彼の一貫性の表れだという視点から、ラングの未開人論を辿ってみたいと思います。「未開人」と訳した語は”savage“で、「野蛮人」という意味もあります。日本語の「未開人」は今では差別用語とされていますが、19世紀の植民地時代には植民地の先住民族をこの語で呼んでいました。
ラングが最初の論文で、オーストラリア先住民族の文化を研究することによって、イギリス人が「人種の誇りという愚かさを投げ捨てること」を目指したと紹介しましたが、それが彼の一貫性の表れだという視点から、ラングの未開人論を辿ってみたいと思います。「未開人」と訳した語は”savage“で、「野蛮人」という意味もあります。日本語の「未開人」は今では差別用語とされていますが、19世紀の植民地時代には植民地の先住民族をこの語で呼んでいましたので、そのまま翻訳します。ラング自身がグリムのメルヒェン集の英訳『グリムの家庭のお話』(Grimm’s Household Tales, 1884 (注1))の解説の中で定義を述べているので、紹介します。
”savage”という語を、オーストラリア人、ブッシュマン、アルゴンキン族のようなアメリカの部族やマオリのような人種という意味で使う。この膨大な数の種族には微妙に異なる初期文明と「文化」の多くの段階が見られる。しかし、我々が参照する人種はみな今のところ未開であり、彼らは未開の知性の特徴的な性質を示している。(p.xlix)
これに対し、ラングがヨーロッパの先史時代の人々を指す場合は”barbarian”(野蛮人)という語を使う場合が多いように思いましたので、日本語でも使い分けようと思います。帝国主義時代における”barbarian”という言葉の使い方について、一つの例をご紹介します。1858年にイギリス統治によるインド帝国とされたインドには、10世紀にイランから逃げてきたパルシー(ゾロアスター)教徒が住んでいましたが、19世紀にイギリスが来てくれたおかげで、インド人でない自分たちが「野蛮(barbaric)とみなされていたインドで上位に立てた」と人種的優位性を感じたそうです(注2)。
植民地・帝国主義時代のアボリジニの人権
ラングの未開人論を見る前に、19〜20世紀にかけてのアボリジニの人々に対する政策を概観します。ラングが上記引用の文章で、オーストラリアのアボリジニを「オーストラリア人」と呼んでいることは、当時まだ白人入植者を「オーストラリア人」とは認識していないことの表れでしょうが、その後のアボリジニの人々が受けた仕打ちを知ると、19世紀に「オーストラリア人」と呼んだことが印象的です。
1786年にイギリスはオーストラリアをイギリス国内の囚人の流刑地としました。オーストラリアをイギリス領とできたのは、先住民アボリジニの存在を無視して、「無主」(terra nullius)の地とみなしたことから始まります。200年後の1982年にエディ・マーボ(Eddie Mabo)氏ら5人のアボリジニが原告となってオーストラリア政府に対する訴訟を起こし、10年後の1992年に高裁判決が6対1で、オーストラリアは植民地化が始まった時に「無主」の地ではなかったという判決を下しました(注3)。この時、私は西オーストラリア州のマードック大学で教鞭をとっていましたが、法科の学生たちが小躍りして喜び、興奮しきって授業にならなかったことが強烈な印象として残っています。残念なことに、この時、5人の原告のうち、マーボ氏を含め3人が既に亡くなっていました。
オーストラリア建国記念日の1月26日は、イギリスの囚人たち759人を乗せた最初の船がシドニー湾に到着した日(1788年)で、アボリジニの人々にとっては侵略された日であり、祝うことはできないと、長い間抗議が続いていました。2016年現在、オーストラリアの建国記念日を別の日にすべきだという意見が出ているそうです(注4)。
ラングが「オーストラリア人」と呼んだアボリジニの人々は、1901年にオーストラリアがイギリス植民地から独立国家になってから1967年まで、「オーストラリア人」の資格も与えられず、国勢調査の対象からも外されていました。1967年に国民投票が行われたのですが、それは1901年制定のオーストラリア憲法の条文に含まれているアボリジニに対する差別の是非を問うものでした。この憲法では、議会の立法権について、「アボリジニを除く、すべての人種」の平和と秩序を守るためと記され、さらに、人口調査に「原住民族アボリジニは含まれるべきではない」と書かれています(注5)。アボリジニを除外するという文言を憲法から除外するという案に対して、国民投票で90.77%が賛同し、史上最高の賛成率だったと、国立アーカイブスの解説で述べられています。ところが、現在のオーストラリア議会ホームページ掲載の憲法「大要」(注6)には以下のように書かれています。
オーストラリア憲法は1900年にイギリス議会法の一部として可決され、1901年1月1日に発効した。1901年以前のオーストラリアはイギリスの6自治植民地で、植民地に対する絶対的権力はイギリス議会にあるため、イリギリス法となるのは必要だった。しかし、現実には、この憲法の文書はオーストラリア人によって草案され、オーストラリア人によって認められたのである。(p.iv)
国家対国家という視点からは、オーストラリア人による、オーストラリア人のための憲法だと誇れるのでしょうが、「オーストラリア人」という名称とその実態をめぐっては見てきたように悲惨な歴史があったのです。
ラングの選んだダンピアの未開人観
1887年、ラングが40歳の時に出された『神話・儀式・宗教』(Myth, Ritual and Religion,(注7))の第12章「最下等の人種の神々」(Gods of the Lowest Races)の中で、オーストラリアのアボリジニの文化は当時の退化理論とキリスト教からの借用理論では説明できないと、以下のように述べています。
オーストラリア人の宗教概念はヨーロッパから借用したものではないという理由を述べなければならない。ダンピア[William Damipier: 1651〜1715]が1688年に[オーストラリアの]北西海岸で見たのは、家も農業も金属も家畜も持たないオーストラリア人が「世界で最も哀れな人々」に見えたことだ(ラングの注:Early Voyages to Australia, pp.102-111. Hakluyt Society)。この状態で当時彼らはヨーロッパの影響を受けずにいたのである。ダンピアは奇妙なことも記している。「[食べ物が]少ない時も豊富な時も、誰もが分け与えられ、外に行けない病人も年寄りも、幼い子供も、逞しく元気な者たちと同じく分け与えられた」。このような公平性または寛容さ、あるいは利他的な側面は、今でもある人種の宗教的秘蹟の中に繰り返し説かれている。「寛容さは確かに原住民の最大の特徴だ。彼はいつでも自分の食べ物、あるいは、自分の持ち物を仲間と共有することに慣れている。もちろん、彼が昔からの習慣に従っているだけで、もし破れば厳しい罰があり、無作法なやつだと軽蔑されるからだと、反対することもできるかもしれない。しかし、この習慣が表している考え方は、特にこの事例の場合、誰もがある個人に対して親切に振舞う義務があるということで、この考え方を否定することはできないだろう。このような習慣が存在すること自体が、たとえこの行為がいつかは見返りを期待して行われるとしても、他の人に有益な行為は行う価値があるという事実に敏感だということを示している。(中略)自分が持っているものの一部を分け与える習慣は原住民にとっては確固たるものである」(Spencer and Gillen, Natives of Central Australia, p.48)。こう主張した著者たちは、この義務が中央オーストラリアでは宗教的制裁のもとに、部族の秘蹟の中に説かれているのかは述べていない。しかし、これはKurnai族や、ヴィクトリアとニューサウスウェールズの部族に当てはまる(Howitt, Journal Anthrop. Inst., 1885, p.310)。ダンピアがこの習慣を1688年に見つけたのだから、キリスト教的行為と言える習慣を、原住民がキリスト教徒の植民者を見て採用したと主張することはできないだろう。
ラングが最初に「このような公平性または寛容さ、あるいは利他的な側面は、今でもある人種の宗教的秘蹟の中に繰り返し説かれている」と書いているのは、19世紀の大英帝国や植民地・帝国主義のヨーロッパ人を皮肉っているのだと、最後を読むとわかります。文明化したヨーロッパ人が教えられなければできないことを、「最下等の」アボリジニは自然に身につけていると言っているのでしょう。
20世紀の歴史家が選んだダンピアのオーストラリア観
ラングが引用したダンピアの1688年のオーストラリア(当時の名称はNew Holland)での経験を、20世紀の歴史家たちは見逃したのか、故意に無視したのか、「世界で最も哀れな人々」の部分しか引用していません。たとえば、『オーストラリアの伝記辞典』(注8)ではダンピアの経歴を記した後に、以下のように書かれています。
ダンピアはオーストラリア史にほとんど貢献していない。それどころか、西海岸に関する彼の印象は酷いもので、岩礁と砂州が延び、その向こうには砂丘と不毛な地が続き、水もなく、「世界で最も哀れな人々」が住んでいるだけだと見ていた。この地勢学的記述には彼の観察力の正確さを危うくするものはない。しかし、彼の本によって起こった南の大陸への熱い関心は18世紀を通して続き、太平洋への最後の探検は彼の同国人[イギリス人]によって行われた。東オーストラリアの発見と植民地化は間接的ではあっても、ダンピアの業績の本当の結果と見ることができるかもしれない。
同じ引用がオーストラリア史の権威とされたマニング・クラーク(Manning Clark: 1915〜1991)の『オーストラリアの歴史』(A Short History of Australia, 1978,(注9))でも見られます。なぜ19世紀のラングに見えたものが20世紀の歴史の大家には見えないのでしょうか。『オーストラリアの伝記辞典』の執筆が1966年だということを考えれば、アボリジニの人々にまだ市民権も与えられず、人口に数えられていない時期でしたから、そんな時代を反映しているのかもしれません。しかし、その12年ほど後に出たクラークの『オーストラリアの歴史』でも同様だというのは何を意味するのでしょうか。特にクラークがダンピアを「すぐれた観察眼と暖かい心を持ったイギリスの放浪者」と前置きしながら、「彼は1688年と98年の二回、オーストラリアに達しているが、その時観察した住民の状態を『世界でもっとも惨めな人びと…人間の形をした外観を除けば獣と何ら変わるところがない』などと述べている」(p.9)と引用しています。
確かに、ラングが引用したダンピアの本はインターネット・アーカイブでも掲載していませんし、幻の版なのかもしれません。私自身、ほとんど諦めかけていましたが、インターネント・アーカイブ掲載のダンピア作の本すべてに目を通そうと覚悟を決めて探し始めたところ、全く別の題名で1688年の航海記が掲載されていました。1699年発行の『世界周遊の新航海』(A New Voyage Round the World, vol.1 (注10))です。1679年から1691年の航海記で、第16章にラングが引用した通りの文章が記されています。専門家はこれを見逃しているのかと一瞬思いましたが、「世界で最も哀れな人々」の後にはっきりと書かれているので、見逃しではなく、意図的に無視したのかと思いました。
植民地における先住民族の扱い:1858年法制審議会議事録
ラングは『神話・儀式・宗教』12章に1858年のオーストラリアのヴィクトリア[現在は州]「法制審議会・アボリジニに関する特別委員会」(注11)報告書から引用しています(p.6)。ただし、彼の注によると、1872年発行のJ.A.L(Journal of Anthropological Institute, pp.257-271)に掲載されたもので、報告書全部の掲載かはわかりません。
21世紀の私たちはこのレポートのデジタル化を読むことができます。今から158年前の審議会報告書に誰がいつ何を言ったのかという詳細な議事録(113ページ)がついていることに驚かされます。
1858年のヴィクトリア「法制審議会・アボリジニに関する特別委員会」の議長のトーマス・マッコンビー(Thomas McCombie: 1819-1869)による「まとめ」の要点を以下に翻訳します。
- 1838年にヴィクトリアに白人が入植した時、この地域のアボリジニは6,000〜7,000人いたが、現在[1858年]、200〜300人も生き残っていない。この前例のない大きな死亡率の原因は白人による占領、文明人との接触による堕落(特に飲酒)、狩猟地を奪われたことによる飢餓、[白人による]残虐。特に大きな問題がアルコールで、寿命を縮めている。
- 植民地政府はアボリジニの狩猟地を奪った時に、適切な食料支給をすべきだった。アボリジニがニュージーランド人[マオリ]のように強かったら、自分たちの国に侵入して来た者たちに力づくでも要求しただろうが、未開人の中でも弱くて無知な彼らは完全にニグレクトされた。
- ヴィクトリアは今や全土を優れた人種に占領されており、アボリジニが疲れた足を休められるような場所は、遠くの山脈か森林しか残されていない。この状態を続けるのは道徳的に大問題だ。
- 遅きに失したが、生き残っている部族を飢えさせないことが、我々のコミュニティーの義務であり、進化した文明とキリスト教の原則にも則っていると考える。
- 生き残っている部族すべてを1カ所に集めることが提案されたが、証言者の一人、トーマス氏は「アボリジニの守護者」(Guardian of Aborigines)で、この案は現実的ではないと確信している。黒人たちは狩猟地域から離れないし、引き離されると悲しみで死んでしまう。したがって、本委員会はこの案を諦めた。
- 別の案は、生き残ったアボリジニを文明化し、キリスト教信者にすることだ。この件で徹底的に調査した結果、アボリジニは他の人種と比べても知能があり、ニグロよりも優れていて、偉大な人種の中の劣った階級(some of more inferior divisions of the great human family)よりも優れていると、この分野の唯一の権威、ピッカリング博士(Dr Pickering)は言う。召使いとしてアボリジニは真面目で忠実だという最重要の証言もある。
- 本委員会の結論は、知覚能力に優れているが、省察的能力に非常に劣っており、性格には目的意識が欠けており、そのため、彼らを文明化しキリスト教化することの大きな障害になっているというものである。
この後に、それぞれの証言者がアボリジニについて詳しく述べています。証言を聞いた上で、議長が上記の見解を述べたのですが、急激な死亡率の原因を飲酒によるとしか記していないのは意図的だろうなと思います。入植者たちがもたらした伝染病なども大きかったようですから。
植民地における先住民族の扱い:1837年イギリス議会特別委員会報告書
この35年前のイギリス議会「アボリジニ部族(英国植民地)に関する議会特別委員会報告書」(Report of the Parliamentary Select Committee on Aboriginal Tribes, (British Settlements), 1837,(注12))では、病気がもたらされたことも記していて、ずっと人道的な内容です。ラングが生まれる前の議会報告書ですから、彼が読んでいたかは今のところわかりません。
委員長のフォーエル・バクストン(Fowell Buxton: 1786〜1845)は奴隷反対の活動、刑務所の改善、貧困撲滅、植民地の先住民の解放などに積極的に取り組んだ人物でした(注13)。バクストン執筆と考えられる「序」の中で、以下のように述べています。長いですが、180年後の私たちにも当てはまることばかりだと感じるので、できるだけ訳します。この題名のアボリジニの意味は原住民の意味で、オーストラリアだけでなく、当時の英国植民地だった地域の先住民族を含みます。
この報告書の内容は既に英国市民には別の形で知らされていることだが、議会に提出された文書としては最初の最重要のものの一つである。アボリジニが不当で残酷な扱いを受けてきた証拠に満ちており、ヨーロッパ諸国と接したことで彼らが致命的な影響を被ったことだけでも、法的な介入が即刻必要なことがわかる。
この報告書が必要とされるもう一つの理由は、アボリジニの扱いに対する英国民の無関心さである。この国で最近広がりつつある博愛主義的活動に照らしても、この国の植民地で進みつつある抑圧について全くチェックされていないのは悲しむべきことである。この国の抜きん出た自由と啓蒙とキリスト教の時代にあって、暗黒の時代でさえ国際的に恐怖を呼び起こすような残虐性が気づかれず、咎められずに、まかり通っているのである。高い評価を得ているイギリス人と接した外国人には、この報告書に書かれていることは架空の話としか聞こえないだろう。
我々が与えた傷、我々が行使した圧政、我々が犯した残虐行為、我々が育んだ悪徳、我々が引き起こした荒廃と徹底的な破壊は、我々が寛容に拡大する努力を続けてきた原則の対極にある。つまり、我々が作り上げた市民的自由の進歩や、人類の道徳的知的進歩、聖なる真理の促進などのみが人類を恒久的に向上させ文明化するということの対極にあるのだ。隣国の圧政を軽蔑の目で眺めるのに慣れている我々は、自分たちの沈黙によって、同じような不法で破壊的な政策を認めている。人道と正義のあらゆる法が忘れられ、無視されている。何世代にもわたって、略奪や死の行為が行われ続け、世界で最も宗教的な国家の植民地所有について、聖書の激しい言葉「多くの残虐者が住む、地球上の暗黒の地」があてはまるだろう。危害を加えない無実のアボリジニたちを抑圧した者たちの動機を探ることは大変な作業になる。
この後にスペインが「聖書を片手に、剣をもう片方の手に」、[南アメリカの]アボリジニに対して「改宗か死か」の選択をさせ、略奪と破壊を目的としたことを偽善政策と述べ、イギリスの罪は種類が異なり、「権力欲と利欲が刺激となって不正を行ったと公に認めた」と述べています。この植民地政策によって、無力な被害者は殺されるか、飢餓で死ぬかしかなかったと分析しています。そして以下のように続けます。
ヨーロッパの異なる国々の動機によっても、アボリジニの扱いはその時の状況の変化によっても異なるが、その結果がもたらしたことは同じである。オランダの残忍な暴政、スペインの残酷な偏見、イギリスの飽くなき強欲は同じく下劣で破壊的だ。(中略)
これらの悪のほとんどは悪意のある法律、あるいは間違って理解された法律の結果だとみなすこともできるだろう。新たな領土の獲得とイギリス支配の拡張が、正義と健全な政策の主張よりも優先されたことがあまりにも多かった。現在、アボリジニに対して、より被害をもたらしているのが、我が国の通商の悪質性である。通商によって我々が手にしている驚異的な権力は、最も卑劣な目的に用いられている。神の摂理が我々に与えた偉大な影響力で、我々は広がり続ける荒廃と破壊の方法を作り上げた。単なる貿易のために、国の誇りは汚され、世間共通の正直さは投げ捨てられ、命そのものが何度も犠牲にされた。(中略)
自らをクリスチャンと呼ぶ者たち、キリスト教政府の国民、キリスト教の指導者たちは利己的な目的のために身を落として、これら砂漠の単純で無教養な子どもたちの無知を利用した。
この後に、船乗りの悪行によってアボリジニの間に新大陸にはなかった病気を広め、ミッショナリーの行為は逆効果をもたらすか、意味のない行為を続けたことなど、どの階級の人々が何をしたのかが述べられた上で、一般市民の無関心の恐ろしさを説いています。
今日まで続いたアボリジの扱いに関する冷淡さは、大英帝国の信心深い市民には、一見、不可解に見えた。これほど深刻な圧政とこれほど酷い残酷さが何世紀にもわたって制止もされずに許されてきたことに驚かされるかもしれない。政党政治の大騒ぎの最中に、そして、我々国民の緊急の主張の最中に、不運なアボリジニの劣悪な状況は完全に見逃されてきた。これほど続く無関心・冷淡さは無知が続くせいだと言わなければならない。植民地で起こっていることは、本国イギリスではほとんど報道されていない。真実を報道することによって、個人の利益が危機に陥ると感じて、植民地当局は原住民に対する自分たちの行為をできる限り公衆の目に触れさせないようにしてきた。時に驚くべき事実が公になるとしたら、それは必ずと言っていいほど、憎しみや裏切りから告発して、利益を得る者たちによってもたらされた。我々が現在手にする情報の多くは、この国から植民地に送られたキリスト教ミッショナリーによる。これらの貴重な人々の苦労が人類のために貢献している。(中略)沈黙は破られた。暗闇は過ぎ去った。そして、ゆがめられていない、ありのままの「真実」が、途方もない恐ろしい現実として、衆目に晒される。それは正義のためにはいいことだ。もし我々が知識を増やすことで我々の偏見を減らすことができ、アボリジニの主張に関していまだに続いている、間違った根拠のない意見を捨てることになるなら。「ひとりの人から、あらゆる民族を造り出して、地の全面に住まわせ」た(注14)と言った神の言葉を忘れて、我々は有色人種を我々より劣る性質を持つと、あまりに長い間見下すことに慣れきってきた。我々の圧政を正当化するために、我々は中傷という手段に訴え、存在すること自体が罪だとして、アボリジニに対する残酷な扱いを正当化しようとしてきた。
7ページもの「序」は熱情にあふれ、まるで議会で訴えているかのような迫力のある文章です。あるいは議会で訴えたことが書かれているのかもしれません。報告書自体は1836年に設置された特別委員会がイギリス植民地の原住民の人権と正義が守られるように、政府が対策を講じることを目的としていると書かれています。もう一つの目的は原住民の文明化とキリスト教の布教だとも述べられています。厳密には、1834年の下院議会で全会一致で認められた内容に沿っていますが、「植民地の原住民の公民権を享受できるように保護を与えるという、正義と人道の原則にたって、原住民との関係構築にあたる」と述べられています。「公民権」(civil rights)という言葉が19世紀前半のイギリス議会で使われていることに驚かされます。1866年のアメリカ公民権法制定によっても、奴隷所有者の所有権を守る州政府に対して連邦政府の権限が及ばない法律だという点で、アフリカ系アメリカ人が公民権を獲得するまで長い歴史があったことを知ると(注15)、なおさらです。
しかしながらと、報告書は各植民地での原住民の悲惨な状況を伝えていますので、要点を以下に訳します。内容は、ニューファンドランド(New Foundland,カナダ)、北米インディアン、南アフリカ、ニューホランド(New Holland,オーストラリア)、ヴァン・ディーマン島(Van Diemen’s Land,タスマニア島)、太平洋諸島(ニュージーランドを含む)と、アボリジニへのキリスト教布教に関する項目に分かれ、記述量が多いのは南アフリカですが、ここではオーストラリア(pp.10〜14)について何が語られているか見たいと思います。
- 流刑植民地を設立するにあたって、原住民の領土権は考慮された形跡がなく、我々の国のくずによる暴力や汚染から原住民を守る方策はほとんど取られてこなかった。その影響で、原住民の人口減少と気力喪失は恐ろしいものがある。農場主に雇われた元囚人や木こり、自由植民者、軍隊による暴力や殺人によって原住民が滅ぼされていった。
- タスマニア島のアボリジニはほぼ絶滅し、生き残った者はフリンダーズ島に移され、1834年にはタスマニア島からアボリジニが消滅した。
注
注1 | Margaret Hunt (tr.), GRIMM’S HOUSEHOLD TALES. WITH THE AUTHOR’S NOTES, translated from the German and edited by Margaret Hung, with an Introduction by Andrew Lang, In two volumes—Vol.1, London: George Bell and Sons, 1884 https://archive.org/details/grimmshouseholdt01grim Vol.2, https://archive.org/details/grimmshouseholdt2grim |
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注2 | Carolyn Dinshaw, How Soon Is Now?: Medieval Texts, Amateur Readers, and the Queerness of Time, Duke University Press, 2012, p.102.で引用されている出典元は、Luhrmann, T. M. The Good Parsi: The Fate of a Colonial Elite in a Postcolonial Society, Harvard University Press, 1996, pp.85-86, 97. |
注3 | オーストラリア政府統計局「マーボ裁判と先住権原法」”The Mabo Case and the Native Title Act”, Year Book Australia 1995 http://www.abs.gov.au/Ausstats/abs@.nsf/Previousproducts/1301.0Feature%20Article21995 |
注4 | カール・スミス「オーストラリア建国記念日を変える」ABC, Carl Smith “Moving Australia Day”, 9 Feb., 2016: http://www.abc.net.au/btn/story/s4399703.htm |
注5 | 「1967年国民投票」”The 1967 referendum”, National Archives of Australia http://www.naa.gov.au/collection/fact-sheets/fs150.aspx |
注6 | オーストラリア議会HPから憲法本体にアクセスできます。 http://www.aph.gov.au/About_Parliament/Senate/Powers_practice_n_procedures/Constitution |
注7 | Myth, Ritual and Religion, Vol. II, Longmans, Green and Co., 1913. 初版は1887年ですが、インターネット・アーカイブ掲載のものは1913年版です。初版から10年近く絶版だったものが1899年に再販され、1901年、1906年、1913年と4刷目です。序の中で、ラングは10年の間に新たな知見が得られたので多少書き換えたと断っています。 https://archive.org/details/mythritualandre00unkngoog |
注8 | J. Bach, ”Dampier, William (1651—1715), 1966年発行のAustralian Dictionary of Biographyがネット掲載されています。 http://adb.anu.edu.au/biography/dampier-william-1951 |
注9 | マニング・クラーク、竹下美保子訳『オーストラリアの歴史』、サイマル出版会、1978 |
注10 | Captain William Dampier, A New Voyage Round the World, Vol.1, pp.464〜465. https://archive.org/details/anewvoyageround01knapgoog |
注11 | Report of the Select Committee of the Legislative Council on the Aborigines; together with the Proceedings of Committee, Minutes of Evidence, and Appendices, 1858-9, Victoria, http://aiatsis.gov.au/sites/default/files/docs/digitised_collections/remove/92768.pdf |
注12 | Report of the Parliamentary Select Committee on Aboriginal Tribes (British Settlement), Prepared with comments, by the “Aborigines Protection Society”, 1837. https://archive.org/details/reportparliamen00britgoog |
注13 | Thomas Fowell Buxton, ウエストミンスター寺院のホームページより。 http://www.westminster-abbey.org/our-history/people/thomas-fowell-buxton |
注14 | 原文は”Forgetful of Him ‘who hath made of one blood all nations that dwell upon the earth,’’ (p.viii)となっていて、新約聖書「使徒行伝」第17章26の引用と思われます。直訳は「一人の血からすべての国を造り、地上に住まわせた」となりますが、日本聖書協会刊『新訳聖書 英語改訂標準訳 日本語口語訳 対照』(1964)を採用しました。 |
注15 | Robert Kaczorowski, “Enforcement Provisions of the Civil Rights Act of 1866: A Legislative History in Light of Runyon v. McCrary, The Review Essay and Comments: Reconstructing Reconstruction”, The Yale Law Journal, vol. 98: 565 (1988-1989) http://ir.lawnet.fordham.edu/cgi/viewcontent.cgi?article=1222&context=faculty_scholarship |