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2022-04-13

英米に伝えられた攘夷の日本(7-2-1-6)

1864年イギリス議会下院で鹿児島砲爆の正当性を訴える外務副大臣が、1816年から63年までの欧米諸国による無防備な町への砲撃の例を挙げて、非戦闘員市民の住む町を砲撃するのは文明国に認められた戦争の慣行だと主張し、議場から「他国の悪行の羅列は自国の悪行の正当化にならない」とヤジが飛びました。

「鹿児島砲撃」下院でのレイヤード外務副大臣の議論(続き)

砲撃は文明国の戦争の適切な慣行だ

 1816年から起こった砲撃を下院の諸君に思い出してもらいたい。この年、アルジェ(アルジェリアの首都)がイギリス艦隊に砲撃された。我が国の領事が侮辱され、アルジェリア政府が賠償を拒否したからだ。1830年にはアントワープ(ベルギー北部)が砲撃された。1840年にはベイルート(現在のレバノン首都)、アクレ(当時はアラブ支配者の統治下、英仏オーストリアによる砲爆後オットマン帝国統治、1948年にイスラエルに占領された)、1843年にバルセロナがスペイン政府に爆撃された。これらの攻撃の正当性は疑問視されなかった。

 そして2件の強烈な事件があった。現在話し合っている件と同じくらい強烈だ。1844年に泥棒部族がモロッコに隣接するフランス領で略奪を行った。フランス政府が賠償を求めたが、彼らが拒否したので、タンジール(モロッコ北部)と モガドール(モロッコ)を爆撃した。モガドールは平和な町で、モロッコ皇帝の私有地だった。この町の大半を破壊しただけでなく、野蛮人を丘から降りて来させて、住民の多くを殺した上、そこを略奪した。

 1849年にはローマの爆撃があった。それは1ヶ月以上続いた。(中略)次に1854年にグレイタウン(Greytown:南米ニカラグア)の爆撃があった。アメリカ政府が船を送り、2,3時間の警告で、砲撃し、乗組員が町を略奪し、炎上させた。砲台のない町で、アメリカ戦艦が射撃されたのでもないのに、無防備の平和な町を破壊したことについて、アメリカ大統領は「犯人の傲慢な命令不服従により、他の道はなかった」と言ったのだ。

 それだけではなかった。チャールストン(Charleston)が砲撃された[1863年11月]。砲台からの自衛のためでもなく、戦争の必要性からでもなかった。単なる攻撃のための攻撃だった。女子どもが殺されたと聞いても、この国の多くの人と下院の何人かも、この砲撃を正当化した。

 自分が読んだ中で最も忌まわしい爆撃はジャクソンヴィル(Jacksonville)[1862年10月と1864年2月20日の砲撃のうち、前者のこと]の砲撃だ。美しい町が破壊されたが、全ては正当な戦争行為として正当化された。(ローバックRoebuck議員:「他国の悪行は我々が同様のことをする際の正当化の理由にならない」) 自分は正当化しているのではない。他の人同様、自分も非難する。しかし、これらの事件を引用したのは、砲爆というのは文明国によって戦争の適切な慣行としてみなされていることを示すためだ。

南北戦争

 レイヤード外務副大臣が列挙した欧米の戦争のうち、チャールストン・ジャクソンヴィルの砲撃はアメリカ南北戦争(1861〜65年)の被害地です。以下の挿絵がチャールストンの町の爆撃の様子で、その下の挿絵は、激戦地だったゲティスバーグの戦い(1863年7月1〜3日)の様子です。

(上):Interior of Fort Sumter after Bombardment from Morris island
[チャールストン湾内の]モリス島から砲撃後のサムター砲台の内部
(下)Bursting of a shell in the streets of Charleston, South Carolina
サウスカロライナ州チャールストンの通りで砲弾が炸裂
(出典:『ハーパーズ・ウィークリー』1864年1月9日,(注1), p.28)

(上):The Battle of Gettysburg—General Crawford’s Charge on the Rebel Lines
ゲティスバーグの戦い—クローフォード将軍が反逆者の戦線に突撃
(下):The Battle of Gettysburg—Attack of the Louisiana Tigers on a Battery of the Eleventh Corps
ゲティスバーグの戦い—ルイジアナ・タイガースが第11軍団の砲台を攻撃(出典:HW, 1863年8月8日, (注2))

グレイタウン砲爆

 グレイタウン砲爆はニカラグアの当時のサン・フアン・デル・ノルテ(San Juan del Norte)の町の市民にアメリカ公使が侮辱され、暴行されたという理由で、アメリカ大統領の指示で1854年7月13日に、アメリカ海軍が町を砲爆した事件です(注3)

 ニカラグアは他の中米諸国同様、欧米列強に蹂躙され続けました。1550年代初頭にスペインがグアテマラ、ニカラグア、ホンジュラス、コスタリカを統括し、1700年代中葉にスペインとイギリスの間で中米の権益をめぐって度々戦争が起こり、イギリスは先住民族モスキート族(Mosquito, Meskito)と同盟を結んで、先住民の領土モスキート・コースト(ニカラグアとホンジュラスのカリブ海側沿岸)を割譲し、モスキート王国の保護国となりました。

 ニカラグアが中央アメリカ地峡を渡るルートにある戦略的重要性に、イギリスとアメリカが1800年代から目をつけ、1848年にイギリス海軍がサン・フアン・デル・ノルテを占領し、グレイタウンと名付けました。イギリスに植民地化されると恐れたニカラグア政府は1849年にアメリカのビジネスマン、ヴァンダービルト(Cornelius Vanderbilt: 1794-1877)のアクセサリー運輸会社(Accessory Transit Company)と条約を結び、大西洋側と太平洋側を結ぶ運河の建設権を与えました。ニカラグア・ルートはパナマ・ルートより2日速く、安いため、カリフォルニアのゴールド・ラッシュの時期でもあったので、この運輸業で巨額を得ました。

 グレイタウン砲撃の責任はアクセサリー運輸会社にあると、1859年に弁護士が証拠となる文書を示して告発しています。この運輸会社は公有地を無断で所有し、グレイタウン地方政府の法的権威に反抗し、会社のエージェントと被雇用者が地方役人に暴行したため、逮捕されました。別の被雇用者がグレイタウンの市民を殺害したので逮捕しようとした時に、アメリカ公使が逮捕を妨げようとしたので、市民がボトルを投げ、公使が顔に小さな傷を負いました。その結果、アメリカ海軍が大統領命令でグレイタウンを砲爆し、その後アメリカ兵を上陸させて、放火と略奪をさせたとされています(注4)

イギリス議会下院議事録「グレイタウンの砲撃」1857年6月19日(注5)

 この事件から3年後にイギリス議会下院で、「鹿児島の砲撃」議論と似たような内容の議論が戦わされます。大きな違いは、砲撃したのがアメリカであることと、砲撃された町にイギリス人などヨーロッパ人が住んでいたため、彼らも被害を受け、その損害賠償をアメリカ政府に求めるよう被害者からイギリス政府に訴えがあり、その訴えをめぐる議会での論争です。この時も首相はパーマストン子爵、外相はラッセル卿です。アメリカの砲撃に関してどんな論争があったか興味深いので主要点を抄訳します。

パーマストン子爵

  • 外国に行って移住する者はその国に降りかかる運命に従わなければならない。もし何か要求がある場合は、移住した国に要求しなければならない。
  • グレイタウンのイギリス人は町の砲撃で受けた被害の賠償をアメリカ政府から要求するよう、我が国政府に呼びかける余地は全くない。
  • グレイタウンは確かにモスキート族の領土(Mosquito territory)で、イギリス保護下にあるが、その保護は外国の攻撃から守るだけの義務で、この保護権はグレイタウンと外国との紛争に介入することまでは及ばない。
  • グレイタウン政府はアメリカ・イギリス・フランス・スペイン・ドイツ人が独自に選んで独自に統治する自治体で、自らの責任で行動するから、自分たちがした結果の責任はイギリスではなく、彼らがとらなければならない。私の理解では、この問題の本質は、アメリカの輸送会社2社の間の紛争で、その1社はグレイタウン政府に支援されており、もう1社はアメリカ政府に支援されている。

反論は複数の議員からされましたが、ディズレーリ以外は主要論点だけ箇条書きにします。

  • 弱々しい国に対しては、パーマストン子爵はこの権利を証明する決意を多分に示すが、その国が軍事力という理由で尊敬されている場合は、何の抗議もせず、イギリス国民がたまたま被害者でも賠償金を得ようという努力は全くしない。これは驚くべきことだ。我が国政府の行為は、世界にイギリスが弱者に対する苛めっ子で、強者に対しては卑怯者だと思わせることにつながる。
  • 「我々はグレイタウンを外国の占領や侵略から守らなければならない」とパーマストン子爵は言った。しかし、外国に砲撃させるままにした。
  • グレイタウンのもともとの人口は誰か? この国の国民が行って、彼らはイギリスの保護があると思って植民地化した。
  • パーマストン子爵はこの場所がモスキート族の領地だと言った。それでは、我々がモスキート領土に関していつも言い、してきたことは何か? 我々はあそこのインディアンの守護者ではなかったのか? 我々は彼らと条約を結び、彼らを守り、イギリスの名誉の一部として何世紀も守ってきた彼らを追い出さないと宣言したのではなかったのか?
  • 我々は、強い国に我が国民が不当に扱われるのを見ているだけなのか? これが中国やブラジルがやったことだったら、イギリス国旗に対する冒涜だと、次々と騒ぐ諸君がいるに違いない。我々はカントン川の船で何が起こったか、よく覚えている(アロー号事件、6-1〜6-5-1参照)。「中国での]イギリス国旗に対する侮辱について聞いた。グレイタウンのイギリス国旗について聞いたか? イギリス領事がそこにいて、抗議したのだ。砲爆が始まった時、彼の家にはイギリス国旗がはためいていた。
  • あらゆる国に対して、正直で正当で慈悲深い態度を取るのがイギリスにふさわしい態度だ。弱者が正しい時は弱者を守り、イギリス人がどこに住んでいようと正義を示す国にしようではないか。
  • イギリス国旗が侮辱された時はいつも、それが自己防衛できない国がした場合は、我々はすぐに報復を主張するが、その暴挙が自己防衛できる国の場合、あるいはその国との論争が得策ではないと考えられる場合は、我々は報復や謝罪さえ求めずに最悪の侮辱に甘んじてきた。2度も3度も、アメリカが我が国に対して行った侮辱や暴挙に抵抗する決意に欠けていることを議論してきた。
  • しかし、我が国がアメリカに関して1度ならず取った道は違った方法で対処すべきだった。我が国がアメリカ政府の侮辱や暴挙に何度も甘んじてきたその真の原因は、痛みを伴う必要性、つまり、我が国の商業の大きな部分が合衆国に原材料を頼らなければならないからだ。そして下院の支配的な党がいつも「もしアメリカと戦争をしたら、我々は政府を追い出す」と言ってきたからだ。その結果、我が国と合衆国との間にいざこざがあると、真っ直ぐな、あるいは男らしい立場が取れる政府はない。合衆国政府が我が国に対して政策としてではなく、侮辱を与えるような状況が繰り返される可能性が非常に高い。繰り返しの必然的結果は、国の精神がそれに対して反抗するような大きな暴挙が起こり、今まで不適切な譲歩で戦争を避けてきたのに、そのまさに戦争に突入させられることになる。

ディズレーリ(Benjamin Disraeli: 1804-81)の議論

  • パーマストン子爵はグレイタウンの封鎖とコペンハーゲン、セバストポールの事件と似ていると言った。しかしコペンハーゲンとセバストポールは砦の町で、グレイタウンはそうではない。国際法の原則は砦のない町、条約で軍隊も海軍機関もないことが決められている町を砲爆するのは違法だと自分はいつも思っていた。
  • グレイタウンはイギリス当局の保護下にある;パーマーストン子爵が保護の内的、外的の些細な区別をしたのを下院が一瞬でも受け入れるのは信じられない。
  • 19世紀にこのような暴挙に対して[イギリス国民が]救済されないことはあり得ないと確信している。

「鹿児島砲撃」下院でのレイヤード外務副大臣の議論(続き)

融和政策だったアメリカはペリー提督のような示威行動で日本を従わせる政策に変える

 [日本で]アメリカ人に対する暴行が続いても、アメリカは賠償を求めなかった。しかし、[1863年]6月16日にプリュイン氏がスワード氏(William Seward: 1801-72, アメリカ国務長官)にこう書いている。「私は最近までここ[日本]に我が国の海軍を置くことを望んでいなかったが、私の意見は大きく変わった。ここに提案したい。ペリー提督の強力な艦隊が日本を開国させたことは大統領にも明らかに違いない。そこで、このようにして手に入れたものを世界に対して保持するためには、少なくとも一定期間、同じ方法に頼ることが自然であり、議論の余地のないことだ。最近の面倒な事態の平和的解決をもたらしたのが、日本にイギリス艦隊やその他の国の艦隊が存在することだ。このような軍事力なしには、私の助言も、条約国全ての助言も、全列強合同の助言も無力だっただろう」。

 プリュイン氏はアメリカ合衆国大統領に、アメリカが日本に対して進めてきた政策を逆行させよと提案するだけでなく、大阪に対し大きな示威行動をし、京都に軍隊を進軍させ、アメリカ国民に対してなされた悪行の賠償を求めよとさえ提案した。アメリカはあまりに融和的で、長いこと苦しんだために公使館員を殺され、公使館を燃やされ、それでも注意を払わなかったが、今や日本との平和的関係を維持する唯一の政策は女王陛下の政府が追及してきたために非難されている政策だと認めざるを得なくなったのだ。プリュイン氏が正しいか否かわからないが、長い経験の末、彼は反対の政策が失敗だったと認め、彼の意見では我々の政策が賢明で正当だと認めたのだ。

ヒュースケン殺害の賠償金を最初要求しなかったハリスの報告書

 イギリス外務副大臣の上記の議論の中で、中略した部分に「アメリカ公使館秘書が殺害されても、アメリカは賠償金を求めなかった」という発言がありますが、正確ではありません。「公使館秘書の殺害」というのはハリスの通訳をしていたヒュースケン(Henry Heusken: 1832-61)のことだと考えられます。ヒュースケンは1861年1月15日夜9時頃にプロシア公使館からアメリカ公使館に戻る途中で、攘夷の志士たちに殺害されました。幕府から提供されていた警護7人に前後を守られていましたが、両脇から襲われたとハリスが国務長官への報告の中で詳細を述べています。

 そして、ハリスが国務省に提案した対応策も報告書にあるので、それを引用した『アメリカ合衆国の条約』第8巻(1948)から抄訳します。ハリスの手紙は1861年11月23日付です。

 これまでお知らせしたように、ヒュースケン氏が夜外出することは彼の大きな不注意でした。このような形で自ら身を晒すのは、殺害されるリスクがあると何度も幕府から警告されていたのです。彼の死は主に日本側の警告を無視した彼の責任だと私は強く信じています。同時に彼が私の例を見倣っていれば、今でも生きていたと信じます。

 このように簡単に申し述べた理由から、私はヒュースケン氏の死に日本政府は共犯性から無罪だと感じざるを得ません。同様に、日本政府は忠誠心をもって熱心に暗殺者を逮捕し処罰する努力をしていると確信しています。((注6), pp. 643-644)

 ヒュースケン殺害の翌朝7時に外国奉行からのお悔やみのメッセージを持って、新見豊前守(正興まさおき:1822-69)、村垣淡路守(範正のりまさ:1813-80)、小栗豊後守(忠順ただまさ:1827-68)が訪ねてきたこと、外国奉行が犯人逮捕と処罰を確約したこと、どんな援助でもすると述べたと報告されています。ハリスはこの報告書の4日後の1861年11月27日付の報告書で、外国奉行との話し合いについて報告しています。ヒュースケン暗殺事件について、幕府側はできる限りのことはしたいから、要望を知らせてほしいと述べます。それに対して、ハリスは「ヒュースケン氏の殺害者の逮捕と処罰が私が望む全てだ」(p.635)と答えます。それに対し、幕府としては全力を尽くすが、逮捕が1ヶ月後か、1年後か、それ以上か予測できないと言って、その証拠として、桜田門外の変(1860年3月24日)の大老井伊直弼の暗殺者に関する幕府の対応、逮捕できないことを例としてあげます。ヒュースケンの殺害者の逮捕と処罰に全力を尽くすと再び言った上で、この確約が十分でない場合、それ以外の要望があるかと尋ねます。

 そこでハリスはヒュースケンが残された母親の唯一の子どもなので、母親がヒュースケンから受け取っていた生活費に相当する額を払ってはどうかと提案します。額に関するやりとりの末に、外国奉行は即座に1万ドルを支払うこと、それで殺害者の逮捕と処罰を免れるとは考えていないと述べたと国務長官に報告しています(1861年1月22日付国務長官宛報告書、pp.635-636)。

万延元年遣米使節団

 1861年1月16日の朝早く、お悔やみを述べにハリスの元に駆けつけた3人は、日米修好通商条約批准書の交換のためにアメリカに派遣され、1860年11月9日に帰国した 万延元年遣米使節団の正使(新見豊前守)、副使(村垣淡路守)、目付(小栗豊後守)でした。この使節団はアメリカで盛大に歓迎され、一行の動向が豊富なスケッチで連日報道されていますので、後ほど紹介します。以下が3人のポートレートです。

Muragaki Awajinokami, Shimmi Buzennokami, Oguri Bungonokami
村垣淡路守、   新見豊前守、  小栗豊後守
(From photograph taken at Willard’s Hotel, Washington D.C., U.S.A., June 4, 1860)
アメリカ合衆国ワシントンD.C., ウィラード・ホテルで撮影された写真から、1860年6月4日, (注7)

レイヤード外務副大臣の議論(続き)

日本人による暴行があっても、日本との貿易は急速に増えている

 批判するのはたやすいが、どんな政策が提案されたか? 我々は出島に監禁されたオランダのようにすべきなのか? はいつくばって、あらゆる侮辱に耐えるのか? 思い出そうじゃないか。オランダの地位はあまりに耐えられないものになり、貿易を諦めざるを得なくなった。現場にいる我が国のエージェントの判断の方が、個人的観察の機会のない者の判断より信頼できると自分は思う。そして忘れてはならないことは、これらの[日本人の]暴行があっても、我が国の日本との貿易は年毎に急速に増えている。日本との貿易に投資した700万ポンドのうち、半分以上がこの国のもので、イギリス産業の果実だ。(中略:絹[生糸]貿易の問題について)

日本との問題の根源はヨコハマにいるイギリスの小規模貿易業者だ

 世界中で新たなマーケットを開くのが政府の義務だと、たえず要求する平議員諸君の提唱することをイギリス政府は単に実行しているに過ぎない。諸君によるプレッシャーが現在の問題を生み出しているのだ。我が国民がイギリス政府がたえず中国と日本を戦争に陥れていると想像するように誘導する扇動的なスピーチを、諸君がする代わりに、我が国の商人に対して、貿易拡張にそれほど熱心にならないように、節度を持つように、そして政府があらゆる力を使ってその目的を現実化していることに正当な評価を与えるよう努力すれば、現在よりも問題がはるかに少なくなると信じる。

 このように述べたが、東洋にいる我が国の商人を一切批判したくない。彼らの多くは非常に正直で、非常に勤勉で見識ある人々だが、自分が東洋について知っているところでは、全ての問題が世界のあの場所にいるイギリス人貿易業者によって生み出されたという意見だ。巨大貿易商社のことを言っているのではない。小規模貿易業者の集団のことを言ったのだ。彼らは日本に押し寄せ、とんでもない自惚れで、イギリス政府が彼らを守る以外の仕事はないと思っているようだ。

 結論として、決議案の最初の文言、キューパー提督に関する不当な意見の文言を撤回し、残りの部分に同意を与えることもできない。同意したら、町の砲撃は戦争の慣行と矛盾すると認めることになる。

 次に立ち上がったのはエルフィストン卿(Sir James Elphinstone: 1805-86)です。キューパー提督擁護と、東洋の町の砲撃は西洋の町の砲撃より被害が少ないと主張し、東インド会社のカントン地区の担当者として町が全焼する大火事に遭遇した経験を語っています。

ヨーロッパで同じような町の破壊があったら、東洋よりもっと悲惨だ

 鹿児島の破壊は、ヨーロッパの国で同じような戦闘に続く悲惨さの同じ光景とはほど遠い。東洋の人々は軽い建造物から簡単に逃げられ、すぐに失ったものを修復できる。1822年11月30日に、カントンで、たった10時間から12時間の大火で、1億8221万4000軒が破壊された有様を自分は見た。自分はその時、この地区の東インド会社に雇われ、住民を救うことが任務だったが、救うべき人は1人もおらず、纏足(てんそく)で逃げられない2,3人の女性だけだった。男性は1人も見つからなかった。多くは即座に家財道具を大きな箱に入れて川を下った。自分が2年後に同じ場所に戻ると、町は火事の前と全く同じ様子だった。だから東洋の町が燃えても、バクストン議員が生き生きと描いたような悲惨さのようなものは起こらない。

 次のスピーカーは自由党議員フォースター(W.E. Forster: 1818-86)です。成功した実業家ですが、貧しい人々のために働く良心的な政治家で、公教育制度の生みの親と評されている人物です。

薩摩藩が待ち伏せ攻撃する意図があったと、外務副大臣が議会で根拠ない主張をしたのは不適切

 今夜我々が招集されたのは、鹿児島砲撃に関する意見を表明するためだ。全体的な問題について述べる前に、ある重要な細部的なことについて述べたい。ブルーブック[議会資料集]の100ページ目に、砲爆の前日[8月]14日の夜、キューパー提督とニール中佐と日本使節団との間で交わされた会話のメモランダムがある。その最後に奇妙なパラグラフがある—

キューパー提督:ニール中佐は貴殿らと友好的に問題解決したいと望んでいる。もし明日の朝10時までに貴殿がそうしなければ、この件は私の手に移り、私はボートを1隻たりとも通過させないことから始める。

(日本の役人たちは立ち上がって去ろうとした)

ニール中佐:貴殿らの回答は拒否かもしれないが、この後も我々とのコミュニケーションを望むか?

キューパー提督:我々は貴殿らが明日午前10時までに再び我々とのコミュニケーションを持つことを望んでいる。ボートに白旗を掲げよ。

日本側:明朝10時前に使者を送る。

キューパー提督:それがよろしい。

ニール中佐:貴殿らの回答がどんなものであれ、貴殿の使節とボートに危害が加えられることはない。

 ところが、キューパー提督の海軍本部とニール中佐宛の報告では、この件が提督の手に移る前に、薩摩使節団が時間的猶予を与えられたと[相互]理解があったにもかかわらず、明け方には提督は[薩摩の]船を拿捕させるために軍艦を送り、事実上戦闘を開始したのだ。これを提督やニール中佐に対する非難として言っているのではないが、これは説明が必要な問題だ。特に外務副大臣が根拠なき主張で、キューパー提督とニール中佐が上陸するよう誘われたのは、待ち伏せ攻撃しようという背信的意図があったと言った。これはそうかもしれないが、そうだったという証拠はない。したがって、このような主張がこの議論で紹介されるべきではなかった。

鹿児島砲撃が意図的だったという理由が多くある

 全体的な問題として、[下院]全員が賛成した点が2点ある。この恐ろしい悲劇が起こったことを国中が後悔し、いかに嘆かわしく、悲しむべきか[下院]全員が感じている。(中略)唯一の問題は、これが単に遺憾だとか非難だとかの問題なのかということか、もし、非難なら非難は誰に向かうのか? 非難の問題は、非攻撃的な住民の家々の破壊が意図的だったかどうかにかかっている。外務副大臣は意図的だったとはっきりと否定しなかった。(中略)バクストン議員が砲爆は意図的だったと信じた理由をあげたが、外務副大臣はそれに疑いを投げかけようとした。(中略)砲爆が意図的だったという証拠は本当にたくさんある。私信があり、その2,3は将校の手紙だ。もう1通はユーリアラス号の船長の私信だ。これらの手紙は真実をねじ曲げようとして書かれたものではない。書き手は多分明らかに町の砲爆が、間違いだとか、不名誉な行為だとイギリスで考えられるとは思ってもいなかっただろう。したがって、彼らは公平で真実を言い、手紙には何度も何度も「我々は町を砲撃した」「町は砲撃された」というような表現が含まれていた。これらの手紙の内容はイギリス一般大衆の心に確信をもたらした。

 ここで公式の報告を見てみよう。最初の報告は、争いが始まる2,3時間前にキューパー提督とニール中佐が、町を破壊すると日本使節を脅したということ、最後はニール中佐の報告で、[外務大臣による]手紙と精神による指示を遂行し、薩摩藩の首都は今や廃墟に化したという報告だ。(中略)この行為が意図的であることは疑いなく、非難に値する。

 外務副大臣は他国政府が犯した同様の行為の例をいくつか述べた。自分はその状況を知らないが、それらが言及された時、[議場からの]嫌悪の叫びで受け止められたことで、政府がこの決議案に同意する必要性を確信させた。下院はこの問題に関して、政府に説明を求める義務があると確信している。もし他国の残虐行為を非難するに雄弁であれば、自分自身の残虐行為について意見表明する時にもっと注意を払う必要があると下院が考えると確信している。

鹿児島の町の破壊の責任は誰にあるか

 さて問題は、もし町の破壊が非難されるべきなら、その責めは誰が負うべきか? それは唯一3人の人物に向かう。砲撃を実施した提督、それをけしかけた大使[ニール代理大使]、または指示した本国の大臣。自分はこのいずれも無罪にしないと言わなければならない。キューパー提督は絶対に無罪にしない。しかし本議会の議員の誰もが認めるように、提督には大きな減刑を自分も認める。(中略)自分はあまり厳しく責めたくはないが、提督の友人たちでさえ提督の報告の調子と、彼の行為がもたらした悲しみの表現の欠如を残念がっていると確信する。しかし、このようなことで提督を判断すべきではない。

 自分はニール中佐の方がもっと責任が重いと考える。なぜなら提督を指令下に、絶えずそばに置き、この作戦が我が国の政策として、人道として、どんな結果をもたらすか考えるのが仕事だからだ。しかしニール中佐は最も困難な立場におかれていたので、彼には大きな減刑を考慮しなければならない。ニール中佐は一年中暗殺の危機に晒され、彼の報告を注意深く読むと、彼が困難に対処した忍耐強さと勇敢さを称賛せずにはいられない。また、彼の背後には警戒し憤慨するイギリス人の一団がいたことも思い出すべきだ。彼らはニール中佐に暴力的行動をせよと迫り、中佐がそのプレッシャーに抵抗したことは、称賛されるべきだ。

 提督と大使[ニール代理大使]は最も困難な立場にあった。すべては彼らが本国から受け取った指示の調子次第だ。彼らにこの指示が伝えられた方法に対し、自分は最大限非難すると正直に言わなければならない。ラッセル卿[外務大臣]は1862年12月24日にニール中佐にこう書いた—「もし薩摩藩主が要求されたことに即刻同意せず、実行しなかったら、提督は旗艦と必要なら他の軍艦や十分な軍事力で藩主の領土に行き、(中略)港を封鎖するのがいいか、領主の住居を砲撃するのが可能か、または望ましいかは女王陛下の政府よりも現地にいる提督や海軍上級将校の方がより良い判断ができるだろう」。

 これで、藩主の住居を砲爆するという考えが外務大臣によって提案されたのは明確だ。町を砲撃せずに藩主の住居を砲撃することが不可能なことを大臣は知っていたに違いないし、知るべきだった。この指示の中で、町を砲撃せよという提案がされたことは全く明白だ。そう提督とニール中佐が理解したようで、最初の大火が終わった2日目に、提督は頭上の丘に建設中だった砲台数基を銃撃した。この銃撃の機会を利用して、港の反対側にある藩主の住居を砲撃したと提督は言った。この砲撃で焼け残った町が破壊された。最初の行動自体は家々の破壊が意図的だったか疑わしいが、2日目に起こったことは疑いようがない。

 [ブルーブックの]97ページ目の、提督の2日目の記述が示すのは、彼がラッセル卿の提案を実行し、その中で町の残り半分を破壊したことだ。提督はこう言った—「翌日の午後、大風が緩んだので、艦隊を鹿児島の反対の深海地より安全な停泊地に移動する必要があると思い、また、小舟が岸近く停泊している小さな湾の真上の丘に日本側が砲台を建設中なのを見て、錨を揚げ、鹿児島の砲台の間を1列で通過し、港を出て、島の南に停泊した。この中で砲台と鹿児島の藩主の城を砲撃した。これらの作戦は完全に成功した。城が破壊されたと信ずる理由が多くある。多くの砲弾が城の中で爆発するのが見えたし、今でも燃え盛っている火などから、鹿児島の町全体が廃墟だと信じる根拠だ」。

外務省は他国に人道や国際法について教えを垂れる前に、鹿児島に関する情報を得るべきだった

レイヤード外務副大臣:その場所について我々の知識は不完全だ)

 そうかもしれないが、それは言い訳にはならない。ロンドンにある本屋で外務省が買える本に、鹿児島は大きな人口密度の高い町だと書かれている。向こう側にいる颯爽とした役人(原文注:ジェームズ・エルフィン卿)が外務省に藩主の城は町の真ん中にあるかもしれないと教えたかもしれないし、そのような事実はあのような指示を出す前に外務省は知っていてしかるべきだ。外務省は忙しかったと言うかもしれないが、これほどのことを防ぐより、もっと忙しくする重要な仕事は何だったのか?

 ロシアには人道について、オーストリアとプロイセンには国際法について教えをたれるなど、外務省は最近非常に忙しい。しかし、望まれもしないアドバイスをするというのは単なる贅沢だ。現在議論中のような重要な作戦の方針を決める時に、外務省がやるべき仕事は全力であらゆる情報を集めることだ。外務省が不完全な知識で指示を送ったというのは言い訳にはならない。多分この王国でラッセル卿ほど、この指示を送ったことを後悔している人はいないだろう。前回彼は雄弁にそんな通信はしていないと言った。彼のキャリアをずっと見てきた人なら、このような悲しむべき結果が自分の書いた指示の不注意さから起こったことを深く後悔していることを知っている。

外務大臣は鹿児島砲撃が間違っていたと正直に言え

 それでも、現地にいるキューパー提督と大使代理に対しても、この国と彼自身に対しても、後悔していると正直に言い、指示の不注意さを申し訳ないと言ったら、もっとフェアだろう。この砲撃についてのニュースがイギリスに届いて以来、ラッセル卿が発信したものの中には、このような感情の兆候は全くない。ラッセル卿がすべきことをしなかったので、本下院がそれをする義務がある。ラッセル卿が議会にいる間、外国の藩主や人々の行為についての議論に多くの時間が費やされた。彼は道徳的不賛同の表現がいいことをもたらすと信じる人々の1人ではない。我々がただ話していると外国が信じることは不可能だ。我々の言葉の背後には行動があると彼らは考える。我々の道徳的非難が実行されるか否か困惑し、彼らは怒り苛立っている。我々の意見表明は抑圧された者を誤解させ、抑圧者を苛立たせ、納得させることはほとんどなく、説得させることはさらにない。それでも、この王国の代表者たちによって犯されたこのような行為に関して、下院が意見表明することが下院の義務だということに疑いはないはずだ。

鹿児島砲撃によってイギリス文明と日本の野蛮性の違いを示し、日本人は長い間忘れないだろう

 既に行われた害を下院が修復することは不可能だ。家から追い出された者たちの賠償はできないし、殺された女こどもを生き返らせることもできない。キューパー提督が日本人に教えた通商の価値と、キリスト教と文明の優位性に関する教訓を日本人の記憶から消し去ることもできない。キューパー提督が日本側に我々が世界で最初の国家だ、日本人は野蛮人だと言ってわずか2,3時間後に、彼は日本人にイギリス文明と日本の野蛮性の違いをいかに示したか、日本人は長い間覚えていることだろう。下院はこの犯された行為を認めないと表明すべきだ。そうすることによって、あらゆる責任から潔白だということになる。票決によって、海外にいる我が国の提督と公使たちとイギリスにいる公使たちに、18万人の住民がいた町を警告なしに破壊するような暴虐の責任があることを知らせるのだ—そして、もしこのような残虐行為が繰り返されたら、この穏便な決議案に含まれているよりずっと厳しい非難が来ると知らせることができる。自分はこれが国民の同意を得られ、政府が受け入れると信じている。

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1 Harper’sWeekly, Vol. 8, 1864. Hathi Trust Digital Library. 
https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=mdp.39015021733780
2 Harper’sWeekly, Vol. 7, 1863. Hathi Trust Digital Library. 
https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=mdp.39015022644960
3 ”The Bombardment of Greytown”, New York Daily Times, July 26, 1854, p.2.
https://timesmachine.nytimes.com/timesmachine/1854/07/26/issue.html
4 S.S. Wood, W.P. Kirkland, “The Greytown and Nicaragua Transit Company Controversy”, Washington D.C., 1859. Hathi Trust Digital Library.
https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=ien.35556043846179
5 ”The bombardment of Greytown”, vol. 146: debated on Friday 19 June 1857
https://hansard.parliament.uk/Commons/1857-06-19/debates/df456a3f-6781-4092-9b0d-c1488e641f57/TheBombardmentOfGreytown
6 Hunter Miller (ed.), Treaties and Other International Acts of the United States of America, vol.8, Documents 201-240: 1858-1863, United States, 1948.
https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=uiug.30112079547946
7 日米協会 The America-Japan Society, The First Japanese Embassy to the United States of America: Sent to Washington in 1860 as the First of the Series of Embassies Specially Sent Abroad by the Tokugawa Shogunate, Tokyo, 1920. インターネット・アーカイブ https://archive.org/details/firstjapaneseemb00nich