2022年の出来事は19世紀に戻ったかのようで、思い通りにならなければ戦争をするという19世紀の欧米、特にアメリカの対日感情を検証します。
2022年の出来事
2022年は歴史が逆行しているのかと思わされるような出来事が次々と起こりました。2月にはロシアのウクライナ侵攻、7月8日には安倍元首相の銃撃事件、その3週間後には、79歳のバイデン米大統領がアフガニスタンにいたアルカイダの指導者をドローンで殺害し、正義が行われたと誇らしげに宣言しました(注1)。この2年前にも当時73歳だったトランプ大統領の指示によってイランの司令官がイラン国内で殺害されました(注2)。
2022年8月初旬には82歳の米下院議長ペロシ氏が台湾を訪問しました。台湾政府の高官は中国を挑発するからやめるよう要請したのに強硬したのです(注3)。次の訪問国、韓国は大統領が休暇中だから電話会談のみという対応で、韓国にとっては、近隣国であり、経済的にも重要な中国を挑発するアメリカに同調できないという意思表示とも受け取れます(注4)。岸田自民党政権のみが、アメリカに隷従する対応です。一方、台湾訪問が中国を挑発できる力の誇示としてか、日米の議員団が次々と台湾訪問しています(注5)。
アメリカは2022年7月に台湾に対して「国防予算を歳出比で32%へと倍増させ、兵役も『全民皆兵』に変えるよう要請」(注3)したため、台湾ではアメリカに対する不信感が広まっているとのことです。ところが、日本では自民・公明・維新・国民民主党が軍事費2倍を要求し、その大半がアメリカ製の高額兵器購入目的だと指摘されていますから(注6)、日本の与党と保守系野党はアメリカ軍需産業のセールスマンのようです。岸田氏が自民党総裁に選ばれた2021年の自民党総裁選直前に『ニューヨーク・タイムズ』が「なぜ政権政党の総裁選が主要イベントなのか?—自由選挙があり、野党があり、最近は世論の不満があるのに、なぜ自民党は権力の座にい続けられるのか?」(2021年9月28日、(注7))という記事で、その理由の一つとして、自民党が1955年に形成されたのはアメリカCIAの立案で、保守派がまとまって「1つのメガ政党」になるよう強い要請と工作があったと説明されています。
さらに2022年の広島の原爆記念式典に広島市が原爆投下したアメリカを招待し、アメリカが敵国とみなすロシア政府を招待しなかったのも、岸田政権による圧力のせいだったそうです(注8)。ロシアへの制裁を求めたのは植民地主義だった欧米列強と日本で、反対や棄権の国々は欧米の植民地だったアフリカなどと指摘されています(注9)。中東の国々は、欧米諸国のウクライナ対応と、欧米が侵略した中東からの避難民への冷酷な対応との違いに、欧米のダブルスタンダード(二重基準)を怒りの思いで見ているそうです(注10)。その怒りの対象には岸田政権の対応も含まれています。日本政府はアジア・アフリカ・中東の難民を非人道的に扱うことで知られていますから、ウクライナ難民を外務大臣が迎えに行くような特別待遇に驚かされましたが、その陰にはアメリカの圧力があったそうです(注11)。
これら2022年のアメリカの動きが、150年前の日本に対する動きと重なるように思いますので、欲望の化物とさえ形容できるアメリカの声をアメリカ・メディアを通して見ていきます。
1855年アメリカの対日観:日本は世界が刀でこじ開けなければいけないオイスター
『ニューヨーク・タイムズ』(以下NYT)の前身『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』(以下NYDT)がペリーの日本遠征を「事実上の宣戦布告」だ、アメリカは日本を物質的に変えてしまい、滅ぼしてしまうと警告し(1852年2月2日:英米に伝えられた攘夷の日本6-6-1〜6-6-3参照)、「軍事力の強い国が弱い国に対して強制的手段を採る衝動と精神を我々は憎む」と社説(1852年2月24日)で明言した(6-6-3参照)のに対し、3年後のNYDTの論調は、さっさと開港してアメリカ人に儲けさせろと日本に対する苛立ちを露わにしています。
その現れの一つがアメリカ人2家族が箱館を捕鯨船の補給基地にすべく、まず下田に行き、そこから箱館奉行に移住のための住居と倉庫用の建物を依頼する手紙を書いたことです。最初のアメリカ総領事となるタウンゼント・ハリス(Townsend Harris: 1804-1878)が赴任する前のことです。下田奉行所は外国人の移住は認められないと回答し、下田に停泊中のアメリカ調査船司令官を巻き込み、最終的にはアメリカ人一行が日本入国を認められずに帰国し、一連の文書のやりとりをアメリカ・メデイアに投書し、NYDTが日本批判する事件に発展します。
NYDTに掲載された一連の文書を抄訳しますが、アメリカ市民もメディアも国交のない国に押しかけて、発効されていない条約を自分たちに都合よく解釈して、日本の法律(当時)も慣習も言葉も何もかも無視してアメリカ市民の思い通りになるよう要求して憚らない内容を読み取って欲しいと思います。この節の小見出しはこの新聞の1週間後(1855年10月23日)の記事の一節です。
「日本の不誠実—合衆国との条約の否認」(NYDT, 1855年10月15日、(注12))
リードとドハティ(Reed & Dougherty)という2人のアメリカ人市民による概要の文書が掲載されます。
日本との条約が報道されてすぐに我々は箱館で事業を始めようと商品の輸送準備を始めた。我が社の捕鯨船用に今度の冬を箱館で日本で手に入らないものを供給する目的だった。
この計画を実行する前に、条約下でできることについて、我々の権利について多くの人に相談し、この条約で守られていると確認した。(中略)1855年2月13日に準備が整い、ホノルルを出航した。我々と家族以外に6人乗客がいて、彼らは一時的に日本に暮らすことを考えていた。(中略)下田に到着後、ロシア軍艦ディアナ号の乗組員や士官が母国に帰りたがっていることを知り、相談の結果、助けることにした。(中略)ドハティはロシア人をペトロパブロフスク(Petropoloski:カムチャッカ半島)に送り、リード氏家族と他の人々は下田に上陸して、神奈川条約に定められている寺を宿舎とした。
下田での2ヶ月半にリード氏はサンフランシスコに送る日本製品を選び、購入することに費やした。漆製品、コメ、絹等々。下田での日々は苦しみ、制約など、アメリカ人として屈辱的だった。
条約の第4項は「我々はオランダ人と中国人が長崎で経験したような制約を受けず、他国同様、自由である」と書いてある。日本におけるアメリカ人の自由は悲しむべきものだ。(中略)我が国はすぐに立ち上がり、この利己的で鎖国の暴君的、不誠実な国民に、条約という紙っぺらは重要な文書であり、その規則は守られなければならない、少なくとも、我が国の市民に対する差別と破滅をもたらすような規則違反はいけないと教えなければならない。世界は人類に与えられたものであり、文明の発展の中で国家や国民が世界との交際を拒む権利を認めない。現代においてこの拒絶は戦争の正当な理由になる。(中略)
箱館では上陸が許されず、計画の挫折と予定の失望、巨額の損失に直面して、6月28日にアメリカに戻った。日本人と彼らの習慣、彼らが我々にしたことについては何の楽しい思いもない。箱館を出てすぐに生鮮食料が足りなくなった。日本から入手できなかったのではなく、日本人が売ってくれなかったのだ。
リードとドハティから下田奉行宛書簡(1855年4月22日付)
リード氏とドハティ氏は下田奉行宛に来日の目的、箱館にアメリカの捕鯨船の補給基地を設置する契約のもとに来たと告げています。捕鯨船が従来のホノルルでなく、箱館で冬を過ごすことができるために日本との条約が締結されたと述べています。
下田到着後に沈没したロシア船ディアナ号の乗組員と士官が母国に帰れず困っているのを知り、彼らを ペトロパブロフスクまで送っていくことにしたため、下田に上陸して乗客と積荷を下ろす必要が生じたこと;下田に滞在する予定ではなかったが、船がペトロパブロフスクから戻ってくるまで、15-20日間下田に滞在すること;スクーナ船が戻らない、あるいは2ヶ月音沙汰がないようなことになれば、ここから出る方法を考えなければならない;我々の目的は日本と貿易したり、日本人と接することではない;日本にくる船と乗船しているアメリカ人を援助すること;我が国政府が条約をどう解釈しているか十分知っており、条約の条項に従い、違反することは決してない;条約によって我々がここに1週間、1ヶ月、1年、あるいは5年も滞在する権利があることを知っている;だから我々の都合に合わないのに離日することになれば、それは暴力や強制によってでしかない;我々が善良な市民として行動している時に、日本がこの方法を採るなら、我々は抗議し、日本条約の不誠実さによって我々が被る被害の責任を我が国政府に求める。
キャプション:SCENE OF THE RECENT EARTHQUAKE IN JAPAN—SINKING OF “THE DIANA.”
最近の日本の地震の場面—-ディアナ号の沈没(出典:ILN, 1856年1月5日, p.13, (注13))
下田奉行所からリード・ドハティ宛の回答
下田奉行に対する脅しで終わるリード・ドハティからの書簡に対し、奉行所からの英語の回答が掲載されています。『大日本古文書 幕末外国関係文書之十』(注14)に掲載されている関連文書によると、普請役森山多吉郎が英訳したとされています(p.131)。NYDT掲載の英文書簡を引用し、その下に拙訳を附します。
To the Americans in Geoksenzie:
About leaving this place, your intention is heard, which you have declared, that staying in this place is not properly your intention, but because the Russians have engaged the schooner which is manned by you, with which they have gone home, you have been compelled to land here, and that you, with the return of the schooner, will leave this place; or should the schooner not return in the intended time, to await the arrival of a ship that sails for your county, and wth that vessel to leave this place.
According to this declaration, you must, with the return of the schooner, leave this place; or should she not return in the declared time, then upon the arrival of an American ship, to leave this place without, at that time, expressing any excuse to delay you. Your present stay here is found necessary at this time, but it cannot in the future be taken as an example; never let it be asked again to stay. It is so, not only in this place, but also in Hakodadi, which you are obliged to observe.
The foregoing is communicated by mouth from the Governor of Shimoda, the 21st day of the third month, 1855; Signed by John Isabro, Moriyama Taktsero, Nakayama Tetseki
玉泉寺のアメリカ人へ
この地を離れる件で貴殿の意図を承りました。この地に滞在することは貴殿の意図ではなく、ロシア人が母国に戻るために貴殿所有のスクーナ船を使っているため、貴殿らはこの地に上陸せざるを得ず、船が戻りしだいこの地を離れるつもりであること、もし船が予定の日までに戻らなければ、貴殿の国に向かう船の到着を待ち、その船でこの地を離れるつもりであると宣言されました。
その宣言にしたがって、スクーナ船が戻ったら、貴殿らはこの地をさらなければなりません。もし船が宣言通りの日時に戻らなければ、アメリカ船の到着を待って、その時は出発を遅らせるいかなる弁解も言わずにこの地を離れなければなりません。貴殿らが現在この地に滞在することは現時点で必要とみなされますが、これが将来前例とされてはなりません。再び滞在を申請してはなりません。これはこの地のみならず、箱館でも同じく守らなければなりません。
以上のことは下田奉行の口から発せられたことです。 1855年3月21日
署名:John Isabro, Moriyama Taktsero, Nakayama setTeki
訳者注:
この英訳の日付には、年に関しては西暦に直しているのに、月日は和暦のままですから、安政2年3月21日を1855年5月7日に直さなければいけないところまでには達していないことがわかります。グレゴリオ暦への改暦は明治6(1873)年からですから(注15)、この文書は過渡期の努力が見られます。
署名者名に関しては、John Isabroというのは合原猪三郎(ごうはらいさぶろう:1827-1901)、ペリー来航時の応接係です。1855年時は「下田奉行支配組與力」となっています。Moriyama Taktseroは森山多吉郎(1820-1871)、初名は栄之助です。Nakayama setTekiに関しては不明です。『大日本古文書 幕末外国関係文書之十』掲載の「三月二十一日下田奉行支配組與力普請役等書翰下田止宿の米人等へ 下田表引佛の件」と題したリードとドハティ宛文書の署名者3番目に「中川鉄助」という名前が書かれています(p.135)。
21世紀の日本政府関係者は19世紀の「幕末外国関係文書」から学ぶべきものが多々あると思います。録音機もコピー機もない時代に、下田奉行所とリードとドハティとの連日の対話を克明に記録しています。その結果、150年以上前の外交・行政に関する会議録、対話録、文書が参考資料として利用できるのに、21世紀の日本政府と官公庁は議事録も作成せず、保管せず、歴史的資料にすることを否定しているようです。21世紀の公的資料はない、公的な日本は存在しない時代にすると表明しているかのようです。
リードとドハティの下田奉行宛抗議文(下田、1855年5月7日付)
自分たちの出発日、方法などを指定した奉行に対し抗議すると前置きして、「自由なアメリカ市民として、奉行にも、いかなる政府にも譲歩し、我々の決定する権利を委ねることはできません。これらのこと[出発日時、方法など]を決定するのは、我々自身が決めるべきことです」と述べています。
アメリカ人の「自由」と「権利」は他国であっても自分の好き勝手に行動するという意味だと、日本政府に向かって宣言したわけで、21世紀のアメリカ大統領が気に食わない者は他の主権国家に潜入して暗殺する権利があるというのと同じ発想だと感じます。
「自由なアメリカ市民」のプライドを傷付けたのは、日本の役人口調が「野蛮人から白人への命令」と受け止められたようにも感じます。アジアの野蛮な国の政府関係者からの文書がアメリカ・メディアに登場するのはこれが最初ではないでしょうか。慇懃無礼ながら、明確な内容です。
リードとドハティの合衆国海軍司令官宛書簡(下田、1855年5月17日付)
リードとドハティが当時救いを求めたのが、下田港に停泊中だったアメリカ調査船の司令官ロジャーズ中尉でした。以下がロジャーズ中尉宛の書簡の概要です。
ペリー 提督の日本との条約が公開されて、自分たちは下田にも箱館にも住むことができると条約が認めていると理解した;現在の捕鯨シーズンが終わる頃に、我々の捕鯨船を箱館に集合させ、そこで補給や捕鯨用雑貨を我々から受け取る基地にする予定;ディアナ号の乗組員をロシアに運ぶ契約をし、我々の船がチャーターされた;我々は積荷を問題なく下田に下ろし、我々も3月23日に上陸した。下田奉行とのやりとりを同封する。この窮状を訴えるアメリカ領事や弁務官が不在なため、貴殿に保護を要求する。
ロジャーズ中尉から下田奉行への書簡(下田、ヴァンセンヌ号発、1855年5月20日)
ロジャーズは国際条約とはどんなものかを諭すように説明した上で、神奈川条約の第4条を引用します。
「難破したアメリカ人水夫や市民が下田か箱館に一時的に住む場合、長崎のオランダ人と中国人が受けたような制約や監禁の対象とはならないこと。下田では下田港の小島から7里以内なら自由に好きな所に行ける。箱館でも合衆国の艦隊が訪問した後、決められた範囲内を自由に行き来できる」。
「一時的」をどう解釈するか。欧米では市民が1国から他国に自由に旅行するのが習慣である。パスポートの説明、犯罪の場合、領事裁判の説明[領事も赴任していない事実は?] 留学について、外国人の一時在住、帰化制度などについて説明した後、メキシコの例をあげて威嚇しているようです。
メキシコに一時的に住み、商売をしていたアメリカ人に対しメキシコ政府が不当に扱ったために、正当な扱いを求める努力をした結果、聞き入れられなかったのでアメリカはメキシコに戦争を仕掛けた。首都のメキシコ・シティを占領し、国も占領した。
下田に来たアメリカ人は合衆国内で理解されているように条約を正当に理解し、意図的に悪意で行動したわけではない。日本政府が違う解釈をする権利はある。両国政府が解釈で合意したなら、何をすべきか簡単だ。合衆国政府が日本政府の同意なく彼らを運び出すことはできないし、日本政府も一時的滞在の意味が確定するまで彼らを追い出すことはできない。
日本政府はアメリカ政府に抗議することができる。抗議の意味は天皇がアメリカ大統領に文書で抗議する、あるいは日本の外国担当最高位の者、あるいは下田奉行がアメリカ国務長官に手紙をで抗議することだ。役人が政府の意見を伝える時に自分の意見を交えてはいけない。しかし自分のような役人は、本国から遠いので突然の出来事が起きた場合、本国政府から指示を受けられないため、自分の意見を表明するよう政府から指示されている。
「下田と箱館奉行にとって賢明な方法は忍耐強くいて、無謀な行為を避けることだと思います。アメリカ政府は公平で平和的であり、名誉を重んじ強力です。私は彼らの文書をアメリカ政府に送り、この件は日本の政府とアメリカ合衆国大統領の間で解決することです。
このアメリカ人を下田に静かに住まわせるか、箱館に行かせてください。そしてアメリカ人が条約で認められていると思うことはすべてさせてください。彼らにアメリカ政府に抗議させてください。その抗議が無視されたとわかり、彼らが怒って、何か暴力で行うまで時間があるでしょうから。アメリカ人が正当だと思ってしたことは、彼らが家族を連れてきたことから証明できます。違法だとわかっていれば、子どもを連れてきはしません」。
リードとドハティの箱館奉行宛書簡(下田発、1855年5月20日付)
ロジャーズ中尉の仲介でリード氏とドハティ氏が箱館奉行に捕鯨船補給基地設立の依頼文を書きます。自己紹介と捕鯨船用補給品の詳細で、日本では製造していないものだから自分たちが供給すると述べます。
下田で3ヶ月暮らし、船が到着次第箱館に向かう。箱館には旅館がないので、宿舎を用意して欲しい、家族が暮らせる家と補給品用の倉庫が欲しい、家賃は払う。
キャプション:GATEWAY AND BELFRY AT HAKODADE(箱館のゲートウェイと鐘楼)
出典:ILN, 1856年1月26日
ロジャーズ中尉からリードとドハティ宛(箱館発、1855年6月19日付)
ロジャーズ中尉がアメリカ市民に代わって箱館奉行に申請していた回答が来たという報告。
「一時的滞在」は奉行の理解では5-7日、長くても2,3ヶ月と箱館奉行は理解している。私はリード氏と家族以外の方々が2,3ヶ月の許可を得るのは問題ないと思うが、期限が切れたら日本側は貴殿が永久に住み始めると考えるだろう。永久在住は条約にはないので、日本側は追放する権利がある。(中略)アメリカ市民が1国と個人的に争うことは予想されていない。我が国は我々の正当な争いを支持する。もし合衆国政府が条約が破られ、貴殿の差別につながったと決定すれば、貴殿のために適切な賠償を要求するだろう。政府が日本側が正しいと決定すれば、貴殿が箱館に来たことは軽率だったことになる。
リードとドハティからロジャーズ中尉宛書簡(箱館発、1855年6月19日)
本日、貴殿から受け取った書簡によると、いかなる条件下でも我々がここに住むことは許可されないから、貴殿の判断にしたがって、あえて上陸して日本側が我々と家族に危害を加えるようなことがないうちに去らねばらない。貴殿の指示のもとに、また、アメリカ市民として我が国の旗の保護に頼って、上陸する個人的努力をしないことにする。しかし、この恥辱に屈するとしても、日本政府の最も屈辱的で下劣な阻止、我々が全資産を投じた商業取引を行うことを邪魔したことは、我々の家族の人生を危機に陥れ、多くの不都合に苦しんだ。この損害は我々が清算できないほど大きい。
したがって、我々は日本政府の行為と我々の一時的滞在の申請を拒否し、我々の取引を困らせた日本政府の権利に抗議し、この拒否から起こった全ての損失の責任を我が国政府に求める。
キャプション:Departure of the Whaling-ship, “Samuel Enderby” for the Auckland Islands
捕鯨船「サミュエル・エンデーバー」号がオークランド諸島へ出発
(出典:ILN, 1849年8月25日号, p.132,(注16))
上の挿絵は1849年当時のイギリスの捕鯨船で、6年ほど前ですが、この大きさの船を何隻も箱館に停泊させようとしたことがわかります。
ロジャーズ中尉からリードとドハティ宛(箱館発、1855年6月25日)
下田と箱館の奉行たちは単なるエージェントであり、自らの責任で行動したのではないことは確かです。単なる軍艦が指示もなく、大砲の銃口を向けて、正式の条約の解釈を述べることは許容できることではありません。貴殿が提示した問題は2国の政策に重大な影響を及ぼすことです。私はアメリカ政府から指示は受けていません。私の命令で箱館を武力で占領することは簡単ですが、私の部隊はアメリカ人が受けた不当な扱いを回復する目的以外で、そのような目的のために委託された部隊ではない。
箱館市の政府に対し、もし無礼がなされたら部隊を上陸させると伝えた。しかし条約の解釈は政府に属することです。
NYDTの見解
NYDT特派員:ワシントン発、1855年10月16日(1855年10月18日、p.4, (注17))
結局神奈川条約によると、我が国の商業事業に対し非常に有利だと思われている日本の豊な資源は我々に対して開かれていない。アメリカ政府は条約の日本側の解釈が正しいと認めた。ロジャーズ中尉からの報告はすぐにマーシー国務長官(William Marcy: 1786-1857)に伝えられ、日本が議論に勝ったし、ロジャーズ中尉の大砲がこの件を繕うことはできないと認めざるを得なかった。(中略)
ペリーの条約は日本の鎖国の厚い壁に穴を開けた;そして、あらゆる海洋国家による外交的暴行の道を準備し、日本は永く抵抗できない。アメリカ政府ができるだけ早く交渉を再開することが望まれる。一方、我々は江戸に対して、必要とあらば軍事的示威行動を示せる脅威的な存在である大きな海軍力を太平洋に持っている。
NYDT特派員:ワシントン発、1855年10月19日(1855年10月23日、p.4, (注18))
日本は、開国させるのに他に方法がなければ、世界が刀でこじ開けなければならないオイスターだ。その刀の切っ先を差し入れる隙間がペリー提督の条約である。
出典:「キャロライン・A.フート号—日本における最初のアメリカ商業ベンチャー」掲載((注19), p.81)
注:このキャプションは判読不能ですから、キャロライン・A.フート号の絵かどうか確証はありません。
82年後に駐日アメリカ大使館員によって再発見されたリードとドハティ事件
この事件から82年後の1937(昭和12)年に駐日アメリカ大使館の参事官だったユージン・ドゥーマン(Eugene Dooman: 1890-1969)が「数年前、日米関係の初期についての研究のため資料を探していたところ、以下の事件が記されている日本の文書に遭遇した」(p.81)と始める報告をアメリカ国務省の月刊誌American Foreign Service Journalに掲載しました。ドゥーマンについては本サイトで紹介していますので参照してください(英米に伝えられた攘夷の日本 6-7-1〜6-7-3-4, 6-7-3-7)。
ドゥーマンのこの記事の題名「キャロライン・A.フート号—日本における最初のアメリカ商業ベンチャー」から、1937年当時のアメリカ外交官がこの事件をどう捉えていたかが分かります。1855年のNYDTの記事にあらわれていないことを中心に抄訳します。
1855年3月15日に下田にあらわれたのはアメリカ国旗を掲げたブリッグ(2本マスト)船、キャロライン・A.フート号で、サンフランシスコのW.C. リードとホノルルのT.T.ドハティがチャーターし、そのほか3人の個人企業家と船長ボイスの妻、ドハティの妻も乗船していた。当時は白人女性が珍しいので、日本側の記録にはドハティ夫人について「美しい顔立ちで、唇は赤い花、頬は雪のよう」と書かれている。
リードとドハティが二本差しの役人に語ったことは日本人を驚かせた。二人はペリーの1854年日本遠征時に乗船していた海軍士官だったからだ。もし二人が語ったことが本当なら、アメリカに戻った時に海軍を辞職し、全財産を捕鯨用品に投じ、キャロライン・A.フート号をチャーターして、箱館に向かった。当時、沈没したディアナ号のロシア人士官・乗組員500人が戸田にいた。クリミア戦争時で、この男たちはカムチャッカ半島の主要都市ペトロパブロフスクの防衛に必要とされていた。プチャーチン提督は箱館奉行と交渉し、最初に到着したアメリカ船に助けを求めることにしていたので、キャロライン・A.フート号の到着にロシア側は喜んだ。ボイス船長はロシアに船をチャーターさせ、ペトロパブロフスクとの往復を4回することに同意し、1回につき$30,000得ることになった。
それは下田奉行から、往復の間、アメリカ人が上陸し、積荷を下ろすなどに同意が得られたらという条件付きだった。この計画を示された日本の役人は、合衆国との条約は海難事故その他の困難にある水夫を援助することが定められているが、それ以外の外国人を上陸させることは違反であると回答した。
4月12日の深夜、ロシア人士官9人と158人の水夫がキャロライン・A.フート号に乗船し、ペトロパブロフスクに向かった。翌朝下田奉行の役人は船がいなくなり、アメリカ人が寺に泊まっていることに驚愕し、幕府にこの不都合で厄介な事件について怒りの報告をした。しかし表された感情は本当の感情というより偽りの感情だった。幕府は非常に心配した。というのは、日本が非常に長く維持してきた鎖国政策を捨てることに激しく反対する強い反動的要素があったからだ。幕府は下田奉行に即刻アメリカ人を追放するよう命じた。この命令が一行に知らされると、条約は自分たちが下田に滞在することを認めていると主張したが、役人たちは聞く耳を持たなかった。
5月19日にニューヨーク発のグレタ号が箱館に到着した。乗っていたF.A. リュドルフ(Fiederich August Luhdorf)は下田のロシア人のことを聞き、残っていたロシア人を乗せてペトロパブロフスクへ向かった。ペトロパブロフスクに近づいた時に、イギリス軍艦バラクータ号に見つかり、ロシア人たちはクリミア戦争の捕虜としてバラクータ号に乗せられた。
キャロライン・A.フート号は5月28日に下田に戻り、6月6日に箱館にむけて出発した。6月17日にリードとドハティはサンフランシスコに向けて出帆した。その数週間後にタウンゼンド・ハリスが合衆国総領事として下田に到着した。キャロライン・A.フート号のベンチャーから日米間の商業が発展し、米英と米加貿易に次いで重要な商業貿易関係になった。
キャプション:「ペリー」条約の日本語テキストの最後の2ページ(p.82)
キャプション:「ペリー」条約の英語版最後の2ページ(p.83)
真珠湾攻撃前後に公開された『アメリカ合衆国の条約』で検証されたリード・ドハティ事件
ペリーからタウンゼンド・ハリスまでの日米条約の過程と内容の検証をした国務省刊『アメリカ合衆国の条約』第7巻(1942)にリード・ドハティ事件のその後が記録されています((注20), pp.614-615)。1855年8月4日に初代駐日アメリカ総領事にハリスが任命され、出発前のハリスに国務長官が1855年10月4日に以下の感想を述べた上で、指示を出しました。
多くの点で我が国の国民がいかなる目的でも領事が下田に着任する前に、条約のこの項目に関する日本当局の見解を確かめる前に、日本に行ったというのは残念なことだ。この項目が曖昧だと告白しなければならない。この文が上記の件を起こした証拠だとすれば、それを撤回するよう促すか、問題になっている点を認める修正をしなければならない。(p.615)
指示の一つは、この件で明らかになった条約の解釈の違いを緊急に修正すること。もう一つの指示は翌年1856年8月19日に出されましたが、ハリスが受け取ったのは1857年10月20日でした。この指示について、『アメリカ合衆国の条約 第7巻』では「珍しい指示」(an unusual instruction)と形容して、以下の指示内容が記されています。
リードが下田奉行に渡した下田で購入したものの料金2000ドルの約束手形、及び「発生したいかなる請求書」がまだ支払われていない場合は、ハリスが下田奉行に支払うこと;この目的のためにハリスは3,000ドル分のロンドン銀行のクレジットを受け取った;「日英両語の適切な領収書か証書を入手すること、そうすれば支払った金額をリード氏に要求し回収できる;彼が支払いを拒否したら告訴することができる」
この結果、ハリスはリードとドハティが署名した手形2枚を奉行所が所持していることを発見しました。1枚は1,000ドル分、もう1枚は1,490ドル分でした。その時の1ドルは日本の1分に相当すると考えられていたため、ハリスが日本側に払ったのは合計で859.05ドルだけでした。
ペリーとハリスによる日本の金銀の矛盾した交換レートは日本経済を致命的にする
『アメリカ合衆国の条約』第7巻で以下のようなコメントが付されています。
世界の市場では金1オンスを得るためには、少なくとも銀15オンスが必要だが、日本では5オンスだけだった。この大きな矛盾の結果、外国との貿易が増えれば日本経済に致命的になり、この条件下では日本から金が流出してしまうことは必定だった。ハリス自身の取引が示したのは、貿易商にとって可能な利益だった。(p.621)
日米関係の出発点にこのようなアメリカによる日本経済の搾取があったことをアメリカ国務省の文書が太平洋戦争の前後に仄かしたのは意味深いと思います。
日本は搾取する対象だと欧米メディアに仄めかすハリス
1857年12月31日のNYDT(注21)第一面にハリスからの手紙が掲載されます。まるで、アメリカ国民への遅いクリスマス・プレゼントの発表のようです。
在香港 アメリカ領事ジェームズ・キーナン(James Keenan)宛、タウンゼンド・ハリスの書簡
日本 下田にて 1857年7月6日
拝啓
私が日本との間でとり結んだ条約のコピーをお送りします。また、日本における金と銀の価値は世界の他の国々とは全く違うことをお知らせしておくべきだと思います。
合衆国では金対銀の相対的価値は1対16ですが、日本では1対1/37(37分の1)です。したがって、日本人は外国のコインと同じ重量を金貨に与えていますが、相対的価値の違いから、銀に比べて外国の金は75%の損失が確実になります。条約の第3条の使い方を説明すると、アメリカ人がこれまで銀で100ドル払っていたのが、今度は34.5ドルでいいということです。
敬具
タウンゼンド・ハリス
在日本の外国公使館も40%の利鞘で大儲け
アーネスト・サトウも『一外交官の見た明治維新』(1921、日本語訳1960)で以下のように贅沢な生活ができたと告白しています。
条約によると、百ドルは実際上三百十一分と交換されることになっていたが、しかし一八六二年九月当時の為替相場が百ドルにつき二百十四分であったことは確かな事実である。各国の公使館や領事館は、館員の俸給総額とその他の管理費に相当する一定額の洋銀(ダラー)を、貨幣鋳造費として百ドルにつき十三分を差し引かれるだけで、日本貨幣と毎月両替することを許されたのだ。そこで俸給百ドルの官吏は、公定の換算より十三分を差引いた二百九十八分を受取った。そして、市場相場を上回った額を、彼らは再びドルと交換した。こうして百ドルの金は百三十九ドル二十五となり、四〇パーセント近い利鞘を実際にかせぐことができたのである。
年俸三千ポンドの公使の儲けは、だれにもすぐにわかるように莫大なものであった。しかも、それだけではなかった。毎月の一分銀割当額と実際の経費との差額は再びドルに換えて、官の金庫に納むべきドルの額を引いた残りの利鞘を、各人の報酬額に応じてそれぞれの館員に分配したのである。表向きは少ない俸給でも裕福な生活ができ、馬を飼ったり、シャンペンを飲んだりできたわけだ。
時がたつにつれ、このような形で流通される一分銀の数が増大して、その値打ちが下がり、交換の割合が市場の場合と同じところまで低落したこともあった。その時には、一時この制度が中止された。どうして金銭が官吏のふところへ、このように舞い戻って来るかということは、経済問題に通じた人ならよく説明できる。私自身の場合を言えば、当時を省みて、誠に慚愧の念にたえない。歴史の法廷では価値のない弁解ではあろうが、私の唯一の弁解は、梯子の最下段にいて、事務当局が渡してくれる分け前を受取っていただけであるということだ。(p.25, (注22))
1869年のアーネスト・サトウ卿/1903年のアーネスト・サトウ卿(注23)
イギリスが蝦夷地を占領すると脅すハリス
『アメリカ合衆国の条約』が引用しているハリスの国務長官宛の報告書や、幕府宛書簡、ドゥーマンが翻訳した幕府関係資料にあるハリスと幕府側との会議内容から、英米の外交官の日本に対する横暴な言動があからさまで、欲望の権化とさえ見えます。ハリスが下田に到着したのは1856年9月3日でしたが、11月25日付の国務長官宛の報告書で、以下のように述べています。
私が香港で、知事のジョン・ボウリング卿(John Bowring: 1792-1872)と会った時、彼から知らされたこと:彼は日本への全権大使に任命された;イギリス政府はスターリング提督が締結した日英協約に不満である;ボウリングが日本にイギリス海軍の大艦隊、ペリーの艦隊より大きい艦隊で行き、江戸に直接行って、江戸以外の地での交渉を拒否する;日本が英国と英国の商業に国を全面的に開放すること以外は受け入れない;結論として、日本を武力でも平和的にでも世界の商業国家の仲間入りに引きずり込む。
(中略)私は日本人の注意を特に次の点に向けさせます:もし敵対行為が起こったら、イギリスは蝦夷地を占領すること;蝦夷地を占領すれば、中国を襲撃しようとしているロシアの動きを警戒できる上、箱館近くに石炭があるからイギリス海軍の視点からは蝦夷地は計り知れない重要性と価値があるので、イギリスは蝦夷地を切望していたに違いない。(pp.623-624)
キャプション:日本の通貨(出典:ILN, 1860年6月16日p.590, (注24))
「恥ずべきこと」を欧米人は日本で行なっている
1857年12月31日のNYDTにハリスによる「日本から全ての金を奪おう」とでも言うかのような内容の記事が出てから2年半後に、ILNに「日本の通貨」と題した記事が掲載されました。日本の通貨の説明と、交換レートが外国人にもたらす巨額の利益のため、上海から外国ドルを積んだ船がやって来て、「日本側は日本の金が消滅していくのを驚愕と恐怖で見ていた」と述べています。日本政府が交換できる限度を設けたところ、「恥ずべきことだが、同時に全く自然な緊急の動きが起こった—言い表せないほどの、考えられないほどの巨額の申請がされたのだ」と締めくくっています。
注
注1 | 「米がアルカイダ指導者殺害、アフガンで空爆 バイデン氏『正義実行』」ロイター、2022年8月2日 https://jp.reuters.com/article/cia-al-qaeda-idJPKBN2P7297 |
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注2 | 渡辺丘「司令官殺害、トランプ氏が決断するまで 国防総省に衝撃」『朝日新聞DIGITAL』2020年1月5日 https://digital.asahi.com/articles/ASN155KGJN15UHBI00P.html |
注3 | 岡田充「台湾メディアが書いた全内幕。米ペロシ下院議長『本人以外誰も望まない』訪台実現の一部始終と『負の遺産』」BUSINESS INSIDER, Aug.04, 2022. https://www.businessinsider.jp/post-257584 |
注4 | 「韓国大統領『休暇中のため』ペロシ氏と会わず 電話協議、中国配慮か」『朝日新聞DIGITAL』2022年8月4日 https://digital.asahi.com/articles/ASQ84670YQ84UHBI028.html |
注5 | 「石破元防衛相『有事回避の備え必要』日本議員団、台湾総督と会談」時事ドットコムニュース、2022年07月28日 https://www.jiji.com/jc/article?k=2022072800849&g=int *石田耕一郎「超党派の米議員5人訪台、ペロシ氏後では初 台湾支持の姿勢示す狙い」『朝日新聞DIGITAL』2022年8月15日 |
注6 | 「自公維国が軍事費2倍化で狙う 暮らし削る大軍拡計画」『しんぶん赤旗』2022年6月21日 https://www.jcp.or.jp/akahata/aik22/2022-06-21/2022062101_03_0.html |
注7 | Motoko Rich “Why the Governing Party Election is the Main Event?: The country has free election, opposition parties, and, lately, public discontent. So why the Liberal Democrats nearly assured to remain in power?”, The New York Times, Sept. 28, 2021. https://www.nytimes.com/2021/09/28/world/asia/japan-liberal-democratic-party-election.html |
注8 | 「平和記念式典へのロシア不招待は何が問題か 被爆地・広島が人類史的役割を放棄した瞬間」GLOBE+, 2022.08.05 https://globe.asahi.com/article/14683547) |
注9 | 的場昭弘「ロシアを積極的に批判しないアフリカの怨念 ロシアと中国はアフリカの真の独立を支援してきた」『東洋経済ONLINE』2022/06/24 https://toyokeizai.net/articles/-/598496 |
注10 | Joseph Krauss「『驚くほど偽善的』欧米のウクライナ対応 中東からは怒りの声」(Associated Press)NewSphere, Apr 11, 2022 https://newsphere.jp/world-report/20220411-2/ *原文:Joseph Krauss “Many in Mideast see hypocrisy in Western embrace of Ukraine”, AP News, March 29, 2022 https://apnews.com/article/russia-ukraine-islamic-state-group-jerusalem-migration-europe-1ce41cc04aed6afc415e6ed83f83c984 |
注11 | 「岸田政権ウクライナ支援続々の陰に”超ヤリ手”駐日米大使着任以来まるで政策の主導者」『日刊ゲンダイDIGITAL』2022/04/02 https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/life/303330 |
注12 | The New York Daily Times, October 15, 1855. https://timesmachine.nytimes.com/timesmachine/1855/10/15/issue.html |
注13 | The Illustrated London News, Vol.28, Jan.-June, 1856. Hathi Trust Digital Library. https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=mdp.39015066472278 |
注14 | 東京帝国大学(編纂兼発行)『大日本古文書 幕末外国関係文書之十』東京帝国大学史料編纂掛、大正7年9月23日 |
注15 | 「江戸から明治の改暦」国立国会図書館 https://www.ndl.go.jp/koyomi/chapter1/s2.html |
注16 | The Illustrated London News, Vol. 15, July-Dec., 1849. Hathi Trust Digital Library. https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=mdp.39015013716496 |
注17 | The New York Daily Times, October 18, 1855. https://timesmachine.nytimes.com/timesmachine/1855/10/18/issue.html |
注18 | The New York Daily Times, October 23, 1855. https://timesmachine.nytimes.com/timesmachine/1855/10/23/issue.html |
注19 | Eugene H. Dooman, “The Caroline A. Foote: The First American Commercial Venture in Japan”, The American Foreign Service Journal, Vol.14, February, 1937, pp.81-83, 120-122. The American Foreign Service Association https://afsa.org/foreign-service-journal-february-1937 |
注20 | Hunter Miller (ed.), Treaties and other International acts of the United States of America, The Department of State, 1942. Hathi Trust Digital Library. https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=hvd.32044049916984 |
注21 | The New York Daily Times, Dec. 31 1857 https://timesmachine.nytimes.com/timesmachine/1857/12/31/issue.html |
注22 | アーネスト・サトウ、坂田精一訳、『一外交官の見た明治維新(上)』、岩波文庫、1960 |
注23 | Earnest Satow, A Diplomat in Japan, Philadelphia, J.B. Lippincott Company, London, Seeley, Service & Co., 1921. Hathi Trust Digital Library. https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=coo.31924008572897 |
注24 | The Illustrated London News, Vol. 36, 1860, Jan.—June. Internet Archive https://archive.org/details/sim_illustrated-london-news_1860-02-25_36_1019 |