は絞首刑にされることになるのか?あるいは家来たちが、ニール中佐が言ったように、言いなりにしたに過ぎないから絞首刑にされるべきなのか?もし我々の命令で彼ら[薩摩藩]が誰かを処刑したら、それは当然の事ながら間違った男たちを処刑することだと日本人が我々に警告した。外務次官は犯罪の犯人じゃない男たちを処刑させたのか?

日本の文明度はまれな高さにある

 しかし、この場合はこれは幻想に過ぎない。日本人がキューパー提督の言葉を借りれば「野蛮人」で、酷使しか相応しくないという考えの持ち主の無知以外の何物でもない。我々が日本について知っていることを十分に研究すると、日本人が文明のまれな高さに達していたこと以外認められない。彼らがある点ではあるべき姿よりずっと遠いことは確かだ。道徳の頽廃が日本人の最悪の特性である。(中略)すべての著者が日本賛美を一斉に唱えている。ヴィクトリア教区司教(7-2-1-1参照)は日本人との彼自身の交際から日本人はフレンドリーな人種で、近づきやすく、フランクで、男らしく、エネルギッシュで礼儀正しいとみなすようになった。(中略)オリファント氏(Laurence Oliphant: 1829-88, エルギン卿の個人秘書)は[日本人の]読書の趣味が幅広く行われていると詳しく述べている。普通の兵士でも、勤務中に絶えず読書している。[日本の]社会福祉は、世界のどの国とも比較することは不可能だ。(中略)

訳者注

 オリファントの『1857、58、59年の中国及び日本へのエルギン卿使節団の物語』(Narrative of The Earl of Elgin’s Mission to China and Japan in the Years 1857, ’58, ’59)は1859年に出版されていますから、バクストン議員はこれを読んだのでしょう。この頃に日本を訪れた欧米列強の使節団の報告書や著書には、日本人が「健康で幸せそうな人々」だという感想を一様に述べています。オリファントは「個人が共同体のために犠牲になる日本で、各人がまったく幸福で満足しているように見えることは、驚くべき事実である」((注2), p.39)と述べて、彼が選んだ「健康で幸せな日本人」の代表のような母親と子どもの絵を掲載しています。そのページには以下の文章が並んでいます。

日本では「家族」(原文強調)が非常に尊重されており、女性は家に閉じ込められていない。女性は自由に芝居に行き、外食(朝食)をし、草花展示会にさえ行く。遊覧船のパーティが特に好まれている。((注3), p115)

キャプション:Japanese Ladies and Children (from a native drawing)
日本の婦人たちと子どもたち(日本の絵より)

オリファントが体験した攘夷の日本

 1861年7月5日に江戸の東禅寺・英国公使館が襲われ、そこにいたオリファントが斬りつけられました。ILN, 1861年10月12日号(注4)によると、公使館にいたモリソン領事だけがピストルを身につけていて、襲われたオリファントの叫び声を聞き、モリソンが飛び込んできて暗殺者の1人を射殺しましたが、他の浪士に斬りつけられました。やがて日本人の警護が提灯を手に到着し, イギリス人たちにわかるように“Nipon yacunin”(日本、役人)と言って、5人を斬り、他の男たちは逃げました。下の銅版画はオリファントとモリソンが襲われる場面で、下は東禅寺の庭で警護する幕府の役人たちです。その場にいたワーグマン は以下のように描写しています。

至る所に提灯が灯り、篝火が焚かれた。庭は芝居の舞台のようだった。兵士のような立派な日本の警護者たちの姿があちらこちらに固まって、ぼんやりした輪郭として見え、我々の前の池の水が篝火と提灯と男たちを映していた。その光景は忘れられない。今でも私の心を賛美の思いで一杯にしている。(p.376)

キャプション(上):The Outrage on the British Embassy at Jeddo, Japan: Attack on Messrs. Oliphant and Morrison
日本の江戸・英国公使館への襲撃:オリファント氏とモリソン 氏への攻撃
(下):Night Bivouac of the Yacunins in the garden of the Legation, Jeddo
江戸の公使館の庭における役人たちの夜の露営(出典:ILN, 1861年10月12日, p.367)

日本に内乱を起こすことがイギリス政府の目的なのか?:イギリス議会議論の続き

 非常に信頼できる噂が最近中国からもたらされた。薩摩藩主は20万ポンドのライフルをアメリカに注文したという。さらに悪いのは、他の噂によると、これはニール中佐の報告でも確認されたが、大名たちと大君との間で内戦が起こりそうだという。これは成功か?あんなに平和で繁栄している国を無政府状態の内戦に陥らせるのが我々の真の政策なのか?ラザフォード・オールコック卿も我々が大名たちと戦争することになったら、それは途方もない大事業になると強く警告した。部隊を上陸させ、その後について山に入らない限り、我々ができる唯一のことは沿岸の町や村をホロコーストにすることだ。

我々は大量虐殺と大火を認めない

 ニール中佐の直近の報告は鹿児島を破壊した1ヶ月後に書かれているが、その中で、「女王陛下の艦隊の強力な支援に頼り、キューパー提督に組織的で真剣な連続的攻撃の必要性を促すことが必要不可欠になるかもしれない」という文を見るのは悲しい。組織的で連続的な攻撃だと! バクストン氏は再度尋ねた:我々が不幸な日本人と組織的で連続的な戦闘に突入するのが成功なのか? 本議会には今夜大きな責任がかかっている。我が国の提督たちに、少なくとも我々は大量虐殺と大火を認めないと知らせることを怯んではならない。キリスト教のイギリスの旗が、平和と友好であるべきなのに、無政府・暴動・火事・刀の前触れになることを考えると悲しみで一杯だ。(中略)

鹿児島は日本帝国の主要都市の1つで、文化レベルが高く美しい

 バクストン氏は説明が長くなったことを謝罪したが、この行為[鹿児島爆撃]が鹿児島の無辜の民にもたらした猛烈な悲惨さを2,3の言葉で本議会に伝えて座ることに満足できない。日本人が野蛮人だと無知をさらけ出して言う人たちは、同様の無知で、鹿児島はぺらぺらのあばら屋の集合で、燃えやすい代わりに建て直すのも簡単だと言う。しかし、事実は鹿児島は日本帝国の主要都市の1つで、工場・鋳造所・宮殿・砦など、この帝国の他の都市のように、驚くべき市民の高度に洗練された文明と知性の証拠である。イギリス人で鹿児島に足を踏み入れた人はいないが、オリファント氏は近くの薩摩藩主の小さな町を訪問した。わずか3,000から4,000人の町だが、バザールには多くの品物が展示され、全てが美しく、目新しく、彼はきらびやかな通りを歩いて、称賛の気持ちでいっぱいになった。侮辱的な話をする人たちに、バクストン氏が手にしている日本関係の本を見て欲しいと言った。

鹿児島を焼失させたことを議会として遺憾だと表明する決議案を動議する

 [イギリスの]旅行者たちはまた、日本の男たちが親切で愛想が良いこと、女性の優しい物腰、子どもたちの明るく賢そうな様子を記述していることを思うと、バクストン氏はこれらの人々18万人の町をイギリス戦艦7隻が砲撃し、夜の帳が降りる前に町の半分が炎に包まれたと聞いて、胸の痛みを感じざるを得ないと言った。(中略)この人口では子どもは3万人以下の筈はない。何千人もの病人、年寄り、弱者、子どもを世話する女性などがいた筈だ。最初の数時間、砲弾が頭上を飛び、家々の上で爆発し、炎が一瞬にして数百箇所で起こり、炎のハリケーンとなって屋根から屋根へ燃え移る。煙が広がり、逃げようとする人々の目を塞ぎ、燃え盛る通りで助けもなく叫ぶ人々の恐怖を想像するに難くない。(中略)この炎から命辛々逃げ延びた人々が丘から見たのは、かつて鹿児島だった場所の炎と廃墟から蒸気を上げて去ってゆく我が国の艦隊だった。人々は無言で、雇用も商売も全てを奪われ、飢え、ホームレス、絶望で立ち尽くしていただろう。

 バクストン氏はイギリス人として、権利として政府に[以下の決議案を]要求すると言った。(中略)

「本議会はキューパー提督が課せられた職務を誤解した責めを彼に負わせる。本議会は鹿児島の町を焼損したことを深く遺憾に思う。これは文明国の間に広まっている戦争の慣行に反するものであり、それは我が国が守るべき政策と義務である」

『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』に掲載された九州の景色

 ILNに「ほとんど知られていない国の内陸のワグナーによるスケッチが掲載されています。1861年6月の旅行です。

キャプション:Mountain Pass in Eizen, Takiwa
肥前武雄の山道(出典:ILN, 1861年10月26日, p.418)

キャプション:Stone Bridge at Isahaya 諫早の石橋(出典:ILN, 1861年10月26日, p.418)

キャプション:The Hot Sulphur Baths at Takiwa 武雄の硫黄温泉(出典:ILN, 1861年10月26日, p.418)

印刷ページを開く

1 The Illustrated London News, vol.44, 1864, Jan.-June. Hathi Trust Digital Library,
https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=mdp.39015006993201
2 渡辺京二『逝きし世の面影』平凡社ライブラリー、2005.
3 Laurence Oliphant, Narrative of The Earl of Elgin’s Mission to China and Japan in the Years 1857, ’58, ‘59, Vol.2, Edinburgh and London, William Blackwood and Sons, 1859. Hathi Trust Digital Library
https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=nyp.33433082428776
4 The Illustrated London News, vol.39, 1861, July-Dec. Hathi Trust Digital Library.
https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=uc1.c0000035931