万延元年遣米使節団が滞米中に伊井大老暗殺のニュースが報道され(1860年6月)、新聞紙上で使節団に伝えるべきかの議論が起こります。
遣米使節団の滞米中に報道された井伊大老暗殺のニュース
万延元年遣米使節団が横浜を出航したのが1860年2月13日でした。その約1か月後、3月24日(安政7年3月3日)に桜田門外の変が起こります。船便の時代ですから、このニュースが英米メディアで伝えられたのは使節団がアメリカ滞在中の6月でした。『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』(ILN)、『ニューヨーク・タイムズ』(NYT)、『フランク・レスリーのイラストレイテッド・ニュースペーパー』(FLIN)を比べてみると、一番早いのが1860年6月9日のILNです。とても短く、「噂によると、水戸藩主の藩士たちによって執権(Regent)が襲われ、負傷した。水戸藩主は大君の地位を狙っており、外国人を敵視していると言われている」(注1)と報じられています。
大蘇(月岡)芳年(よしとし:1839-92))「江水散花雪」(こうすいさんかの雪)、明治7(1874, (注2))
以下にNYTにどう報道されたか時系列で紹介します。
1860年6月11日:「日本の大君の暗殺」(Assassination of the Tycoon of Japan, (注3), p.5)
現在の日本政府の長であるご大老(Prince Goitairo)が3月15日に暗殺された。彼は随行員と共に家から城へ向かう途中、旅装姿の日本人14人に襲われた。
この記事の見出しから分かるのは、本文では「ご大老」と書いているのに、「大君」と誤解して、「大君の暗殺」という見出しにしてしまったことです。日本から送られてきた記事の内容(家から城へ向かう途中)を読めば、将軍でないことはわかるはずですが、誤解を繰り返す記事がしばらく続きます。
1860年6月11日:「日本使節団」(p.4)
今日我々の元に届いた、大君の暗殺というニュースは、もし確認されたら、現在我々と共にいる使節団の成果によって我々が達成したいと願っている偉大な一歩に対する反対が日本でいかに強いかを悲しくも示すものだろう。使節団を率いる日本の政治家たちは、自分たちの国の歴史における最も強力な革命の動きに対する賛否両論の議論の収集に専念したいと思っているに違いない。したがって、来る日も来る日も彼らのアーカイブに追加するものが、彼らが軽蔑している晩餐会、理解不能なスピーチ、彼らが本能的に嫌悪している馴れ馴れしさなどの新たな記録だけなので、彼らは退屈し、イライラし、がっかりしているかもしれない。
ニューヨーク・タイムズの第一面で報道された大君暗殺のニュース
1860年6月12日のNYTの第一面の一番左の欄、つまりアメリカの読者が最初に目にする位置に日本使節の動向と大君暗殺のニュースが配置され、見出しと小見出しによる概要は以下のようになっています。
「フィラデルフィアの日本人—昨日彼らはどこに行き、何を見たか—大君の死の報告は信用できない—日本のチェス・ゲーム—フィラデルフィアにおける日本人。日本からのニュースは本当か?—フィラデルフィアの店における日本人」
ニューヨーク・タイムズの特派員。フィラデルフィア、1860年6月11日月曜日THE JAPANESE IN PHILADELPHIA.—Where they went and What they Saw Yesterday.—Report of the Tycoon’s Death Discredited.—The Japanese Game of Chess.—THE JAPANESE AT PHILADELPHIA. REPORT OF THE NEWS FROM JAPAN—IS IT TRUE? —THE JAPANESE AT PHILADELPHIA STORES.
Special Correspondence of the New-York Times. PHILADELPHIA, Monday, June 11, 1860
この第1面の記事のうち、『ニューヨーク・タイムズ』特派員(署名O., Jr.)の記事は興味深いのですが、表現が皮肉に満ちていて分かりにくいので、多少意訳して紹介します。
今日の日本使節に関する最大の関心事は、ポニー・エクスプレス経由で大君暗殺と噂されているニュースの受け止め方だ。海軍委員会の士官たちとその他の人々はこの報道の信憑性について大きな疑いを示しているが、大使のプリンスたちがこの件をどう考えているか言うのは難しい。このニュースは彼らに全く知らせないようにしており、多分それは適切だ。なぜなら伝達された内容が疑わしさを正当化するものだからだ。第一点目は暗殺されたのが精神的天皇なのか、現生的天皇なのか曖昧であること、2点目は高位のプリンス2人が暗殺に実際に関わったという点だ。そのような高位の紳士たちは家来が数千人いるだろうに、この血の行為を実行する者を見つけられないというのは驚くべきことだ。その他の奇妙なことは、この事件にかかわった30人が斬首されたのに、政府が転覆されたという点だ。もちろん、このニュースが本当だとしたら、現在の使節が全く役に立たないことになる。もし現政権が転覆して、次の優勢な王朝が外国との交際に反対であれば、大使たちは新政権の酷い仕打ちを受けるよりはと、すぐに「ハラキリ」(Har Kiri)をすることは疑いない。したがって、使節と条約、日本との商業関係などはすぐに終わるし、最後に大事なのは、ニューヨークでの大きな歓迎準備も終わる。使節団が市民の好奇心に憤慨し、日本の新たな展開を突然知れば、広範囲の腹部流出と最も新奇な世紀の検死がないとは誰にも言えない!
しかし共和党の影響下の雰囲気の中で、使節がアメリカに入植すると決心し、それを宣言して、[アメリカ人]女性のパートナーを得て(すでにお歯黒にしている女性たちがたくさんいる)、我が国の国際的な人口に新たな特徴を加えるかもしれない。日本(Niphon)の息子がニューヨークの街をパレードし、ブロードウェイでひなたぼっこするを見るのがそんなに珍しいと言えなくなるだろう。我々はほぼ毎日地球上のあらゆる国の代表たち見ているのだから。
ことによったら、大使たちは[ニューヨーク]市会議員に選出されて、彼らが日本で何千年もの間してきたように、ニューヨーク市民が清潔な通りと正直な役人と法律の厳格な執行などの贅沢をすることを認めるかもしれない。日本で革命があったのは、我が国の暗愚な国民にこのようなことを保証するという特別な神の摂理なのかもしれない。
日本使節に伝わった大君暗殺の情報
6月12日の第一面には日本人に会いに来た人から大君暗殺の情報が伝えられたという記事も掲載されます。
1860年6月12日の記事:(6月11日月曜フィラデルフィア、AP通信)
今日、日本からの情報が訪問者によって軽率に言及された。幸い秘書官の一人の耳に届いただけで、彼は賢くも仲間にこのような不確かな情報を伝えなかった。主要な士官たちは誰一人まだ聞いていないので、海軍長官はワシントンから指令を受けて、公式の情報を受け取るまで、漏らしてはいけないということで、彼らがこの情報を聞かないよう特別の注意を払っている。
この記事にある「秘書官」(Secretary)や「主要な士官たち」(chief officers)が日本使節団を指しているのか不明ですが、文脈からはそう取れます。使節団の主要メンバーの名前と役職は4月28日付けのNYTに記載されていますが、Secretaryという英語名はありません。小栗豊後守の役職を”Chief Censor (or Advisor to the Ambassador)”(主格監査官または大使のアドバイザー)としていますから、”one of the Secretaries”は小栗を指したのかもしれません。小栗以下で名前が印刷されている6人にはofficerという役職名が付けられています。
村垣範正が日記に残した大君暗殺の情報
村垣は「四月廿三日」(西暦6月12日)の日記に、この新聞記事と思われる情報を伝えられた時の思いを記しています。
けふの新聞紙とて通弁者の見せしか聊[いささか]我都府の事を記して有ければ訳を聞けるに心にかゝる事なれととふべき人もなく打寄ては案事けれ素[もとよ]り街説をしるして信するにもたらぬものと打捨ても早春に我国をはなれてより風の便りにだになければかゝる風説を聞てはさすが寝覚にかゝりぬ こは推量てしるべし弥生のはしめの事也((注4), p.88)
「通弁者」が新聞紙を見せたと村垣が述べているのが首席通詞の名村五八郎だとすれば、名村の「亜行日記」の「四月廿三日」の記述は「夜五ッ時当所諸役ゝ両使面会」という短いもので、内容は書かれていません。その前日の記述は「ワシントン都事務職ヨリ、両使宛ノ書簡到来ス」となっています。「廿四日」(6月13日)の記述は造幣局に行った時の活動についてです。ですから、NYTの報道の日付から類推すると、通訳が入手した新聞にも同日に「大君暗殺」と報道されていて、それを翻訳して正使・副使に伝えたとも推測できます。
使節団一行の日記を分析したマサオ・ミヨシは、この事件について触れていませんが、宮永孝著『万延元年の遣米使節団』(2005)では、6月12日に「副使村垣のもとに通詞がやって来て、江戸のことが出ている新聞を見せたという」と解説され、宮永は『ザ・フィラデルフィア・インクワイラー』掲載の「大君の暗殺」と題した記事ではないかと推測しています。そして「通詞の解説を聞いて、ある者は肝をつぶし、また憂慮のおももちで集まっては心配するものもいた。村垣は、このようなニュースは町の風聞であって、信ずるに足らぬものと打ちすてようとした」((注5), p.169)と述べていますが、この情報の出典は示されていません。
因みに、徳富蘇峰(1863-1957)は昭和8(1933)年刊の『近世日本国民史 開国初期篇』で村垣のこの日誌を引用し、次のコメントを付けています。「彼等は井伊大老の身上に関する事変とは、感づきたるものであろう。それにしても3月3日の事が、中に閏3月1箇月を置き、漸く4月23日に於いて、其の風説が伝わるとは、ずいぶん当時の音信の緩々であったことが思いやらるる」((注6), p.143)。
情報源は日本使節団の訪米が成功していることを邪魔する狙いか?
同じ6月12日の第一面に同じ特派員の別の記事が続いて掲載されていますが、重複する内容と新たな情報が混入しています。
1860年6月12日の記事:(6月11日月曜夜 フィラデルフィア, p.1)
昨日の朝、[ニューヨーク]『タイムズ』に届き、報道された日本の大君の暗殺の噂は、まだ大使たちに伝えられていない。海軍の長官たちはこの噂は根拠がなく、2週間前からタウンゼンド・ハリスの死を知らせたのと同じグループによって拡散されていると言う。この根底にあるのは、日本使節団の訪米が成功していることを邪魔する狙いがあるにちがいないと長官たちは考えているが、このような出来事にどんな利益が誰にあるのか理解に苦しむと言う。ハリス氏の死は上海のアメリカ人からボストン宛の手紙で伝えられたというが、そのような情報源は見つからなかった。
この情報が印刷されたというサンフランシスコの新聞を受け取ったら、もっと詳しいことがわかるだろう。これが事実だと証明されたら、使節団は解散になる可能性が高く、条約の下に行われている行事は全て取り止めになるだろう。これが外国人に対する十字軍の始まりかもしれないし、ハリス氏自身が危険な立場に置かれると捉えられる理由がある。もし大君の暗殺と保守派(Tory Party)が優勢だと立証されたら、Princeたちは今や日本に戻ったらかなりリスクを被ることになるだろう。
この前後は、一行のフィラデルフィアでの見学先について書かれ、この記者は、きつい歓迎スケジュールに疲れている一行に同情的で、「安息日委員会が7日のうち1日は休息日にすることはたやすいと思う。特に一行が到着以来ずっと強制させられている労働を考えたら」と書いています。
大老暗殺のニュース
1860年6月13日:「日本の大君暗殺の噂」
以下の抜粋はカリフォルニアの新聞に書かれていた事件の唯一の文章である。
アルタ・カリフォルニアより:5月21日
帆船ペイジ号のモアハウス船長が昨夜神奈川から28日後に到着した。これは史上最速の記録である。以下は帆船から得た情報である。ご大老(Prince GOITAIRO)、現在の日本政府の最高位、が3月15日に暗殺された。彼は家来と共に邸宅から城へ行く途中で、旅人の服装をした14人の日本人に襲われ、数人が負傷した。暗殺者の一人は負傷したので逃げられず、仲間によって首を切られ、身元を知られないよう首は持ち去られた。
暗殺者の二人は高位のprinceで、自分の腹を刀で切り開く特権があり、そうすることで、領地没収を防げるし、斬首に伴う不名誉から家族を救うことができる。4月1日に30人が斬首された。前大君のもとで条約が作成されたが、その大君の死以来、政府内部は全面的な変化があった。現王朝は外国との交流に反対しており、貿易と商業を阻むためにあらゆる邪魔をしてきたから、条約違反にならない程度に何でもするだろう。
反対派のトップは水戸藩主で、現政府と同じくらい強いと言われており、すぐに暴動が起こると予想されている。江戸に向かう街道と町では武器を備えた衛兵所がいたる所に建っている。横浜では、通りが入り口と交差点でバリケードされ、日没後は通行が禁じられている。通行する場合は警察官に検査される。全外国人は日没後は外出しないように言われたが、どうしても通行しなければならない場合、警察官に提灯を持って同行してもらう。外国人の自国の領事からいかなる時も武器を携帯して外出するよう勧告されている。
事件の日付や重要な事実がいくつか間違っていますが、約160年前の事情や混乱していた日本の状況を考えれば無理もない間違いでしょう。ただ、カリフォルニア経由の同様の記事は、使節がニューヨーク到着後にも繰り返し報道され、ニューヨークでの盛大な歓迎ぶりと使節の動向の報道をNYTの読者は同時進行で読んでいたことになります。
日本の首相の暗殺はリベラルな政策のせいか?
1860年6月23日の記事:FLIN(注7)
日本からのニュース
サンフランシスコからの陸路便が情報をもたらした。3月15日にご大老(Prince Gotario)が邸宅から江戸の将軍の宮廷(Tycoon’s Palace)へ向かう途中、旅人に変装した政敵の一群に襲われて、暗殺され、6人の護衛または従者も同じ運命にあった。同じ便でもたらされたニュースでは、4月1日にこの暗殺計画に加わった数人がこの罪で罰せられ、そのうち何人かは切腹を許された。これによって領地没収から免れ、家族を処刑という憎むべき境遇から守ることができる。
我々はこの特異な人々の政治についてほとんど知らないので、この事件からいかなる推論も引き出すことは無駄である。しかし、ほぼ確かなことは、殺された首相(Prime Minister)はリベラルな政策を支持していたと思われる。なぜなら、もし彼が使節団をこの国に送ることに反対だったら、権力の座にい続けてはいなかっただろう。同じくありそうなことは、彼が属する党派が依然として支配権を維持していることだろう。なぜなら、時代遅れの考えを好む者たちが成功したなら、暗殺者たちは罰せられることはなかっただろう。彼らは明らかに罰せられたのだから。噂では、高位の君主たちの何人かはこの未遂の革命を心配しているという。
この惨事がニューヨークにいる使節団にどんな影響を及ぼすかは、もちろん、予想不可能である。しばらくは、この出来事を彼らに知らせないでおくことは不可能ではない。(p.66)
大老暗殺後、幕府の外国人警護に対する信頼が日毎に増している
1860年6月26日:NYT「日本からの重要なアドバイス」, p.5
3月3日までの日本のニュース。日本政府は不安定な状態で、外国との交際を認める新たな政策に反対する大きな政治勢力がある。江戸近くで戦闘があり、プリンスが1人殺された。神奈川港に停泊中の外国船のキャプテンたちは日本政府から警護を提供することができないから攻撃に備えるよう知らされた。政府は離脱者の数を非常に恐れ、その結果アメリカとの条約を実行することに関して大変揺れているようだ。
1860年6月30日の記事:ILN
日本駐在のイギリス代表、オールコック氏からの一連の報告書が先週土曜日に外務省から発表された。最初の3,4通は日本人の通訳が殺されたことに関するものだった。日付の遅い方の報告には、摂政(Regent)の暗殺未遂事件について述べられていた。
1860年7月3日:NYT特派員、神奈川、1860年4月25日
摂政が江戸城に向かう途中で暗殺された事件。(中略:水戸について)18藩のうち、いくつかの藩はほぼ独立している。水戸藩もその一つ。(中略)大老暗殺までは彼ら[幕府が提供する警護]が役立つのかわからなかったが、今では政府の善意に対する信頼が日毎にましている。水戸が政府転覆を企んだが成功しなかった。大老の安否がわからなかったが、傷がもとで死んだことは疑いない。
1860年7月21日:「未遂の革命」(Attempted Revolution)、HW, p.455.
日本の摂政、ご大老の暗殺未遂について数紙が報道しているる。(中略)この襲撃が内乱の始まりか、または、他の原因によるものなのかは推測するしかない。しかし、日本政府はこれが浪人たちや無法者たちの不満のせいにしている。
イギリス外務省報告
オールコックが3年後に出版した『大君の都』(1863, (注8))で、何を聞き、何をイギリス外務省に報告したか述べていますので、以下に要約します。
- 3月24日にご大老(Gotairo, or Regent)が城へ行く途中で襲撃され、暗殺されたという知らせが届いた。暗殺が成功したのかどうかは確かではない。
- その場で殺され、頭は持ち去られたという人もいるが、すべての公式発表では、彼は負傷しただけで生きているという。日本では君主や権力の上層部にいる人が死ぬと、後継者が決まるまで死亡を隠し、死者は単に病気だとされるのが普通だ。
- 彼の健康についての問い合わせと、イギリス公使館から医師を派遣しようかという申し出に対し、閣老は援助を断り、病状は悪くなっていないという知らせの日々が続いた。
- しばらくしてから、本当の事実が風呂屋のゴシップ(フランスのカフェのような役割)になって公衆の知るところとなった。[この後6ページにわたって、事件の詳細を描写しています](pp.84-99)
キャプション:櫻田門外の亂闘、昭和3(1928)年((注9), p.353)
使節団は帰国まで事実を知らなかった
村垣の日記に、帰路の香港寄港(1860年10月23日:安政7年または万延元年9月10日)中に、香港に停泊していたオランダ軍艦に長崎の商館長が乗船していることを聞き、オランダ人通詞を介して日本の情報を得たことが記されています。6月12日(安政7年4月23日)に聞いた「大君」あるいは「ご大老」暗殺のニュースが「寝覚にも心にかゝりてバタビヤに至れは聞へんともありやとおもひしか更に何の便もなく此港[香港]にては我神奈川に通ふ商舶もあれはいかにやとひけれとくわしき事も知らす」((注4), p.126)と、情報収集に苦心したことがわかります。この後は「けふ和蘭の蒸気軍艦入津して」と続き、10月25日(和暦9月12日)に香港に入港したオランダ軍艦にオランダ商館長ドンケル・クルティウス(Jan Hendrik Donker Curtius: 1813-1879)が乗っていると聞いて、オランダ語通詞ホルトマンを船に行かせ、その結果を以下のように記しています。日記では「トンクルキュルシュス」と記載されています。
トンクルは崎陽[きよう;長崎の異称]を交代して江都に至りまた函舘に回りて来りしなれは江都の平穏にして大老職病卒と咸臨丸帰帆して其コモトール栄転せしと(此事後に聞は勝麟太郎の事なり)聞しよし函府には下野守徳保竹内(ママ、竹内保徳たけのうちやすのり:1807-1867; 1860年は箱館奉行)に面会せしといふ委しき事は知らねと我国の静謐なる事を聞て人々安堵したり外国人に我国の安否を聞も珍らしき事なり(p.126)
蘇峰は「大老職病卒」の後に「(此れは幕府にて井伊は傷を負うて病死としたからのこと)」((注6), p.159)と注をつけています。
咸臨丸渡米の成功は軍艦奉行・木村善毅が私財を投じたから
蘇峰は序にあたる「開国初期篇刊行について」を万延元年遣米使節と共にサンフランシスコに渡った咸臨丸提督の木村摂津守善毅(よしたけ:1830-1901)に関する貴重な情報で締めくくっています。咸臨丸の太平洋横断については勝海舟や福澤諭吉が得たものが知られているが、軍艦奉行だった木村善毅の「隠れた美談」は1933年まで知られていなかったという指摘です。木村本人も後継者も公にすることを望んでいなかったが、見えないものを明かにすることは「史家の本職である。故に予は自から責任を取りて、その一節を転載するの自由を敢てする」(p.8)と断って、友人の海軍大将・谷口尚真(なおみ:1870-1941)から見せてもらった木村の自伝から引用しています。
木村は西洋諸国の軍艦に一定の規則があり、士官・水夫に「位階俸禄」を与え、厨房に至るまで平日より準備が行き届いているのに対し、日本は開港の条約が結ばれたのに、攘夷論に沸き、政府の方向も定まらない中で、軍艦の規則を設けることなど思いもよらない現状だ;オランダから購入した軍艦は1,2隻はあっても「空しく近海に碇泊して、僅かに運輸の用に供するのみ」(p.8)と述べています。
したがって、咸臨丸の乗組士官には命を賭ける航海をさせるにもかかわらず、位階もなく、定員もなく、俸給も米を与えるだけ。木村は出航前に、応分の俸給階位を定め、規則を設けるよう政府に進言したが、「毫も省せられ」なかったと記しています。その後、辞任も考えたが他に代わる人もないため命に従うことにしたこと;家の蓄えであった千両箱数個で士官・水夫、それ以下の者たちに手当として与えたこと;上官が私財を投じたと知ったら受け取らないので、木村は死ぬまで人に語ることがなかったと伝えています。
木村善毅の家は数代にわたって浜御殿奉行[現在の浜離宮恩賜公園;将軍の鷹場、農園その他]だったため裕福だったから私財があったのですが、咸臨丸渡航以後は家計は急速に衰えたと木村夫人が語っていたそうです(p.10)。
蘇峰のコメント
蘇峰はこの序を以下のコメントで締めくくります。
誰かいう、幕吏皆な腐敗せりと。天下何の代、何の世にも、必らず清善の士あり、木村翁の如き、亦た実に其の一人と言はねばならぬ。勝海舟の盛名は、赫々(かくかく)として天下に轟く。予は茲(ここ)に特に芥舟翁[木村善毅]の此の隠れたる美徳に就て、一言禁じ難きものがある。後の職を帝国海軍に奉ずる者、須(すべか)らく此の先輩に対して矜式(きょうしょく:つつしんで手本とする)する所あらしめよ。(pp.10-11)
蘇峰が万延元年遣米使節についてコメントした時代
蘇峰が万延元年遣米使節について書いた『近世日本国民史 開国初期篇』は1933(昭和8)年12月10日に発行されましたが、昭和7,8年に起こったことを見れば、蘇峰がどんな思いで万延元年遣米使節を検証したかわかります。彼がコメントした時代、1932(昭和7)年と1933(昭和8)年の主な出来事を『明治・大正・昭和 世相史』(1985, (注10))から選んで列挙します。
- 1932.2.11:
東大生、反戦・授業料値上げ反対デモ - 3.1:
満洲国建国宣言 - 3.5:
三井合名理事長 団琢磨[たくま:1858-1932, 三井財閥の統率者]、血盟団員に射殺される - 3.22:
長野県62校、東京20校、茨城県数校の赤化教員の大量検挙で休校。 - 5.15:
犬養毅[1844-1932]首相、陸軍将校に射殺される。この2週間前に演説をし「侵略主義というようなことはよほど今では遅ればせのことである。どこまでも、私は平和ということをもって進んでいきたい」と公言しました。この演説は「満洲事変の拡大は日本の破滅につながる。それを何としてでも阻止したい、という身をさらしての最後の抵抗であったことが伝わってくる」と評価されています(注11)。 - 6.29:
警視庁、特高警察部を新設 - 7.23:
関東消費組合連盟が政府米獲得闘争の「米よこせ会」開く(8月16日同組合幹部一斉検挙) - 7.27:
文部省「農漁村の欠食児童二〇万人」と発表 - 8.1:
国際反戦デー、東京で1500人がデモ - 10.3:
満洲へ武装移民団432人出発
- 1933.1.12:
河上肇[1879-1946]の検挙。京都帝大教授、経済学者、社会運動家、「貧乏物語」を大阪朝日新聞に連載し、反響を呼んだ。 - 2.3:
長野県の小学教員赤化事件で65校、208人検挙。 - 2.20:
小説家・小林多喜二(1903-1933)が特高警察に逮捕されて虐殺される - 5.26:
滝川事件:刑法学者の京都帝国大学教授・滝川幸辰(1891-1962)がマルクス主義的だとして文部大臣・鳩山一郎によって休職処分にされる。学生たちが大学の自治と学問の自由を守るために戦ったが、文部省との争いに敗れた。 - 8.9:
関東で初めて防空演習が行われた。敵機来襲を想定する燈火管制は国民に非常時意識を植えつけるために効果的だった。 - 11.22:
『源氏物語』上演禁止。登場人物が皇族、恋愛を主題とすることが退廃的という理由で、新歌舞伎座での上演が警視庁から禁止された。
日本人は排外的民族ではない
こんな時期に蘇峰が万延元年遣米使節の時代とその後の攘夷の時代についてどう評価したかは、序「開国初期篇刊行について」で強調していること、使節の動向についてのコメントで探ることができます。10ページという長さで、「昭和八年十月十九日正午」という日付の後に、71歳の翁という趣旨の「蘇峰七十一叟」という署名をしていることにも蘇峰のメッセージが読み取れます。その「序」は以下の書き出しで始まっています。
大和民族は、本来排外的民族ではない。其の弱点は寧ろ開闢以来の歴史に質せば、余りにも包容力の旺盛にあった。いわばいやしくも外来とあらば、其の善悪、醜美、好悪の差別なく、ただ外来のために、之を歓迎し、優待し、好遇し、やがては、之を崇拝するが如き迄に立ち到った例は少なくなかった。奈良朝における支那崇拝、戦国時代における南蛮崇拝、明治時代における欧米崇拝の如きは、其の著明なる例と見るべきものであらう。(p.1)
攘夷が不可能なことを百も承知で、攘夷の気分が将来台頭することは蘇峰が保証する
この後に、日本に排他の要素もあるが、漢民族や欧米諸国の「差別の念は、甚だ厳酷」(p.1)だと指摘しています。攘夷の理由は外国が日本を侵略すると誤解したからだが、同時に日本における外国人の態度も日本人に攘夷の思いを起こさせたものがあったと述べています。そもそも、ペリーが「口には平和の使者と称するも」「七艘の黒船にて、江戸湾に闖入したるは、無躾の極み」(p.3)で、その後の外国人の日本に対する態度は優越主義中心で自分たち以外は劣等民族扱いしているので、「日本国民が之を甘受すべき理由はあるまい」(p.3)と欧米優越主義を厳しく批判しています。
また、欧米が中国・インド、その他のアジアの国々を蹂躙してきた事実も挙げています。幕末に攘夷の熱が吹き荒れた国内の事情には、討幕の一手段として「外人との葛藤を惹起す可く、攘夷の運動を鼓吹したる事」(p.4)を挙げています。これら攘夷者たちが排他的ではなかった理由として、「多くの攘夷者の中には、攘夷の不可能のことは、百も承知の上にて、之を唱説し、之を実行したる者も少くなかったことは、明治維新の当初に於て、彼等が卒然転向したるを見ても」(p.5)わかると述べています。
蘇峰が「予の考察」(p.2)と断っているこの文章は真珠湾攻撃の8年前に書かれていますが、まるで太平洋戦争を予想しているような文章も追加しています。
我が大和民族は、寛大なる心胸の持主ではあるが、若し万一彼等の自尊心を冒涜するが如きことあらば、今後とても攘夷の気分は時と場所とを選ばず、猛然として台頭し来る可きは、著者が今日から、之を保証して居るところ、過去、現在は言ふも更らなり、将来に於ても、決して間違はあるまい。(p.5)
注
注1 | The Illustrated London News, Vol. 36, Jan. – June 1860, p.546. Internet Archive https://archive.org/details/illustratedlondo00lond |
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注2 | 大蘇(月岡)芳年(よしとし:1839-92))「江水散花雪」(こうすいさんかの雪)六華園蔵板、明治7(1874)年、国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1305815 |
注3 | ”The Japanese Embassy.”, The New York Times, June 11, 1860.これ以後のNYTは以下のURLの日付を変えればアクセスできます。 https://timesmachine.nytimes.com/timesmachine/1860/06/11/issue.html |
注4 | 村垣淡路守範正『遣米使日記』東陽堂、明治31.4. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/767353 |
注5 | 宮永孝『万延元年の遣米使節団』(底本は1990年新潮社刊『万延元年のアメリカ報告』)、講談社学術文庫、2005. |
注6 | 徳富猪一郎『近世日本国民史 開国初期篇』第44冊、民友社、明治書院、昭和8(1933)年12月、国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1117938 |
注7 | Frank Leslie’s Illustrated Newspaper, Vol.9, 1860. Internet Archive https://archive.org/details/franklesliesillu00lesl |
注8 | 山口光朔訳『大君の都』(中)、岩波文庫、1962 |
注9 | 奈良島知堂『少年伊井大老』大同館書店、昭和3(1928), 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1169358 |
注10 | 加藤秀俊・加太こうじ・岩崎爾郎・後藤総一郎『明治・大正・昭和 世相史』社会思想社、1967, 追補11刷, 1985. |
注11 | 堀川恵子、稲泉連「なぜ犬養毅は”話せばわかる”と言ったのか」PRESIDENT Online, 2019/05/15 https://president.jp/articles/-/28603) |