幕末の日本を訪れた欧米人が一様に日本の市井の人々と子どもたちが幸せそうだと伝えています。訪日したことのないアンドリュー・ラングは北斎漫画に「西洋の子どもより幸せそうな日本の子どもたち」を見ました。
イギリスの子どもより幸せそうな日本の子どもたち
キャプション:日本の子供たち、北斎画(Books and Bookmen, 1886, (注1), p.135)
アンドリュー・ラングは日本の子どもはイギリスの子どもより幸せそうだと、イギリスに渡った北斎漫画(初編:1814, 文化11年)から上の子どもの絵を取り上げて指摘しています。これはラングが最初に『アート・マガジン』(The Magazine of Art, 1885,明治18年)に、次に自著『書物と愛書家』(Books and Bookmen, 1886,明治19年)に再録した「日本の妖怪」(Some Japanese Bogie=Books)の最初に掲載した北斎漫画です。この絵を紹介したラングの文章を抄訳します。
私が子どもの頃、保育園でよく歌われていた幼児向けの詩がある。かなりパリサイ人[偽善]的な性格で、以下のような歌である。
お星さま、わたしがイギリスの子どもに
I thank my stars I was born
生まれたことを感謝します。
A little British child.この通りの言葉ではないかもしれないが、こんな愛国心が確かにある歌だった。日本の子どもたちの絵を見てほしい。有名な北斎の手による絵だ。
この子どもたちはイギリス人ではないが、これほど楽しそうで幸せそうな子どもたちがいただろうか?
リーチやデュ・モリエ氏やアンドレア・デッラ・ロッビアは、こんなに楽しそうな純真な子ども時代の素晴らしい絵を描いたことがあっただろうか?(p.133)
リーチ(John Leech: 1817-1864)は『パンチ』の挿絵画家、デュ・モリエ氏(George Du Maurier:1834-1896)はヴィクトリア朝の挿絵画家、アンドレア・デッラ・ロッビア(Andrea della Robbia:1435-1525)はイタリアの彫刻家です。ラングの文章には複雑な思いが仄めかされています。スコットランド人として育ったラングが「イギリスの子どもに生まれたことを感謝します」と暗唱させられた屈辱感、そして、「文明国」イギリスの子どもより「野蛮の国」とみなされていた日本の子どもの方が幸せそうだという含みです。
「愛国心」と訳した語は”sentiment”で、「感じ方」に近いのですが、文脈から「愛国心」と理解した理由は、本サイト2で紹介したケリーの記事(「アンドリュー・ラング—多作な才能の人生と時代—」(注2))で述べられているエピソードにあります。「『5歳の男の子というのは、自分の国よりも、おとぎの国の方が好きなものだ』と自ら言うように、早熟な愛国心を示すことはなかった。これは後に彼の有名な作品の基調となった」という個所です。
もう1点は歌にあるBritishで、スコットランド出身のラングがBritishとScotsについてどう感じているかを示すものと言えるでしょう。スコットランド史やスコットランド女王メアリーについて書き続け、ケリーもその点を指摘しています。
[ラングが]学生に向かってスピーチをした後に、どこか別の所で引退生活を送りたいかと主催者に聞かれると、「私は晩餐会は大嫌いだ、クラブも大嫌いだ、大学も大嫌いだ」と返答した。すると無謀に
も「あなたは何でも嫌いなんですね」と質問した人がいて、ラングは「いえ、スコットランド女王メアリーは嫌いではありません」となぞめいた答えをした。
幸せな子どもを描かない/描けないとラングが言ったヨーロッパの画家たち
ラングが北斎の子どもたちに比べ、「こんなに楽しそうな純真な子ども時代の素晴らしい絵を描いたことがあっただろうか?」と挙げた西洋のアーティストの一人、アンドレア・デッラ・ロッビアの代表作が以下の彫刻です。
アンドレア・デッラ・ロッビア作「子どもたち」(Bambini):フロレンスの養育院
解説:おくるみに包まれた幼児はアンドレア・デッラ・ロッビアが28歳の時に単独で作った作品で、彼の作品の中でも最も有名で人気の高いもの(出典:月刊誌Masters in Art, Part 21, 1901年9月号, (注3), pp.36-7)
以下はラングが言及したジョン・リーチが描いた子どもの挿絵です。
キャプション:「茹でビーフと西洋スグリのパイを食べると大変な症状になる」
出典:『ジョン・リーチの人生と作品』(1891, (注4), p.47)
以下はラングが言及したもう1人の画家、ジョージ・デュ・モリエの『パンチ』(1874)掲載の挿絵です。
挿絵の解説:姉が妹に言うセリフ「モード、あなたお祈りするんでしょ。その時、私がとても疲れているから、今夜はお祈りできないけど、明日は必ずするって言ってちょうだい!」
出典:『ジョージ・デュ・モリエ—ヴィクトリア朝の風刺画家—』(1913, (注5), p.119)
幕末の日本で欧米人が見た幸せそうな日本人
ラングは日本に来たことはありませんでしたが、彼が北斎の絵から察した江戸時代の幸せそうな子どもたちを、幕末に日本で実際に多くの欧米人が観察して記しています。『逝きし世の面影』(2005, (注6))に記録されている多くの欧米人の記述が示しているので、「絵のように美しい日本」ではなく、明治以前の「幸せそうな子ども・人々」に焦点を当てて、少し紹介します。
- 1854年:ペリー第二回の日本遠征の時、下田の人々を見て
「人びとは幸福で満足そう」(p.74) - 1857年:ヒュースケン(Henry C.J. Heusken: 1832-61):タウンゼンド・ハリス(Townsend Harris: 1804-78)の通訳で、1861年に暗殺されました。
「この国土の豊かさを見、いたるところに満ちている子供たちの愉しい笑声を聞き、そしてどこにも悲惨なものを見いだすことができなかった私は、おお、神よ、この幸福な情景がいまや終わりを迎えようとしており、西洋の人々が彼らの重大な悪徳をもちこもうとしているように思われてならない」(p.14)。 - 1858年:オズボーン(Sherard Osborn: 1822-75):日英修好条約締結のために来日したエルギン卿使節団のフリゲート艦長。
「この町[長崎]でもっとも印象的なのは(そしてそれはわれわれの全員による日本での一般的観察であった)男も女も子どもも、みんな幸せで満足そうに見えるということだった」(p.39)。 - 1858年:オリファント(Laurence Oliphant: 1829-88)エルギン卿の個人秘書。
「個人が共同体のために犠牲になる日本で、各人がまったく幸福で満足しているように見えることは、驚くべき事実である」(p.39)。 - 1859年:ティリー(Henry Arthur Tilley生没年不詳):ロシア艦隊の1員として訪日した英国人。
箱館の印象として「健康と満足は男女と子どもの顔に書いてある」(p.74)。 - 1860年:プロシャのオイレンブルク使節団の遠征報告書
「どうみても彼らは健康で幸福な民族で、外国人などいなくてもよいのかもしれない」(p.75)。
産業革命と帝国主義がもたらした不幸
欧米人が幕末の日本の市井の人々の幸せな様子に一様に感銘を受けたのは、裏を返せば、「文明国」、特に産業革命と帝国・植民地主義で世界最強、経済的に最も豊かな国であったイギリスには見られない幸福度だったということになりそうです。その理由が『ブリタニカ』の「ヴィクトリア朝」(注7)の解説から探ります
ヴィクトリア朝時代のイギリスは豊かな文化を持つ強力な国だった。巨大な帝国を支配し、金持ちだった。その人口[2100万人]の4分の3以上が労働者階級であったにもかかわらず、工業化の度合いと帝国の保有による富だった。19世紀の間に中産階級が急速に増え、人口の15〜25%にまでなった。彼らの収入は給料と利益からだった。富裕層は非常に小さく、不動産・借地料・利子から収入を得ていた。上流階級はイギリスのほとんどの土地を所有し、地方政治・国政・帝国の政治を支配していた。
1820年から1870年にかけて、帝国[植民地]が増え、帝国の方針は東に向かい、イギリスが統治した国の非白人の数が増えた。この拡大路線には、インドの反乱(1857-59)、ジャマイカのモラント・ベイ反乱(1865)、中国のアヘン戦争(1839-43, 1856-60)、ニュージーランドのタラナキ戦争(1860-61)など、暴力が伴った。1870年から1914年まで暴力的な拡大は続き、それは鉄道と電報などのテクノロジーに支えられた。イギリスはアフリカ人の30%の母国である大部分(エジプト・スーダン・ケニヤなど)を支配した。工業化の最初の頃、1840年頃までにイギリス経済は拡大し、世界で最も冨んだ国になったが、多くの国民は厳しい環境で長時間働いていた。
世界一の文明国・富める国イギリスで苦しむ子どもたち
人口の70〜80%が貧しい労働者階級だったイギリスの子どもたちの悲惨な生活を描いたのがヴィクトリア朝時代の社会派小説家と称されるチャールズ・ディケンズ(Charles Dickens: 1812-70)です。いまだに版を重ねて読み継がれている上、映画化もされ続けています。ディケンズを称賛したアンドリュー・ラングは『ささやかなエッセイ』(Essays in Little, 1891,(注8))の中で、「ディケンズを読むことはできない」という人とは喜んで交際を断つと述べた上で、「その人がご婦人なら、そして彼女とどこかのディナーで会ったら、もちろん彼女に我慢して接しなければならないし、『うんざりしながら我慢する』。しかし、彼女は橋のかけられない溝を掘ってしまったのだ。彼女は美しく、賢く、人気のある女性かもしれないが、彼女はアナテマ(Anathema呪われた者)だ」(p.118)と冗談めかして述べた後、以下の論が続きます。
スコット以降の偉大な作家たち全てのうち、世界が最も感謝すべきなのはディケンズだろう。彼ほど、多くの悲しむ人々の心を笑いで元気付けた小説家はいない。彼ほど、貧しい者、富める者、教育のある者、ない者の困難でつらい生活に笑いを加えた作家はいない。(中略)私たちをこれほど度々、抑えきれないほど、そして優しく親切に笑わせてくれる作家はいない—これは彼の偉大な善行だ。彼は我々を哀れみと恐怖と笑いで浄化してくれたと言えるし、それは本当に事実だ。(中略)
ディケンズは結局、悲しい時代、ひたむきな時代、考え深くなった時代の落し子だった。彼は自分の周囲に虐待を見た—不正、圧政、残虐を。これらのものが忌まわしいだけでなく、気が狂うほどだと感じる心を持っていた。彼は自分が振るう影響力がいかに大きいかを知っていた。彼がいいと思った理由のために自分の影響力を使うことを誰が責められよう? 彼がこれほどの男でなければ、そして、[社会の悪には]全く関心がなく、「目的を持って」書いたことがなかったなら、彼がもっと偉大なアーティストになっていただろうことは非常にあり得る。これはよく言われる、かなり廃れた種類の批評である。しかし、フィールディング(Henry Fielding: 1707-54)のことを思い出せば、彼もまた度々「目的をもって」書いたし、その目的は貧しい者や身寄りのない者を守ることだった。そして、フィールディングがどんなアーティストだったか思い出せば、我々がなぜディケンズを責められるか私には理由がわからない。たまに、ディケンズは自分の芸術と目的をあまりにうまく混ぜているので、彼の作品が自分の慈善の意図にとって一層良くなることがある。(中略)
チャールズ・ディケンズほどの人物は今までいなかったし、近い将来もシェークスピアのような人が現れないのと同じく、現れないだろう。(中略)ディケンズの生まれながらの、この国の裸の天才—彼の心、彼の陽気さ、彼の観察力、彼の喜ばしい不屈の精神、彼の悪を憎む大胆さ、彼の悪を正したいという騎士道的欲望—これらは彼をイギリス人の最愛の人(darling)に永遠にすると願い、信じる。(pp.119-131)
ラングはディケンズの描く少年像は素晴らしいと評価し、中でも『デイヴィッド・コパフィールド』(David Copperfiled, 1849-50)の少年デイヴィッドは「a jewel of a boy」という表現で称賛し、この少年の悲しみ、苦しみの真実性がディケンズの実体験に基づいているからだろうと述べています。
キャプション:”’He Knows Me, and I Knows Him. Do You Know Me? Hey!’ Said Mr. Creakle, Pinching My Ear With Ferocious Playfulness.” , David Copperfiled ((注9), p.426)
『デイヴィッド・コパフィールド』 「彼[お前の継父]は私を知っており、私も彼を知っている。お前は私を知っているか? おい!」と[校長の]クリークル氏は残忍な愉しみをもって、私の耳を引っ張った。
イギリス社会内の虐待と児童労働に苦しむ子どもたちを描いたディケンズ
デイヴィッド・コパフィールドは生まれる前に父を亡くした少年で、美しい母と優しい乳母と平和に暮らしていたところから始まります。9歳になった時に母が再婚し、継父となった男とその姉が自分たちの家に侵入してきて、母を支配し、デイヴィッドを虐待し、寄宿舎に送ります。その校長が上の挿絵で、子どもの鞭打ちに悦びを見出す男で、教師たちの酷い職場環境と待遇も描かれます。1年後に母が病死すると、継父は少年をロンドンの工場に見習いとして追い払います。過酷な生活の中で、デイヴィッドは父方の大叔母のことを思い出し、探し求める旅に出ます。大叔母がデイヴィッドを養子にして、より良い人生が約束されるところで終わります。
ディケンズの小説の一つ『オリバー・ツイスト』(Oliver Twist: 1837-39)はヴィクトリア朝時代の子ども虐待とスラムの生活を描いたテキストとして読めると評価されています(注10)。
キャプション:メイリー夫人の入り口のオリバー・ツイスト
出典:『オリバー・ツイストの冒険』(1930, (注11), p.199)
ファンタジーの黄金期と称されるヴィクトリア朝のファンタジーも子どもの貧困や虐待を扱った
ディケンズの作品はリアリズムですが、ファンタジー分野でも子どもの貧困や虐待をテーマにした作品が多く出ています。ヴィクトリア朝時代はファンタジーの黄金時代と言われ、ルイス・キャロル(Lewis Carroll: 1832-98)の『不思議の国のアリス』(Alice’s Adventures in Wonderland: 1865)をはじめ、多くの傑作が出現します。「ヴィクトリア・ウェブ」が”Victorian Fantasy Authors”という項目(注12)で挙げているのはアリスをトップに10点あり、その中で2点に注目すると、ヴィクトリア朝時代の労働者階級の子どもが主人公で、いずれも大人の虐待や病気で幼くして死んでしまうという共通点があります。
チャールズ・キングスリー(Charles Kingsley: 1819-75)の『水の子どもたち』(The Water-Babies: A Fairy Tale for a Land Baby: 1862-63)の主人公は、ロンドンの10歳の煙突掃除の少年トムで、読み書きができず、いつもひもじく、煙突掃除の親方に毎日虐待され、宿舎に水がないため体を洗ったことがない等々の状況を読者は知らされます。貴族の田舎の邸宅の煙突掃除を依頼された親方に連れられて、初めて田園に行きますが、その貴族の邸宅に迷い込んで泥棒と間違われ、逃げる中で川に落ちてしまいます。後半のファンタジー部分は水の中の天国の素晴らしさという皮肉な展開です。
キャプション:屋根の上のトム
出典:『水の子どもたち』(注13)
一方、ジョージ・マクドナルド(George MacDonald: 1824-1905)の『北風のうしろの国』の主人公は金持ちのお抱え馬丁兼御者の息子で、彼の部屋は馬舎の上の薄い板で囲まれた小さなスペースで、北風の強い時は板の穴から強風が吹き込みます。それが長い乱れ髪の女性に擬人化された北風で、女性の髪の中に掴まって少年はロンドンの町に連れて行かれ、自分と同じ歳頃の少女が道路清掃人として働いているのを見るなど、貧しい子どもたちに焦点が当てられています。いずれも主人公が労働者階級やそれ以下の貧しい子どもたちである点と、子どもの死を扱った点が特徴です。
出典:『北風のうしろの国』((注14), p.11 )、挿絵:アーサー・ヒューズ(Arthur Hughes: 1831-1915)
世界一豊かな文明国家・大英帝国は自国の子どもの労働と植民地の労働者とアフリカ奴隷で富を得た
ラングが北斎漫画の子どもの絵について、「この子どもたちはイギリス人ではないが、これほど楽しそうで幸せそうな子どもたちがいただろうか?」と問いかけ、イギリスの画家もイタリアの彫刻家も「こんなに楽しそうな純真な子ども時代の素晴らしい絵を描いたことがあっただろうか?」と述べた背景には、産業革命後の大英帝国の富はイギリスの労働者階級の子どもの犠牲のもとに成り立っていること、西欧化・工業化前の「未開」の日本は子どもにとって幸せな国だったという思いも込められているようです。
産業革命後の西欧では子どもの労働が社会問題になりつつありました。ユニセフの『児童労働の歴史—1800-1985:ヨーロッパ・日本・コロンビアのケース・スタディ』(1996, (注15))で、「覆われた児童労働:イギリスの経験」という章を書いたヒュー・カニンガム(Hugh Cunningham: 1942-)は以下のように述べています。
18世紀末に児童労働を奨励した理由は、子どもが遊んでいると無秩序になり、後の人生の運命である労働に慣れずに成長することになるという考え方だった。当時非常に恐れられていたのが子どもが遊ぶ時間で、それを児童労働で防ぐことができるというものだった。1840年でさえ、リヴァプール市長が市の「子どもの雇用が欠乏」し、その結果、子どもが道路を走り回り、「略奪」して生きていると嘆いていた。
したがって、児童労働に反対する声があげられ始めると、大多数の子どもにとって労働は必要かつ望ましいという、それまで反対もされなかった伝統に直面することになった。(中略)工業化は子ども時代そのものに対する暴行としてではなく、子どもに職を見つける機会を与えたとみなされた。1830年代までは、国の工業化が進めば進むほど、児童労働が利用できると考えられるようになった。(pp.41-42)
「綿摘み」
出典『イギリスの繊維製造』(Textile Manufactures of Great Britain, 1844, (注16), p.26)
プレス印刷(出典:同上、p.66)
国勢調査によるイギリスとウェールズの子どもの労働率があげられていますが、カニンガムは以下の平均値は過小評価されている可能性と、地域の違いを表していないと警告しています。
繊維産業が盛んだったヨークシャーでは、1851年に10-14歳の男子の半数以上が労働していたのに対し、ロンドンを含むミドルセックス(Middlesex)では「わずか18%」と指摘しています。また、労働の種類によって、性差があり、全般的に男子の方が女子より労働率が高いのに対し、製糸業の盛んなランカシャーでは1911年に14歳の女子の80%が雇用されていました(p.43)。興味深いのは、ラングの出身地であるスコットランドでは児童労働が非常に少なく、その理由は16世紀中葉のスコットランド宗教改革(カトリックからプロテスタントに)に端を発した、教育に価値を見出す傾向だと述べています。
イギリスで義務教育が1880年に導入され、児童労働の減少の理由とされていますが、10-14歳の減少は半分に過ぎないとも指摘しています。男子はあらゆる労働に携わっていましたが、20世紀初頭には「いわゆる袋小路の職業」(blind alley jobs)」と呼ばれる、新聞売りや使い走りはほぼ全て男の子でした。一方、女子の職業は限られており、1911年の14歳以下の女子の半分以上は製糸工場、残りの三分の一は家事奉公です。
義務教育導入後30年以上経っても、児童労働は減少せず、第一次世界大戦(1914-18)前夜のイギリスでは、50万人以上の14歳以下の子供たちが学校へ行く前、放課後、週末に働いていました。児童労働をコントロールしようとした政府の取り組みは1802年に始まりましたが、1910年でも完全に実行されてはいませんでした。1833年の工場法は繊維工場にしか適用されませんでしたが、この法律は繊維工場の労働組合なくしては成立しなかったこと;詩人のブレイク(William Blake: 1757-1827)やワーズワース(William Wordsworth: 1770-1850)などの子供時代のロマンチックなイメージによって広まったこと;中上流階級の中で「工場制度」を批判した者たちの支持が大きかったことなどが指摘されています。しかし、児童労働を求める声が大きく、利益を得るために児童労働によってコストを下げる必要性を訴える雇用者や、児童労働が家計の足しになるという親たちと、労働者階級の中に児童労働を求める声が最も大きかったのです。労働組合は児童労働が存在することを恥としていました。児童労働のために作られた職種(麦わら編みやレース編み)もあり、麦わら編みとレース編み産業の中心地だった東部のベッドフォードシャー州では1871年に児童労働率が全国一高かったそうです。
注
注1 | Andrew Lang, Books and Bookmen, New York, George J. Coombes, 1886. Hathi Trust Digital Library https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=mdp.39015033604854 |
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注2 | Stuart Kelly, “Andrew Lang: the life and times of a prolific talent”, The Scotsman, 30 January 2012. https://www.scotsman.com/heritage-and-retro/heritage/andrew-lang-life-and-times-prolific-talent-2462533 |
注3 | Masters in Art: A Series of Illustrated Monographs: Issued Monthly, Part 21, September, 1901, Vol.2. Hathi Trust Digital Library. https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=njp.32101077988499 |
注4 | William Powell Frith, John Leech: his Life and Work, vol.1, London, Richard Bentley and Son, 1891. Hathi Trust Digital Library. https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=uc2.ark:/13960/t2t43mr70 |
注5 | T. Marin Wood, George Du Maurier: The Satirist of the Victorians・A Review of his Art and Personality, New York, McBride, Nast and Company, 1913. Hathi Trust Digital Library. https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=coo1.ark:/13960/t8w95rk8n |
注6 | 渡辺京二『逝きし世の面影』平凡社ライブラリー、2005. |
注7 | ”Victorian Era”, Britannica Online. https://www.britannica.com/print/article/627776 |
注8 | Andrew Lang, Essays in Little, New York, Charles Scribner’s Sons, 1891. Hathi Trust Digital Library https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=hvd.hwkz4z |
注9 | Charles Dickens, The Personal History of David Copperfield, Vol.1, Vol.2, with illustrations by F. Barnard, New York, Pollard & Moss, 1885. Hathi Trust Digital Library. https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=mdp.49015002396092 |
注10 | Andrzej Diniejko, “Charles Dickens as Social Commentator and Critic”, Victorian Web, https://victorianweb.org/authors/dickens/diniejko.html |
注11 | Charles Dickens, The Adventures of Oliver Twist, London, Macmillan and Co., (1897),1930 挿絵:ジョージ・クルックシャンク(George Cruickshank: 1792-1878), Hathi Trust Digital Library https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=uiug.30112042037496 |
注12 | ”Victorian Fantasy Authors”, The Victorian Web. https://victorianweb.org/genre/fantov.html |
注13 | Charles Kingsley, edited by Sarah Willard Hiestand, The Water-Babies: A Fairy Tale for a Land Baby, New York, Rand McNally & Company, 1912. Hathi Trust Digital Library. https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=mdp.39015063514098 |
注14 | George MacDonald, At the Back of the North Wind, illustrated. by Arthur Hughes, Philadelphia, David McKay, Publisher, 1899. Hathi Trust Digital Library. https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=iau.31858006613909 |
注15 | Hugh Cunningham & Pier Paolo Viazzo (eds), Child Labour in HistoricalPerspective—1800-1985: Case Studies from Europe, Japan and Colombia, UNICEF, 1996 https://www.unicef-irc.org/publications/pdf/hisper_childlabour.pdf |
注16 | George Dodd, Textile Manufactures of Great Britain, London, Charles Knight & Co., 1844. Hathi Trust Digital Library. https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=umn.31951000895947o |