「万延元年遣米使節」(1860)のためにニューヨーク市議会は大規模なパレードと歓迎式典を企画しましたが、その経費や運用について批判が起こり、ニューヨーク市を告訴した市民もいました。日本使節団は帰国前に警護した警察へ多額の寄付をしました。
ニューヨーク代表団と日本人
『フランク・レスリーのイラストレイテッド・ニュースペーパー』(以後FLIN)の1860年6月2日号には、大統領との謁見に関する記事の後に、「ニューヨーク代表団と日本人」((注1), p.10)という題名の長い記事が掲載されています。東海岸の主要都市の間で日本使節の争奪戦があり、アメリカ側が日本使節の初訪米をどう捉えているのか垣間見えるので、抄訳します。
よく知られているように、北部の大きな商業センターであるニューヨークの市民は、単に日本人を見たいというだけでなく、彼らの力の及ぶ限りの歓迎を日本使節に示したいと強く望んでいる。このため、合同委員会の小委員会が日本人一行を迎えるために設立任命され、ワシントンに数日滞在している。(中略)彼ら[委員4人]はデュポン・ポーター・リー大佐に紹介された。(中略)ショー市会議員が代表して、日本人とのコミュニケーションの可能性について尋ねるには、デュポン大佐が適任者なのかと尋ねた。
デュポン大佐は大統領から、日本使節がこの国に滞在する間、使節の担当をするよう任命されたと答えた。日本人は儀式を重んじる人々で、彼らは政府の指揮下にいることを望んでいる。
これ[日本使節の訪米]は一世の出来事だとショー市会議員は考えるので、ニューヨークが西洋世界で一番の商業都市という点で、歓迎の意を適切な形で示すべきだと言う。ニューヨークを代表して、使節団を礼儀をもって迎え、客人たちの希望に沿うよう、あらゆる点で注意を払いたい。この目的を推進するため、できることなら、また、必要ならば、大使たちを訪問して、はっきりした結論を得たいと述べた。
デュポン大佐は政府を代表して、[ニューヨーク]代表団を歓迎し、使節団に代わって、ニューヨーク訪問の招待を受けると言った。(中略)しかし、使節団が大統領との謁見が終わるまでは、誰とも会うことは問題外である、なぜならそれが使節団の希望であるから。(中略)大統領謁見までは政府の役人以外とは誰ともコミュニケーションを取りたくないと、日本人は強く思っている。
レント市会議員は失礼を顧みず、デュポン大佐に尋ねた。日本使節団を迎えられるとしたら、市当局はマナーに関して、どんな準備をしたらいいだろうか、また、ニューヨーク滞在中にデュポン大佐が役割を続けることについても尋ねた。
デュポン大佐は非常に興味深い質問だと言った。彼は使節団と共にいなければならないと感じ、また、彼らが政府の客人だということが見失われないように注視する必要を感じていると言った。(中略)彼もこれ[日本使節の訪米]は一世の代表的出来事で、イギリスとフランスの対抗的努力を考えると、アメリカにとって非常な名誉であり、日本の礼儀作法にできるだけ叶うような歓迎式を行うよう全委員会が努力することを望むと述べた。委員会に対する彼の注意は、使節団を肉体的な限度まで強いることのないようにというものだった。彼らはプリンスであり、大きな肉体的労力には慣れていないし、絶え間ない注目に圧倒されやすい。デュポン大佐の提案は、日本人が他の何よりも国防と機械に関心を持っていることで、(中略)刑務所や病院には連れて行かないよう提案した。間違った印象を持たれる恐れがあるという。使節団には技術者や画家集団がいるので、公共事業等の視察には、彼らが大使たちの代わりになる場合が多い。そうすることで、上司たちの時間を節約している。デュポン大佐の経験からは、日本人はご馳走好きな人々ではないということだ。この点で彼らは非常に誤って伝えられている。彼らはご馳走を強要されて、健康を害するほどだと恐れている。もう1点の提案は、彼らとのコミュニケーションはできるだけ短い方がいいということだ。なぜなら英語からオランダ語に、そして、オランダ語から日本語に翻訳するという困難があるからだ。彼らがニューヨークを訪問することを喜ぶと共に驚くだろうと確信しているとデュポン大佐は言った。
デュポン大佐のコメントは多くの点で興味深いものがありますが、日本人一行が「食べない」のではなく「食べられない」食事だったことが原因だとマサオ・ミヨシは指摘しています。明治以前の人々の多くは肉食の禁忌を守っており、乳製品も口にしなかったから、「彼らがそれまで想像したこともないほどぜいたくな御馳走の最中に飢えを味わった」(p.63, (注2))と解説しています。次第に好むようになったものはアイスクリーム、シャンペンで、パンも食べるようになったけれど、砂糖を塗って食べていたといいます。大量の日本食品を持って行ったにもかかわらず、到着前に船のアメリカ人水夫が「悪臭」を理由に大量に捨ててしまったそうですし、残った日本食を調理することもままならなかったようです。
ニューヨーク市の日本使節団歓迎パレード
下の銅版画はFLIN掲載のニューヨークでの歓迎パレードで、その規模の大きさがわかります。実際の人数や、その他の歓迎行事、その予算などについてNYT(1860年6月18日, (注3))が報じています。
「海軍造船所→ブロードウェイ→ユニオン・スクエア→ブロードウェイ→メトロポリタン・ホテル」の先頭と使節団の後方で行進したアメリカ軍各部隊の兵士・士官総数は7,014人。ニューヨークで行われたこの種のパレードとしては、最も素晴らしいものの一つだった。
日本使節団とニューヨーク市議会委員会メンバーの乗った馬車は軍の行列に囲まれて、他の都市[ワシントン・バルティモア・フィラデルフィア]で特徴的だった馬車を取り囲み無礼に覗き込む群衆の心配なく行進することができた。(p.1)
キャプション左側:Reception of the Japanese in New York—View of the Splendid Procession Accompanying the Distinguished Visitors
キャプション右側:Approaching the Metropolitan Hotel, the Residence of the Japanese Ambassadors.
(ニューヨークにおける日本使節団の歓迎—貴賓に随行する素晴らしいパレードの様子、日本の大使たちの宿舎、メトロポリタン・ホテルに近づく(FLIN, 1860年6月23日、pp.72-73)
詩人ウォルト・ホイットマンの見た日本使節団
ニューヨークのパレードを見ていた見物客の中に詩人のウォルト・ホイットマン(Walt Whitman: 1819-1892)もいました。その感激を詩にして、1860年6月27日のNYTに寄稿しています(注4)。『我ら見しままに』に一部が日本語に訳されているので、引用します。
西方の海を越えて、こちらへ、日本から渡来した、
謙譲にして、色浅黒く、腰に両刀を手挟んだ使節たちは、
頭あらわに、落着き払って、無蓋の四輪馬車の中に反りかえり、
今日この日、マンハッタンの大路を乗りゆく。
・・・・・・
百万のマンハッタン人が、家のなかから街路へ飛び出すとき、
雷のはためくような砲声が、私の好きな威勢のよい唸りで、私を奮い起たせるとき、
・・・幾千年待たれた回答が齎 [もたら]されるとき、
私もまたこれに応じ、起ち上がって街上に降りたち、群衆に交って彼らとともに眺め入る。
(長沼重隆訳, p.61)
条約の箱を載せた馬車
キャプション: THE FLORAL CAR CONTAINING THE JAPANESE TREATY BOX, AS IT APPEARED IN THE PROCESSION OF THE JAPANESE RECPTION IN NEW YORK, JUNE 16TH, 1860.
日本の条約箱を乗せた花馬車がニューヨークの日本人歓迎行列に登場、1860年6月16日(FLIN, 6月30日号)
使節一行は四人乗りのオープン馬車に[位の順に]別々に乗り、その後にこの行列の主役である条約箱が乗合馬車(omnibus)の上に載せられ、それをあの有名なトミーが護衛していた。思い出されるのは、ワシントンではこの条約箱は乗合馬車の上に乗せられ、フィラデルフィアとバルティモアでは警官に委ねられるという卑しい扱いを受けた。しかし、ここニューヨークでは市議会議員ジョン・ヴァンタインの天才的な発案で、箱とトミーを等しく敬意をもって扱った。乗り物はニューヨーク市で最高の馬6頭に引かれた「アダムズ エクスプレス ワゴン」だったが、あまりに完璧に改装されていて、まるでこのパレードのために新たに作られたようだった。(中略)中にはカーペットが敷かれ、装飾が施され、条約を護衛するトミーと従者のための椅子はヴェルヴェットが張られていた。ワゴンの四方は誰も誤解することのないように、「日本の条約」と英語と日本語で書かれ、疑いなくこの催しにふさわしいものだった。すべてのデザインはヴァンタイン市議会議員の功績で、条約の重要性を国と市で歓迎するという最初の明確な表れだった。トミーの後には、さらに40台の馬車が続いた。(NYT, 1860年6月18日, p.1)
ナイアガラの滝の絵を鑑賞した使節団
メトロポリタン・ホテルが6月20日の夕方に、食堂にソープ大佐(Col. Thorpe)の絵「ナイアガラの滝」(”Naiagara Falls”)を飾ったところ、日本使節団が鑑賞したいと希望を述べたと報道され、その鑑賞の様子が以下の銅版画が伝えています。ホテル主のウォーレン・リーランド氏(Warren Leland)はナイアガラの解説と多くの銅版画を含めたブックレットを用意し、その配布を「トミー」に委託したと述べられています。
『ハーパーズ・ウィークリー』(以後HW)の1860年7月7日号掲載記事「ソープ氏の『ナイアガラ』」(注5)は鑑賞の順番や鑑賞する日本人の言動を詳しく伝えています。夜8時にライトアップされ、最初に10人ほどの随行員が招かれ、彼らがコメントなどをして会場を去り、次のグループが入って行くという順番で、最後にウォーレン氏に伴われて「2人の長官」(”two Governors”)、[日本]帝国の通訳、2,3人の上級官吏が入ってきたこと、この通訳・名村五八郎(Namoura Gohajsiro)はペリー提督が日本にいた時の日本側の3番目の通訳だったと解説されています。これは本人からHWのジャーナリストが直接聞いたのでしょうか。日本語名のローマ字表記が確立される前ですから、アメリカ人が聞いた通りの表記ですが、名村五八郎(1826-1876)に間違いなさそうです。名村は1854(安政元)年の日米和親条約の和解に堀達之助・森山栄之助を助けた」とされ、その後、蝦夷地樺太に派遣された村垣の通詞をして、村垣が遣米使節の通詞に推薦したそうです(注6)。
通訳がナイアガラの滝について流暢な英語で質問を始め、やがて滝の特徴や大きさなどについて知っていったと伝えられます。この後に、大使たちと「アメリカの友人たち」との公的・外交的な内容はオランダ語を介して通訳されると付言されています。これらの「長官」たちが鑑賞した後の鑑賞者と質問内容を抄訳します。
3人のプリンスたち—正使、副使、3番目の大使—が案内されて、彼らのために、絵を鑑賞しやすくするために用意された椅子に静かに座った。これらの高位の人物の登場で、そこにいた日本人たちは静かに後退りし、帝国の通訳は右側に、正使の後部に位置をとった。そして、名村五八郎が絵について詳細に説明し、深い関心を持って静聴された。正使はこの絵の画家に紹介してもらい、詳細を説明してもらいたいと言った。滝の高さ、「霧の乙女号」(the Maid of the Mist)の大きさ、その上に降り注ぐ水の量、「水は一年中流れているのか」、絶壁の高さ、滝の下の水深などについて尋ねた。後者の質問は数回繰り返された。それから正使は自分たちが帰国時に乗船する船の名前はこの滝の名が命名されたのかと尋ねた。最後にプリンスはこの絵が売りに出ているか知りたいと言った。非売品だと知って、彼は複製が作れるか聞いた。できると聞くと、今見ている絵と全く同じ複製がほしい、日本に「偉大な珍品」(”as a great curiosity”)として持って帰りたいと言った。その後、3人のプリンス達は立ち上がり、オペラ・グラスで絵をもっと詳しく見て、いくつかの点を指差すと、満足の微笑みで静かに退室した。(中略)この絵の複製が仕上がると、タウンゼンド・ハリス総領事気付で日本に送られるとのことだ。(p.422)
キャプション:The Japanese Ambassadors Viewing Thorpe’s Picture of Niagara Falls
(ソープの絵・ナイアガラの滝を見る日本大使たち, HW, 1860年7月7日号, p.428)
日本使節団歓迎費用
アメリカが日本使節団の歓迎に、どのくらい使うのかをニューヨーク市議会で議論していますので、拾ってみます。
1860年3月24日:ニューヨーク市議会
市長:日本の使節団が我が市を訪問する予想について、彼らにふさわしい歓迎を市当局が準備すべきだと申し上げます。ペリー提督の遠征の成功によって、日本帝国は貿易に門戸を開けることになりました。提督が用いた平和的、懐柔的な方法によって、日本の大君と閣僚たちは同じ精神で応え、長い間、世界に扉を閉ざしていた文化的で人口の多い帝国が友好関係で結ばれることになり、我が国民に対して友好的関係と、少なくない程度の貿易を認めました。(中略)私が海軍から受け取った文書から推測するに、日本使節が最初に訪問するのが我が市である可能性が高く、我が国に関する彼らの第一印象が好ましいものになることは重要です。日本使節団を迎えるにあたって、この特異な人々の繊細で控え目な性格に留意する必要があります。使節団にはあらゆる礼儀で接し、この独創的で文化的な人々の好奇心を満たすあらゆる機会を与える一方で、押し付けがましく、繊細さに欠けることは避けなければなりません。
我々の機関・制度や自然の特色の中に、彼らが鎖国制度を緩めたことを後悔するような物を見つけることがないことを希望します。市議会には使節を威厳と尊敬の伴ったもてなしで迎える準備をすることを推薦します。(NYT, 1860年3月27日, p.1)
1860年6月16日:国の客人を歓迎するために割り当てられた費用は、現時点で合計$100,000である。
アメリカ合衆国議会・・・・・$50,000
ニューヨーク・・・・・・・・$30,000
バルティモア・・・・・・・・$10,000
フィラデルフィア・・・・・・$10,000アメリカ政府の$50,000のうち、$36,000はまだ残っている。[ワシントンの]ウィラード・ホテルの請求書$7,000とポトマック川を下るためにチャーターした蒸気船費用を加えると、$14,000である。(NYT, 1860年6月16日, p.1)
訳者注:1860年当時の10万ドルは2022年の$3,568,325に相当するとされています(注7)。2022年10月23日現在の交換レートは1USドル=147.554円ですから、約5億2700万(526,520,450)円です。
日本の詐欺
以下の記事は日本使節歓迎のためにニューヨーク市が税金から支払うことは不当だという訴えを起こした人の主張と、その感想を書いた記事です。「日本の詐欺」(the Japanese Swindle)という見出しにぎょっとしましたが、日本使節歓迎費用に絡んで詐欺が行われたという主旨です。
1860年7月27日:「日本の詐欺 支払いに反対する動き」(NYT, p.4)
ニューヨーク市の納税者レヴィ・S. チャットフィールド氏は監査官が[日本使節団歓迎費用の]請求書の支払いをしないよう、差し止め命令を申請した。この行為の理由は以下の通りである。
- ニューヨーク市の税金は1854〜1859年に200%上昇したが、原告の意見では、増税は価値のないものに使われること、市政府と行政の腐敗・軽率・無駄遣いなどによる。
- 日本の天皇、または政府から公認された使節団のアメリカ合州国訪問の歓迎費用、$30,000をニューヨーク市民の税金から支払うことが1860年6月5日に決議された。
- 使節歓迎委員会が6月26日にメトロポリタン・ホテルとニブロズ・ガーデンで行った舞踏会がニューヨーク市の費用だったこと。公共舞踏会を遂行するにあたって、委員会が舞踏会出席のためのチケットを発行し、1枚10ドルから100ドルの値段で売り、その利益を自分たちの個人使用に割り当てたことを証言する。
- ニューヨーク市民と納税者のうち、チケットを手に入れることができなかった者すべてが、納税者とニューヨーク市の金で開催された当該舞踏会から除外された。
原告がさらに言ったことは、使節団の歓迎経費は$30,000だけが委員会によって割り当てられたが、聞くところによると、請求書の額は$120,000を超えるという。$105,000が歓迎費用として委員会によって監査され承認されたというが、メトロポリタン・ホテルの請求書$91,000には舞踏会費用も含まれている。
また情報によると、メトロポリタン・ホテルの使節団関係と舞踏会の費用は$10,000を超えなかった。監査され承認された前述の請求額は$91,000で、その一部、33%が委員会かその何人かの委員が受け取ることにされ、このような腐敗した酷い合意がなされた後にホテルの$91,00が監査され承認されたという。原告によると、これが市議会の意図・企みであり、この額を監査官が市の納税者に課すつもりだという。
外国・カースト・階級のゲストを受け入れ、歓迎し、舞踏会を催す費用として、市の課税対象者に税を課し、徴収する権限も権力もニューヨーク市の市長、市議会議員は持っていないと原告は言う。また、ニューヨーク市民から税を徴収して、市議会の議員に与え、寄付し、あるいは、上記の腐敗した詐欺の同意書を実行するために払う権利も権力もニューヨーク市の市長、市議会議員は持っていない。
したがって、原告は以下の判決を要求する。ニューヨーク市の市長、市議会議員が永久に$105,000をニューヨーク市の課税財産や課税対象住民の財産にいかなる方法でも課税しないこと、そして、この金額の一部たりとも市税として徴収しないこと、ニューヨーク市の監査官はこの金額またはその一部たりとも[メトロポリタン・ホテルの経営者]リーランド、またはその他何人にも永久に支払わないこと。
(中略:過去の訴訟例をあげています)これらすべての訴訟は多かれ少なかれ、不可思議な何らかの方法で静かに握りつぶされる。新聞はそれらについて報道しなくなり、公衆の記憶から消え去る。
この日本の詐欺も同じような結果に終わるという疑いが大きい。裁判所で小さな波紋を投げかけることはあるだろう。嵐が通り過ぎるまで市会議員は「身を隠す」(“lie low”)だろう。裁判の形式は守られるかもしれないが、詐欺だと立証するための直接証言は何も行われず、やがてこの金額は支払われ、きちんと分配され、この事件は終わるだろう。
ニューヨーク市長と市議会員を告訴したチャットフィールド(Levi S. Chatfield: 1808-1884)という人は、弁護士であり、ニューヨーク市の司法長官を1849年から2期務め、1858〜1859年にはニューヨーク大学ロースクールの刑法・法医学の教授を務めたと、ニューヨーク裁判所のサイトに記されています(注8)。
日本使節団からアメリカの警察へ寄付
1860年7月21日:「警察への日本の寄付」(p.8)
日本のプリンスたちからニューヨーク市滞在中に警護してくれた警察部隊のメンバーにと$13,750の小切手がケネディ総監に渡された。これを警察庁に満足いく方法で配分するのは困難な問題があることがわかった。寄付金は「未亡人と孤児基金」に入金すべきだと総監は提案したが、「基金」はぺてん(humbug)と見られているから、そのような処理は警察庁の誰も好意的に受け取らないだろう。警察庁の設立以来、警察官にと与えられた贈り物や罰金全ては大金庫に収められた。今頃は巨額になっているに違いない。一方、年わずか$100を受ける受益者は2人だけで、その上、このわずかな額さえ、夫が殉死でない限り未亡人には与えられない。警察全体に平等に分け与えると、日本からの棚ぼたは1人に月$8で、このような分配の公平さは疑わしい。(中略)[寄附金の]全額を全警察官の制服購入に使うという提案があった。警察部隊の多くは新たな制服が必要になっているからだ。他の提案は寄附金を$500ごとに分けて、宝くじにするというものだ。(後略)
1866年7月19日:「日本大使たちからメトロポリタン・ポリスへの贈り物」(p.3)
1860年に3人の日本大使がニューヨーク・フィラデルフィア・バルティモアの警察に$20,000を贈った。これは彼らの滞在中にこれらの都市の警察が示した礼儀に対する感謝のしるしである。この贈り物のニューヨークの取り分は$13,750で、この額をデュポン海軍少将がベルモント氏を通して警察本部長に渡した。長い間、委員会はこの額の分配方法を議論してきたが、ようやく基金に変えて、「日本優秀基金」(the Japanese Merit Fund)という名称で、その利子を毎年警察の中で功績のある者に授与されることにした。1862年にこの基金から送られた賞は以下の通りである。(中略:$125を5人にと名前も記されています)
しかし、この賞金を与えることが警察内で嫉妬を起こしたため、警察本部長たちはこの金の使い方として別の方法を考えようとしている。(中略:悪例の説明)一つの例が高等裁判所に持ち込まれた。警察本部長たちはレオナード裁判官の判決を受け取ったところで、(中略)裁判官は基金を警察生命保険基金に組み入れてはどうかと推薦した。(中略)
決議:日本使節団がメトロポリタン・ポリスに寄付した全額と利子総額は警察部隊のために警察生命保険基金に払い込むこと。
すでに賞金として払われた$750と訴訟費用の$800、その他は今日までの利子分を食ってしまい、警察生命保険基金に移せるのはわずか$14,000である。
注
注1 | Frank Leslie’s Illustrated Newspaper, Vol.9, 1860. Internet Archive. https://archive.org/details/franklesliesillu00lesl |
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注2 | マサオ・ミヨシ著、佳知晃子監訳『我ら見しままに—万延元年遣米使節の旅路』平凡社、1984. |
注3 | The New-York Times, June 18, 1860. https://timesmachine.nytimes.com/timesmachine/1860/06/18/issue.html |
注4 | Walt Whitman “The Errand-Bearers: 16th 6th Month, Years 84 of the States”. The New-York Times, June 27, 1860, p.2. https://timesmachine.nytimes.com/timesmachine/1860/06/27/issue.html 以後のNYTの記事は、URLの日付を変えればアクセスできます。 |
注5 | Harper’s Weekly, vol.4, 1860. Hathi Trust Digital Library. https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=mdp.39015006963360 |
注6 | 「名村五八郎元度」万延元年遣米使節子孫の会 https://1860kenbei-shisetsu.org/history/register/profile-62/ |
注7 | U.S. Inflation Rate Calculator from 1665 through 2022. https://www.in2013dollars.com/1860-dollars-in-2017?amount=100000 |
注8 | “Levi S. Chatfeld: 1808-1884”, Historical Society of the New York Courts http://www.nycourts.gov/history/legal-history-new-york/legal-history-eras-04/history-era-04-chatfield.html |