アロー号事件とイギリスによるカントン攻撃のニュースは日本にいつ、どう伝えられたかみます。
幕府に伝えられたアロー号事件とカントン攻撃の情報
府にアロー号事件とカントン攻撃の情報が伝えられたのは、ちょうどイギリス議会でアロー号事件の真相解明とカントン攻撃の是非が議論され始めた時期(1857年2月24日〜3月3日:6-2-1〜6-3-3参照)ですから、幕府の情報把握の早さがわかります。『幕末外國関係文書』に記録されている1857年2月26日(安政4年2月3日)付のオランダ商館長の書簡から始まります。その後、長崎奉行所が口頭で聞き取った記録が続きます。オランダ商館長は、欧米列強と交渉をしている日本にとって英仏のカントン攻撃は重要な考慮すべき事件だ、対岸の火事と思うなと忠告しました。その忠告を受けて、1857年3月から6月の間に幕府の中で17通もの文書がやりとりされていますから、幕府がいかに重要視していたかが窺えます。 切迫感の理由の一つはタウンゼント・ハリス(Townsend Harris: 1804-1878)がこの半年前の1856年8月21日に下田に来航し、幕府と通商条約の交渉を開始して、様々な要求をしていたからです。同時期に英仏露が接近し、出入りが頻発していますから、幕府がどんなに大変だったか、老中首座の阿部正弘(1819-1857年8月6日)がその最中に病死してしまったのも、過労からだと理解されています。心労・過労は通詞も同じで、外交用語「領事」「総領事」などの概念さえなかった時代に、武力をチラつかせて開国を迫る欧米列強との交渉の通訳/翻訳をしなければならない通詞たちの苦労が偲ばれます。
2-3で紹介したオランダ語の大通詞・西吉兵衛がイギリス艦隊のスターリング提督との会見を通訳する予定の朝、1854年10月8日(安政元年8月17日)に43歳で急逝してしまったのも、過労死だったと推測されています。
アメリカ領事の常駐をめぐるペリーと幕府の応接掛との応酬とその結果
ハリスが領事として常駐する目的で来航したのに対し、日本側にとっては予想外という齟齬がありました。ペリーと交渉した時の大学頭だった林復斎(ふくさい:1801-1859)を代表とする応接掛の交渉記録『墨夷応接録』(ぼくいおうせつろく)の現代語訳が最近出版されたので、領事を常駐させるペリーの要求について確認します。領事を日本に常駐させる要求は「承服しがたい」と繰り返す林復斎に対して、ペリーは「結論を先送りにして、もし何か問題が発生したら、一人常駐させるというのが適切かと考える。また十八ヶ月後に、わが国の使節がやって来るはずなので、そのときにこの件について談判に及ぶのが良いだろう」(, p.57)と答えます。ところが、日米の条約文が違っているのです。日本側の条約文では「第十一条 両国政府によって、止むを得ない事情によりその必要性が認められた場合、本条約調印から十八ヶ月より後に、アメリカ合衆国は役人を下田に駐在させることができる」(p.189)となっています。アメリカ側の条約では、”Article XI There shall be appointed by the Government of the United States, Consuls or Agents to reside in Shimoda at any time after the expiration of Eighteen months from the date of the Signing of this Treaty, provided that either of the two governments deem such arrangement necessary” となっています。日本語条約文では、両国が必要だと合意した時とされているのに、英語版では「日米いずれかの政府」となっており、「いずれか」は「アメリカが必要と認めれば」と理解できます。 この違いを検証した石井孝は、そもそもペリーが18ヶ月後に「使節」を送り、その時に談判すればいいと言った段階で、「使節」は「領事」だとペリー側が考えており、領事が来航してから領事を置くかどうか談判しても「仕方ないではないか。通訳の間におけるなんらかの誤解であると思う」(, p.98)と書いています。 翌日応接掛の代理としてペリーのもとに派遣された徒目付平山謙二郎は手記の中でペリーの意図を正しく伝えている上、オランダ語訳から日本語に訳された和文は英文の通りだったそうです。しかし、漢文訳が和文と同じになっており、英文を漢文に訳す時に誤りが生じたと推測されること、オランダ語から和訳された条約と漢文との照合を怠ったのだろうという推測です(pp.106-107)。ペリーが誘導した論理に応接掛が引っかかったのか、「領事」という概念がまだ定着していない時期に「使節」=「領事」というペリーのごまかしは見抜けなかったのかもしれません。ハリスがアメリカ政府から日本領事に正式に任命されたのは1855年8月4日でした。
オランダ商館長の情報と幕府への忠告
オランダ商館長がカントン攻撃について幕府にどう伝えたのか、その忠告も含めて概観します。ハリスを下田に運んだ船は、カントン攻撃を報道していた『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』の特派員が乗船していたサン・ジャシンタ号でした(
6-4-2参照)。サン・ジャシンタ号のアームストロング提督は6ヶ月後に戻ってくると約束したのに、8ヶ月後の1857年5月5日も現れない、「アメリカの軍艦が長い間やってこないのはどうしたわけか。イギリス人はどこにいるか。フランス人はどこに?」「一隻の軍艦のいないことは、また、日本人に對する私の威力を弱めがちである。日本人は今まで、恐怖なしには何らの譲歩をもしていない。我々の交渉の將来のいかなる改善も、ただ我々に力の示威があってこそ行われるであろう」と、ハリスは日記に書いています。待ち焦がれたアメリカ軍艦がハリスの前に現れるのは来日約1年後の1857年9月8日でした。ですから、アロー号事件とカントン攻撃について知ったのは、幕府の方が半年以上も早かったわけです。
オランダ商館長の情報
最初の情報提供者は長崎のオランダ商館の最後の長官だったヤン・H.ドンケル・クルチウス(Jan Hendrik Donker Curtius: 1813-1879)でした。その書簡と口頭説明をオランダ通詞が和訳したものが『幕末外國関係文書』に残っています。「二〇二 二月五日 和蘭甲比丹キュルチュス口演書 長崎奉行支配吟味役永持亨次郎へ口演 英人廣東焼拂の件」と題された文書です。「キュルチュス」とか「ドングル、キュルレユス」となっているのは「クルチウス」に、イギリス海軍提督「セイムール」を「シーモア」に直しますが、当時の理解がわかるもの、例えば、カントン長官の葉の役職を「奉行」としている点などは、そのままにして現代語で要約します。文書の日付「安政4年2月5日」は西暦1857年2月28日です。西暦を主に、必要な場合は和暦をカッコ内に記します。 クルチウスから情報と忠告を聞いた長崎奉行支配吟味役の永持亨次郎(ながもち・こうじろう:1826-1864)の長崎奉行宛の報告書です。聞き手、話し手を区別して記したインタビューの書き起こしの体裁になっています。通詞の名前は記されていません。なお、永持亨次郎は長崎海軍伝習所の一期生で、勝海舟と同じく幹部伝習生でしたが、官吏としての有能さを見込まれて、長崎奉行に引き抜かれていたそうです。
10年前の唐国と英国間の戦争の結果、唐は英国のためにアモイ、カントン、ニンポー、上海、福州の5港を開き、各港に商館を築き、領事を置き、両国官吏の接触法、貿易の方法、商船の租税規定を取り決めた。唐の産物のうち、茶と絹布を専一に交易し、ヨーロッパ同盟国も同様の取り決めをし、5港が次第に繁盛し、唐国にとっても交易が国益であることがわかった。港には勿論境界を定め、城内で外国人が借家、借地など自由にでき、唐人も自然に各国の言語に通じるようになり、当今は自他国民に差別が無くなっていた。 しかし、唐国の風儀は外国のものを軽蔑し、公の交渉も官吏は面会を拒み、多くは書簡の往復で間に合わせ、ひたすら尊大に構えているため、外国人[欧米人]は常日頃不快に感じていた。今度のカントンの件も、英人が現地の奉行に直談判したかったが、拒んだため大事になったのである。 5港のうち、香港は英国が割譲し、その土地人民全てをイギリスが支配し、イギリス人は平常唐船を借り受け、唐人の乗組員で英国国旗を用いて、諸港に往来している。イギリス人の政治は公平だから、唐人も他港より香港に移住した。 また、カントンは条約開始から2年以内に開港という取り決めだったが、10年たっても唐国は約束を守らないため、在唐のイギリス人は武力で違約の罪を正そうと望んだ。しかし、イギリス政府は唐国内で内乱が続いて国民が困窮しているので、その気はなかった。 この度のカントンの変は小さなことから始まった。香港在住のイギリス人が唐船を借り、配下の唐人12人を乗り組ませ、英国の国旗を立ててカントンへ入港したところ、唐人の乗組員が一揆の残党という理由で、カントンの奉行所が捕え、英国国旗も奪取したことをイギリス商人がカントン在住の領事に訴え、領事が奉行所に掛け合い、咎めた。乗組員と国旗を返還し、謝罪したら無事に済むと言ったところ、奉行からは返答なしだったので、海軍提督シーモア(昨年秋、長崎港に渡来したイギリス提督[原文のまま])は部隊を率いてカントンの1砦を奪取した。
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DISCHARGING OPIUM FROM THE “PEKIN.”(北京号からアヘンを荷揚げ)
出典:『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』1857年7月11日 アロー号事件に端を発するカントン攻撃は「アロー戦争」、あるいは「第二次アヘン戦争」と呼ばれていますが、以下の『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』の記事でも指摘されているように、中国にアヘン貿易の合法化を求めることも戦争を仕掛けた理由だとされています。
アヘン貿易会社からの訴え
『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』にはアヘン密輸に携わるアメリカ企業からの要請文書が掲載されています。
1857年6月6日:第1面「我々と中国との関係/香港のアメリカ人商人とアームストロング提督との重要な書簡」(香港 1857年3月23日、)
カントンのオーガスティン・ハード商会(Augustine Heard & Co.)、キング商会(King & Co.)、ラッセル商会(Russell & Co.)連名の手紙 アメリカはこの国[中国]との貿易をイギリスと同じくらい前から行っています。(中略)知っていただきたいのは、イギリスが過去12年間に、香港から上海までの入江と港を含め、中国の海岸線全ての測量を出版してきたのに、アメリカ海軍がこの国の海岸線に関して同様の貢献をしたとは聞いていません。ペリー提督が日本の新しい港とフォルモサ[台湾]の測量はしましたが。 閣下に懇願したいのは、5港における領事裁判権の見直しの必要性を我が国の政府に訴えていただきたいことです。
訳者コメント: この前の文章には、アメリカ軍がカントンのアメリカ人を守ってくれないから、イギリス軍に頼るしかないという苦情があります。この後に同じ連名者から、海賊に襲われるアメリカの商船をアメリカ海軍に守ってくれという訴えもなされています。わかっている限りでは、この連名者の2商会(キング商会以外)はアヘン貿易に従事していたアメリカの貿易商だということです。そのアヘン貿易について、イギリス議会で問題になりました。
1857年6月12日:第1面「英国の政治とニュース」
(『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』特派員、ロンドン、1856年5月29日:1857年の間違いのようです)
昨日、貴族院の事務局が中国とのアヘン貿易に関する書類を発表した。1842年から去年1月までの書類である。H.ポッティンジャー卿[6-4-1の1857年2月12日に掲載された投書参照]の意見によれば、中国政府がアヘン禁止を実施する力がないので、アヘン貿易に関してイギリスが出来ることはなかったし、今後も何もできないだろうという。中国人はアヘンを欲しがっているし、中国役人の多くはアヘンが入ってくるのを黙認している。イギリス政府がインドでの生産を禁止しても、唯一の効果はインド産業の支店を自治王子たちの領地に移すことだけだ。 ジョン・ボーリング卿によると、アメリカの主要商社の多くがアヘン貿易を主に手がけていることは有名だ。アヘン貿易に関する限り、イギリス商人とその他の国の商人との違いはない。悪と犯罪の量がどうであれ、全商業界が等しく参加している。 イギリス全権大使とポッティンジャー卿は、中国政府がアヘン貿易を合法化するよう勧めている。
カール・マルクスは、英印政府が中国へのアヘン貿易で得ている収入額が国家の全収入の1/6にも上ることが第二次アヘン戦争の前提にあると指摘しています。これが「キリスト教と文明[の嘘]を煽り広める英国政府の自己矛盾」だと批判します。自由貿易というのは21世紀現在の欧米列強のキャッチフレーズですが、この時代も「英国の自由貿易の性質をよく検討すると、『自由貿易』の底には独占がいたる所にある」(マルクスの記事「自由貿易と独占」『ニューヨーク・デイリー・トリビューン』1858年9月25日、)という批判がされています。 本節の最初に掲載した『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』の特派員による挿絵「北京号からアヘンを荷揚げ」を見た時は、アヘン密輸を非難する意図があるのかと思い期待しましたが、記事の文脈からアヘン密輸は正当な利権であり、当然すぎて弁明すら必要ないという思いが読み取れました。以下はこの特派員による挿絵の解説です。
スケッチ「北京号からアヘンを荷揚げ」では中国人人夫がアヘンの梱を懸命に荷揚げする様子を描いた。左端の帽子の役人は梱の数を記録し、セポイ[インド人傭兵]は石板にその数を書いている。船が出るとき、絹の梱が運び込まれる。(香港発、1857年5月12日、1857年7月11日号, p.28)
『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』の特派員報道
『イラステレイテッド・ロンドン・ニュース』1857年7月18日 1857年7月からの『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』報道の特徴的な部分を抄訳します。
1857年7月4日: p.19「中国」
5月10日のOverland Mailによる中国からの最新情報。中国問題に関して母国[イギリス]政府が直面した反対のニュースは香港の[イギリス人]コミュニティに大きな暗雲を投げかけた。しかし、その後の情報で、中国におけるイギリスの利権を守るために取られた即座のエネルギッシュな手段は中国のイギリス・コミュニティを完全に安心させ、彼の国[中国]と我々の関係がようやく適切で確固たる基盤に置かれたという自信に満ちた希望を与えた。 カントンでは極度な悲惨が続いており、コメは非常に高い。カントン川のイギリス船を爆破する試みが数回あり、(中略)1回は成功するところだった。船の15ヤードのところで爆破があったが、幸いけが人はいなかった。(中略)暑さのため、イギリス軍による作戦は10月まで行われない。
以下の記事は、『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』の特派員記者兼アーティストからの報告です。「中国でのスケッチ」と題した挿絵は、中国でスケッチする自画像のようです。
1857年7月11日:p.27-30「中国への途上で(本紙の特派員記者兼アーティスト)」
香港発、1857年5月12日 ほとんどのイギリス人は今まで中国人が酷い国民だとみなしてきた。私たちは村々を回ったが、現地人からは注目と喜ばせたいという彼らの思い以外に出会ったことはない。(中略)
1857年7月18日:p.50「中国」
5月25日付China Mailより。[カントン川での戦闘準備について記した後] [カントン]市内では飢餓が続き、憂慮すべきレベルに達している。貴族階級はこことマカオに代理人を配置しており、スープ・キッチンに提供するためのコメを購入している。スープ・キッチンは被災者救済のためにカントン市内の色々な所に開かれている。
1857年7月18日:第2増補版, pp.73-74.
「中国より(本紙の特派員記者兼アーティスト)」 中国人は外国人嫌いでは決してない。これは偏見を持たない人や、中国に10〜12年暮らしたイギリス人から聞いた。彼らは内陸部や海岸部の現地人の中で暮らした人々で、中国について最も信頼できる事実を話す資格のある人々である。その上、彼らはカントンで商館を焼かれたのだから、中国人に対して苦々しい思いを抱いてもいい人々だ。彼らが言うには、中国人は好戦的な人々ではなく、本質的に貿易と商売をする国民で、自分たちを支配する国、むしろ、悪政で彼らを苦しめる国に対して特別な愛情を持っておらず、彼らの思いを占めているのはビジネスで、彼らほど勤勉な国民を探すのは難しいだろう。 ジョン・チャイナマンを軽蔑すべきではない。いい政府のもとで、貿易が奨励されれば、ジョンは類のない忍耐心では、世界で最良の国民になるだろう。ヨーロッパがジョンをよく知れば、驚嘆するだろう。 中国人は我々[イギリス]がカントンを取ったことに全く反感を持っていない。現在香港はカントンの店主であふれている。彼らはここに来て暮らせることを喜んでいる。彼らはイギリスの植民者のうちでも、まともな人間と非常に親しくなっている。これは信頼していい。もし中国人が本当に反抗的だったら、ヨーロッパ人全員が大昔に殺されていただろう。 [カントン]砲撃は10分毎に砲弾1個をカントン市内ではなく、町を超えた地点めがけて発射され、町は無傷だった。
「カントン」(特派員より) カントンの商業基地としての重要性を過小評価した『タイムズ』は明らかに間違っている。「商人たちが望んでいるのは、失った財産の賠償金を得ることで、自分たちの会社を上海か別の自由港に移す事だ」と書いたが、正当性はないと思う。(中略) ここでの一般的意見は、最初にすべきだったのはカントンを取ることだった。この人々[中国人]に教えてやらなければならないのは、我々を責めるのではなく、我々を尊敬することであり、彼らが我々の軍事力に抗っても全く勝ち目はないことである。さもなければ、彼らが現在固く信じているのは、自分たちが武力でも芸術でも我々より優れているから、先の戦争で彼らが自慢していたように、自分たちが立ち上がれば、野蛮人[イギリス人]を絶滅できると信じ込んでいることだ。(中略)言葉と攻撃が必要だが、攻撃がまず先だ。
訳者コメント:『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』の特派員報告は、一見人種偏見がないかのような書き始め方ですが、イギリス利権確保のために抵抗する中国を従わせるには攻撃ありきだと主張する内容に、人種偏見と欧米優越主義の根深さを感じます。カントン攻撃の正当性を訴える表現も、グラッドストンが議会で引用した海軍将校の報告と全く違います(
6-3-2参照)。 この後も毎号「中国における戦争」という題名の記事で、カントン川における攻撃作戦について「この勇敢な作戦行動」(1857年8月8日)、「中国の川で我が戦艦が素晴らしい列をなして進む」(8月29日)など、軍事的弱者の中国を攻撃するイギリス海軍に陶酔しきっているような表現が続きます。「中国」と題された記事の間に、日本に関する内容が記されているのは不気味です。読者は、日本が中国のように不平等条約に抵抗したら攻撃するという含みを読み取るでしょう。
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1857年の英米メディアには、中国に対する戦争を煽る記事と、アメリカの参戦拒否に関する記事が掲載されます。 The Late Engagement with Chinese Junks in Fatsham Creek(佛山水道で中国ジャンクとの最近の戦闘)
左よりWar Junks, Mounting Twelve to Fourteen Guns(戦争ジャンク、12-14の銃を装備)、Snake Boats(スネーク・ボート)、A Small Creek—Sampans(サンパン船)、Mandarin Town of Toung Konan(役人町)、Fort(砦)、Point Dividing the Creeks(支流の分岐点)出典:『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』1857年8月29日
フランス他ヨーロッパ列強の参戦
『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』掲載のイギリス・メディア記事の紹介です。
1857年5月2日: 第2面「中国皇帝から引き出すべき譲歩/中国の防衛準備/合衆国が対中国同盟への参加拒否」(『ロンドン・スタンダード』パリ特派員より、)
イギリスの更なる中国作戦にフランス政府が協力することは最も元気付けられる。カトリック協会がフランス皇帝[ナポレオン3世]に、中国にいる多くの宣教師を保護するために、戦争に積極的に参加することを訴えた。 エルギン卿は北京内閣に条約の更新を要求すると言われている。商業に関しては、5港の代わりに、9港をヨーロッパに開港すること;外交使節団をロシアと同じ条件で北京に常駐させること;攻撃と防衛に関して、イギリス政府は領事がいる場所全てに軍の駐屯地を設立し、軍艦がどこの港にも入港する権利を要求すると言われている。 エルギン卿はイギリス政府から全権限を委任され、戦争の機会の決定権も、いつ戦争を始めるかの権限も持つ。
「ポルトガルが中国に遠征隊」(『ロンドン・タイムズ』のパリ特派員より, p.2)
リスボンからの私信によると、ポルトガル政府は中国の事件に関して、王国の港[マカオ]に遠征隊を送る準備をしており、マカオ駐屯地の人員をポルトガル軍の最強の部隊から選んで4,000人に増強する。
アメリカの参戦拒否
「合衆国と中国におけるイギリスの紛争」(『マンチェスター・ガーディアン』より, p.2)
イギリスがカントン人と[葉]帝国長官に道理を悟らせるため、外国住民、外国商人と中国人住民、中国人役人との関係を満足いく条件にする努力に、アメリカ政府が協力を拒否した。もしこれが本当なら、ブキャナン大統領政権は深く後悔することになるだろう。 世界最強の3国家がカントンに集結して、最近ここで犯されている暴虐の弾圧に一致団結して強硬な方法で当たること(中略)を中国政府が見たら、頑固な中国帝国もこの3国に耐えることはできないとわかるだろう。
中国の防衛準備
「中国の防衛準備」(Moniteur de la Flotte[パリの雑誌]より, p.2)
中国は現在、強力な防衛準備をしている。カントン攻撃以来、黄海に流れこみ、北京に通じる海河の22箇所に航行を妨げるための石のダムを作る巨大工事を行なっている。 中国人は生まれつき悪意に満ちており、その邪悪さは狂信性によって増幅され、筆舌に尽くしがたい。彼らを征服する方法は一つだけ、武力の示威や海軍の大規模な実演によって彼らを恐怖におとしいれることである。それはイギリス政府によって達成されようとしている。
戦争を煽るイギリス・メディア
1857年5月16日:第1面「中国戦争/暴動と虐殺/合衆国と中国/イギリスの中国攻撃」
「イギリスの中国攻撃」(Paris Paysより):第2面
イギリス軍遠征隊の規模は15,000部隊から20,000部隊に増強され、連隊を最強のまま維持する方針だ。中国が協定を拒否したら、この戦争は1回の戦役では終わらないと考えられている。 イギリスはフォルモサ[台湾]島の占領を始めるつもりだという。フォルモサは17世紀後半に激しい戦闘の舞台になり、1683年についに中国帝国に併合されたので、中国の宮廷はこの島の占有を特別に重要視している。
「ロンドン・タイムズ」より, p.2
事態は危機に達した。この不誠実な人種を罰するには、我が帝国の全軍事力を使うしかない。我々は現状を「小さな戦争」と捉えるべきではない。我々はアジアの半分に分布している3億人と戦っているのだ。 ペルシャとの和平が達成するようなので(中略)、[和平条約の]批准が終わったらすぐに、この戦力を中国に向かわせる。 インドの反乱については、かなり不安な状況だが、一番反抗的な連隊が流血なしに解散させられたというので、やがて終わるだろう。 ペルシャの戦争が終わり、インドが静穏になり、ヨーロッパが平和状態で、我々の兵器庫と港が戦争関連店舗と軍船でいっぱいに詰まっている今、中国戦争を迅速に成功裡に成し遂げる準備は万端だ。しかし、我々のアジアの帝国の繁栄と、存在さえもが深刻な絶滅寸前になるのを見るのでなければ、司令官たちの気力と母国からの支援が必要である。
訳者コメント: 最後の文章は意味不明ですが、深読みすれば、イギリスが戦争を仕掛けて占領しなければ、中国は自滅するとでもいうのでしょうか。アメリカ人読者がこの記事を読んでいる頃、下田でハリスが日本人について、「奸智と狡猾と虚偽」「あらゆる詐欺、瞞着、虚言、そして暴力さえもが、彼らの目には正当なのである」(1857年5月14日、)と日記に書いていたことを思い出します。
参戦拒否のアメリカを批判するイギリス・メディア
「中国との戦争における合衆国の態度」(『ロンドン・ポスト』より, p.2)
ネイピア卿(Francis Napier: 1819-1898)を通して、英国政府が中国における戦争遂行に合衆国の協力を求めた。 同時に合衆国から必要とされているのは精神的支えだけで、「戦闘は全てイギリスとフランスでする」と知らせた。この提案に対し、カス長官[Lewis Cass: 1782-1866,アメリカ国務長官]は決定的拒否だったと伝えられている。 2隻の蒸気フリゲート艦を含む艦隊がアメリカの道義力外交を支援するために中国近海へ向かうよう指令された。(中略)戦闘の舞台でアメリカ艦隊の存在がどんな効果をもたらすのだろうか? 激しい血なまぐさい戦争の最中に交渉するというのは、賢明な人間ならまともに考えもしない。凶悪で卑怯な中国人に厳しい復讐と適切な罰を与えるまでは、外交の出番はない。 この孤立政策というのは、利己的で、偉大で開明的な国民にふさわしくないように見えることを告白せねばならない。しかし、合衆国政府がグラッドストンやコブデンの中国紛争に関する見解(6-3-1, 6-3-2参照)を採用したり、彼らの見解を元に行動したりしたのではないようなので、満足である。 もし、この2人の紳士の論が正当だったら、もし、ジョン・ボーリング卿がとった方法が国際法に違反しているなら、合衆国政府はアメリカ商館の破壊に対する賠償を要求することが義務付けられている。これは不法に起こされた戦争によって起こった正当な報復の一つだということになるからだ。 アメリカの排他性にもかかわらず、
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イギリス議会下院でカントンへの攻撃を非難する決議が可決され、パーマーストン政権が解散総選挙にします。その経緯を英米のメディアがどう報道しているか検証します。
アメリカ特派員のイギリス批判
1857年3月25日:第1面「解散は5月に行われる/イギリス政府の対中国政策の未来/中国からの重要なニュース」
『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』特派員:ロンドン(1857年3月6日)
ここの事態は非常に驚くべき状態である。糾弾された首相は敗北に反抗して、議会が非難した政策を続けると主張した。4晩も続いた活発な討論の後、満場の議会で16票のマジョリティによって、中国における不法の、人倫に背く、愚劣な、完全に弁明の余地のない、不当な戦争を続けると大臣たちは宣言されたのだ。議会の早期段階では辞任が自然でふさわしく、そうすれば、女王が他のアドバイザー、つまり大臣たちを選ぶことができるのに、ザ・ミニスター[原文は唯一の意味のtheを斜体で強調:the Minister]、ここでは大臣は実際は一人だけだ。彼はこの投票を笑い飛ばし、解散を宣言した。 この大臣[首相の意味で皮肉に使っている]は(中略)蒸気戦艦と様々な種類の船を現場に向かわせ、激しく活動すると言った。野党の中心メンバー、コブデン、グラッドストンその他は質問を繰り返し、説明を求めた。それでもパーマーストンは沈黙のままだったが、中国にいるイギリス人の生命は守られること、主要な目的遂行のためのエネルギーと警戒は緩めないことを部下に言わせた。
アメリカ人特派員の記事はこの後延々と続き、イギリスの奇妙さ、パーマーストンのメディア操作の巧みさについて述べています。
カントン攻撃の是非を問うイギリス総選挙
この時のイギリス総選挙の報道と同列でイギリス軍艦が長崎港入港を幕府の抗議を無視して強行したことが報じられていますが、ここでは見出しだけで内容は省略します。
1857年4月10日:第1面「イギリス総選挙はパーマーストン卿支持/日本の長崎港に強行入港/イギリスを調停すべき」1857年4月13日:第1面「中国皇帝の降伏/日本の港へのイギリス船2隻の強行入港」 イギリス戦艦の長崎入港に関するニュースは4月10日の内容に情報が追加されています。
1857年4月16日:第1面「英国の選挙/野党の敗北/パーマーストン卿が中国の事件についてスピーチ」
英国の選挙は、現在時点で、パーマーストン卿の疑いのない勝利の様相を呈している。 ロンドンの『タイムズ』はリチャード・コブデン[6-2-1参照]の敗北について述べるに寛大であるが、以下で『タイムズ』が述べている以上に寛大ではない。 [『タイムズ』から] 彼[コブデン]は欠けたレンガにように廃棄することができない男である。(中略)我々は過去10年間、この2人の紳士[コブデンとジョン・ブライト]の公人生活の全てについて、ほぼ全部反対してきたが、今、下院の名簿にジョン・ブライト(John Bright: 1811-1889)とリチャード・コブデンの名前が削除されているのを見て、我々は深く遺憾に思うと正直に言わなければならない。 パーマーストン卿は自分の成功だけでなく、彼の反対者が敗北したことでも、非常に幸運だった。「マンチェスター党」と一般に知られている、コブデン・ブライト、その他全員が大敗北した。この人々が中国問題で政府を少数派に追いやったのであり、そのために議会の解散が起こったのである。 パーマーストンの不信任投票で、コブデンを支持したグラッドストン氏はオックスフォード大学の不寛容を代表して、多少の困難はあったが、再選を果たした。(中略)グラッドストン氏は48歳、オックスフォードの2科目最優秀学位(double first class)を得て、偉大な政治家となることが期待されており、雄弁な政治家である。
パーマーストンによる中国攻撃正当化
「パーマーストン卿が中国の事件についてスピーチ」
3月28日にパーマーストンが行なったスピーチを抄訳します。
[戦闘]行為の舞台が非常に遠く離れている所であったこと、戦闘の限られた性格が非常にうまくいっていることが、外国に強い印象を与え、英国民の愛国心をさらに強く示したことは最高に満足を感じている。 これは、諸君の代表を侵害しても、罰されることも、抵抗もないと思っているかもしれない他の国々[日本を含む?]との関係に関して、最高の結果をもたらすだろう。なぜなら、1国にとって、その権利を油断なく監視していると示すのは立派な政策なのである。 これらの役人[ボーリング、パークス]が最初の兆しを止めるために時宜にかなった措置を取ったから、戦争好きだと言うのは全く間違っている。彼らは平和の守護者としてベストな人々だ。なぜなら、事件が知らされ、事件が進行した時に初めて、我々の代表者たちは[権利の]侵害を防ぐために監視し、そうすることで初めて、権利の侵害を止め、侮辱がなくなると期待できるのである。(Cheers) 能力の限りを尽くして義務を果たし、その行為を我々が胸中で承認した我らの代理人[ボーリング]を見捨てた下院の決議を覆すために、2,3票必要だ。英国の心を持つ全イギリス人なら、似たような状況で全く同じことをしただろう。(Cheers) ジョン・ボーリング卿は現在の役割を今後も果たし続け、彼は英国政府に信頼されている。
イギリス・メディアの2種類の論調
「パーマーストン卿の勝利と野党の圧倒的敗北」『ロンドン・タイムズ』4月1日より
英国貿易を行なっている平和な船に掲げられている英国旗を引き摺り下ろし、海賊の父親だと言われている老人を斬首する[パーマーストンの議会演説:6-3-3参照]目的で乗組員を逮捕する葉のようなやつの権利を、国民が立ち上がって擁護すると期待することに道理があるだろうか? 政治家だと公言している者がこのような訴えを首相に対して強要するなどとは、我々には愚の骨頂に思える。しかし、彼[パーマーストン]は国民を代表して、それを受け入れざるを得なかったが、その結果について、我々同様、彼は自信があった。この訴えがなされたことに我々は満足している。この満足感は日毎に増して、今や、政治的違いや法案によってではなく、単に国民の自然な感情と常識に対する訴えによって議会が選ばれたことで、イギリスは祝福されるべきである。
「反対の見解」『ロンドン・スター』4月1日より
彼[首相]の目的が最も明確に示されたのは、葉長官と中国人に対する激しい暴言という、ビリングスゲート[Billingsgate:口汚い暴言]そのものを、ひっきりなしに繰り返したことに表れている。この国の目をたった一つの目的に釘付けにするためだった。その間、彼は狡猾な手品で、有権者が気づかないうちに、彼らの票をちょろまかしてしまったのだ。
訳者コメント:この選挙結果について確認しておくべきは、当時の選挙権には女性は含まれていないこと、「年価値10ポンド以上の家屋、事務所、店舗などの所有者又は借家人」を含む、都市中流階級中層部まで選挙権が広がった」時代だという点です。つまり、中国での貿易、特にアヘン密輸にかかわっている商人が多く含まれている可能性があるということです。 『タイムズ』がパーマーストン首相のスピーチを引用して、中国当局が「海賊の父親だと言われている老人を斬首する」と、ファクト・チェックもせずに、首相の言葉を引用報道している点は、安倍首相とNHKの関係に似ていると思わされます。この後の『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』では激化する中国関連のニュースが続き、2月14日香港発の特派員からの報道はイギリスの中国攻撃に批判的です。1857年4月17日:第1面「中国皇帝が戦争に反対」1857年4月22日:第1面「中国戦争/香港在住の外国人の不安/毒殺の企て/英国の増援艦隊/作戦計画/アメリカ艦隊の動き/海賊を追跡/ジャンクとの戦闘」(香港、1857年2月14日) 『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』の特派員がアメリカ戦艦サン・ジャシント号に乗船して、中国での英米戦艦の動きを報道しています。イギリス海軍の戦闘に批判的な視点も垣間見えますので、重要と思われる点を抄訳します。
イギリスはほぼ毎日、中国での軍隊を増強している。「中国との2回目の戦争」の開始以来、毎週インドのセポイ部隊が到着し、ここで行う戦闘には非常に効果的な男たちである。[インド兵だから中国人と戦わせるには効果があるという意味か?] 現在、中国の海にいるイギリス戦艦は23隻、1,232部隊が香港にいる。 増援隊が着いてからのイギリスの作戦は、フォルモサ[台湾]島を保持し、カントンを破壊し、大隊で北京へ行軍して、新たな条約を要求することだ。その条約の趣旨はイギリス人の性格を知っている者なら簡単に推測できる。我々はここ[香港]で、イギリスの影響という素晴らしい切り札で、英国人の卑劣な行為をするよう招集をかけられるまで待機しているのだ。「国際礼譲」(”Comitas inter gentes”)というやつだ。
1857年4月23日:第1面「中国皇帝戦争遂行を決意」1857年4月27日:第1面「ジョン・ボーリング卿、中国の野蛮性を語る」(香港 1857年2月24日)
友人宛の書簡が新聞に掲載されたようです。毒入りパンを食べて中毒で苦しんだ状況を伝えた後、これが中国式戦争だと言って、まるで中国政府の仕業と言わんばかりのデマ(パークス領事が中国政府の関与を否定、
6-3-3参照)を広めています。
このような形式の戦争は対応するのが難しいですが、一般人の同情と憤りを煽ると確信しています。 我々の家に火をつけたり、我々を誘拐したり、殺したりする者に高額の報奨金が役人によって払われます。全ての国(中国人の憎しみは無差別だからだ)の不運な犠牲者は捕らえられ、斬首され、彼らの首はカントンの塀に晒されました。暗殺者たちには高額な報酬が与えられました。彼らはキリスト教徒の墓を暴いて、頭蓋骨を公衆の目に晒すことさえしました。これら全ては十分に恐ろしいことですが、その結果は最も有益なものになるのは疑いありません。我々は過去の出来事の賠償金を取り立て、将来の安全の保証も手に入れるからです。 政府と議会と世論がこの大きな戦いにおいて我々の味方であることを疑っていません。我が国と人類の真の永久の利益のために私の命が永らえることを祈っています。
訳者コメント:戦争を仕掛けた現地の英国政府代表が、抵抗する中国市民の報復を中国政府の戦争方法だとみなして、犠牲になった[真偽のほどはわかりません]イギリス人さえ賠償金の理由になる、それが自分の手柄だ、人類の利益に貢献していると豪語する心理になるのが、グラッドストンが警告した野生の欲望(6-3-2参照)に目が眩むということでしょうか。メディアの見出しに、日本に関しても「強制する」(force to)という語が盛んに使われるのも、弱者を征服することが文明の証という心理が働いているように感じます。
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イギリスによるカントン攻撃について、当時のメディアがどう報道していたか、好戦的なパーマーストン政権が解散総選挙で圧勝したこととメディアとの関係を見ていきます。
『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』に掲載された中国関係の記事
1857年前半の『イラストレイテッド ・ロンドン・ニュース』はアーカイブにも、デジタル・ライブラリー(米国大学図書館協同デジタルアーカイブ、ハーティトラスト・デジタル・ライブラリー)にも掲載されていませんが、『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』(『ニューヨーク・タイムズ』の前身)でロンドンの『タイムズ』その他の新聞がどう報道したのかを紹介しています。
1857年1月26日:第3面
『ロンドン・タイムズ』(1月8日):「中国は[武力で]文明国にさせるべき」(China to be forced into Civilization) カントンにおける軍事行動は両サイドによる計画的な戦闘である。カントン長官が最初に平和を破り、その後賠償を拒否した。イギリス海軍大将は敵対行為に進んだ。イギリス人の虐殺への報酬だ。それに対して葉は商館の破壊で対応した。そしてイギリス船の焼損を企てた。従って、我々は実際に中国と戦争状態にある。我々は賠償を要求しているが、今のところ賠償は支払われていない。それどころか、我々の居住区と船舶は当局によって攻撃された。これに対する十分な賠償が支払われなければならないことは言うまでもない。さらに、我々の名誉と利権が我々と中国との関係を新たな立ち位置に置くことを求めているのは疑うことができない。中国を強制的に文明国との完全な対話に持ちこまなければならない[原文は強調のゴシック体]。そして、中国を鎖国から引き摺り出す(dragging her from seclusion)役割は英国人がやるのがベストである。従って、人間性と文明のために、我々はこの問題をこのままにしておくべきではない。 我々は中国を征服することを望んでいない。数千年の麻痺状態から新たな生活に目覚めたこの巨大な帝国を改造する中心者はイギリスの影響力と冒険心(enterprise)であることを否定するのは誠実ではないだろう。そこで、我々が即刻準備しなければならないのは、この広大な領土の全地域で自由貿易とコミュニケーションを求める文明国家の権利を強要することと、我々の立場を主張することである。このような国を、まるでヨーロッパの開化国家のように扱うのは無意味だ。イギリス当局は何を要求するつもりなのか、その保証として何を取るつもりなのかについて、決断すべきだ。
訳者コメント:カントン攻撃の第一報を伝えた『ロンドン・タイムズ』(1856年12月30日,
6-1参照)が、150万の都市の攻撃によって膨大な人命が失われた可能性に言及し、攻撃が避けられなかったのかという疑問を呈した論調とあまりに違うので、最初の記者が左遷されたのかと思ってしまいます。「カントンにおける軍事行動は両サイドによる計画的な戦闘である」と断定する『タイムズ』が読者をミスリードしていることは、イギリス議会上院・下院での議論から明らかになります(6-2-1〜6-3-3参照)。 『タイムズ』の論調を見ると、安倍政権と日本のテレビ・メディアの関係のようなものが、パーマーストン政権と『タイムズ』に生じたのかと思わされます。当時の心あるジャーナリストやマルクスが政権とメディアの関係について指摘していることを後に紹介します。
1857年2月2日:第2面
『ホンコン・チャイナ・メイル』(1856年11月24日):「アメリカによるバリア砦の占領」最も奮起する出来事は、アメリカ軍艦のボートを中国帝国が攻撃し、それに対して大成功の罰が彼らに与えられたことだ。バリア砦が完全に破壊されたので、アメリカ軍とフランス軍はこの戦闘から退却するつもりだと報道されている。[この後に、カントン攻撃の詳細、葉長官の対応について長い記事が続きます]。
1857年2月7日:第1面「カントンは破壊されるべき—中国戦争をロシアはどう見ているか」
カントン市[の破壊]はもはや免れないと言われ、ロケットと砲弾の発砲が始まった。
1857年2月12日:第3面『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』への投書(2月6日)
投書者:アンドリュー・ハッパー(Andrew P. Happer)
「現在の紛争の歴史—その目的、終戦の可能性」 カントンにおける外国人[欧米人]に対する偏見と差別は、この国のどこより強いということが問題の根本にあるかもしれない。アヘン戦争終結時に、英国と中国が交わした条約ではイギリス領事と商人は、カントン・アモイ・福州・寧波・上海に住んでよいと規定されている。(中略)しかしカントン当局と市民は条約が調印された時から、外国人役人と商人を市内から排除する意思を明らかにし続けている。 1842年8月20日、南京で条約が署名された直後に、英国長官ヘンリー・ポッティンジャー(Henry Pottinger: 1789-1856)がリベラルで開明的な政治家Keying[Qiying耆英きえい:1787-1858]にカントン市内の邸宅での饗応に招待された。Keyingはタタール族で、カントン人の外国人排斥の偏見は全くない。ヘンリー卿は招待を受け入れたが、それが市民に知られるやいなや、市内での饗応に対する反対が起こった。この結果Keiyingはヘンリー卿に手紙で状況を説明し、市外での饗応の招待を受けてくれるよう依頼した。ヘンリー卿ほどの東洋通なら、この招待を受け入れたら前例となるからと、招待場所の変更を拒否すべきだった。しかし、市外での饗応の招待は受け入れられた。中国はヘンリー卿の例から、イギリスが問題を諦めたと主張するが、イギリスは[カントン]市と自由で制限なしの交流の権利を引っ込めたわけではない。そして、この要求が拒否された時、ヘンリー卿の後任、ジョン・デイヴィス卿(John Davis: 1795-1890)が強圧的方法で、この権利を中国に認めさせた。条約が調印された後も、2島を保持し続けた。この島は中国がアヘンを没収したことによる賠償金と戦争経費2,100万ドルを取り立てる保証としてイギリスが保持している。ジョン卿はカントン入市の要求が認められなければ、島は引き渡さないと言った。この結果、先の中国皇帝によって、市民が受け入れる準備ができたら、入市の権利が認められると約束された。しかし、この約束の不明瞭な表現が新たな紛争を引き起こした。市民の準備ができたと誰が判断するのか? 1848年から1849年にかけてのヨーロッパの状況のせいで、イギリス政府はジョージ・ボーナム卿(当時の香港総督、本サイト6-2-1参照)に指示を出し、条約履行は平和的方法[原文の強調はゴシック]で行い、決して武力を使わないこととした。この指示は中国提督にも知られた。(中略)現在の提督はこの時の提督と同じである。先の中国皇帝は提督がイギリス人を市内に入れないことで、提督に特別敬称を与えた。皇帝はイギリスに対するこの勝利を記念するために、市周辺に6本の凱旋アーチを建設するよう命じた。 [カントン]入市の問題はこの後二度と再開されなかった。彼らが考える勝利で、中国人の傲慢さが肥大する一方、イギリスは将来の調停の機会を待った。[中略:長々とアロー号事件をパークス・ボーリングの主張に沿って解説し、アメリカ軍の砦の攻撃も正当化する解説を展開しています] イギリス政府がこのように中国との戦争におとしいれられたので、ロンドン・タイムズは2国間の交渉が満足いくものになるよう政府が主張すべきだと強調している。カントン市内での自由な交流だけでなく、大臣が中国帝国の首都、北京に住むことが認められるよう要求すべきだという。現在、外国の代表はカントンの長官公邸でしか公式交流が認められていない。この主張は非常に重要で、条約締結国の3列強が共同で要求すれば、永久平和と人類にとって大きな促進力になるだろう。
訳者コメント:この投書者アンドリュー・ハッパーは同姓同名の別人でなければ、1884年から1891年まで中国で宣教活動をしたアメリカ人宣教師、Andrew P. Happer(1818-1894)で、カントン・クリスチャン大学を設立し、初代学長だった人物です。キリスト教の伝道者が中国に対する戦争を正当化し、抵抗する中国を傲慢だと批判し、武力で開国させることが人類のためになるとアメリカ人に主張するのは、この時期に日本でハリスが同じ調子で幕府相手に条約を強要していたことを考えると、イギリスだけでなく、アメリカも幕府が抵抗すれば、砲撃する用意があったことがわかります。
イギリス議会下院のコブデンの反戦動議スピーチの報道
1857年3月16日:第1面「下院で中国戦争について討論」
『ニューヨーク・デイリー・タイムズ』の特派員はコブデンのスピーチ(
6-3-1参照)をかなり長く紹介しており、賛同の”Hear! hear!”や”Cheers”(喝采)も挿入されているので、好意的に聞いた様子が伝わってきます。そのいくつかを訳します。
上院でダービー伯爵が雄弁に論じた以上の強く正しい指摘はできない。それは片方[中国]が礼儀正しく忍耐強く対応するのに、もう片方[イギリス]は傲慢で失礼千万だという評価である。[Hear! hear!] イギリス国旗を買うことが、イギリス船であるという証明ではない。[喝采] イギリスがカントン入市の口実を作ろうと前もって決めていたのは明らかだ。[Hear! hear!] 我らの役人[ボーリングとパークス]は、我が国の法律家が正当化できないような、世界が「恥を知れ」と叫ぶような、口実に飛びついたのだ。[喝采] ジョン・デイヴィス卿がカントンの暴動の後、1846年11月12日にパーマーストン卿宛の手紙で、中国人より我が国の国民の方がずっと対応が難しいと書いている。イギリス人商人たちのせいで生じた損害の賠償$16,000を[中国に]払わせるより、コンプトン氏に$200払わせる方がずっと難しかった。[喝采] 彼[コブデン]は、外国政府と条約を締結している状態で、現地にいる政府代表が宣戦布告したことを本議会は正当化し、承認するのかと尋ねた。[喝采]
訳者コメント:コブデンのスピーチの中で、1846年のカントン暴動とコンプトン氏に賠償金を払わせる困難さについて述べたと報道されているので調べたところ、カントン在住のイギリス人Charles Spencer Comptonが中国人に暴力を度々ふるい、中国人との暴動に発展して、複数の中国人が射殺され、負傷者も出たとされています。その裁判記録と領事館と当該イギリス人(複数)との文書のやり取りが25ページにわたって記録され、それが173年後の現在、米国大学図書館協同デジタルアーカイブ[ref]
The Chinese Repository, Vol.15, 1846, pp.540-565.
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