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2023-02-20

英米に伝えられた攘夷の日本(8-2-4)

万延元年遣米使節の訪米中(1860年)に奴隷貿易の問題が頻繁に報道され、奴隷制反対の大議論が米国議会で行われていました。使節の中には帰路に寄港したアフリカ西海岸で鎖に繋がれた奴隷を見たことを日記に記した人々もいます。

万延元年遣米使節の報道と奴隷問題の報道が同時進行だった時代

 日本使節団の正使と副使を表紙に据えた『ハーパーズ・ウィークリー』1860年6月2日号(本サイト8-2-2参照(注1))に、「奴隷船のアフリカ人たち」と題した記事と挿絵が掲載されています。


キャプション:The Slave Deck of the Bark “Wildfire”, Brought into Key West on April 30, 1860.
(帆船「ワイルドファイアー」号の奴隷甲板、1860年4月30日にキー・ウェストに運ばれた)

「奴隷船のアフリカ人たち」

 4月30日の朝、合衆国の蒸気船モホーク(Mohawk)号がここに投錨した。帆船ワイルドファイヤー(Wildfire)号を引いていた。この帆船には510人のアフリカ人がアフリカ大陸西部のコンゴ川から載せられていた。この船はキューバの北岸近くで拿捕された。奴隷貿易を禁止する我が国の法律に違反しているからだ。400人ほどは10歳から16歳の少年だ。90人以上が航海の途中で死んだ。しかし、この数は非常に少ない。到着後に10人が死に、40人以上が入院中だという。 彼らの苦しみにもかかわらず、その奇妙な外見、動き、行動に滑稽さを感じずにいられなかった。元気な者たちは幸せそうで、満足しているようだった。甲板からキャビンに降りると、60〜70人の女たちが床に座っていた。病気の者たちは横たわっていた。4,5人は背中と腕に刺青をしており、3人は貿易商の印と思われる”7”が刺青されていた。(p.344)

 遣米使節の訪米の年、1860年のNYTを通覧すると、アメリカによるアフリカ奴隷貿易、リンカーンの大統領選、「第三次中国戦争」と呼ばれた英仏による中国侵略戦争、中国人を拉致して欧米の奴隷にするクーリー貿易などが頻繁に報道されています。本節では、1860年に報道されたアフリカ奴隷貿易を紹介します。

万延元年遣米使節団の帰路に同行したNYT特派員が見たアフリカ奴隷

 日本使節団は1860年6月29日にニューヨークを出発し、11月9日に江戸に到着します。一行が乗ったナイアガラ号にはNYTの特派員複数が日本使節団の動向を記事にするために乗船していました。1860年10月6日のNYT第一面は「帰路につく日本人」(”The Japanese Homeward Bound”, (注2))と題して全面が遣米使節の帰路での動向です。

 1860年8月12日付、ポルトガル領サンパウロ・デ・ロアンド(San Paulo de Loando, 現在のアンゴラ)から発信された記事を抄訳します。この地についての解説は「以前、奴隷売買の世界で最大の奴隷市場だった。最近は我が国のアフリカ・クルーザーの集結港として、奴隷供給場所として選ばれている」とされ、「旅人」(TRAVELER)という署名の記者が見たアフリカ奴隷の描写が掲載されています。現在では差別用語とされている語も当時のまま引用します。

 毎日、船[ナイアガラ号]から見えるのは、海岸線を町に向かって歩く、裸の憔悴しきった黒人の行列だった。それぞれが頭に100ポンド[約45kg]の重さの蜜蝋を載せ、痛々しい。内陸数百マイル[500マイルとして800km]の所から「歩いて」40〜60日の旅を、ここロアンドまで運び、銅と交換する。

 町でも我々は同じ悲惨で可哀想な彼らが重たい鉄の輪と南京錠で繋がれ、男と女が一緒に、ポルトガル人の主人のために大きな水瓶や水樽を運ぶのを見る。我々の日本人乗船者たちは小部隊になって上陸したが、ニグロがあまりに多くの地獄の悪魔のようで、その半狂乱の叫びと跳躍ともに日本人に恐怖を与えたため、彼らは二度と上陸しなかった。

 蒸気砲艦モヒカン号が896人の奴隷と10人の奴隷主を載せたアメリカ船エリー号を拿捕した。

 この2日後(10月14日)に別の特派員が以下の情報を提供しています。その説明によると、前日に上陸したグループとは別に大使たちが翌日上陸しました。この特派員はアフリカ系はもちろん、アジア系にも差別的で「ジャップス」(”Japs”)を連発しています。

 群衆から一行を守るために「スペードのエース」と同じくらい黒い警官を10人雇った。警官たちがローハイド(rawhides:生皮の鞭)で左右を斬りながら[鞭を左右に振り回しながら]歩いたにもかかわらず、一行は物凄い集団に囲まれた。「ジャップス」はアフリカの香りに耐えられず、ほとんどの者は小さなブルーのハンカチをずっと鼻に当てていた。表通りをくるぶしまで砂に埋もれながら進み、サンミゲル砦から港を眺めた後、大使たちはアメリカ領事の家でもてなしを受けた。シャンペンと様々な種類の酒、ビスケット、チーズ、イチジク、シガーが回され、一行は疲れて喉が乾いており、空腹だったので、それらは短時間消費された。ここで象の巨大な牙が見せられ、その1本を日本人は$30で購入し、その他美しいヒョウの毛皮も数枚購入した。

 新任のポルトガル総督がちょうど到着したところで、町の全軍団が歓迎パレードをするのを見物した。(中略:礼砲などの描写)新任の総督と退官する総督がバルーシュ馬車(幌つき4人乗り馬車)に乗り、護衛が馬に乗って、軍隊の兵列と1万人の黒人の叫びと悲鳴と、前述の警官が道を開けるためにふるう鞭。これは面白い興奮する光景で、我々は楽しんだし、「ジャップス」も楽しんだが、5時間たつと、我々みんな船に戻りたがった。

村垣淡路守範正の日誌に記されたアフリカ奴隷

 この時の感想を村垣範正は『遣米使日記』(注3)に「土人」について、奴隷制度について記しています。村垣の日記は和暦で記されているので、「六月廿三日」は西暦1860年8月9日となります。この日、外出してアフリカ人を見た印象について、外見は「真の黒色にして男女も分らず」、女は坊主に見え、髪は縮れて「仏頭の如し」と述べています。日本人の周囲に群がるアフリカ人を黒人の兵卒3人が追い払う様子を「土人等を鞭打て追いちらすさま犬を追ふか如し」(p.108)と述べた後、小鳥や果物を売りに来る黒人を「獣に近き人物なり」と描写したうえで、「[新見]正興[小栗]忠順一疋つゝ買得て舟中の慰に成しけりをのれは青いいんこの雛を一羽求たり」(p.109)と記しています。

 翌日、「黒人を六百人はかり買得しといふ」アメリカ船を知り、アメリカの奴隷制について聞いたことを記しています。アフリカのこの地では「人を賣る事を常とし米利堅は地方廣くして人口少なきゆへ北邊より買出して本國へ送るとなるよし」(p.109)。奴隷の所有者を証明するために、黒人の額から鼻へかけて入れ墨をさせていることも記しています。アメリカ南部が不毛の地で、海岸ばかりが開けているのは他国から購入し、土人を使って開発していると書いています。アメリカ人から聞いた奴隷制度の正当性に納得し、欧米がアフリカを略奪し、有色人種だから捕獲して奴隷として売買してもいいという欧米の価値観に違和感を持っていないようです。有色人種の日本人も欧米から同じように扱われることには考えが及ばないのか、現代人と同じく日本人は「名誉白人」だという思い込みがあったのでしょうか。

 万延元年遣米使節のもう一人、杵築藩士・佐藤秀長(1820-1905)の「米行日記」には「土人数十人を鎖で繋いて、役人がむちを上げて使令するを見る其の故何と成るは…じつに獣類を使用するに異ならずして其の痴愚笑う可き成」((注4), p.489)と記しています。黒人が数十人船中に日本人を見にくるので、水夫が脅そうと、日本人は人肉を好んで食すと言うと黒人たちが恐怖の声を上げて逃げて行ったことを「一笑事あり」(p.488)と伝えています。日本人も蔑視されているとは受け取らなかったのでしょう。

 使節に普請役として参加していた益頭駿次郎尚俊(1820-1916)はアフリカ人の境遇に関心があったのか、「平日の食料は唐もろこし」と記し、入れ墨のある者ない者の区別についても質問したのか、ない者は「ホルトガル政府にて一生を買入、働せ」ている奴隷だと解説しています。鎖で繋がれている様も記述した上で「土人抔之取扱は実に犬馬に等しきもの」と評価しています。アメリカが軍艦を派遣して奴隷売買防止に努力していることも述べられています(「亜行航海日記二」, (注5), pp.134)。

通詞・名村五八郎の「亜行日記」に記された奴隷制度

 首席通詞の名村五八郎(1826-1876)の観察は上記2人より格段に詳しく、それは通詞という役柄で得た情報の多さという理由の他に、名村自身の関心の深さからアメリカ人に質問して得られたこと、また、答えたアメリカ人の情報の種類の違いなど様々な理由が考えられますし、同じことを聞いても、聞き手の関心点が日記に記されるという側面も忘れてはならないと思います。名村はロアンドで見聞した奴隷制について、以下のように述べています。

亜弗利加州ニ於テ昔年ヨリ、土人其子女或ハ親族等ヲ別国ニ売リ、之ヲ己レカ生業トス、其売ラレタル者ハ、無賃ニテ獣畜ノ如ク労使奔走スルノ悪弊アリ、大英国及合衆国其暴悪ノ弊習ヲ防止センカ為ニ、軍艦ニ駕シ、毎年中此海岸ニ出張シ、土人鬻[しゅく]売ラントスルヲ見レハ、直ニ其売ラレル人数ヲ論セス、総テ価ヲ払ヒ、軍艦ニ乗セ、相応ノ事業ヲ命シ、役使スルト云フ(「亜行日記」(注5), p.253)

 村垣範正がアメリカ人から聞いたのであろう奴隷制の正当性に疑いを挟まずにアメリカは国土が広く人口が少ないから奴隷が必要だという論を鵜呑みにしたようですが、名村は奴隷制を「悪弊」と断罪しています。英米の海軍がアフリカ海岸で奴隷船の監視・拿捕していたことは、万延元年遣米使節団がアメリカ滞在中も頻繁にニュースになっていますから、名村がいくつか読んだ可能性も否定できません。彼が実際に目にした奴隷たちが、運搬の仕事をさせられているときにも鎖に繋がれていることを次のように記しています。「諸物持運ヒニ雇使フ土人ハ、皆鉄鎖ヲ腰ニ結付ケ、牛馬ノ如ク、別人之ヲ後ロニ持チ進退ス」(pp.253-254)。人間が「牛馬」のように扱われることに違和感を感じたからこそ、記録したのでしょう。

 名村以外にも鎖に繋がれた奴隷たちの様子を記した者がいました。普請役の益頭駿次郎[ましず しゅんじろう: 1820-1900]も「亜行航海日記 二」に運搬をさせられている「土人」が鎖に繋がれ、その取り扱いは「じつに犬馬に等しきものニ有之候」(p.134)と記していますが、名村ほど価値判断を示すコメントは残していません。

奴隷制度は最も神々しい、聖なる、敬うべき、祝福された望ましい制度

 1860年のNYTに掲載された奴隷制に関する最初の記事は、「南部の感情の現在」(State of Southern Sentiment)という小見出しの記事(1860年1月7日)です。

 1849年のケンタッキー州の感情は間違いなく初期解放論だった。そう『クリアー』紙はがなりたてた。ケンタッキー州の全白人人口はそれを要求した。アフリカ奴隷制は白人労働者にとって下劣で屈服的で、州としてのエネルギーを麻痺させ、全ての個人企業、共同経営企業を押し潰し、勤勉な移民と資本家を近づけず、ケンタッキーの土壌と戦う。(中略)解放がケンタッキーにとって進歩、希望、栄光の原因である。(中略)

 しかし、現在ホルダーマン氏[Mr. Haldeman 、1849年に『クリアー』紙の上級編集員]はマゴフィン知事とともに奴隷制度は最も神々しい、聖なる、敬うべき、祝福された望ましい制度であり、あらゆる方法で維持し、強化し、永続させるべきだと叫ぶ。(p.2)

奴隷制の野蛮性

 遣米使節がワシントン滞在中の1860年6月4日にアメリカ議会上院でマサチューセッツ州選出共和党のチャールズ・サムナー(Charles Sumner : 1811-1874)議員が「 奴隷制の野蛮性」( the Barbarism of Slavery)について長い演説をします。NYTに掲載されているのですが、インクの滲みで読みにくいため、アメリカ議会図書館のアーカイブに掲載されているヴァージョンを抄訳します。これはサムナー議員が3年後、南北戦争の最中に「合衆国の若者へ」と題した献辞を附したもので、この献辞も含めて抄訳します(注6)

「合衆国の若者へ」

「奴隷制の野蛮性」という名称は当時は新しかったが3年後の今は普通の言葉だ。このスピーチは上院議員たちの傲慢な想定:奴隷制の「神々しい起源」、その「高貴な」性質、我が国の「黒い大理石のかなめ石」:に対する厳しく論理的な回答だった。これらの傲慢な想定は日常的に起こり、それらを聞きながら、私は反応すべきだと感じた。そして、彼らの厚かましさを考えると、奴隷制の実際の姿を遠慮なく晒して、フランクにオープンに応えるべきだと思った。(中略)

 リンカーン氏の[大統領]当選が奴隷制反対の判決である。(中略)リンカーン氏が当選した時、[奴隷制への想定は]開戦という形で突然噴出した。しかし戦争は州の権利(State Rights)という名目で宣戦布告された。したがって、この戦争には2点の明らかな基礎がある。1点は奴隷制、もう1点は州の権利である。しかし後者は前者のカバーに過ぎない。そうなら、戦争は奴隷制のためであり、それ以外の理由ではない。

 したがって問題は野蛮と文明の間にあると示された。単に文明の二つの異なる形の間ではなく、一方に野蛮、他方に文明だ。もし野蛮に賛同するなら革命に参加せよ。もし文明に賛同するなら、あなた自身の政府の側に立ち、頭と魂と心と力を持って!(中略)
 したがって、今ユニオン[北軍]が始めた戦闘は文明そのもののためであり、野蛮のために戦うと公にしていない者たち全てから援助と励ましを得なければならない。(中略)

 若者よ、後生だから攻撃せよ、そうすれば、この戦争を始めた忌まわしい野蛮が永久に消えるだろう。

チャールズ・サムナー
ワシントン、1863年7月4日

人種の劣等性はアメリカの客人である日本使節団にも当てはめられるか?

 以下は「3年前」のスピーチの一部ですが、テーマを表す小見出しをつけます。スピーチの中で、万延元年遣米使節に言及している箇所があります。奴隷制の背景に「アフリカ人種の劣等性」という根拠のない主張があることを述べた後、「同じ原則が他の人種、例えば、現在国家の客人である洗練された日本人に当てはめられるか、または白人種の中の明らかに劣等な人々にも当てはめられるか不確かだ」と言っています。

「奴隷制の野蛮性」:1860年6月4日、アメリカ議会上院でのサムナーのスピーチ

 奴隷貿易は悪である。 奴隷制は政治的な理由からだけでなく、あらゆる理由から、社会的、経済的、道徳的理由から反対しなければならない。(中略)これは正か邪か、善か悪かの厳粛な戦いである。(中略)サウス・キャロライナ州の議員[ハモンド氏]は「[奴隷制のある]社会形態は世界で最高」と主張し、ミシシッピー州の議員[ブラウン氏]は[奴隷制は]「偉大な道徳的、社会的、政治的恵み—奴隷への恵みであり、奴隷主への恵みである」と公に自慢している。ヴァージニア州の議員[ハンター氏]は「[奴隷制は]両人種の幸福にとってベストだ」と称賛した。自由が普及している所では「文明」は1つしかないはずだ。奴隷制と文明の間には基本的な矛盾がある。もし片方を支持するなら、もう片方を支持することはことはできない。
奴隷は生物ではなく物質だから、奴隷は資産の1品目
 サウス・キャロライナ州、ルイジアナ州、メリーランド州などの「奴隷州」の法律を作ったストラウド判事(Judge Stroud)は「奴隷制法」で「奴隷制の基本的原則は、奴隷は感覚のある生物ではなく、物質と位置付けるべきである。奴隷は資産の1品目で、動産(chattel personal)」 と定義した。

 奴隷制が野蛮だという5種類の要素:人間が人間を資産として所有できること;夫婦関係を破棄すること;親子の絆を破棄する;知識への扉を閉ざすこと;無償の労働を妥当とする。これらのいずれも取り除くことから奴隷制廃止が始まる。

奴隷州と自由州の比較:白人人口・地価・農業・製造業・輸出・文盲率すべてで自由州が優っている
 憲法下での最初の国勢調査(1790年)によると、当時の奴隷州の人口は1,961,372人に対し、自由州は1,968,455人で、自由州の方が7083人多かった。その後、段々と増えていき、1850年には外国領だったルイジアナ、フロリダ、テキサスを併合して、奴隷州の人口はわずか9,612,769人、自由州は併合した領地もないのに13,434,922人に達していた。自由州の方が3,822.153人多い。しかし、白人人口に限ると、奴隷州では6,184,477人、自由州は13,238,670人で、自由州の方が白人の人口は7,054,193人多い。自由州は面積では少ないのに、白人の人口は2倍になり、3倍になろうとしていた。

 不動産の価値に関して、1850年の国勢調査では自由州の方が奴隷州より高かった。1855年の財務省長官の報告書によると、自由州では1エーカー$14.72に対し、奴隷州では$4.59だった。

 農業:自由州の農場数は877,736;価格は$2,143,344,437、1エーカー平均$19.83 奴隷州:564,203 
農場、1エーカー平均$6.18 

 農業生産物:自由州1850年$858,634,334; 奴隷州$631,277,417; 1エーカーの農産品自由州$7.94;奴隷州$3.49コットン、米、サトウキビのモノポリーと気候による年2〜3収穫のメリットは、自由州との競争では無力だ。

 その他の製造業でも差は同じで、マサチューセッツ州の全製造業は奴隷州全部を合わせた数よりも多かった。

 輸出輸入に関しても、自由州の輸出は$167,520,693、奴隷州はご自慢の綿花を加えても$132,007,216。ニューヨークの外国貿易高は奴隷州全部を合わせた額の2倍だ。

 国勢調査によると、奴隷州の20歳以上の白人493,026人が読み書きができないのに対し、人口が2倍の自由州では248,725人だけで、奴隷州では12人に1人、自由州では53人に1人となっている。


キャプション:The cotton kingdom, 1850, and the limit of the cotton belt.(綿王国、1850年、コットン・ベルト の限界地)(出典: 『コットンとコットン州の発展』1911, (注7)
左下:コットン生産量 1850 上段:最大生産量の地域; 中段:軽量生産地;下段:少量または無生産地

奴隷主の特徴
 奴隷逃亡者を探しているという広告に、「両耳に穴、額の右側に傷、足に銃創」とあるのが関係性を示している。Capitalという評判の高い雑誌に掲載された広告だけに、引用するのは痛みを伴う。

「売り物:たしなみある美しいメイド。16歳でメリーランドの上流家庭で育った。欠陥があるわけではなく、持ち主が彼女を必要としなくなったために売りに出される」。

 悪が合法化されている土地の十分に満足した放蕩者が最高にふさわしい言葉で自分の餌食を晒した。この2例が奴隷主という階級を物語っている。

 奴隷州を旅行し観察したオルムステッド氏(Frederick Law Olmsted: 1822-1903)の最近の本で、奴隷主が以下のように率直に語っている。「ニガーの逃亡をどうやって防ぐか教えてやろう」と奴隷主が言った。「ジョージア州で私が知っていた奴がいつも自分の奴隷をこうやって治療したと言っていた。もしニガーが逃げたら、捕まえて、丸太の上に膝を括って、動けないように縛り、ペンチで奴の足の爪を根本から剥がし、言うんだ。もう一度逃げたら、爪をもう二枚剥がし、再び逃げたら、今度は4本の爪を剥がす、つまり2倍にすると言う。そうすれば2回以上爪剥がしをする必要がなくなる。この方法で奴らを治療できる」このストーリーのように奴隷が神から与えられた自由を取り戻そうとして奴隷主が怒ると、奴隷の足の腱を切って、一生動けなくなる障害者にすると語った奴隷主もいた。これらの例を否定しても無駄だ。メディア、多くの証言者、奴隷主の告白と、あらゆる点で信頼できる証言が集まっている。

出典:『奴隷制と南部1852-1857』(The Papers of Frederick Law Olmsted: Slavery and the South 1852-1857, (注8)

「奴隷ブリーダー」・ 「奴隷ハンター」
 「奴隷ブリーダー」呼ばれる人々は「女奴隷」と「繁殖用牡馬」を区別せず、ヴァージニア州の富の大半がこの人肉の収穫から成り立っていると宣言する人もいる。その事実について、ヴァージニア州は「大きな動物園になりかわり、まるで牡牛を屠殺場用に育てるように、人間が市場のために育てられている」

 「奴隷ハンター」というのは動物を獲物として追いかけるように奴隷を追いかけ、以下のような広告を出すことも躊躇しない。「ブラッドハウンド:ニグロを捕まえる最高級の犬を2匹持っている。ニグロが通った道を12時間後でも追跡して簡単に捕まえる。ニグロの逃亡者を捕まえる用意がいつでもできている。1853年3月2日」(中略)人間という生まれながらの肩書を主張する人を追いかける時に、ブラッドハウンドは我々の野蛮性を最悪の形で代表するものになり、この獣は本当に奴隷ハンターの残虐な鎖を代表する。

奴隷州の暴力的特徴
 奴隷制は暴力の上に成り立っており、同様の暴力で維持されている。奴隷のあらゆる権利を否定することは、その他の権利、社会人なら誰にも認められている言論などの権利を無視することによってのみ維持されている。虐める者の威張り歩きは騎士道、喧嘩速さは勇気と称され、議論の代わりに棍棒が使われ、暗殺は美術に昇格された。

 奴隷主であるケンタッキー州知事が1837年に「ほぼ毎日、処罰されずに殺し合いがある」と書いている。同じ年にアラバマ州の奴隷主知事が「我が州の異なる地域で絶えず殺人があるにもかかわらず、起訴されるのは44件だけで、処罰はさらに少ない!なぜ我が州で毎日刺殺や射殺があるのか?」と告白している。血の土地だ!これが公的な文章とは。(中略)ニューオーリンズの新聞の告白:「毎日起こる犯罪を考えると、我が州の道路上や公園などで流される人間の血の大洪水の恐ろしさが我が州の法律が無能だからか、この法律が実行される方法のせいなのか、我々は調査する必要がある」(『ニューオーリンズ・ビー』1838年5月23日)。

奴隷州における言論の自由
 奴隷州では奴隷制度に反対する言動は許されず、命の危機か自由のリスクを覚悟しなければならない。ガリレオの発見という単純な真実も明確に否定され1850年4月17日、上院でミシシッピ選出の奴隷主、フート氏(Mr. Foote)がベントン氏について話した。その2,3日前に彼はこの優れた紳士の個人攻撃をしていたので、ベントン氏は立ち上がり、フート氏の方に進んだ。この時彼は武器を持っていないように見えた。フート氏はポケットから装弾された銃を取り出し、発射の構えを見せた。ベントン氏は自分の席に戻るところで、ピストルを見ると、この威嚇に興奮して「私は武装していない。ピストルを持っていない。私は武器の携帯を軽蔑する。暗殺者の邪魔をせずに、発砲させろ」と叫んだ。フート氏は同じ場所に立ち、発射の構えを維持していた。この件の調査委員会の報告によると、「すぐに両議員は席に戻り、議会が続いた」

ミドル・パッセージで大量の死者を出す奴隷貿易

 ミドル・パッセージ(middle passage)と呼ばれるアフリカ人奴隷を拉致してアメリカ大陸や西インド諸島などに船で輸送するのに、狭い船倉に入れ、90日間近くの船旅で、大量の死者を出していました。その死者数は拿捕された船に限って判明し、拿捕されない船でそれぞれ何百人死んでいるかわかりません。1860年に報道された/拿捕された船では、1859年12月にイギリス軍艦に拿捕された奴隷船オリオン号(1860年2月9日、3月3日報道)、5月30日の報道では死者数などの詳細は記されていません。ニューヨークの奴隷船がアフリカ沿岸でイギリス軍艦に拿捕されて、後に合衆国の軍艦に引き渡されたとされています。1,023人の奴隷を乗せてキューバに向けて出帆し、航海中に125人の奴隷が死に、その内訳は男性40人、男の子60人、女性8人、女の子24人の他、性別が報告されていない20人と報道されました。

悪いのはアメリカじゃないという大統領を批判したNYT社説

5月23日の社説「上院の奴隷貿易」(p.4)では、ブキャナン大統領批判が展開されます。

 マサチューセッツ選出のウィルソン氏が奴隷貿易の制圧の法案について長々と説明した。もし通過すれば、確かに奴隷貿易にアメリカが参加することを止めるために議会ができる行動としては他にないだろう。この法案はアフリカ海岸に帆船5隻を配置し、奴隷海岸に向かう全ての船の検査権を地方検事に与えるものだ。(中略)しかし、ウィルソン氏は補足条項を加えるべきだ。ブキャナン大統領の提案を採用し、軍艦に捕らえられた可哀想なニグロたちが母国に帰るまでの間居住するデポを建設することだ。現状では、奴隷船が拿捕された地点に最も近い港に連れて行かれ、彼らの食料と居住スペースには巨額がかかっている。

 大統領は奴隷貿易が「現在認められ、推奨されている地域はスペイン領のキューバとプエルトリコだ」と大胆にも主張した。(中略)しかし、奴隷貿易は南部の綿花の州全てで認められ、推奨されている。(中略)ブキャナン大統領はこの国で起こっていること全てをよく知っているから、責任の全てをスペインに押し付けようとするのは不愉快な偽善的言葉でしかない。我々はアフリカのニグロに対するのにスペインほどオープンに精力的にできていない。(中略)

 議会の法律は紙切れでしかない。その効果は実行を任された人々の熱意とエネルギーにかかっている。

(中略)したがって、我々が主に頼るのは結局海軍が奴隷貿易を儲けのないものにする努力しかない。

繁栄する奴隷貿易を止める方法がない

 1860年10月23日のNYT社説「奴隷貿易」(p.4)で以下の報道がされました。

ハバナの特派員からの情報では、現行の規則で奴隷貿易を廃止する試みが全く無駄だ。アメリカ・イギリス・スペインの大艦隊が奴隷貿易商の動きを常に警戒しており、総司令官が貿易を黙認するキューバのスペイン当局を処罰しているが、奴隷貿易はかつてないほど繁栄している。今年9ヶ月で3万人のアフリカ人が上陸し、さらなる蒸気船がこのビジネスに従事している。毎年さらなる資金とエネルギーが奴隷貿易に注がれ、奴隷船が拿捕されればされるほど、この野蛮で非人道的なビジネスを始める者が増えているようだ。アメリカでもヨーロッパでも最高に尊敬されている商人たちの名前がキューバの奴隷貿易であがっていると本紙の特派員は主張する。スペイン政府が支配している限り、奴隷貿易が廃止されることはないだろう。(中略)経験から証明されているのは、アフリカ海岸を封鎖することは不可能だし、英米の軍艦が奴隷船を追ってスペインの領海に入ることはできない。

この1ヶ月後に、『西アフリカ・ヘラルド』紙から「奴隷貿易」という見出しの記事が掲載されました。

 1860年ほど奴隷貿易が儲かった年はない。貿易が合法で多くの国とアフリカ海岸との間で行われていた時は貿易業者はそれほど多くなかった。キューバが唯一のマーケットで大艦隊がアフリカとアメリカで警備していた。ハバナのNYT特派員の記事によると、今年キューバに到着したアフリカ人は3万人だが、実際にアフリカ人の家庭から拉致されたアフリカ人の数よりずっと少ない。The West African Herald紙によると、ラゴスと南海岸を含め、1地区から12000人のアフリカ人が1860年1月1日から8月1日までの間に運ばれ、今年キューバに運ばれたアフリカ人の総数は6万人近いと予想されている。

 奴隷貿易は合法性が認められ、奴隷主と船長が家財に対してできる限り慈悲深くいれば、以前のように起訴されない。現在は、検知されるのを恐れて、船長は奴隷を最も残酷な隔離方法で最小のスペースに収監する。奴隷貿易が最悪の犯罪だという刻印を押された最初の恐怖は1860年の恐怖とは比べ物にならない。(中略)

 我々はこれまでに何度も奴隷貿易を抑制する唯一現実的な方法を指摘してきた。それはスペインに条約規定を守らせることによって、キューバの市場を破壊することだ。英国がそれをできる唯一の国だ。なぜなら、イギリスはスペインがこの件で条約義務を負う唯一の国だからだ。(中略)スペインがその領土中の奴隷貿易を腕ずくで抑えるまでは、奴隷貿易の廃絶どころか、減少さえ期待することはできない。しかし、スペインが自分たちの植民地を豊かにし、スペイン財務省に巨額の収益をもたらし続けた貿易を自ら抑えると期待するなど、我々の過去の経験からも、途方もない愚行の極みだ。(1860年11月29日, p.4)

1世紀半後も続く黒人差別と奴隷制をめぐる旧宗主国と旧植民地のやりとり

 白人によるアフリカ系の人々に対する差別が現在も続いていることは2020年のコロナ禍で起こった”Black Lives Matter”(黒人の命も重要)運動で広く知られました。黒人男性が警官に暴行されて死亡した事件で、”Black Lives Matter”をスローガンに全米で抗議運動が起こり、世界的な運動に発展していきました(注9)

 警察による差別はアフリカ系アメリカ人を助けようとした白人警官を解雇するという差別に発展していることも報道されています。警官に殺されたいという自殺願望のアフリカ系男性が銃弾を抜き取った銃を持っていると妻が警察に通報し、駆けつけた白人男性の警官が説得しようとしているところに仲間の警官が到着し、すぐに射殺しました。ところが、説得しようとした最初の警官が発砲しなかったのは職務怠慢という理由で解雇通知が届いたそうです(注10)

 アフリカ系アメリカ人に対する差別と暴行という点では、2023年1月にテネシー州メンフィスで起こった5人のアフリカ系アメリカ人警官によるアフリカ系アメリカ人に対する暴行殺害事件は被害者も加害者も黒人であり、加害者が警官であることから、様々な問題が指摘されています。まず、メンフィスの人口の65%が黒人で、警察の58%が黒人警官である点;黒人対白人の問題ではなく、黒人対青の警察制服の問題である点;警察権力が黒人と茶色人種を白人よりも酷く扱うような訓練をしている点;加害者の5人の警官がすぐに起訴・解雇され、事件現場の映像がすぐに公開されたこと、警官が所属する特殊部隊が解散されたことも、この警官たちが白人だったらこのような素早い対応はされなかったと指摘されている点;殺され、収監されるのはいつも黒人である点などです(注11)

 ”Black Lives Matter”運動の後、「ジャマイカ、英国に対し奴隷制への賠償金の支払い求める」(2021年9月22日、(注12))という報道が現れ、そのジャマイカを訪問した旧宗主国イギリスのウィリアム王子が「奴隷制度は忌まわしいもの」と述べたと報道されました(2022年3月23日、(注13))。

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1 Harper’s Weekly, Vol.4, 1860, Hathitrust Digital Library,
https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=mdp.39015006963360
2 The New York Times, October 6, 1860.
https://timesmachine.nytimes.com/timesmachine/1860/10/06/issue.html
3 村垣淡路守範正『遣米使日記 1』東陽堂支店、明治31.4, 国立国会図書館デジタル・コレクション
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/767353
4 大塚武松(編)『遣外使節日記纂輯 第一』日本史籍協会、昭和3, 国立国会図書館デジタル・コレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1075742 
5 日米修好通商百年記念行事運営会(編)『万延元年遣米使節史料集成』第二巻、風間書房、昭和36(1961)年
6 “The barbarism of slavery: speech of Hon. Charles Sumner, on the bill for the admission of Kansas as a free state, in the United States Senate, June 4, 1860.” Library of Congress.
https://www.loc.gov/item/11012740/
7 Eugene Clyde Brooks, The story of cotton and development of the Cotton States, Rand McNally & Company, New York, 1911. Hathitrust Digital Library.
https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=hvd.32044012977419
8 Charles Cape McLaughlin (ed.), The Papers of Frederick Law Olmsted, Volume II, Slavery and the South 1852-1857, Johns Hopkins University Press, Baltimore and London, 1981. 口絵 Hathitrust Digital Library,
https://babel.hathitrust.org/cgi/pt?id=uc1.31822010479608
9 「改めて時系列で辿る、『ブラック・ライブス・マター』ムーブメント』」COSMOPOLITAN, 2021/04/30
https://www.cosmopolitan.com/jp/trends/politics/a36270261/blm-movement-timeline-210430-hns/
10 ランハム裕子「黒人男性に発砲せず解雇された アメリカの白人警官が思うこと」GLOBE, 2021.06.25
https://globe.asahi.com/article/14379064
ランハム裕子「『真相』は封じられた 黒人男性の遺族に立ちはだかった警察の壁」GLOBE, 2021.06.25
https://globe.asahi.com/article/14379099
ランハム裕子「『油断すれば撃たれる』アメリカの警察官が訓練でたたき込まれる『恐怖』」GLOBE, 2021.06.25
https://globe.asahi.com/article/14379065
11 Clyde McGrady, “Tyre Nichols Beating Opens a Complex Conversation on Race and Policing”, The New York Times, Jan. 28, 2023
https://www.nytimes.com/2023/01/28/us/police-tyre-nichols-beating-race.html
12 小林恭子「ジャマイカ、英国に対し奴隷制への賠償金の支払い求める『ブラック・ライブス・マター』デモから1年」HUFFPOST, 2021年09月22日
https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_614a8a19e4b0175a1837ebb5
13 「ジャマイカ訪問中のウィリアム王子『奴隷制度は忌まわしいもの』」VOGUE, 2022年3月25日
https://www.vogue.co.jp/celebrity/article/prince-william-expresses-profound-sorrow-over-slavery-in-jamaica-speech